草奈伎神社・大間国生神社 [三重県]
2018/01/25
三重県伊勢市にある草奈伎神社(くさなぎじんじゃ)と大間国生神社(おおまくなりじんじゃ)です。
両社ともに伊勢神宮の外宮摂社であり、その中でも格式の高い神社となっています。
神社概要
草奈伎神社
wikipediaによれば、延暦23年(804年)以前の創建とされ、祭神の標劔仗神(みしるしのつるぎのかみ)は、外宮の祭祀を担ってきた度会氏の遠祖・大若子命(大幡主命)が、越国の阿彦という賊を平定する時に用いた剣の霊であるとされます。
中世(応仁2年以降)には衰微して後に廃絶し、近世には社地不明となったとされますが、外宮の禰宜・度会常晨(桧垣常晨)の尽力によって正保2年(1645年)に現社地で再興され、寛文3年(1663年)に社殿の建て替えと宮域の画定が行われたとされています。
また、平安時代の『延喜式神名帳』にある「草名伎神社」に比定されており、承元4年(1210年)にそれまで外宮摂社の第1位であった月夜見宮が別宮に昇格して以降、当社が摂社の第1位になったとされ、外宮の中でも格式の高い神社として20年に一度社殿が建て替えられる他、摂社以下の他の社よりも多くの祭祀が行われるそうです。
【祭神】
・標劔仗神(ミシルシノツルギ):大若子命(大幡主命)が越国の賊を平定する際に使用した剣
→ 『神名秘書』では「草薙劔」とされる
・標劔仗神(ミシルシノツルギ):大若子命(大幡主命)が越国の賊を平定する際に使用した剣
→ 『神名秘書』では「草薙劔」とされる
大間国生神社
『倭姫命世記』によれば、倭姫命が雄略天皇21年(477年)丁巳冬10月に定めた神社であるとされ、祭神に国土生成の神である大若子命・乙若子命を祀っています。
中世(応仁2年以降)には衰微して後に廃絶し、近世には社地不明となったとされますが、外宮の禰宜・度会常晨(桧垣常晨)の尽力によって正保2年(1645年)に現社地で再興され、寛文3年(1663年)に社殿の建て替えと宮域の画定が行われたそうです。
また、平安時代の『延喜式神名帳』にある「大間國生神社」に比定されており、現在は外宮摂社の第2位に位置する格式の高い神社とされ、玉垣の中に2つの社殿のうち、右側の大間社に大若子命、左側の国生社に乙若子命を祀るとされています。
【祭神】
・[大間社] 大若子命(オオワクゴ):天御中主尊の後裔・彦久良伊命の御子(大幡主命とも)
→ 垂仁天皇の御代、越国の賊徒・阿彦討伐を命じられ、大いに旗(幡)を挙げて勝利して大幡主命の尊称を賜った
→ 外宮祠官の度会氏の遠祖とも
・[国生社] 乙若子命(オトワクゴ):大若子命の弟
→ 景行・成務・仲哀の3代に亘って、豊受大神宮(伊勢神宮 外宮)の大神主を担ったとされる
・[大間社] 大若子命(オオワクゴ):天御中主尊の後裔・彦久良伊命の御子(大幡主命とも)
→ 垂仁天皇の御代、越国の賊徒・阿彦討伐を命じられ、大いに旗(幡)を挙げて勝利して大幡主命の尊称を賜った
→ 外宮祠官の度会氏の遠祖とも
・[国生社] 乙若子命(オトワクゴ):大若子命の弟
→ 景行・成務・仲哀の3代に亘って、豊受大神宮(伊勢神宮 外宮)の大神主を担ったとされる
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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