御霊信仰とは?
2015/04/24
このページでは御霊信仰について解説したいと思います。
御霊信仰とは?
御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、天災や疫病の発生を死者の「怨霊」や「怨念」の仕業と見なし、それを鎮(しず)め、慰(なぐさ)めることによって、鎮護の神である「御霊」とし、平穏と繁栄を実現しようとする信仰のことを指します。
以下、「御霊」「怨霊」「怨念」の定義について記載します。
御霊とは?
「御霊」には、「みたま」「ごりょう」の読み方があり、読みによって細かい定義が異なります。
その定義は以下の通りです。
・御霊(みたま、ごりょう):広い意味では、「魂」の尊敬語を指す
・御霊(みたま):神道の概念であり、荒魂・和魂などの魂の様相(状態)のことを指す
・御霊(ごりょう):御霊信仰の概念であり、「怨霊」を神格化した状態を指す
・御霊(みたま):神道の概念であり、荒魂・和魂などの魂の様相(状態)のことを指す
・御霊(ごりょう):御霊信仰の概念であり、「怨霊」を神格化した状態を指す
御霊信仰における「御霊」は3番目の定義を指し、御霊信仰では「怨霊」を神として祀ることで、鎮護の神である「御霊」となり、平穏を与えてくれるようになると考えられているようです。
怨霊とは?
怨霊(おんりょう)とは、自分が受けた仕打ちに恨みを持ち、祟ったりする「死霊」または「生霊」のことを指します。
憎しみや怨(うら)みをもった人、非業の死を遂げた人の霊が「怨霊」と定義され、人々に災いを与えるとして古来より恐れられているとされています。
なお、災害などを特定の人物の怨霊の仕業と見なし、その人物を神として祀ることで守護神とするという信仰が「御霊信仰」に当たります。
怨念とは?
怨念(おんねん)とは、祟りなどを及ぼすとされる「感情」または「思念」を指すとされています。
怨霊との具体的な違いは、「霊(霊体)」が具体的に関与するか否かという点であると思われます。
個人的には、「霊体」を一定の思念の形と定義した場合、「怨霊」は霊体そのままの規模を指し、「怨念」は霊体の一部を指すという風に定義しています。
日本における怨霊とは?
日本においては、原始時代から霊魂のような考え方は存在していたとされています。
その代表的なものに、縄文期に見られる「屈葬」が挙げられ、死者を埋葬する際に手足を折り曲げた姿勢にするのは、死者に対する畏敬や畏怖の表れであると考えられており、死者の霊が生者へ災いを及ぼすことを防ぐためであるという説も唱えられています。
また、古神道における「荒御魂(あらみたま)」の性質が「怨霊」の定義と似通っていることから、古神道が存在した時代には既にこういう思想が確立していたと考えられます。
なお、荒御霊は「祟り神」という概念としても捉えられており、畏怖し忌避すべきものであるとされる反面、手厚く祀りあげることで強力な守護神となるとして、古くから信仰されていたと云われています。
日本における「怨霊の祟り」という考え方は、日本史においては「続日本紀」の藤原広継の怨霊に始まるとされており、その後は奈良末期から平安期にかけて顕著になっていったとされ、平安期に入ると「御霊信仰」が明確化していったとされています。
そのきっかけとしては様々な説が唱えられていますが、奈良末期(785年)に起こった藤原種継暗殺事件以降、時の天皇である桓武天皇の身辺の被災や弔事が頻発したため、それにおびえ続けた桓武天皇による平安京遷都を皮切りに、朝廷を中心に「御霊信仰」が広まっていったとされています。
そのため、もともと占いや暦の管理を司る役職であった陰陽師も、平安期を境に怨霊を鎮めるための呪術や祭祀を行うことを余儀なくされたと云われています。
なお、怨霊の祟りとして最も有名なのが、平安時代の右大臣・菅原道真公の死後に起こった「清涼殿落雷事件」です。
清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん) |
この事件は、930年の夏、平安京内裏の清涼殿で朝議中、黒雲が平安京を覆い尽くして雷雨が降り注ぎ、その後、落雷が清涼殿に直撃したという事件であり、朝廷要人に多くの死傷者が出たとされています。
特に道真公の左遷の原因である「昌泰の変」に関与したとされる藤原清貫は、落雷の直撃を受けて即死したとされています。
また、平安中期の関東の豪族・平将門公の祟りも有名であり、将門公の眠る「将門塚」周辺では、中世から近世にかけて様々な天変地異が起こったとされています。
そのほか、早良親王や崇徳天皇の怨霊伝説が有名であり、菅原道真公・平将門公・崇徳天皇は日本三大怨霊として現在でも畏怖されています。
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しかし、これらの怨霊は、神として祀ることで強力な守護神となるとされていることから、現在ではその多くが神として祀られています。
例えば、菅原道真公は、死後「天神様」として祀られ、現在では「学問の神様」として全国的に信仰されています。
また、平将門公は祟り神でありながら、一方では「東京の守護神」ともされており、一部の人々からは大変篤く尊崇されています。
京都においては、当時の「御霊信仰」の影響が強く現れており、白峰神宮では崇徳天皇を、御霊神社では早良親王をはじめとする非業の死を遂げた人々が神として祀られています。
霊について
いわゆる「霊」とは、人が死ぬと、魂が霊として肉体を離れるという考え方のもと、肉体とは別の精神的実体として存在すると考えられているものを指し、一般的には「霊魂」という概念として知られています。
しかし、世界各地の宗教や思想によっては、死後も存続することが可能とされたり、元々存在しないものとされたり、立場によって解釈はそれぞれ異なります。
また、個人によってもその観念は様々であり、死生観に大きく影響する要素であるとも言えます。
あくまで個人的な意見ですが、「霊」とは意識的に個を特定する「思念」そのものを指すものと考えられます。
その根拠として、物体としての個を特定する「肉体」の欠損は目に見えてわかりますが、肉体を欠損したところで実体のない「思念」は具体的に欠損しません。それがわかる具体的な例として、「幻肢」という現象が挙げられます。
幻肢(げんし)とは、事故や病気が原因で手や足を失ったり、生まれながらにして手足を持たない患者が、存在しない手足が依然そこに存在するかのように感じることを指し、幻肢をもつ患者は、しばしばそれを意図的に動かすことができるとされています。
これは人間の構造において、意識的に個を特定する要素が、「肉体」ではなく「思念」に同一性があるという裏付けになる現象であると考えられます。デカルト風に言えば「我思う、ゆえに我あり」という感じになるのでしょうか?
つまり、一般的には人間は「肉体」にこそ同一性があると考えられがちですが、実はそうではなく、肉体とは別の「思念」にこそ同一性があり、それが「霊」という概念として定義づけられてきたと言えるのではないでしょうか?
また、「思念」の根源については、個人的には「精神」であると考えています。「精神」とは「心」と同義です。そして、思念の「念」とは心の働きを指すとされています。
上記についてまとめると、人間における「霊」とは「精神」を指します。つまり「心」です。
一般的には霊の写った写真を「心霊写真」と呼びます。しかし、なぜ「心霊」なのか?不思議に思った事はありませんか?
これについて調べてみたところ、「心霊」とは もともと「精神」という意味で使われていたとされています。さらに詳しく言えば、20世紀初頭の念写写真を「精神のなせる写真」として「心霊写真」と呼んだことが語源になっているとされています。
誰が名付けたのかは知りませんが、「心」と「霊」をセットで使って「念」および「幽霊」を表現してきたという事実があり、それを想起させるような事象が存在する以上、「霊」とは「精神(心)」を指すと言っても差支えはないのではないでしょうか?
また、こう考えれば「死者が怨霊となって祟りを起こす」という現象も、肉体を持たない人間の心の働きであると捉えられますし、それを鎮める方法として、御霊信仰にある「怨霊を神として祀ることで、死者の霊を慰める」という考え方も、筋が通っていると考えられます。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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