『丹後国風土記 残欠』を現代語訳にしてみました。「丹後国」とは現在の京都府の北部のことで、この文献は『丹後風土記』の一部であり、京都の北白川家に伝わっていたものを15世紀の末に丹後国一之宮籠神社の社僧・智海が筆写したものとされています。

この文献は虫食い部分が多いですが、各地の地名由来、籠神社にまつわる伝説、オオナムチとスクナヒコナの逸話、土蜘蛛の伝説などが記されており、なかなか興味深い内容となっています。ただし、この文献を偽書とする説もあります。ですが、伝説の舞台となっている土地には、文献の内容と同様の伝説が残っていることもあります。



はじめに


・以下の文章は、専門家ではない素人が現代語に翻訳したものです
・基本的には意訳です(分かりやすさを重視しているため、文章を添削をしています)
・文中の虫食い部分については分かる範囲で勝手に補填しています
・分からない部分については、訳さずにそのまま載せています。
・誤訳や抜けがあるかも知れませんので、十分注意してください(随時修正します)

原文参考:丹後風土記残欠丹後史料叢書

丹後国風土記 残欠


この国は、往昔に天火明神(アメノホアカリ)らが降臨した地である。丹後国は元は丹波国と合わせて一つの国であった。日本根子天津御代豊国成姫天皇(元明天皇)の御世、詔によって丹波国を分けて5つの郡を置き、それを丹後国とした。

丹波と呼ばれる所以は、往昔 豊宇気大神(トヨウケノオオカミ)が天降って この国の伊去奈子嶽(いさなこだけ)に坐した時、天道日女命(アメノミチヒメ)らが五穀の種や桑蚕などを請うた。そして、この嶽に真名井を掘り、その水を水田や陸田にそそいで種を悉く植えると、秋には八握にもなる垂穂が生い茂り、とても快い様になった。これを見た大神も大いに歓んで「あなにやし植弥之子の田庭」と言った。そして、しばらく後に大神は高天原に登って行った。故に田庭という。

丹波、旦波、但波 以上の文字は皆 多爾波の訓である。

国の大体(の地形)は首離尾坎。東西の距離は114里130歩で、南北の距離は72里110歩である。東隣は若狭国、西隣は但馬国、南隣は丹波国、北は海に接している。

国の中には山・川・野・海があり、そこでは禽・獣・草・木・魚・鼈(すっぽん)などが棲んでいるが、(多すぎて)すべてを書き記すことはできない。ただし、1つや2つは各群の記事に記されている。

(以下3行虫食)

郡は合わせて5所

伽佐郡 元の字は笠

与佐郡 元の字は匏

丹波郡 元の字は田庭

竹野郡 今も前のままの字を用いる。

熊野郡 今も前のままの字を用いる。

郡は合わせて38里97

余戸は2

神戸は4

神社は合わせて135座

65座は在神祇官である

70座は不在神祇官である

加佐郡 郡は合わせて9 余戸1 神戸1 里(以下虫食)

志楽郷 元の字は領知

高橋郷 元の字は高椅

三宅郷 元の字は前用

大内郷 今も前のままの字を用いる。

田造郷 今も前のままの字を用いる。

凡海郷 今も前のままの字を用いる。

志託郷 元の字は荒蕪

有道郷 元の字は蟻道

川守郷 今も前のままの字を用いる。

余戸

神戸

神社は合わせて35座

青葉社

天蔵社

山口坐祖神

日尾月尾社

志東社

大倉木社

御田口社

河辺坐三宅社

鳴生葛島社

同将軍社

杜坐弥加宜社

高田社

倭文社

砧倉社

手力雄社

日原社

出雲社

伊加里姫社

笠水社

笑原社

伊吹戸社

十二月栗社

石崎坐三輪社

凡海坐息津島社

凡海息津島瀬坐日子社

大川社

伍蔵社

布留社

船戸社

伊知布西社

麻良多社

水戸社

奈具社

神前社

気比社

剣社

阿良須社

11座は神祇官がいる。

伽佐郡(加佐郡)


伽佐郡は古くは笠郡という字を使っていた。宇気乃巳保里(うけのこほり)がある。宇気と称する所以は、往昔 豊宇気大神(トヨウケノオオカミ)が この田造郡の笑原山(やふやま)に鎮座し、人民らは その恩恵を授けたからである。故に宇気という。笠という一字で伽佐と読む。今の世に誤って伽佐乃己保利と呼んでいる。

志楽郷 元の字は領知


志楽と名付けられた所以は、往昔 少彦名命(スクナヒコナ)と大穴持命(オオアナモチ)が巡り見た所を治めていた時、この国に到って悉く巡行し終えた。(大穴持命が)高志国に坐していた時に天火明神(アメノホアカリ)を召して「汝が この国を治めるが良い」と詔したので、火明神は大いに歓んで「末永く青雲の志良久国(治める国)」と言った。故に志楽という。

青葉山


青葉山は、一つの山の東西に2つの峯があり、そこには共に青葉神と呼ばれる神がいる。その東に祀られる神は、若狭彦神(ワカサヒコ)・若狭姫神(ワカサヒメ)の2座である。その西に向かった所に祀られる神は、笠津彦神(カサツヒコ)・笠津姫神(カサツヒメ)の2座である。

この峯は若狭国と丹後国の堺にあり、笠津彦神・笠津姫神は丹波の国造である海部直らの祖である。この2つの峯には同じように松・柏がたくさん生えており、秋には葉の色が変わる(以下、一行虫食)。

甲岩


甲岩(かぶといわ)は、古老が言うには、御間城入彦五十瓊殖天皇(祟神天皇)の御代に、この国の青葉山の山中に陸耳御笠(クガミミミカサ)という土蜘蛛がいた。

この者が人民を害したので、日子坐王(ヒコイマスノキミ)が勅命を受けて征伐に来た。日子坐王が丹後国と若狭国の境に到ると、鳴動して光燿(こうよう)を顕す岩石が忽然と現れた。その形はとても金甲(かぶと)に似ていた。これによって将軍の甲岩と名付けた。また、その地を鳴生(なりふ)と呼んだ。

河辺には3坐(2字虫食、以下3行虫食)

御田口祠


御田口祠は、往昔 天照大神(アマテラス) 分霊子 豊宇気大神(トヨウケノオオカミ)が照臨(人々を見守り)してこの国に坐した。この神を丹波国造の日本得魂命らが土地の入口に御田を以って奉った。更に校倉を建て、その穀実を蔵に納めた。故に阿勢久良という。そして、その倉を奠(そな)えたので御田口祠という。

二石崎


二石崎(ふたしさき)は、古老が伝えて言うには、往昔に天下を平らげて治めた時に、大己貴命(オオナムチ)と少彦名命が この地に到って坐し、2神で話し合って白と黒の鐵砂(まさご=砂鉄)を取った。

さらに天火明命(アメノホアカリ)を召して「この石を吾の分霊となし、この地に汝が祀り奉れ。そうすれば、もし天地が波に荒らされたとしても、この国の内を犯すことはできないだろう」と詔した。

こうして天火明命は詔に従い、その霊石を祀り崇めた。この霊石は左右が白黒に分かれており、神の験(しるし)がある。それは今も違いはない。故にその地を二石崎という。後の世に瀬崎といわれたが、これは土地の人々が誤ったのである(以下、4行虫食)。

枯木浦 元の字は彼来


枯木浦(かれきのうら)は、往古 少彦名大神と大巳大神の2柱の神が国造りをしようと思った時に、海路のあちこちにある諸々の島を集めて合わせようとした。

そこで笠松山の峯に登って「彼々来々(かれこかれこ)」と息の続く限り呼び続けた。すると、四方の島が自ずとやって来て列なった。故に彼来(かれこ)という。

春部村(以下、2行虫食)

大倉木社祭神国造(以下、3行虫食)

高橋郷 元の字は高梯


高橋と名付けられた所以は、天香語山命(アメノカゴヤマ)が倉部山の尾上に神庫を造営し、ここに種々の神宝を収め、長梯子を掛けて庫の料とした。故に高梯という。今もなお峯の頂上には神祠があり、そこは天蔵と称して天香語山命を祀る。

また、その山の入口に祠があり、それを祖母祠と称す。天道日女命(アメノミチヒメ)は老いた時に此地にやって来て、麻を績ぎ、蚕を養って、人民に製衣の道を教えた。故に山口に坐す御衣知祖母の祠という。

与保呂乃里 元の字は仕丁


与保呂の所以は、古老が伝えて言うには、往昔に豊宇気大神(トヨウケノオオカミ)の神勅によって神人仕丁らが置かれた。故に与保呂という。

日尾社の祭神は天日尾神・国日尾神・天月尾神・国月尾神の4座である(以下、虫食)。

庫梯山 倉部山の別称である。

倉梯川の水源は(以下、虫食)。

長谷山墓大倉木(以下、虫食)

弥加宜社は、往昔 丹波道主を祀ったところである(以下、1行虫食)。

社の中には霊水があり、世間からは社清水と呼ばれた(以下、虫食)

大内郷


大内と称される所以は、往昔 穴穂天皇(安康天皇)の御世に市辺王子らと共に億計王(仁賢天皇)・弘計王(顕宗天皇)がこの国に来た。そこで丹波国造の稲種命らが安宮を密かに作り、此処で奉仕した。故にその旧地を崇めて大内と名付けたのである。後に与佐郡の真鈴宮に移し奉った。

高田社の祭神は建田勢命である。これは丹(以下、2行虫食)。

爾保崎


爾保という所以は、昔、日子坐王(ヒコイマスノキミ)が勅命を受けて土蜘蛛討伐に向かった時に、持っていた裸の剣が湖水に触れて錆びてしまった。すると、二羽の鳥が忽ち並んで飛んで来て、その剣に貫き通されて死んでしまった。これによって錆が消えて元に戻った。よって、その地を爾保というのである。

十二月栗神(シハスクリノカミ)。祠は無く、木を奉って神と称している。古老が伝えて言うには、往昔 稚産霊神(ワカムスビ)が此処に植えたといわれ、毎年12月朔日に花が咲き、20日に実を結ぶ。正月にその実を取り、これを以って大神に奉る。今に至ってもその例に違えず、盡くこの神の霊験が現れる。

田造郷


田造と名付けられた所以は、往昔 天孫降臨の時に豊宇気大神(トヨウケノオオカミ)の教えに従って天香語山命(アメノカゴヤマ)と天村雲命(アメノムラクモ)が この国の伊去奈子嶽(いさなごだけ)に天降った。そこで、天村雲命と天道姫命(アメノミチヒメ)は共に大神を祀り、新嘗祭を行いたいと思った。すると、井戸水がたちまち変わって神饌を炊くことができなくなった。故に泥真名井(ひじのまない)という。

そこで、天道姫命は葦を以って大神の心を占った。故に葦占山という。天道姫命は弓矢を天香語山命に授けて「この矢を3度放ち、その矢の留まった場所には必ず清い土地がある」と詔すると、天香語山命は矢を放って この国の矢原山に到った。そこには青々とした根・枝・葉が生えていたので、矢原(矢原訓屋布)という。よって、この地に神籬を建てて大神を遷し祀り、ここに懇田を定めた。

此処から巽(南東)に3里ばかりのところに霊泉が湧いていたので、天村雲命はその泉の水をそそいで(泥真名井の)荒水を和した。故に真名井と称する。また、その傍らに天吉葛(あまのよさつら=瓢箪)が生えている。その匏(よさ=瓢箪)を以って真名井の水を盛り、神饌を調進して長く大神を奉った。よって、真名井原瓠宮(与佐宮)と称するのである。春・秋には田を耕し、稲種をあまねく四方に蒔くと人民は豊かになった。故にこの地を田造という。(以下、4行虫食)

笠水(訓宇介美都)


別名を真名井という。白雲山の北郊にあり、その潔清は麗しい鏡のようである。豊宇気大神(トヨウケノオオカミ)が降臨の時に この地に湧き出たという。その深さは三尺ばかりで、その廻りは122歩である。炎旱(かんえん=猛暑の旱魃)でも乾くことはなく、長雨であって溢れずに増減することはない。その味は甘露のようで、万病を治す麗機がある。

この傍らに二つの祠がある。東は伊加里姫命(イカリヒメ)あるいは豊水富神(トヨミズホ)と称する。西は笠水神すなわち笠水彦命(カサミズヒコ)・笠水日女命(カサミズヒメ)の2柱の神である。これは海部直らの祖神である。(以下、5行虫食)

凡海郷


凡海郷は、往昔より この田造郷の万代浜から43里、(3字虫食)から35里2歩のところにある 四方を海に囲まれた一つの大きな島である。その凡海と称する所以は、古老が伝えて言うには、往昔 天下を治めた大穴持命(オオアナモチ)と少彦名命(スクナヒコナ)が この地に致った時に、海の小島を引き寄せると潮がすべて枯れて一つの島に成った。故に凡海と云う。

大宝元年(701年)3月己亥、地震が三日間 止まなかったので この郷は一夜にして蒼海となった。ようやく、わずかに郷中の高山が2峯と立神岩が海上に出た。今は常世嶋と呼ばれている。また、俗に男島・女島とも称される。島ごとに祠があり、そこには天火明神(アメノホアカリ)と日子郎女神(ヒコイラツメ)が祀られている。これは海部直および凡海連らが奉斎する祖神である。(以下、8行虫食)

志託


志託という所以は、昔、日子坐王(ヒコイマスノキミ)が官軍を率いて陸耳御笠(クガミミミカサ)の討伐に来た時、青葉山から陸耳を追って この地に到った。そこで陸耳は忽ち稲梁の中に潜って隠れた。

王子は急いで馬を進め、その稲梁の中に入って陸耳を殺そうとした時、 陸耳は忽ち雲を起こして空中を飛び、南に向かって走り去った。これにより、王子は甚だしく稲梁を侵して荒蕪のようにした。よって、その地を荒蕪(したか)というようになった。

有道郷 元の字は蟻道


有道と称す所以は、往昔 天火明命(アメノホアカリ)が飢えて この地に到った時に食物を求めていたところ、螻(オケラ)や蟻(アリ)に土地神のいる穴巣国へと連れられて行った。

そこで、天火明命が食物を乞うと、土地神は喜んで種々の饌を盛って饗したので、天火明命は土地神を讃めて「これからは蟻道彦大食持命と称するとよい」と詔した。故に蟻道というのである。また、蟻巣という神祠がある。今は訛って阿良須という。(以下、7行虫食)

川守郷


川守と呼ぶ所以は、昔、日子坐王(ヒコイマスノキミ)が土蜘の陸耳(クガミミ)・匹女(ヒキメ)らを追って、蟻道郷の血原に到った。そこで、先に土蜘匹女を殺した。よって、その地を血原という。

ある時、陸耳は降伏しようと思っていたが、その時に日本得玉命(ヤマトエタマ)が川下から追い迫っていたので、陸耳は急いで川を越えて逃れた。そこで官軍は楯を並べて川を守り、蝗(バッタ)の飛ぶように矢を放った。陸耳の仲間は この矢によって死ぬ者が多く、その死骸は流れ去っていった。よって、その地を川守というのである。

また、官軍の頓所の地を名付けて、今も川守楯原というのである。その時、一艘の船が忽ち(13字虫食)その川を降った。これで土蜘を駆逐し、遂に由良の港に到ったが、土蜘の住処は知ることができなかった。これによって、日子坐王は陸地に立って礫(つぶて)を拾い、これを占った。すると、与佐の大山に陸耳が登ったことが分かった。これによって、 その地を石占という。また、その船を楯原に祀って船戸神と名付けた。

大雲川(以下、8行虫食)

神前(以下、2行虫食)

奈具(以下、虫食)

奈豆(以下、虫食)
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。