人文研究見聞録:風土記逸文 現代語訳(西海道編)

『風土記逸文(西海道編)』を現代語訳にしてみました。風土記逸文とは風土記の一部のことで、他書に引用されて記載されているものを言います(元々の風土記が失われているため、このような形で復元されている)。

ここでいう「西海道」とは 筑前国(福岡県北西部)・筑後国(福岡県南西部)・豊前国(福岡県東部・大分県北部)・豊後国(大分県)・肥前国(佐賀県・長崎県)・肥後国(熊本県)・大隅国(鹿児島県の大隅半島・屋久島・種子島・奄美大島)・薩摩国(鹿児島県西半部)・壱岐国(長崎県壱岐)・対馬国(対馬) のことです。地名由来・神社のいわれ(宗像三女神など)・各地の伝説 などが記されており、なかなか興味深い内容になっています。



はじめに


・以下の文章は、専門家ではない素人が現代語に翻訳したものです
・基本的には意訳です(分かりやすさを重視しているため、文章を添削をしています)
・分からない部分については、訳さずにそのまま載せています。
・誤訳や抜けがあるかも知れませんので、十分注意してください(随時修正します)
・資料不足で載せてない部分もあるので、十分注意してください

原文参考:大日本真秀國 風土逸文

筑紫国風土記 逸文(九州乙類風土記)

哿襲宮

筑前国風土記には このようにある。

筑紫の国に到れば、まず哿襲宮(香椎宮)に参拝することを例とする。

子饗原 芋湄野

筑紫国風土記には このようにある。

逸都縣(いとのあがた)。

子饗原(こふのはら)。

此処には二つの石がある。その一つは、長さは1尺2寸(約36cm)、周囲は1尺8寸(約54cm)である。もう一つは、長さは1尺1寸(約33cm)、周囲は1尺8寸(約54cm)である。その色は白くて硬く、丸く磨かれている。

土地の人々が言うのは、息長足比賣命(神功皇后)が新羅を征伐しようとして軍を見ていた時、腹に身籠っていた御子がよく動いた。そこで、この二つの石を取って腰裳に挟み、(この状態で)遂に新羅を討った。それから凱旋の日に芋湄野(うみの)に到り、そこで御子(応神天皇)が誕生した。こうした由縁によって芋湄野のいう。

芋湄は産みという。これは土地の言葉である。俗世間の婦人は腹に身籠った子が動けば、まじないとして腰裳に石を挟んで産気を延ばすという。

塢舸水門 阿斛嶋 姿波嶋

塢舸縣(をかのあがた)。

縣の東の傍らに大江口(おほかわ)があり、そこの名を塢舸水門(をかのみなと)という。ここには大船を入れておく。そこから島と鳥旗(とをた)と襖(おくか)に通うところを柚門(くき)という。ここには小船を入れておく。

海中には二つの小さな島がある。その一つは阿斛嶋(あこじま)といい、島には支子(クチナシ)が生えており、海には鮑魚(アワビ)が棲んでいる。もう一つは姿波嶋(しばしま)という。この両島には共に鳥葛(ツヅラ)・冬葡(オホネ=ウメ)が生えている。

西海道節度使 藤原宇合

筑前国風土記には このようにある。

當奈羅朝(平城天皇の御代)である天平4年の歳次 壬申(ほしのやどるとし みづのえさる)に西海道の節度使であった藤原朝臣宇合(フジワラノアソミウマカヒ)は、前議の偏りを嫌って、当時の要を考えれば…。

磐井墓

築後国風土記には このようにある。

上妻縣(かみつやめのあがた)。

縣の南に2里のところに筑紫君磐井(ツクシノキミイハヰ)の墓がある。墳墓の高さは7丈(21.21m)で、周囲は60丈(181.8m)で、墓田(はかのまち)は南北は各60丈(181.8m)、東西は各30丈(90.9m)である。石人(いはひと)・石楯(いはたて)は各60枚(ひら)で、これが互い違いに連なって、四方に周らされている。

この東北の角には一つの別區(ことまち)があり、それを衙頭(がとう)という(衙頭とは政所である)。その中にある一つの石人は縦に容れて地に立てられており、これを解部(ときべ)という。その前にある一つの石人は裸の形で地に伏せられており、これを倫人(ぬすびと)という(生きていた時に猪を盗んだ罪によってこうなる)。側には石猪(いはしし)が4頭あり、これを賊物(かすみもの)という(賊物は盗んだも物のことである)。此処にはまた、石馬3疋・石殿3間・石蔵2間がある。

古老が伝えて言うには、雄大迹天皇(継体天皇)の御代、筑紫君磐井が強く荒ぶれて天皇に従わなかった。そこで生きている時に予め この墓を造らせた。そして俄に官軍を襲おうとしたが、その勢いに勝てないと悟り、豊前国の上膳縣に自ら逃れて、その南の山の険しい峰の曲(くま)に失せた。官軍は追ってきて行方を訪ねたが、既に痕跡が無くなっていたので、士(もののふ)は怒りのあまりに石人の手を打ち折り、石馬の頭を打ち落としたという。

古老が伝えて言うには、上妻縣(かみつやめのあがた)に篤い疾病が多いのは、これが由縁だという。

自然之冰室

夏の氷室(ひむろ)が宣旨が無しに開けることができなかったのはどうしてなのか…豊後国の速見郡の中に温泉がたくさんあり、その中の1ヵ所に4つの湯がある。それは珠灘湯(すなのゆ)・等峙湯(とちのゆ)・寶膩湯(ほちのゆ)・大湯(おほゆ)である。その湯の山の東西には自然の氷室がある。

記には このように記されている。石門を開けれて望めば それは倉のようであり、可方(のり)は1丈(3.03m)、その内の縦横の可方は10丈(30.3m)である。秉燭(ひょうそく)を以って奥を照らして見れば、あまねく室が凍っており、それは鋪玉塼(しくたまのかはら)のようで、あるいは立てた銀柱(しろがねのはしら)にも似ている。鑿(のみ)や斧で氷の破片を取ろうとしてもなかなか難しい。夏になると氷がたくさん落ちるので、人々は自ら足を運んで酒樽に氷を入れて取っていく。もし龍宮凌室(とこよひむろ)でなければ、冬夏も氷が消えぬことはない。云々。

帔搖岑

肥前国風土記には このようにある。

松浦縣(まつらのあがた)。

縣の東に6里のところに帔搖岑(ひれふりのみね)がある。その山頂に沼があり、その広さは半町ばかりである。土地の人が伝えて言うには、昔 檜前天皇(宣化天皇)の御代に大伴紗手比古(オホトモノサデヒコ)を遣わせて任那国を鎮めさせた。その時、紗手比古は松浦縣に立ち寄った。

松浦縣の篠原村には乙等比賣(オトヒメ)という娘がおり、その容貌はとても整っていて、その国で一番の美女だった。よって紗手比古は乙等比賣に求婚した。それから紗手比古が任那国に向かう日に、乙等比賣は この峰に登り、帔を掲げて振り招いた。故にこの名が付けられた。

杵嶋

肥前国風土記には このように見える。

杵嶋郡(きしまのこほり)。

縣の南に2里のところに一つの山がある。坤(西南)から艮(東北)に向かって3つの峰が連なっており、これを名付けて杵嶋(きしま)という。この峰の坤には比古神がおり、中央には比賣神がおり、艮には その御子神がいる。この御子神は軍神(いくさがみ)であり、動けば戦が起こる。

この郷の男女は皆 酒を下げて琴を抱き、毎年の春・秋に手を取り合って峰に登り、そこで酒宴を開いて歌舞を楽しむ。此処では曲が盡く送られる。此処で歌われる歌には以下のようなものがある。

「霰降る 杵嶋岳を 險しみと 草取兼ねて 妹手を取る」

閼宗岳

筑紫国風土記には このようにある。

肥後國(ひのみちのしりのくに)。

閼宗縣(あそのあがた)。

縣の坤(西南)に20里あまりのところに禿山があり、これを閼宗岳(あそのたけ=阿蘇山)という。その頂上には霊沼(くすしきぬま)があり、石壁が垣のようになっている。その大きさを計ると、縦は50丈(151.5m)、横は100丈(303m)、深さは20丈(60.6m)あるいは15丈(45.45m)であろう。清き潭(ふち)は100尋(181.8m)で、白綠(びゃくろく)を鋪いて質(そこ)となしている。麗しき浪は五色であり、黄金の絙(はへ)を以って間を分ける。

天下の霊奇(くしび)は此処に出る華である。時々、水が満ちて溢れると、南に流れて白川に入るが、その時に多くの魚は酔って死んでしまう。土地の人は これを苦水(にがみず)という。この岳の勢(すがた)は大空の中ほどに聳え立ち、4つの縣を包んで基を開く。石に觸れて雲を起こし、5つの岳の最首(かしら)となっている。

水を分かつ濫觴(らんしょう=始まり)であり、まことに多くの川の巨大な源である。大徳の巍巍(高く大きい山)で、まことに人間(ひとのよ)に一つのみある。奇しき形(すがた)は暗く聳え、これは天下に並ぶものはなく、地心(くにのもなか)にある。故に中岳(なかだけ)という。いわゆる閼宗神宮(あそのかむみや)はこれである。

水嶋

肥後にある。風土記には こうある。

球磨(くま)。

乾(北西)に7里のところの海に嶋がある。塁(もとい)を積んで保っている。名付けて水嶋(みづしま)という。この嶋からは冷水が出ている。潮の満ち引きがある。云々。

吐濃峰 韜馬峰

僧(ほうし)の数を何口というのは、僧に限る詞(ことば)か?すべての人数にもいうのか?…

日向国の古庾郡(こゆのこほり)に吐濃峰(とののみね)という峰がある。そこには神がおり、名を吐乃大明神(トノノダイミョウジン)という。昔、神功皇后が新羅を討とうとした時、この神を請い給わって御船に乗せ、船舳を守護させた。

新羅を討ち取って帰った後、神功皇后が鞱馬峰(うしかのみね)にて弓を射とうとした時、土中より黒い物が頭を出したので、弓端で掘り出してみると、それは一人の男と一人の女であった。よって、これを神人(はふり)として召し仕えさせた。その子孫は今も残っており、これを頭黒(カシラクロ)という。初めて掘り出した時に黒い頭を出していた故である。子孫は広がったが、疾病によって死に失せ、2人になってしまったという。

このことは国記にこのようにある。日に日に死んでしまい、僅かに残ったのは男女の二人であった。このように云われるが、これは国守(くにのかみ)・神人(はふり)を駆り使って国役に従わせた故に、明神(アキツミカミ)の怒りを買ったために悪病を起こされて死んだのである。これを思えば、男女を口とはいえないだろうと思うのである。

韓槵生村

日向国に韓槵生村(からのくしぶのむら)というところがあると書かれており、此処には木槵子木(くりのき)が生えているのはどうしてだろうか?…

昔、哿瑳武別(カサムワケ)という者が韓国に渡り、この栗を取って帰って植えたという。これによって槵生村(くしぶのむら)というのである。風土記には、土地の言葉で栗を區兒(くし)というとある。よって韓槵生村は韓栗林(からのくしぶ)に覆われているのである。云々。

沙虱 耆小神

虱(シラミ)の子を蟣(バキサザ)というのか?蟣(キサジ)というのか?…

ただし、大隅国には夏より秋に至るまで虱の子が多く、喰い殺されてしまう者もいる。これは風土記には、沙虱(シヤシチ)という耆小神(きさのかみ)だと記されている。

閼駝郡竹屋村

幼き稚児の臍の緒を竹刀で切るのは、前跡によるというが どうだろうか?

風土記によれば、皇祖の裒能忍耆命(ホノニニギ)が日向国の贈於郡(そのこほり)にある高茅穗(たかちほ=高千穗)の槵生峰(くしふるだけ=槵觸峰)に天降り、此処から薩摩国の閼駝郡(あだのこほり)の竹屋村(たかやのむら)に移って、その土地にいた竹屋守(タカヤノカミ)の娘を召して、その腹に2人の男児を儲けた。その時に此処の竹で刀を作って臍の緒を切った。その竹は今もあるという。この事蹟から今もこのようにするのである。

常世祠 朴樹

朴(えのき)はホクである。榎木である。このような説があるのはどうしてだろうか?…

壹岐嶋(いきのしま)の記には このようにある。常世祠(とこよのやしろ)には一本の朴樹(えのき)があり、生きた鹿の角のような枝で、その長さは5寸(約15cm)である。その角の端は二股に分かれている。云々。

寄柏 御津柏

筑紫風土記には、寄柏(きひゃく) 御津柏(みつながしは)とある。

長木綿 短木綿

麻を長木綿(ながゆふ)という。これは長いためである。真麻(まを)を短木綿(みじかふゆ)という。筑紫風土記に 長木綿(ながゆふ) 短木綿(みじかゆふ)とあるが、それがこれである。

筑前国風土記 逸文

資珂嶋

筑前国風土記には このようにある。

糟屋郡(かずやのこほり)。

資珂嶋(しかのしま)。

昔、氣長足姫尊(神功皇后)が新羅に行幸した時、御船で航行中に夜が来たので この嶋に泊まった。その時の従者に大濱(オホハマ)と小濱(ヲハマ)がいた。皇后は小濱を遣わせて、この島の火を持ち帰らせた。小濱が早々と火を得て帰って来ると、大濱は「近くに家はあったか?」と問うと、小濱は「この嶋は近くの打昇濱(うちあげのはま)に続いており、ほとんど同じ土地だった」と答えた。よって近嶋(ちかのしま)という。今は訛って資珂嶋(しかのしま)という。

瀰夫能泉

糟屋郡(かずやのこほり)。

瀰夫能泉(みぶのいづみ)。郡の東南にある。

氣長足姫尊(神功皇后)が新羅から還幸した時に、この村で誉田天皇(応神天皇)を出産した。その時に、この泉の水を汲んで、これを以って産湯とした。よって御産泉(みぶのいづみ)という。今は社を建てて祀っている。

怡土郡

筑前国風土記には このようにある。

怡土郡(いとのこほり)。

昔、穴戸豊浦宮御宇足仲彦天皇(仲哀天皇)が球磨(クマ)・噌唹(ソ)を討とうと筑紫に行幸した時、怡土縣主(いとのあがたぬし)らの祖である五十跡手(イトテ)が天皇の行幸を聞き、五百枝賢木(いほえのさかき)を船の舳艫(へととも)に立て、上の枝に八尺瓊(やさかに)を掛け、中の枝に白銅鏡(ますみのかがみ)を掛け、下の枝に十握剣(とつかのつるぎ)を掛けて、天皇を迎えようと穴門引嶋(あなとのひけしま)に奉った。

天皇は「あなたは誰だ?」と問うと、五十跡手は「高麗国の意呂山(おろやま)がら降って来た。日桙(ヒホコ)の苗裔(後裔)の五十跡手と言います」と答えた。そこで天皇は五十跡手を誉めて「恪乎(いそしかも=よく謹んでいる)」と言い、五十跡手の元の国を恪勤國(いそのくに)といわせた。今は訛って怡土郡という。

兒饗野 兒饗石

筑前国風土記には このようにある。

怡土郡(いとのこほり)。

兒饗野(こふの)。郡の西にある。

この野の西に白い石が二つある。一つは、長さ1尺2寸(約36cm)、大きさは1尺(約30cm)、重さは31斤(約18.6kg)である。もう一つは、長さ1尺1寸(約33cm)、大きさは1尺(約30cm)、重さは39斤(約23.4kg)である。

昔、氣長足姫尊(神功皇后)が新羅を征伐しようとして この村に到った時、腹に宿った御子が今にも産まれそうになった。その時に、この二つの石を取って御腰に挟み、誓約して「朕は西の境を定めようと この野に来たが、今にも皇子が産まれそうである。もし、此処に神が居るのならば、凱旋の後に皇子が生まれるだろう」と言うと、西の境を定めて帰った後に皇子が産まれた。これが誉田天皇(応神天皇)である。当時の人は、その石を皇子産石(みこふのいし)と呼んだが、今は訛って兒饗石(こふのいし)という。

大三輪神社

筑前国風土記には このようにある。

氣長足姫尊(神功皇后)が新羅を征伐しようとして軍を整えて出発すると、兵士が道の途中で消え失せてしまった。その理由を占うと大三輪神(オオミワノカミ)の祟りだと出た。よって、此処に神社を建てて、遂に新羅を平定した。

胸肩神躰

先師(卜部兼文)の説には このようにある。

胸肩神(ムナカタノカミ)の御神体は玉である。この由縁は風土記に見られる。

宗像郡 身形郡

西海道の風土記には このようにある。

宗像大神(ムナカタノオホカミ)が天降って崎門山に居た時、青蕤玉(あをにのたま)を奥宮の表(しるし)として置き、八尺蕤紫玉(やさかにのむらさきだま)を中宮の表として置き、八咫鏡を邉宮の表として置いた。これは神體形(かみのみかた=御神体)と為し、三宮に納め置いて隠した。

同風土記には このようにある。

別の説では、天神の子には4柱の神がおり、兄の3柱の神は弟の大海命(オホアマ)に「汝は我ら3柱の御身之像(みみのかた=神像?)を此地に置くべし」と教えたので、1柱は奥宮に、1柱は海中に、1柱は深田村の高尾山の辺りに置いた。故に身像郡(みのかやのこほり)と名付けられた。云々。

これを後の人が宗像(むなかた)と改めた。大海命の子孫は、今の宗像朝臣らである。云々。

宗像大神

邊津宮(へつみや)は…宮人に媚びて神寶を見ると社記にある。その中に、西海道風土記によれば、宗像大神が自ら天降って埼門山に居た時、青蕤玉(あをにのたま)[あるいは八尺絮蕤玉(やさかのをのにのたま)を作り]奥津宮の表(しるし)に置き、八尺蕤紫玉(やさかにのむらさきだま)を中津宮の表に置き、八咫鏡(やたのかがみ)を邊津宮の表に置いた。この三表(みつのしるし)を以って神體形(かみのみかた)と成して三宮に納め隠した。よって身形郡(みのかたのほこり)という。これが後の人によって宗像と改められた。その大海命(オホアマ)の子孫が今の宗像朝臣らである。云々。

人皇第7代孝霊天皇4年に、自ら出雲国の簸河(ひのかは)の河上の筑紫の宗像に遷宮した。海淡に集って島を築き、遠海の息(おく)に居を示し、未来の際に降伏して異国之由(あたしくにのよし)に御誓あって件の島に留まり給えた。その島を息御島(おきつみしま)といい、日本と高麗の中間にある。遠瀛(おきつ)に居て、これを奉じて田心姫命(タゴリヒメ)と名付けた。第二の神は中海(なかつうみ)の息に居を示したが、それが今の大島がである。厳重奇端が多くあって、此処にこれを奉じて湍津姫命(タギツヒメ)と名付けた。第三の神は海辺に居を示したが、それが今の田島である。海辺に居て、これを奉じて市杵姫命(イチキヒメ)と名付けたという。云々。

この他には様々な怪しい事などが記されているが、上古の物とは思えない。

筑後国風土記 逸文

筑後國號

(2つめの説に)築後国風土記には このようにある。

築後国は、元は筑前国と合わせて一つの国であった。昔、この2つの国の間の山に高くて険しく狭い坂があった。ここを往来する人は鞍韉(したくら)に乗って移動したが、これを摩り盡くした。よって、土地の人は この坂を鞍韉盡之坂(したくらつくしのさか)とよんだ。

(3つめの説に)昔、この堺の上に麤猛神(あらぶるかみ)が居て、往来する人の半分を生かし、半分を殺した。その数は極めて多かった。よって、この神は人命盡神(イノチツクシノカミ)と呼ばれた。その時、筑紫君と肥君らは占って、筑紫君らの祖である甕依姫(ミカヨリヒメ)に祝い祭らせた。この後、路を行く人は神の害を被らなくなった。これによって(人命盡神は)筑紫神(ツクシノカミ)と呼ばれるようになった。

(4つめの説に)その死者を葬るため、この山の木を伐って棺を作った。よって、この山の木を取り盡くした。よって筑紫国という。後に2つの国に分かれたため、前後(=筑前・筑後)がある。

生葉郡

築後国風土記には このようにある。

昔、景行天皇が国を巡り終えて都に帰ろうとした時、この村にいた膳司(かしはで)が御酒盞(おほみうき=天皇の盃)を忘れた(云々)。

そこで景行天皇は「惜しかったな、朕の酒盞(うき)」と言った(土地の言葉で酒盞を宇枳[ウキ]という)。よって、宇枳波夜郡(うきはやのこほり)というが、後の人が誤って生葉郡(いくはのこほり)と名付けた。

豊前国風土記 逸文

鹿春郷

豊前国風土記には このようにある。

田河郡(たかはのこほり)。

鹿春郷(かはるのさと)。郡の東北にある。

この郷の中には河があり、年魚(アユ)が棲んでいる。その水源は、郡の東北の杉坂山である。此処から真っ直ぐ西に流れて落ち、真漏河と合流する。この河の瀬は清浄である。よって清河原村(すがかはらのむら)と名付けられた。今は訛って鹿春郷といわれている。

昔、新羅国の神が自ら渡来して、この河原に住んだ。その神の名は鹿春神(カハルノカミ)という。また、郷の北には峰があり、その頂上には沼がある。その周囲は36歩ばかりである。黄楊樹(つげのき)が生えている。また、龍骨(たつのほね=石灰)がある。第二の峰からは銅(あかがね)が産出し、併せて黄楊樹(つげのき)が生え、龍骨などがある。第三の峰には龍骨がある。

鏡山

豊前国風土記には このようにある。

田河郡(たかはのこほり)。

鏡山(かがみやま)。郡の東にある。

昔、氣長足姫尊(神功皇后)が この山で遥かに国の形を見て「天神地祇よ、我を助福(たすけさきわいたまへ)」と勅した。その時に此処に御鏡を安置した。その鏡は石となって今も山中にある。よって鏡山と名付けられた。

豊後国風土記 逸文

餅的・白鳥ト成ル

年始に人ごとに餅を賞玩(味わい褒める)が、どんな意味があるのだろうか。餅は福物であるので祝事に用いられる。

昔、豊後国の球珠郡に広野のある場所があり、そこに大分郡の住人がやって来て、家を造り、田を作って住み着いた。そこの住人は家が著しく富んで栄えたので、酒を飲みつつ遊んでいた。そこで、とりあえず弓を射って遊ぼうとしたが、的になるようなものが無かったので、餅を括り付けて、それを的にして射って遊んでいた。すると、その餅が白い鳥に成って飛び去ってしまい、それから後は次第に衰えて、遂に滅亡してしまった。

この後に広野に成ったが、天平年中に速見郡に住む訓邇(クニ)という者が、そんなにも良く賑わった場所を廃れさせるのも惜しいと思って、また此処に渡って田を作ったが、その苗は悉く枯れてしまったので、驚き恐れて、その田を捨てたと云われている。餅は福源(さちのみなもと)であるから福神が去った故に衰えたのだろう。

肥前国風土記逸文

鏡渡袖振峰

肥前国風土記には、このようにある。

昔、武小廣国押楯天皇(宣化天皇)の御世、大友狭手彦連(オホトモノサデヒコノムラジ)が勅命を受けて、任那国を鎮め、兼ねて百済国を救おうとして この村にやって来た。そこで篠原村の弟日姫子と結婚した。この姫の容貌はとても美しかったという。

二人が別れる日、狭手彦は鏡を弟日姫子に与えると、弟日姫子は悲しみを抱きつつ栗川を渡った。そこで貰った鏡を懐に抱きながら川に沈んでしまった。これによって鏡渡(かがみのわたり)と呼ばれるようになった。また、狭手彦が船で出航する際に、弟日姫子は この峰に登って袖を持って振り招いた。このため袖振峰(そでふるたけ)というようになった。云々

與止姫神

風土記には、このようにある。

人皇30代 欽明25年甲申冬11月朔日甲子,肥前国の佐嘉郡に與止姫神(ヨドヒメ)が鎮座された。別名の一つに豊姫(ユタヒメ)があり、また一つに淀姫(ヨドヒメ)というものもある。

肥後国風土記 逸文

肥後國號 火國(ひのみちのしりのくにのな ひのくに)

公望私記(きみもちのしき)、肥後国風土記には このようにある。

肥前の国は、もとは肥後の国と合せて一つの国であった。昔、崇神天皇の御世、益城郡の朝来名の峰に打猿(ウチサル)と頸猿(クビサル)という二人の土蜘蛛がおり、これらは180人余りの軍勢を率いて峰の山頂に隠れ住み、常に天皇に逆らって決して服従しようとしなかった。

そこで、天皇は肥君らの祖である健緒組(タケヲクミ)に征伐するよう勅命を下すと、健緒組はそれを承って土蜘蛛らを悉く滅ぼした。それから健緒組は国を巡って観察したが、日が暮れたので八代郡の白髪山で宿をとった。その夜、虚空に火が現れて自然に燃え上がり、それがだんだんと下ってきて山に火が付いたので、それを見て驚いた健緒組は不思議に思い、復命した際に これを奏上した(云々)。すると、天皇は「賊徒を切り払ったため、たちまち西の憂いは無くなった。海のともがらの勲功を誰と比べることができようか。また、火が空から下って山を焼いたとは不思議なことだ。火が下った国ということで火国(ひのくに)と名付けるべきだろう」と勅した。

また、景行天皇が球磨贈於(クマソ)を誅して筑紫国を巡狩した(云々)。火国を行幸した際、海上で日没になり、暗くて何処に居るかも分からなくなった。そんな時、忽然と光り輝く火が現れ、それを遥か遠くに目撃した。そこで天皇は棹人(かぢとり)に「行く先に火が見えるだろう、あれを真っ直ぐに目指せ」と命じると、やがて岸壁に辿り着くことができた。

そこで天皇は「火の起こった場所はどこだ?これは何と呼ばれるのだ?この火はどのように起こされたのだ?」などと問うと、土地の人は「これは火の国八代郡の火の邑で起こりましたが、この火の主は知りません」と答えた。これを聞いた天皇と群臣たちは「この火は土地の者が起こした火では無いが、これが火の国と呼ばれる由縁であることは分かった」と言ったという。

長渚濱 爾陪魚

肥後国風土記には このようにある。

玉名郡(たまきなのこほり)。郡の西にある。

長渚濱(ながすのはま)。

昔、大足彦天皇(景行天皇)が球磨贈於(クマソ)を誅して帰ってきた時、この濱に御船を停泊させた(云々)。また、御船の左右には魚がたくさん泳いでいたので、棹人(かぢとり)の吉備国の朝勝見(アサカツミ)が釣鉤を以って釣をするとたくさん釣ることができた。

よって、天皇に献上すると、天皇は「この献上された魚は、何という魚だ?」と問うたので、朝勝見は「名は知りませんが、ただ鱒(マス)に似ております」と答えた。すると、天皇は「この土地の多くの物を見てきたが、未だに知らない物もたくさんある。此処の魚にもたくさんの種類がある。では、この魚は爾陪魚(にへのいを)と呼ぶことにしよう」と言った。今、爾陪魚と言われるのは これが由縁である。

阿蘇郡

肥後国風土記には このようにある。

昔、纒向日代宮御宇天皇(景行天皇)が玉名長渚濱(たまきなながすはま)より船出して この郡に行幸した時、四方を徘徊すると、そこの原野は人影のない虚しい道であった。そこで、天皇は歎いて「この国には人はいるのか?」と言った。すると、その時に2柱の神が人に化けて現れて「我ら二神は阿蘇都彦(アソツヒコ)・阿蘇都媛(アソツヒメ)であるが、今 この国にいる。どうして人が居ないと言うのだ?」と言うと、たちまち見えなくなった。阿蘇郡(あそのこほり)という名は これが由縁である。この2神の社は、今は郡より東にある(云々)。

益城郡 大伴君熊凝

この歌は、肥前国の益城郡(ましきのこほり)という所に居た大伴君の熊凝(マキ)という者が、18歳で天平3年に物に行ったが、安芸国の佐伯高庭駅にて死のうとする時に「死なん」と歎いて「この世の中において泡の様な命であるのならば、誰かは残り留まるべき。忌みじき人であるが、皆 世を早くする事である。それに我は忌みじく悲しく哀れなる事もなんある。父母は未だに健在である。その二人が我身を失うならば、忌みじくも嘆くだろう。悲しく思わないで欲しい」と言った。これは6つ詠んだ歌の内の一つである。風土記にもこの歌が記されている。

腹赤魚

腹赤魚(はらかのいを)。

筑後、肥後の2国に出る。天平15年(744年)正月4日に初めて奉る。詳細は その国の風土記を見るべし。

日向国風土記 逸文

日向国号(ひむかのくにのな)

日向国風土記が言うには、纏向日代宮御宇大足彦天皇(景行天皇)の御世、天皇は兒湯之郡(こゆのこほり)の丹裳(にもの)の小野に行幸した。その時に左右の者に「この国の地形は、扶桑(ひのもと)の方に真っ直ぐ向いている。よって、日向(ひむか)と名付けるべし」と言った。

知鋪郷(ちほのさと)

高千穂岳に住む者が日向国に居た。風土記が言うには、臼杵郡(うすきのほこり)内の知鋪郷(ちほのさと)がある。

天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギ)が、天磐座(あまのいわくら)を離れて、天八重雲(あめのやえくも)を押し開き、稜威之道別道別(イツノチワキニチワキ=勢いよく道を進み)に日向の高千穂二上峰(たかちほふたがみのみね)に天降った時、空は暗く、昼夜の区別もなかったので、人や物は道を見失い、物色してそれを判別するのも難かったという。

その時、此処には大鉗(オホハシ)・小鉗(ヲハシ)という二人の土蜘蛛がいた。この者は瓊瓊杵尊に「皇孫尊(スメミマノミコト)よ、その尊い御手で稲穂をたくさん抜いて籾とし、それを四方に投げ散らせば、必ず空が開けて明かりを得られるでしょう」と申し上げた。そこで瓊瓊杵尊は、この者たちの言う通りに たくさんの稲穂を揉んで籾とし、それを投げ散らした。すると、すぐに空が開けて晴れ、日月が照り輝いて明るくなった。これによって高千穂二上峰と呼ばれるようになった。これが後の人によって智鋪(ちほ)と改められた。

高日村 三輪神之社(たかひのむら みわのかみのやしろ)

日向国風土記にはこうある。

宮崎郡(みやさきのこほり)。

高日村(たかひのむら)。

昔、目天降神(アメユクダリマシシカミ)が御剣の柄(たかみ)を此地に置いていった。これによって剣柄村(つるぎたかびのむら)と呼ばれるようになった。これが後の人によって高日村(たかひのむら)と改められた。その剣の柄は、ここにある社に奉納されている。この社の名は三輪神之社(みわのかみのやしろ)という。

大隅国風土記 逸文

必志里

大隅国風土記には このようにある。

必志里(ひじのさと)。

昔、この村の中に海之洲(うみのひじ)があった。よって、必志里という。海中洲(わたなかのす)は、隼人の言葉でヒジという。

串卜郷

大隅国風土記には このようにある。

大隅郡(おほすみのこほり)。

串卜郷(くしらのさと)。

昔、国を造った神が この村に使者を遣わせて現状を調べさせた。使者は帰って「髮梳神(くしらのかみ)がいました」と報告すると、神は「では髮梳村(くしらのむら)というべし」といった。よって久西良郷(くしらのさと)という。髮梳は隼人の言葉でクシラという。今は串卜郷と改められた。

薩摩国風土記 逸文

隼人

日向・大隅・薩摩国の土地の人は皆 隼人(はやひと)である。それは猛烈(たけくはげしく)、隼のようである。と、風土記に見える。

壱岐国風土記 逸文

鯨伏郷

壹岐國風土記には このようにある。

鯨伏郷(いさふしのさと)。郡の西にある。

昔、鮐鰐(おほわに)に追われた鯨が、逃げて隠れ伏した。故に鯨伏(いさふし)という。この鰐と鯨は共に石と化し、互いに一里を去った。地元では鯨を伊佐(イサ)という。

新羅烏

對馬烏(つしまのからす)という鳥がいる。クチバシと脚は赤く、身の毛の多くは白い。鵯(ヒエドリ)の類である。何故に書かれているのだろうか。烏という事はこれ一つに限らない。壹岐嶋には鳥がおり、それを新羅烏(しらぎのからす)という。麦の種を蒔く時、群がって飛んで麦を食う。云々。

対馬国風土記 逸文


不詳

matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。