空海(弘法大師)とは?
2015/04/16
空海(くうかい)とは、平安初期(774年~835年4月22日)の僧であり、中国より真言密教をもたらした真言宗の開祖として知られています。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号でも有名です。
以下、空海について、簡単に解説したいと思います。
名前
空海には様々な呼称があります。
・幼名: 佐伯 眞魚(さえき の まお)
・法名: 教海 → 如空 → 空海
・法号: 遍照金剛(へんじょうこんごう)
・諡号: 弘法大師(こうぼうだいし) - 死後に贈られる名
・尊称: 弘法大師、空海上人
・法名: 教海 → 如空 → 空海
・法号: 遍照金剛(へんじょうこんごう)
・諡号: 弘法大師(こうぼうだいし) - 死後に贈られる名
・尊称: 弘法大師、空海上人
生涯
空海の生涯を、史実に従って年代別に記すと、以下のようになります。
・774年、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で、地方豪族である佐伯氏の息子として生まれる
→ 名家の家柄だったため、生まれながらにして官界(役人の世界)での地位を宿命づけられていたとされる
・788年、平城京に上る
→ 上京後は中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に滞在した
・789年、15歳の時、阿刀大足(母方の叔父)に付いて、論語、孝経、史伝、文章などを学んだ
→ 阿刀大足(あとの おおたり)は、桓武天皇の皇子である伊予親王の家庭教師でもあったとされる
・792年、18歳の時、京の大学寮に入った
→ 大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられる
・793年、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされる
→ その際、一人の僧と出会い、密教の修法である「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を教わる(諸説ある)
⇒ それ以降、官界への道を捨てて仏道を求める決意を固めたとされる(大学は中退したとされる)
・798年頃?、24歳の時、「聾瞽指帰(ろうこしいき)」を著した
→ 「聾瞽指帰」は、仏道を求める空海が、反対する親戚知己に対して、その心情を文章化したものともされる
→ 「聾瞽指帰」は、儒教・道教・仏教の比較思想論でもあり、俗世の教えが真実でないことを示したものともされる
・798年~804年までの間、人里離れた近畿の山々や四国の遍路で、山林修行を重ねたとされる(資料が少ない)
→ 土佐の室戸岬の御厨人窟(みろくど)で修行中に、虚空蔵菩薩の象徴である金星が口の中に飛び込んだという神秘体験を得たとされる
→ この時、悟りを開いたと云われ、当時の洞窟の中で空海が目にしていたのは「空」と「海」だけであったため、「空海」と名乗ったとされている
→ 大和国の久米寺にて、「大日経」を初めとする密教経典に出会ったとされる
⇒ 経典を理解するために、中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もあるとされる
⇒ しかし、経典の理解に至らず、師を求めて赤県(中国)訪問を願うようになる
・804年、31歳の時、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る
→ しかし、入唐直前まで一私度僧であった空海が、突然留学僧として浮上する過程は未だに謎とされている
→ また、遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいたとされる
→ 空海の乗った船は途中で嵐に遭い、大きく航路を外れて福州長渓県赤岸鎮に漂着したとされる
⇒ その際、海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる
⇒ その後、長安入りを許され、12月23日に長安に入った
・805年、32歳の時、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった
→ 長安で空海がまず師事したのは、醴泉寺の印度僧「般若三蔵(はんにゃさんぞう)」である
⇒ 密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている
⇒ 空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている
→ その後、唐長安青龍寺の「恵果和尚(けいかおしょう)」を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる
⇒ 恵果とは、密教の第七祖とされる人物である
⇒ 恵果は空海と初対面の際、空海が過酷な修行を既に十分積んでいたこと見抜き、即座に密教の奥義伝授を開始した
→ 空海は恵果から密教の奥義を授かり、3ヶ月で密教の全てを会得したとされる
⇒ その後、空海は密教における師の位を授かり、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という灌頂名を与えられた
⇒ 遍照金剛とは、「この世の一切を遍く照らす最上の者(=大日如来)」を意味する名とされている
→ 大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われ、恵果からは阿闍梨付嘱物を授けられた
⇒ 阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である
・806年、3月に長安を出発する
→ 4月には越州にいたり4か月滞在し、ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集したとされる
⇒ その後、遣唐使判官である高階遠成の帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して帰国の途についた
・806年、33歳の時、10月に空海は無事帰国し、大宰府に滞在する
→ この頃の日本では、3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた
→ 空海は、10月22日付で朝廷に「請来目録(しょうらいもくろく)」を提出する
→ 空海が唐から空海が持ち帰ったものは、多数の経典類、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである
⇒ また、私的なものも別に数多くあったと考えられている
⇒ なお、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であったとされている
→ 空海は帰国後、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた
⇒ その際、大宰府・観世音寺に止住しており、個人の法要を引き受け、密教図像を制作するなどをしていた
・809年、空海は和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った
→ この年には、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位した
⇒ 空海の入京には最澄の尽力や支援があったといわれている
・810年、「薬子の変」が起こったため、嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行った
・811年から812年にかけて、乙訓寺の別当(長官)を務めた。
・812年、11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂(こんごうかいけちえんかんじょう)を開壇した
→ 結縁灌頂とは、出家や在家、あるいはその対象を問わず、どの仏に守り本尊となってもらうかを決める儀式を指す
⇒ 入壇者には最澄も含まれていた
・812年、12月14日には胎蔵灌頂(たいぞうかんぢょう)を開壇した
→ 入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼった
・813年、40歳の時、最澄の「理趣釈経」の借覧を申し入れを拒否する
→ 密教の真髄は口伝による実践修行にあり、文章修行ではないという理由で空海は拒否した
・816年、6月19日に修禅の道場として高野山の下賜(かし)を請い、7月8日には、高野山を下賜する旨の勅許を賜る
・817年、44歳の時、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手する
・818年、45歳の時、11月には空海自身が勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞在した
・819年、46歳の時、この年の春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した
→ この頃、「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」「文鏡秘府論」「篆隷万象名義」などを立て続けに執筆した。
・821年、48歳の時、満濃池の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた
→ 満濃池(まんのういけ)とは、香川県にある日本最大の農業用ため池である
・822年、49歳の時、太政官符により東大寺に灌頂道場「真言院」を建立する
→ この年、平城上皇に潅頂を授けた
・823年、50歳の時、正月に太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした
→ 後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになる
・828年、55歳の時、「綜藝種智院式并序」を著すとともに、私立の教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設する
⇒ 「綜芸種智院」では、庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であった
⇒ 「綜芸種智院」の名に表されるように、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関でもある。
・831年、58歳の時、病に罹り、大僧都(僧位)を辞する旨を表明するが、天皇に慰留された
・832年、59歳の時、高野山において最初の万燈万華会(まんどうまんげえ)が行われた
→ 万燈万華会とは高野山で行われる行事であり、一種の祭りである
→ 空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表している
→ その後、秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられている
・834年、61歳の時、東大寺真言院で「法華経」「般若心経秘鍵」を講じた
・835年、1月8日より宮中で後七日御修法(ごしちにちのみしゅほう)を修す
→ 後七日御修法とは、宮中における元日から7日までの間に行われる神事の後、真言院において8日から14日までの7日間、天皇の安寧や国家安穏を祈る秘法を修することを指す
・835年、3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に62歳で入滅した
→ 臨終の際、空海は弟子たちに「私が目を閉じた後、必ず弥勒の首都、兜率天に往生して、弥勒菩薩の御前に参ろう。そして、必ず弥勒菩薩のお供をしてこの世に生まれ、皆を見守っていよう。」と伝えたとされる
→ なお空海の死因には諸説あり、不確定であるとされている
⇒ 「空海僧都伝」によると死因は病死である
⇒ 「続日本後紀」によると火葬されたとある
⇒ 「金剛峰寺建立修行縁起」には入定したとある(即身仏となった)
→ 名家の家柄だったため、生まれながらにして官界(役人の世界)での地位を宿命づけられていたとされる
・788年、平城京に上る
→ 上京後は中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に滞在した
・789年、15歳の時、阿刀大足(母方の叔父)に付いて、論語、孝経、史伝、文章などを学んだ
→ 阿刀大足(あとの おおたり)は、桓武天皇の皇子である伊予親王の家庭教師でもあったとされる
・792年、18歳の時、京の大学寮に入った
→ 大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられる
・793年、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされる
→ その際、一人の僧と出会い、密教の修法である「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を教わる(諸説ある)
⇒ それ以降、官界への道を捨てて仏道を求める決意を固めたとされる(大学は中退したとされる)
・798年頃?、24歳の時、「聾瞽指帰(ろうこしいき)」を著した
→ 「聾瞽指帰」は、仏道を求める空海が、反対する親戚知己に対して、その心情を文章化したものともされる
→ 「聾瞽指帰」は、儒教・道教・仏教の比較思想論でもあり、俗世の教えが真実でないことを示したものともされる
・798年~804年までの間、人里離れた近畿の山々や四国の遍路で、山林修行を重ねたとされる(資料が少ない)
→ 土佐の室戸岬の御厨人窟(みろくど)で修行中に、虚空蔵菩薩の象徴である金星が口の中に飛び込んだという神秘体験を得たとされる
→ この時、悟りを開いたと云われ、当時の洞窟の中で空海が目にしていたのは「空」と「海」だけであったため、「空海」と名乗ったとされている
→ 大和国の久米寺にて、「大日経」を初めとする密教経典に出会ったとされる
⇒ 経典を理解するために、中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もあるとされる
⇒ しかし、経典の理解に至らず、師を求めて赤県(中国)訪問を願うようになる
・804年、31歳の時、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る
→ しかし、入唐直前まで一私度僧であった空海が、突然留学僧として浮上する過程は未だに謎とされている
→ また、遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいたとされる
→ 空海の乗った船は途中で嵐に遭い、大きく航路を外れて福州長渓県赤岸鎮に漂着したとされる
⇒ その際、海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる
⇒ その後、長安入りを許され、12月23日に長安に入った
・805年、32歳の時、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった
→ 長安で空海がまず師事したのは、醴泉寺の印度僧「般若三蔵(はんにゃさんぞう)」である
⇒ 密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている
⇒ 空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている
→ その後、唐長安青龍寺の「恵果和尚(けいかおしょう)」を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる
⇒ 恵果とは、密教の第七祖とされる人物である
⇒ 恵果は空海と初対面の際、空海が過酷な修行を既に十分積んでいたこと見抜き、即座に密教の奥義伝授を開始した
→ 空海は恵果から密教の奥義を授かり、3ヶ月で密教の全てを会得したとされる
⇒ その後、空海は密教における師の位を授かり、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という灌頂名を与えられた
⇒ 遍照金剛とは、「この世の一切を遍く照らす最上の者(=大日如来)」を意味する名とされている
→ 大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われ、恵果からは阿闍梨付嘱物を授けられた
⇒ 阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である
・806年、3月に長安を出発する
→ 4月には越州にいたり4か月滞在し、ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集したとされる
⇒ その後、遣唐使判官である高階遠成の帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して帰国の途についた
・806年、33歳の時、10月に空海は無事帰国し、大宰府に滞在する
→ この頃の日本では、3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた
→ 空海は、10月22日付で朝廷に「請来目録(しょうらいもくろく)」を提出する
→ 空海が唐から空海が持ち帰ったものは、多数の経典類、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである
⇒ また、私的なものも別に数多くあったと考えられている
⇒ なお、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であったとされている
→ 空海は帰国後、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた
⇒ その際、大宰府・観世音寺に止住しており、個人の法要を引き受け、密教図像を制作するなどをしていた
・809年、空海は和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った
→ この年には、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位した
⇒ 空海の入京には最澄の尽力や支援があったといわれている
・810年、「薬子の変」が起こったため、嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行った
・811年から812年にかけて、乙訓寺の別当(長官)を務めた。
・812年、11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂(こんごうかいけちえんかんじょう)を開壇した
→ 結縁灌頂とは、出家や在家、あるいはその対象を問わず、どの仏に守り本尊となってもらうかを決める儀式を指す
⇒ 入壇者には最澄も含まれていた
・812年、12月14日には胎蔵灌頂(たいぞうかんぢょう)を開壇した
→ 入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼった
・813年、40歳の時、最澄の「理趣釈経」の借覧を申し入れを拒否する
→ 密教の真髄は口伝による実践修行にあり、文章修行ではないという理由で空海は拒否した
・816年、6月19日に修禅の道場として高野山の下賜(かし)を請い、7月8日には、高野山を下賜する旨の勅許を賜る
・817年、44歳の時、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手する
・818年、45歳の時、11月には空海自身が勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞在した
・819年、46歳の時、この年の春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した
→ この頃、「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」「文鏡秘府論」「篆隷万象名義」などを立て続けに執筆した。
・821年、48歳の時、満濃池の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた
→ 満濃池(まんのういけ)とは、香川県にある日本最大の農業用ため池である
・822年、49歳の時、太政官符により東大寺に灌頂道場「真言院」を建立する
→ この年、平城上皇に潅頂を授けた
・823年、50歳の時、正月に太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした
→ 後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになる
・828年、55歳の時、「綜藝種智院式并序」を著すとともに、私立の教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設する
⇒ 「綜芸種智院」では、庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であった
⇒ 「綜芸種智院」の名に表されるように、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関でもある。
・831年、58歳の時、病に罹り、大僧都(僧位)を辞する旨を表明するが、天皇に慰留された
・832年、59歳の時、高野山において最初の万燈万華会(まんどうまんげえ)が行われた
→ 万燈万華会とは高野山で行われる行事であり、一種の祭りである
→ 空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表している
→ その後、秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられている
・834年、61歳の時、東大寺真言院で「法華経」「般若心経秘鍵」を講じた
・835年、1月8日より宮中で後七日御修法(ごしちにちのみしゅほう)を修す
→ 後七日御修法とは、宮中における元日から7日までの間に行われる神事の後、真言院において8日から14日までの7日間、天皇の安寧や国家安穏を祈る秘法を修することを指す
・835年、3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に62歳で入滅した
→ 臨終の際、空海は弟子たちに「私が目を閉じた後、必ず弥勒の首都、兜率天に往生して、弥勒菩薩の御前に参ろう。そして、必ず弥勒菩薩のお供をしてこの世に生まれ、皆を見守っていよう。」と伝えたとされる
→ なお空海の死因には諸説あり、不確定であるとされている
⇒ 「空海僧都伝」によると死因は病死である
⇒ 「続日本後紀」によると火葬されたとある
⇒ 「金剛峰寺建立修行縁起」には入定したとある(即身仏となった)
なお、空海は史実よりも伝承の方が多い人物とされており、上記以外の逸話もふんだんに残されています。
また、大まかな生涯については、下記の動画が分かりやすいと思われます(参考までに貼っておきます)。
伝説
弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5,000件以上あるといわれ、歴史上の空海の足跡を遙かに越えているとされています。
以下、代表的なものをいくつか紹介したいと思います。
三鈷の松(さんこのまつ)
高野山の御影堂と根本大塔の中間辺りに三鈷の松がある。
806年、空海が唐から帰朝する際に、唐の岸から、帰朝後に密教を広めるに相応しい聖地を求めて祈誓し、三鈷杵(さんこしょ)を日本に向かって投げたところ、三鈷杵は沖の雲間に消えていった。
818年、空海は嵯峨天皇から高野山を下賜され、空海が帰朝後初めて高野山に登ると、三鈷杵は高野山の松に落ちかかっていた。
弘法清水(こうぼうしみず)
栃木県に弘法水という清水がある。
空海が此処に通りかかり水を所望されたところ、老婆がわざわざ遠い所まで水を汲みに行き空海に接待した。
この辺りは水が無くて村人たちが苦しんでいるのを知った空海は、持っていた錫杖(しゃくじょう)を岩に突き立てると、清水が滾々と湧き出るようになった。
丹生明神と狩場明神(空海への土地譲り伝説)
空海が密教の根本道場となる霊地を求めて旅をしていたとき、山中で狩人に変化した狩場明神に出会った。
そして空海は、その狩人が従えていた黒と白の犬に導かれ、天野の社で丹生明神に出会い、神領である「高野」を授かった。
その後、空海は高野山の中心である壇上伽藍に社殿を建て、両神を鎮守の神として祀った。
その他にも、寺院の建立や仏像などの彫刻、あるいは聖水、岩石、動植物の発見など様々な伝説があります。
また、故郷である四国において、空海が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、四国八十八箇所に代表されるような霊場として残されており、霊場巡りは今なお幅広く大衆の信仰を集めています。
弘法大師とは?
弘法大師(こうぼうだいし)とは、空海の入滅後(死後)に醍醐天皇から贈られた諡号(しごう)です。
諡号(しごう)とは、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことであり、諡(し、おくりな)とも呼ばれます。
ちなみに、最初は「本覚大師」の諡号が贈られることになっていたそうですが、「弘法利生(こうぼうりしょう)」の業績から、「弘法大師」の諡号が贈られることになったんだそうです。
真言密教とは?
密教(みっきょう)とは、一般的には大乗仏教の中の秘密教を指し、釈迦の教えを民衆に分かりやすく説こうとする大乗仏教(一般的な仏教)とは異なり、閉ざされた師弟関係によって口伝される「秘密の教え」のことを指すとされています。
また、密教では言葉で表現できない「仏の覚り(さとり)」のそれ自体を伝えるものであり、「仏の覚り」とその方法が凡夫(凡人)の理解を超えているという点で「秘密の教え」であるということが密教の密教たる所以であるともいわれています。
そのため、いわゆる仏教というよりも、神秘主義の一種であると喩えた方が解釈しやすいのかも知れません。
なお空海は、密教と顕教(大乗仏教)の違いを以下のようにまとめています。
・法身説法(法身は、自ら説法している。)
・果分可説(仏道の結果である覚りは、説くことができる。)
・即身成仏(この身このままで、仏となることができる。)
・果分可説(仏道の結果である覚りは、説くことができる。)
・即身成仏(この身このままで、仏となることができる。)
また、密教は文字によらない教えであり、その代わりに「手を握って印を結び、誓いを立てて契約し、口に伝えて、心に授ける」といった方法を基調とする呪術や儀礼が特徴として挙げられます。
密教の始祖であるインド密教は、当時勢力を拡大しつつあったヒンドゥー教に対抗して、信者獲得のために土着の信仰を取り入れ、特に呪術や儀礼を強調していたそうです。
その後、中期のインド密教になると、初期に取り入れた余分な呪術などは整理され、「大日経」や「金剛頂経」として体系化されたと云われており、空海が唐で学んだのは密教はこのインド中期密教であるとされています。
そして、空海は唐で学んだ密教を独自に発展させ、「真言密教(しんごんみっきょう)」として体系化しました。仏教の宗派としては「真言宗」であり、最澄の開いた天台宗(台密)と区別するために「東密」とも呼ばれます。
なお、真言密教では、仏陀の言葉を翻訳せず、サンスクリット語をそのまま音写した呪文のようなものを唱えます。この呪文を「真言(マントラ)」と呼び、手を握って表わす一種のジェスチャーを「印」と呼びます。
そして、「真言(マントラ)」と「印」を組み合わせることで「法力(いわゆる超能力)」を発揮することができるとされています。
九字の印 |
マンガに例えるなら「NARUTO」の忍術や「HUNTER×HUNTER」の念能力といった感じでしょうか?
このような密教の教えについて、平安時代の庶民は顕教(大乗仏教)と違ってよく理解できなかったものの、妖しい呪文や神秘的な儀礼などに魅力を感じていたとされています。
また、平安時代には怨霊による祟りを畏怖する御霊信仰が背景にあり、怨霊を恐れる京の貴族らが、加持祈祷の効果を期待したため、密教が日本で独自の発展を遂げたとされているようです(陰陽道と同じ様な感じですね)。
なお、密教では独自のアイテムとして、曼荼羅(まんだら)や密教法具が用いられます。
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曼荼羅とは、聖域、仏の悟りの境地、世界観などを仏像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表したものを指します(心境をシンボルに具現化して表現したもの)。
密教法具については、「金剛杵(こんごうしょ)」または「ヴァジュラ」と呼ばれる法具が有名であり、空海の肖像や説話の中にも多く登場しています。
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なお、この金剛杵はインド神話に登場するインドラの武器であり、金剛という硬い金属でできている雷を操る武器とされています。
最後に、密教の語源についてですが、「秘密の教え」という解釈以外にも、中期イランのソグド語で「日、太陽(七曜の内の日曜)」を意味する言葉である「ミール(Mir)」を漢字で「密、蜜」と音訳したものとする説もあります。
そのため、密教の源流は古代地中海地域の密儀宗教であるという説もあり、一説によると太陽神ミトラスを主神とする「ミトラ教」が密教の源流であるとも云われています。
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また「ミトラ教」は、仏教の弥勒菩薩を信仰する「弥勒信仰」と深く関わっているとされています。空海は「弥勒思想」を持っていなかったとされていますが、「密教」の源流が「ミトラ教」であるならば、空海が死の直前に語った弥勒菩薩についての言及にも合点がいきますね。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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