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2015年7月28日火曜日

聖徳太子の信仰(太子信仰と太子講)

人文研究見聞録:聖徳太子の信仰(太子信仰と太子講)

日本には、古くから聖徳太子を聖人として信仰する思想があるとされています。

その信仰思想には、大きく分けて2種類あり、聖徳太子を 仏教の聖人として捉える「太子信仰」と、木工の守護神として捉える「太子講」という思想がとされています。

以下、それぞれについて解説していきたいと思います。

太子信仰とは?

人文研究見聞録:聖徳太子の信仰(太子信仰と太子講)

太子信仰(たいししんこう)」とは、聖徳太子を日本における「仏教の祖」として讃え崇めるといった思想を指すとされています。

この思想の歴史は古く、一説によると『日本書紀』の編纂の頃(8世紀)には存在していたとされ、聖徳太子を「日本の釈迦」として尊崇する貴族の仏教信仰であったと云われています。

なお、日本における仏教は、『日本書紀』によれば 大化の改新の後に即位した 孝徳天皇の時代(645年)に天皇によって広めれ、天武天皇の時代(673年)には神道とともに仏教が国教化されました。

以降、日本に仏教が定着するようになっていき、聖徳太子は日本の仏教の祖であるとして「太子信仰」が民間大衆にも定着するようになっていったとされています。

具体的には、平安時代に空海によって神仏習合(神と仏を一体とする思想)が広められた後に民衆に定着したとされ、その際に『聖徳太子伝暦』という聖徳太子伝説の集大成ともいえる書物が、太子信仰のバイブルとなっていたようです。

また、鎌倉時代までに聖徳太子に関する多くの伝記や絵伝が製作され、現存するものだけで20種類以上もあるとされており、これらを総称して「中世太子伝(ちゅうせいたいしでん)」と呼ぶようになったとされています。

『聖徳太子伝暦』における聖徳太子についてはこちらを参照:【聖徳太子とは?(伝説)】

そうした流れの中で、仏教の普及に努める僧らによって多くの伝説が創作され、「聖徳太子」という仏教の聖人像が創り上げられ、厩戸皇子本来の人物像が歪められていったという説もあるようです。

『日本書紀』における聖徳太子についてはこちらを参照:【聖徳太子とは?(史実)

太子講とは?

人文研究見聞録:聖徳太子の信仰(太子信仰と太子講)

太子講(たいしこう)」とは、多くの寺院を建立したことでも有名な聖徳太子を「大工の祖」として讃え崇めるといった信仰を指す太子信仰とは別の聖徳太子信仰です。

具体的には、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に聖徳太子が関わり、建築に関する諸職を定めたという説から、「建築の守護神」また「木工の守護神」として崇拝されたことが発端であるとされています。

室町時代末期頃から、太子の命日とされる2月22日 (旧暦)を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講(経典の講義をする会)が行なわれるようになり、江戸時代には、大工・左官・鍛冶屋・桶屋の間で盛んに行われるようになったそうです。

なお、奈良の法隆寺は「現存する世界最古の木造建築物群」として世界的に有名です。

また、「太子講」における聖徳太子像は、太子信仰のそれとは異なり、太子が曲尺を持った姿で表されることが多いです。「曲尺(かねじゃく)」とは大工職で用いられる「ものさし」であり、大工の間で重要視されるアイテムであることから、建築・木工の守護神たる聖徳太子を表す上で重要なシンボルとされています。

余談ですが、高知県には「いざなぎ流」と呼ばれる 主流とは異なる陰陽道系の民間信仰が存在しますが、その中で扱われる神の中に「ショウトクタイシ」があり、大工神として扱われています。また、「テンジン」は鍛冶屋神、「えびす」は家神とされているようです。

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