風土記逸文 現代語訳(畿内編)
2021/01/17
『風土記逸文(畿内編)』を現代語訳にしてみました。風土記逸文とは風土記の一部のことで、他書に引用されて記載されているものを言います(元々の風土記が失われているため、このような形で復元されている)。
ここでいう「畿内」とは 山背国(京都府南部)・大和国(奈良県)・摂津国(大阪府北西部と兵庫県南東部)・河内国(大阪府南東部)・和泉国(大阪府南部) のことです。情報量は少ないですが、地名由来・神社のいわれ・各地の伝説 などが記されており、なかなか興味深い内容になっています。
はじめに
・以下の文章は、専門家ではない素人が現代語に翻訳したものです
・基本的には意訳です(分かりやすさを重視しているため、文章を添削をしています)
・分からない部分については、訳さずにそのまま載せています。
・誤訳や抜けがあるかも知れませんので、十分注意してください(随時修正します)
・資料不足で載せてない部分もあるので、十分注意してください
原文参考:大日本真秀國 風土逸文
山背国風土記 逸文
鎮火
風土記には このようにある。
いわゆる宮城の四方角(よも)は、卜部らが鑽火(きりび)の祭を行う。これは防火のためである。故に鑽火(ひしづめ)という。
加茂祭祀 乗馬始源
秦氏本系帳にはこのようにある。
妋の玉依日子(タマヨリヒコ)は、今の賀茂縣主らの遠祖である。その祭祀の日には乗馬が行われる。志貴嶋宮御宇天皇(欽明天皇)の御世、天下の国が挙って風雨に遭ったので百姓は愁いた。この時に天皇が卜部の伊吉若日子(イキワカヒコ)に占わせると賀茂神(カモノカミ)の祟りと出た。
よって、4月の吉日を選んで、馬に鈴を掛け、人に猪の頭を被らせて走らせて、これを以って祭祀とし、よく祷祀させた。すると、五穀はよく実るようになり、天下は豊かになった。これが乗馬の始まりである。
桂里
あるいは、山城国風土記に このようにある。
月讀尊(ツクヨミ)が天照大神(アマテラス)の勅を受けて、豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)に天降った。そして、保食神(ウケモチ)のもとに到った時、そこに一本の湯津桂樹(ゆつかつらのき)があったので、月讀尊は その樹に寄りかかって立った。その樹のある所は今は桂里(かつらのさと)と呼ばれている。
南鳥部里 的餅化鳥
山城国風土記に このようにある。
南鳥部里(みなみとりべのさと)。鳥部の称するのは、秦公伊呂具(ハタノキミイログ)が餅を的にしたところ、鳥と化して此処の森に飛んでいった。この森を鳥部(とりべ)という。
伊奈利社
風土記に このようにある。
伊奈利(いなり)と称するのは、秦中家忌寸(ハタノナカツヤノイミキ)らの遠祖である伊呂具秦公(イログハタノキミ)は、稲梁(いね)を積むほど持っており裕福であった。このため、餅を弓矢の的にして遊んでいると、餅が白い鳥と化して飛翔し、山の峰に降りて子を生んだ。その子は稲と化した。よって、そこを社とした。その子孫は先祖の過ちを悔いて、社の木を抜いて家に植え、これを祷り祀った。
※これは「伏見稲荷大社」の創建由緒になっている。
宇治橋姫
山城国風土記に このようにある。
宇治橋姫(うじのはしひめ)は(懐妊して)惡阻(つわり)になり、7尋の和布(わかめ)を食べたいと願ったので、夫は(和布を)尋ねて海辺に出掛けて行った。そこで笛を吹いていると、龍神が愛でて婿に取ることにした。
そこで橋姫が夫を尋ねて海端に向かい、そこにあった老女の家に行って(夫の行方を)問うと、老女は「その人は龍神の婿になりましたが、龍神の火を忌んで此処に来て食事を摂っています。その時に見ればよい」と言うので、橋姫は隠れて見ていると、夫は龍王の玉の輿に乗って来て、此処で食事を摂っていた。こうして橋姫は夫と物語して、泣く泣く別れた。だが、遂には夫は帰ってきて橋姫と一緒になった。
八十氏防人
また、古老が伝えて言うには、昔 崇神天皇の御代、逆徒が山背国にやって来て争った時、八十氏防人(やそうぢのさきもり)を宇治の辺りに遣わせて関城を守り固めさせた。云々。
宇治隴津屋
山城国風土記に このようにある。
宇治隴津屋(うぢのをかつや)は祓戸(はらへど)である。云々。
石田
石田小野(いはたのをの)の石田は、山城国風土記の尾張(をはり)。
大和国風土記 逸文
御杖神宮
風土記には このようにある。
宇陀郡の篠幡庄御杖神宮(ささはたのまさみつゑのかむみや)には正魂靈(おほみたま)は祀られていない。倭比賣命(ヤマトヒメ)が天照大神の御杖となって此地に到った。宮地を尋ねて3ヶ月を経た時に神戸を定めた。
大口真神原
昔、明日香の地に老いた狼がおり、多くの人を食らった。これに土地の民は畏れて大口神(オホクチノカミ)と呼んだ。その住処は大口真神原(おほくちのまかむがはら)という(云々)。これは風土記に見られる。『日本紀』では狼は貴神(かしこきかみ)とされている。
三山
三山(みつやま)は、畝火・香山・耳梨山のことである。風土記に見られる。
天津神命 石津神命(三都嫁)
大和国風土記には このようにある。
天津神命(アマツカミ)・石津神命(イハツカミ)は三都嫁(みとのまぐはひ)、遊(うらぶれ)、面語(おもがたり)したとある。三都嫁とは結婚(とつぐ)ことである。よって、戯(たはふれ)と遊(うらぶれ)という。
摂津国風土記 逸文
住吉(すみのえ)
摂津国風土記にはこのようにある。住吉と称する所以は、昔 息長帯比売天皇(神功皇后)の御世、住吉大神が現れて天下を巡行し、住むべき国を探し求めた。
そこで沼名椋之長岡之前(ぬなくらのながをかのさき、今の神宮の南辺りである)に到った時に「此処こそ、まことに住むべき国である」と言って称賛し、また「まさに住み吉し住吉国」と言ったので神社に定まることになった。今は俗に ただの須美乃叡(すみのえ)と略して呼ばれている。
比賣嶋松原(ひめしまのまつばら)
裏書・押紙・私・摂津国風土記にはこのようにある。
比賣嶋松原(ひめしまのまつばら)。
軽嶋豊明宮御宇天皇(応神天皇)の御世、新羅国に女神がおり、その夫から逃げ去って しばらく筑紫国の伊波比乃比賣嶋(いはひのひめしま)に住んでいた。
そこで「この島は、これから遠くない。もし、この島に住んでいれば、男神は尋ねて来るだろう」と言った。それから、さらに遷って来て この島に留まった。故に元の住処の地名を取り、これを以って嶋の名とした。
長楽(ながら)
長楽(地名)。
與山背堺(水無瀨)
摂津国風土記より。
この国の嶋上郡(しまのかみのこほり)であり、山背の堺である。
夢野 刀我野(いめの とがの)
摂津国風土記にはこのようにある。
雄伴郡(をとものこほり)には夢野(いめの)がある。
父・老が共に伝えて言うのは、昔 刀我野には牡鹿(おじが)がいた。その嫡(本妻)の牝鹿は この野に居り、その妾の牝鹿は淡路国の野嶋に居た。
この牡鹿は野嶋に行って妾をとても愛おしんだので、その日は嫡の元には帰らなかった。その翌日、牡鹿は嫡の牝鹿に「今夜 夢を見たが、私の背に雪が降り積もっていた。また、(背の上に)すすきという草が生えているのもみたが、この夢は何の兆しだろうか」と言うと、嫡の牝鹿は夫が妾の所に向かうのを憎み、偽って「背の草が生えるというのは、背の上を矢で射られるという兆しでしょう。また、雪が降り積もるというのは鹽(塩)を宍(肉)に塗られる兆しでしょう。あなたが淡路の野嶋に渡るのであれば、必ず船人と遭遇して海中にて射たれ死ぬことでしょう。謹んで往復してください」と言った。
しかし、その牡鹿は妾を愛おしむあまりに野嶋に渡っていき、海を行く船に遭遇して射殺されてしまった。よって、この野は夢野と名付けられた。土地に伝わる説に「刀我野に立てる眞牡鹿も、夢相のまにまに」というものがある。
波比具利岡 歌垣山(はひぐりのをか うたがきやま)
摂津国風土記にはこのようにある。
雄伴郡(をとものこほり)。
波比具利岡(はひぐりのをか)。
この岡の西には歌垣山(うたがきやま)がある。
昔 男女が集ってこの上に昇り、歌垣をした。よって、この名が付いた。
美奴賣前神(みぬめのさきのかみ)
風土記にはこうある。
美奴賣前神(ミヌメノサキノカミ)は、神功皇后の時に祀った。
美奴賣松原
摂津国風土記にはこのようにある。
美奴賣松原(みぬめのまつばら)。
今、美奴賣(ミヌメ)と称される神は、元は能勢郡の美奴賣山(みぬめのやま)にいた。
昔、息長帯比賣天皇(神功皇后)が筑紫国に行幸した時、諸々の神が川辺郡にある神前松原に集った。(皇后は)ここで礼福(さきわい)を求めた。その時、この神もまた集ったので(皇后は)「私を護り助けよ」と言うと、(この神は)諭して「吾が住むところの山にある杉の木を伐採し、それで吾の舟を造り、この船に乗って行幸せよ。そうすれば幸福(さきわい)を得られるだろう」と言った。
そこで皇后は神の教えに従って船を造るよう命じた。そして、この神船で新羅に向かい、遂に征することができた。一説に、その時に船が牛が吠えるように大きく鳴り響き、対馬の海に従って自然に此処に還り到ったという。また、操縦の方法が分からなかったので占わせてみると、神は「神霊の欲する所に行く」と言ったので留め置いたという。それから還って来た時に、神をこの浦の祠に祀り、併せて船を留めて神を奉った。よって、この地のまたの名を美奴賣(みぬめ)という。
鹽之原山 鹽湯(有馬湯) 久牟知川
摂津国風土記にはこのようにある。
有馬郡(ありまのこほり)。
ここには鹽之原山(しほのはらやま)がある。また、この山の近くには鹽湯(しほのゆ)がある。よって、この名が付いた。
久牟知川(くむちのかは)。
鹽之原山は先のいわれの通りだが、その山麓は功地山(くのちのやま)という。
昔、難波長楽豊前宮御宇天皇(孝徳天皇)の御世、(天皇が)この温泉に行幸して仮宮を造った。その時に久牟知山(くむちのやま)で木を伐採した。その木材は美麗であった。そこで天皇は「この山は、功のある山だ」と言った。これによって功地山と呼ばれるようになった。それを俗人が誤って久牟知山というようになった。
また、天皇は(温泉を見て)「鹽湯(しほのゆ)を初めて見た…云々」と言ったという。土地の者が言うには「この御世に何と呼ばれていたかは知らない。だが、嶋大臣(蘇我馬子)の時から温泉は知られていた」という。
下樋山
下樋山(したびのやま)は津国にある。津国風土記には このようにある。
昔 天津鰐(あまつわに)という大神がいた。(この大神は)鷲に化けて天降り、この山に留まった。ある時、この山に10人の者が入ったので、神は5人を行かせ、5人を留めた。
そこで久波乎(クハヲ)という者が、この山に来て下樋(地下水道)を伏せて神の元に到り、樋の中に入って祈祷し祀った。これが下樋山の由縁である。
稲倉山
稲倉山(いなくらのやま)。
昔、止與𠱶可乃賣神(トヨウカノメノカミ)が山中におり、そこで飯を盛った。よって、この名が付いた。
稲椋山
また、このようにもいわれる。
昔、豊宇可乃賣神(トヨウカノメノカミ)が、稲椋山(いなくらのやま)にあった膳廚之處(みくりや)に常に住んでいた。後に事故(さはること)があり、これを避けられずに、遂に丹波国の比治真名井(ひぢのまない)に還ることになった。
土蛛
摂津国風土記にはこのようにある。
畝傍橿原宮御宇天皇(神武天皇)の御世、土蜘という偽物(にしもの)がいた。この人は常に穴の中にいた。よって、賤しい呼び名を賜って土蜘(つちぐも)と名付けられた。
難波高津
摂津国風土記には このようにある。
難波高津は、天稚彦(アメノワカヒコ)が降臨した時に、天稚彦に従って天探女(アメノサグメ)の降臨した場所で、その時は天磐舟(アメノイワフネ)に乗って此処に到ったという。天磐舟が停泊した場所なので高津と呼ばれるようになった(云々)。
味耜山
摂津国風土記には このようにある。
大小橋山(おほをばせのやま)。松や杉は材木として使うことができる。また、苓(みみなぐさ)や細辛(さいしん)並びに奇石や金玉なども出る(云々)。
その謂れは、味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)がこの山に天降ったため、味耜山(あぢすきのやま)と呼ばれるようになった。
形江
傍江(かたえ)の所以は、景行天皇が諸国を巡って行幸した時、江澤(えざは)においてその御姿を現した故に形江(かたえ)といわれるようになった。これは摂津国風土記にみられる。
吹江
吹江(ふきえ)のことは風土記に書かれており、これは今の深江(ふかえ)である。
難波堀江之歌
摂津国風土記には このような歌が載せられている。
「津国(つのくに)の 難波堀江(なにはほりえ)の 一橋(ひとつばし) 君渡(きみわた)らせば 傍目勿(あからめな)せぞ」
味野原
風土記には味原(あぢはら)とある(云々)。文字の上下は如何に。
味経原(あぢふのはら)
風土記の味原野(あぢふのはら)と同じところに記される。
八十頭島(八十島)
ある者が言うには、風土記にこのようにあるという。
堀江の東には澤がある。その広さは3,4町で、そこは八十頭嶋(やそかしらのしま)と呼ばれている。
昔、稚児を背負った女が人を待っていた。女は待っている間に鳥を捕ろうとして網を張った。すると、河の鳥たちが網を飛び越えようとしたので、女は網にかけて捕らえた。しかし、女は鳥たちの力に勝てずに逆に引っ張られて落ちて死んでしまった。
ある人がその頭の数を求めたところ、人の頭が2つに、鳥の頭は78で、合わせて80の頭であった。これによって名付けられたのである。
御魚家
任那は様々な魚がたくさんいる国なので、毎度 日本の朝廷に献上しているという。故にミマナと称される。ミとは御という字の心で、マナは魚のことをいう。任那の者が魚を献上する事をいう。
これは摂津国風土記の西生郡の篇にあり、その魚を持ってくる者を御魚家(みまなや)といい、京まで送り届ける間に宿る場所の地名でもある。
御津海
不明
籤稻村
摂津国風土記には このようにある。
河邊郡(かはのへのこほり)は山の木が保たれており、籤稻村の者が言うには 大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の御世には津直沖名田(つなをきながた)と呼ばれていたという。元の名は柏葉田(かしはばのた)である。
ここには田串(たくし)が造られた。これは罪事に対する贖いを以って差し出す田である。故に籤稻村(くししろむら)と呼ばれるようになった(云々)。稻(しろ)と読むのは作シロのことで、その名に当たり称されてシロなどと付けられたのだろう。
廣田明神 御前濱 武庫
風土記(にはこうある)。
人皇14代仲哀天皇は、将となって三韓(みつのからくに)を攻めようとしたが、筑紫に到った時に崩御した。今の氣比大明神(ケヒダイミョウジン)が この帝である。その后の神功皇后は、開化天皇の5世孫である息長宿禰の娘である。ここにおいて軍を起こし、三韓を征伐した。
神功皇后が産月の時、石を取ってその腰裳に挟み、産気づくのを抑えた。そして、遂に 新羅・高麗・百済 を皆悉く服従させた。その帰りに筑紫に到った時に皇子を産んだ。これが譽田天皇(応神天皇)である。
神功皇后は摂津国の北岸の海辺にある廣田郷(ひろたのさと)に到った。今、廣田明神と呼ばれているのがこれである。故にその海浜を御前濱(をまえのはま)と呼んでいる。御前澳(おまへのおき)とも呼ばれる。
また、その兵器(つはもの=武具)を此処に埋めたので武庫(むこ)と呼ばれるのである(今は兵庫といわれる)。なお、譽田天皇(応神天皇)は、今の八幡大神(ヤハタノオホカミ)である。
河内国風土記 逸文
百濟村
百濟(くだら)から来た多くの者は、河内国の久多羅郡(くだらのこほり)に住んだという。この郡を分け、その中にあるのが百濟村(くだらむら)である。
これは第31代敏達天皇の御世に、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の寺が建っていた場所である。よって、これが地名となり、そのことは河内国風土記に見える。
よって、その郡に移り住んだ百濟の者は日本人から百濟人(くだらのひと)と呼ばれた。河内の地名は、百濟国にはくだらの話といわれたのだろう。
和泉国風土記 逸文
和泉
和泉国風土記。河内国風土記と同じ類のものである。だが、晩近のものではないので、見るべき事は無きにもあらず。
和泉国は、土地に多くの清水が湧き出ている。この国は昔 河内国に属していた。
神日本磐余彦天皇(神武天皇)の御代、和泉氏の遠祖である三毛入野命の所領であった。
日本根子高端浄足姫(元正天皇)の御代の霊亀2年(716年)の丙辰の4月甲子、河内国から大島を分けて和泉とした。これが根三郡 始鳥 和泉国である。
国の大様は、首は艮(東北)で、尾は坤(南西)で、西に80の里、南北に125の里がある。河海の産物はたくさんあるが、山陸の産物は少なく、穀物を作る民は多くはない。
郡は合わせて3、郷は30(中に村里がある)、庄保は8、神社は63である。
大島郡の東西は125里で、南北は50里50歩である。
郷は合わせて12(中に村里がある)、庄保は2、神社は25である。云々。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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