聖徳太子とは?(史実上の人物像)
2015/07/25
聖徳太子(しょうとくたいし)とは、飛鳥時代に活躍した皇族であり、倭国の政治を司った人物です。
現在の歴史教科書では厩戸王とされ、伝説的な聖徳太子という人物像は架空であるという定義になりつつあるそうです。
たしかに その人生において伝説的な説話が数多く存在する人物であり、とても人間とは言えない部分もあります。
しかし、聖徳太子は未だに存在する数々の神社や寺院を建立し、聖徳太子にまつわる史跡も多数現存しています。
また、現代社会のインフラである 学校・養護施設・病院・薬局 の基礎を作り上げた人物でもあります。
よって、飛鳥時代の政治家・厩戸王であったとしても人間離れした才能の持ち主であったことは間違いないでしょう。
そこで、今一度 聖徳太子と呼ばれた人物の正体について迫ってみたいと思います。
名前
聖徳太子を指す名称は文献によって異なるため、数多く存在します(メジャーな史書のみ)。
・「法隆寺金堂(薬師像の光背にある名)」
→ 東宮聖王(まけのきみひじりのきみ)
・『先代旧事本紀』 - 成立年代不明(諸説あり)
→ 上宮厩戸豊聡耳太子(うへつみやのうまやとのとよとみみたいし)
→ 上宮厩戸豊聡耳皇太子命(うへつみやのうまやとのとよとみみたいしのみこと)
→ 上宮厩戸豊聡耳尊(うへつみやのうまやとのとよとみみのみこと)
・「法起寺塔(三重塔の露盤銘)」 - 706年頃
→ 上宮太子聖徳皇
・『古事記』 - 712年成立(奈良時代)
→ 上宮之厩戸豊聡耳命(うへつみやのうまやとのとよとみみのみこと)
・『日本書紀』 - 720年成立(奈良時代)
→ 厩戸皇子(うまやとのみこ)
→ 厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)
→ 豊聡耳法大王(とよとみみののりのおほきみ)
→ 法主王(のりのぬしのおほきみ)
・『上宮聖徳法王帝説』 - 平安時代成立
→ 聖徳法王
→ 厩戸豊聡耳聖徳法王(うまやとのとよとみみのしゃうとくのりのおほきみ)
→ 上宮厩戸豊聡耳命(うへのみやのうまやとのとよとみみのみこと)
→ 厩戸豊聡八耳命(うまやとのとよやつみみのみこと)
→ 上宮王(うへのみやのみこ)
→ 等己刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと)
・『日本三代実録』 - 901年成立(平安時代)
→ 聖徳太子(しょうとくたいし)
・『聖徳太子伝暦』 - 917年頃成立(平安時代)
→ 厩戸皇子(うまやとのみこ)
→ 上宮太子(うえのみやのみこ)
→ 聖徳太子(しょうとくたいし)
・『大鏡』 - 平安時代後期成立
→ 聖徳太子(しょうとくたいし)
・『東大寺要録』 - 平安時代後期成立
→ 聖徳太子(しょうとくたいし)
・『水鏡』 - 鎌倉時代初期成立
→ 聖徳太子(しょうとくたいし)
→ 東宮聖王(まけのきみひじりのきみ)
・『先代旧事本紀』 - 成立年代不明(諸説あり)
→ 上宮厩戸豊聡耳太子(うへつみやのうまやとのとよとみみたいし)
→ 上宮厩戸豊聡耳皇太子命(うへつみやのうまやとのとよとみみたいしのみこと)
→ 上宮厩戸豊聡耳尊(うへつみやのうまやとのとよとみみのみこと)
・「法起寺塔(三重塔の露盤銘)」 - 706年頃
→ 上宮太子聖徳皇
・『古事記』 - 712年成立(奈良時代)
→ 上宮之厩戸豊聡耳命(うへつみやのうまやとのとよとみみのみこと)
・『日本書紀』 - 720年成立(奈良時代)
→ 厩戸皇子(うまやとのみこ)
→ 厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)
→ 豊聡耳法大王(とよとみみののりのおほきみ)
→ 法主王(のりのぬしのおほきみ)
・『上宮聖徳法王帝説』 - 平安時代成立
→ 聖徳法王
→ 厩戸豊聡耳聖徳法王(うまやとのとよとみみのしゃうとくのりのおほきみ)
→ 上宮厩戸豊聡耳命(うへのみやのうまやとのとよとみみのみこと)
→ 厩戸豊聡八耳命(うまやとのとよやつみみのみこと)
→ 上宮王(うへのみやのみこ)
→ 等己刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと)
・『日本三代実録』 - 901年成立(平安時代)
→ 聖徳太子(しょうとくたいし)
・『聖徳太子伝暦』 - 917年頃成立(平安時代)
→ 厩戸皇子(うまやとのみこ)
→ 上宮太子(うえのみやのみこ)
→ 聖徳太子(しょうとくたいし)
・『大鏡』 - 平安時代後期成立
→ 聖徳太子(しょうとくたいし)
・『東大寺要録』 - 平安時代後期成立
→ 聖徳太子(しょうとくたいし)
・『水鏡』 - 鎌倉時代初期成立
→ 聖徳太子(しょうとくたいし)
文献上で「聖徳太子」という名称が登場したのは、平安時代に成立した歴史書や歴史物語が初出とされるようです。
また、706年頃に作られたとされる「法起寺」の三重塔の「塔露盤銘」には「上宮太子聖徳皇」とあり、これが「聖徳太子」の初出であると云われているようですね。
ちなみに「聖徳太子」という名は死後に贈られる諡号であり、存命中の名ではありません(空海における「弘法大師」と同じ)。
概略
『日本書紀』と『上宮聖徳法王帝説(伝記)』の記載を基調とする概略を記載します。
『上宮聖徳法王帝説』は紫、私注については赤で表示します。
・第31代用明天皇と穴穂部間人皇女の間に第一子として生まれる
→ 母が厩戸にぶつかった拍子に難なく誕生した(※イエス・キリストと類似する)
→ 誕生後、すぐに喋ることができた(※釈迦と類似する)
→ 聖(ひじり)のように優れた知識を持っていた
・蘇我氏(仏教派)と物部氏(神道派)の間で宗教戦争が起こった時に蘇我氏側に立ち、蘇我氏の勝利に貢献した
→ 戦争のとき、自ら四天王像を彫って戦勝祈願をし、勝利した際には四天王のための寺院を建てると誓った
→ 戦勝後、聖徳太子は四天王寺を建立し、蘇我馬子は法興寺を建立した
・高句麗の慧慈法師を師匠とし、仏教・儒教を学んで、その全てを習得した
⇒ 「義」について師・慧慈法師に尋ねたが彼も答えられなかった。その日の夢に「金人」が現れて「義」を説いた
→ ※高句麗とは、当時の朝鮮半島に存在した有力国家(三韓の一)
・成人後、一度に十人の訴えを聞いたとしても、それぞれを正しく判別することができた
⇒ 一度に8人の意見を聞いて、その返答をした
⇒ 一を聞き、八を知ることができたため、厩戸豊聰八耳命とも呼ばれた
→ ※10ヵ国語を喋ることができたという説もある
・未来の出来事をあらかじめ知ることができた
→ ※『未来記』という予言書を記したという話もある
・第33代推古天皇のとき、皇太子となり政務を司った(事実上の摂政である)
→ 大臣・蘇我馬子と共に天皇の政治を補佐したとされる
・四天王寺を建立する
→ ※日本初の官寺(国立の寺院)であるとされる
→ 四天王寺2回目の建立
・推古天皇の命により、蘇我馬子と共に三宝を広めた
→ 三宝(さんぽう)とは、『日本書紀』では「仏・法・僧」を指し、「仏教」のことであるとされる
→ 以来、寺院を競うように建立するようになった
→ ※三宝は、後に「神道・仏教・儒教」とされ、「武士道」の思想に影響を与えたとも
・聖徳太子は七寺を建立した
⇒ 法隆寺、広隆寺、法起寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、葛木寺
→ ※いわゆる聖徳太子建立七大寺である
・聖徳太子は斑鳩(いかるが)に宮殿を建てて、そこに住んだ
→ ※斑鳩は、現在の奈良県生駒郡斑鳩町を指すとされる(法隆寺のある辺り)
・側近の秦河勝(はたのかわかつ)に命じ、広隆寺を建立させた
→ ※広隆寺は、現在の京都府京都市右京区太秦にある
→ ※秦河勝は、聖徳太子の側近であり、右腕としてよく働いていた人物である
・冠位十二階を制定する
→ ※身分制度を、血族主義の世襲制から、血族を問わない能力性へ方向転換した
・十七条憲法を制定する
→ ※和の精神、君臣の道徳を説き、官吏・貴族の守るべき道徳的訓戒の十七条を制定した
・勝鬘経を三日間講讃する
→ ※勝鬘経(しょうまんきょう)とは、中期大乗仏教の経典のこと
→ ※講讃(こうさん)とは、経文の意味・内容について講釈し、その功徳をたたえること
→ ※現在の奈良県明日香村にある橘寺の三光石の前で講讃したとされる
・小野妹子を遣隋使として派遣する
→ ※日本の正史において初の遣隋使とされる
→ ※中国の史書では それ以前の記録もあり、国家間で内容が食い違う
・隋の使者が来日して酒宴を開くも、小野妹子が隋の皇帝からの返書を失う
→ 小野妹子は返書を百済人に盗まれたと弁解したが、群臣らに罪を問われ流刑を言い渡される
→ 推古天皇の計らいにより、流刑を免れ無罪放免となる
→ ※『隋書』に見られる「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる
→ ※推古天皇は女帝だが『隋書』では男王であったと記され、ここでも食い違いが見られる
→ ※『隋書』にある男王とは、聖徳太子のことを指していたという説もある
・聖徳太子は飢人に扮した真人を見抜く
→ ※真人(しんじん)とは、道鏡における人間の理想像であり、いわゆる仙人を指す
・蘇我馬子とともに、天皇記・国記・臣連伴造国造百八十部并公民等本記を編纂する
→ ※乙巳の変のとき、馬子の子・蘇我蝦夷の自殺と共に国記以外は焼失する
→ ※現在において、いずれの現存も確認されていない
・母・穴穂部間人皇女が薨去する
⇒ 翌年、聖徳太子も床に伏せる
・聖徳太子、斑鳩宮にて薨去する(亡くなる)
→ 『日本書紀』には死因は記載されない
⇒ 『上宮聖徳法王帝説』では「聖王病に枕す」とあり、病死とされる
→ 母が厩戸にぶつかった拍子に難なく誕生した(※イエス・キリストと類似する)
→ 誕生後、すぐに喋ることができた(※釈迦と類似する)
→ 聖(ひじり)のように優れた知識を持っていた
・蘇我氏(仏教派)と物部氏(神道派)の間で宗教戦争が起こった時に蘇我氏側に立ち、蘇我氏の勝利に貢献した
→ 戦争のとき、自ら四天王像を彫って戦勝祈願をし、勝利した際には四天王のための寺院を建てると誓った
→ 戦勝後、聖徳太子は四天王寺を建立し、蘇我馬子は法興寺を建立した
・高句麗の慧慈法師を師匠とし、仏教・儒教を学んで、その全てを習得した
⇒ 「義」について師・慧慈法師に尋ねたが彼も答えられなかった。その日の夢に「金人」が現れて「義」を説いた
→ ※高句麗とは、当時の朝鮮半島に存在した有力国家(三韓の一)
・成人後、一度に十人の訴えを聞いたとしても、それぞれを正しく判別することができた
⇒ 一度に8人の意見を聞いて、その返答をした
⇒ 一を聞き、八を知ることができたため、厩戸豊聰八耳命とも呼ばれた
→ ※10ヵ国語を喋ることができたという説もある
・未来の出来事をあらかじめ知ることができた
→ ※『未来記』という予言書を記したという話もある
・第33代推古天皇のとき、皇太子となり政務を司った(事実上の摂政である)
→ 大臣・蘇我馬子と共に天皇の政治を補佐したとされる
・四天王寺を建立する
→ ※日本初の官寺(国立の寺院)であるとされる
→ 四天王寺2回目の建立
・推古天皇の命により、蘇我馬子と共に三宝を広めた
→ 三宝(さんぽう)とは、『日本書紀』では「仏・法・僧」を指し、「仏教」のことであるとされる
→ 以来、寺院を競うように建立するようになった
→ ※三宝は、後に「神道・仏教・儒教」とされ、「武士道」の思想に影響を与えたとも
・聖徳太子は七寺を建立した
⇒ 法隆寺、広隆寺、法起寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、葛木寺
→ ※いわゆる聖徳太子建立七大寺である
・聖徳太子は斑鳩(いかるが)に宮殿を建てて、そこに住んだ
→ ※斑鳩は、現在の奈良県生駒郡斑鳩町を指すとされる(法隆寺のある辺り)
・側近の秦河勝(はたのかわかつ)に命じ、広隆寺を建立させた
→ ※広隆寺は、現在の京都府京都市右京区太秦にある
→ ※秦河勝は、聖徳太子の側近であり、右腕としてよく働いていた人物である
・冠位十二階を制定する
→ ※身分制度を、血族主義の世襲制から、血族を問わない能力性へ方向転換した
・十七条憲法を制定する
→ ※和の精神、君臣の道徳を説き、官吏・貴族の守るべき道徳的訓戒の十七条を制定した
・勝鬘経を三日間講讃する
→ ※勝鬘経(しょうまんきょう)とは、中期大乗仏教の経典のこと
→ ※講讃(こうさん)とは、経文の意味・内容について講釈し、その功徳をたたえること
→ ※現在の奈良県明日香村にある橘寺の三光石の前で講讃したとされる
・小野妹子を遣隋使として派遣する
→ ※日本の正史において初の遣隋使とされる
→ ※中国の史書では それ以前の記録もあり、国家間で内容が食い違う
・隋の使者が来日して酒宴を開くも、小野妹子が隋の皇帝からの返書を失う
→ 小野妹子は返書を百済人に盗まれたと弁解したが、群臣らに罪を問われ流刑を言い渡される
→ 推古天皇の計らいにより、流刑を免れ無罪放免となる
→ ※『隋書』に見られる「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる
→ ※推古天皇は女帝だが『隋書』では男王であったと記され、ここでも食い違いが見られる
→ ※『隋書』にある男王とは、聖徳太子のことを指していたという説もある
・聖徳太子は飢人に扮した真人を見抜く
→ ※真人(しんじん)とは、道鏡における人間の理想像であり、いわゆる仙人を指す
・蘇我馬子とともに、天皇記・国記・臣連伴造国造百八十部并公民等本記を編纂する
→ ※乙巳の変のとき、馬子の子・蘇我蝦夷の自殺と共に国記以外は焼失する
→ ※現在において、いずれの現存も確認されていない
・母・穴穂部間人皇女が薨去する
⇒ 翌年、聖徳太子も床に伏せる
・聖徳太子、斑鳩宮にて薨去する(亡くなる)
→ 『日本書紀』には死因は記載されない
⇒ 『上宮聖徳法王帝説』では「聖王病に枕す」とあり、病死とされる
正史である『日本書紀』にも、伝説的な能力や半生が記録されています。
なお、歴代天皇の中にも人離れした容姿や能力、伝説的な説話を残す天皇が多数おり、珍しいことではありません。
ちなみに『先代旧事本紀』には、憲法に追加条項を加えた記録がありますが、正式な史書とされていないため外しています。
親族
親族については伝記である『上宮聖徳法王帝説』を中心に記載されています。
系譜については主に この文献に基づいて語られますが、正史では山背大兄王が息子であるなどの記載はありません。
・先祖
→ 神武天皇~応神天皇~継体天皇 → 欽明天皇 → 用明天皇 → 聖徳太子
・父母
→ 父・用明天皇
→ 母・穴穂部間人皇女(欽明天皇の皇女)
・兄弟姉妹
→ 来目皇子
→ 殖栗皇子
→ 茨田皇子
・異父母兄弟姉妹
→ 田目皇子(母・蘇我石寸名、異母兄妹)
→ 佐富女王(父・田目皇子、異父兄弟)
→ 麻呂子皇子(母・葛城廣子、異母兄妹)
→ 酢香手姫皇女(母・葛城廣子、異母兄妹)
・妻子
→ 刀自古郎女(蘇我馬子の娘)
⇒ 山背大兄王
⇒ 財王
⇒ 日置王
⇒ 片岡女王
→ 橘大郎女(尾張皇子の娘)
⇒ 白髪部王
⇒ 手島女王
→ 膳大郎女(膳臣傾子の娘)
⇒ 泊瀬王(妻は佐富女王)
⇒ 三枝王
⇒ 伊止志古王
⇒ 麻呂古王
⇒ 舂米女王(山背大兄王の妃)
⇒ 久波太女王
⇒ 波止利女王
⇒ 馬屋古女王
→ 菟道貝蛸皇女(敏達天皇・推古天皇の皇女)
→ 神武天皇~応神天皇~継体天皇 → 欽明天皇 → 用明天皇 → 聖徳太子
・父母
→ 父・用明天皇
→ 母・穴穂部間人皇女(欽明天皇の皇女)
・兄弟姉妹
→ 来目皇子
→ 殖栗皇子
→ 茨田皇子
・異父母兄弟姉妹
→ 田目皇子(母・蘇我石寸名、異母兄妹)
→ 佐富女王(父・田目皇子、異父兄弟)
→ 麻呂子皇子(母・葛城廣子、異母兄妹)
→ 酢香手姫皇女(母・葛城廣子、異母兄妹)
・妻子
→ 刀自古郎女(蘇我馬子の娘)
⇒ 山背大兄王
⇒ 財王
⇒ 日置王
⇒ 片岡女王
→ 橘大郎女(尾張皇子の娘)
⇒ 白髪部王
⇒ 手島女王
→ 膳大郎女(膳臣傾子の娘)
⇒ 泊瀬王(妻は佐富女王)
⇒ 三枝王
⇒ 伊止志古王
⇒ 麻呂古王
⇒ 舂米女王(山背大兄王の妃)
⇒ 久波太女王
⇒ 波止利女王
⇒ 馬屋古女王
→ 菟道貝蛸皇女(敏達天皇・推古天皇の皇女)
ここで挙げている人物は史書によって名前が異なります。そのため、一般的に最も有名な名称で記載しています。
日本史(古典史書)における歴史の比較
古典史書(正統とされる神典・史書)における聖徳太子の記述は以下のようになっています。
・『古事記』 - 712年成立
→ 系譜の説明で名前のみの登場
→ 仏教伝来や宗教戦争である「丁未の乱(仏教派と神道派の宗教戦争)」については全く記載されない
・『日本書紀』 - 720年成立
→ 厩戸で産まれたことが記載される(ただし、『聖徳太子伝暦』のように伝説的なものではない)
→ キリストのように厩で生まれ、釈迦のように誕生時から言葉を発したことなどが記載される
→ 「丁未の乱」への参戦が記載される
→ 推古朝で摂政となり、大臣・蘇我馬子と共に政治を司ったことを中心に記載される
→ 冠位十二階、十七条憲法の制定など、いわゆる日本史に登場する歴史的事実が記載される
・『先代旧事本紀』 - 成立年代不明(文献の性質上、記紀よりも早いと思われる)
→ そもそも、聖徳太子・蘇我馬子がこの文献の編纂に関わったことが記される
→ ほぼ『日本書紀』と同じだが、仏教と神道の確執は記されるものの「丁未の乱」については全く記載されない
・『古語拾遺』 - 807年編纂
→ 未登場
→ そもそも斎部氏の神道資料のため、登場させる必要がないとも言える
→ 系譜の説明で名前のみの登場
→ 仏教伝来や宗教戦争である「丁未の乱(仏教派と神道派の宗教戦争)」については全く記載されない
・『日本書紀』 - 720年成立
→ 厩戸で産まれたことが記載される(ただし、『聖徳太子伝暦』のように伝説的なものではない)
→ キリストのように厩で生まれ、釈迦のように誕生時から言葉を発したことなどが記載される
→ 「丁未の乱」への参戦が記載される
→ 推古朝で摂政となり、大臣・蘇我馬子と共に政治を司ったことを中心に記載される
→ 冠位十二階、十七条憲法の制定など、いわゆる日本史に登場する歴史的事実が記載される
・『先代旧事本紀』 - 成立年代不明(文献の性質上、記紀よりも早いと思われる)
→ そもそも、聖徳太子・蘇我馬子がこの文献の編纂に関わったことが記される
→ ほぼ『日本書紀』と同じだが、仏教と神道の確執は記されるものの「丁未の乱」については全く記載されない
・『古語拾遺』 - 807年編纂
→ 未登場
→ そもそも斎部氏の神道資料のため、登場させる必要がないとも言える
上記の文献は、天下を治める天皇の主観に基づく歴史的事実を記載しています。
そのため、聖徳太子についてはあくまで皇太子として描かれるため、妻子をはじめ系譜については記載されません。
四天王寺にまつわる聖徳太子の功績
聖徳太子は四天王寺を通じて現代社会のインフラとなる施設の基礎を築いています。
・敬田院(学校の原型):学問や精神的な救済をする場所
・悲田院(養護施設の原型):孤児や身寄りのない人の救済施設
・施薬院(薬局の原型):病気の人に薬を与える場所
・療病院(病院の原型):病人を収容する医療機関
・悲田院(養護施設の原型):孤児や身寄りのない人の救済施設
・施薬院(薬局の原型):病気の人に薬を与える場所
・療病院(病院の原型):病人を収容する医療機関
こちらの記事も参照:【四天王寺】
紙幣の肖像について
聖徳太子は今まで7度も紙幣の肖像に選ばれています。一応ここにまとめて記載します。
・昭和 5年(1930):兌換券100円券
・昭和19年(1944):日本銀行券100円券
・昭和20年(1945):日本銀行券100円券
・昭和21年(1946):日本銀行券100円券
・昭和25年(1950):日本銀行券1000円券
・昭和32年(1957):日本銀行券5000円券
・昭和33年(1958):日本銀行券10000円券
・昭和19年(1944):日本銀行券100円券
・昭和20年(1945):日本銀行券100円券
・昭和21年(1946):日本銀行券100円券
・昭和25年(1950):日本銀行券1000円券
・昭和32年(1957):日本銀行券5000円券
・昭和33年(1958):日本銀行券10000円券
年表
概略と重複する部分も多いですが、その他の歴史的事実を交えて一般的な年表を記載します(独自研究を含む)。
・敏達天皇3年(574年) - 0歳(誕生)
→ 橘豊日皇子(用明天皇)と穴穂部間人皇女との間に生まれた。
⇒ 橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君である。
⇒ つまり、厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。
⇒ 厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹である。
⇒ 幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。
・用明天皇元年(586年) - 12歳
→ 敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。
⇒ この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。
・用明天皇2年(587年) - 13歳
→ 用明天皇は崩御(死去)した。
→ 皇位を巡って争いになり、馬子は豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺した。
→ その後諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった(丁未の乱)。
⇒ 討伐軍は河内国渋川郡の守屋邸を攻めたが軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。
⇒ 討伐軍は三度撃退された。
⇒ このとき厩戸皇子は、白膠の木で四天王の像を造り、戦勝を祈願し、勝利すれば仏塔を造り仏法を広めると誓った。
⇒ 討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。
→ 戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。
⇒ しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立したとされる。
・崇峻天皇5年(592年) - 18歳
→ 馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。
→ その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。
⇒ 天皇家史上初の女帝である。
⇒ 厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。
→ 同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国に四天王寺を建立した。
⇒ 元・四天王寺が存在する。
・推古元年(593年) - 19歳
→ 難波の荒陵に四天王寺を建立した。
⇒ 四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。
・推古天皇2年(594年) - 20歳
→ 仏教興隆の詔を発した。
・推古天皇3年(595年) - 21歳
→ 高句麗の慧慈法師が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」に伝えた。
⇒ その際、慧慈は帰化している
・推古天皇4年(596年) - 22歳
→ 法興寺(飛鳥寺)が完成する。
⇒ 馬子の子・蘇我善徳が初代寺司(司長)に就任し、慧慈(高句麗の僧)と慧聡(百済の僧)が住居とする。
→ 新羅に送った使者・難波吉士磐金が戻り、鵲(カササギ)を二羽献上し、それを難波杜に放す。
⇒ 大阪市にある鵲森宮がその社に当たる。また鵲森宮は元・四天王寺を名乗っている。
・推古天皇5年(597年) - 23歳
→ 吉士磐金を新羅へ派遣し、翌年に新羅から孔雀が贈られた。
⇒ かつて、邪険に扱われていた新羅との積極的な外交を行い、一時的に友好的な関係を築いたとされる。
→ しかし、推古天皇8年(600年)新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる。
・推古天皇7年(599年) - 25歳
→ 大地震が起きて家屋が倒壊したため、全国に地震の神を祀らせた。
・推古天皇9年(601年) - 27歳
→ 斑鳩宮を造営した。
→ 新羅のスパイである迦摩多を捕らえた。
・推古天皇10年(602年) - 28歳
→ 再び新羅征討の軍を起こした。
→ 同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した。
⇒ 来目皇子派新羅の刺客に暗殺されたという説がある。
⇒ 後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。
⇒ この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。
→ 百済の僧・観勒が来日し、暦本・天文地理書・遁甲方術之書(忍術・医術・星術)の書を献上した。
⇒ 観勒を師に玉陳に暦法を、大友村主高聡に天文遁甲を、山背臣日立に方術を学ばせた。
・推古天皇11年(603年) - 29歳
→ 秦河勝に尊い仏像を祀るための蜂岡寺(広隆寺)を建立させた。
⇒ 「尊い仏像」とは「弥勒菩薩像」のことと考えられる。
→ 12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。
⇒ 氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったとされる。
・推古天皇12年(604年) - 30歳
→ 4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定した。
⇒ 豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。
⇒ 9月には、朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めた。
・推古天皇13年(605年) - 31歳
→ 諸王諸臣に、褶の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む。
・推古天皇14年(606年) - 32歳
→ 勝鬘院を三日間講讃する
⇒ 橘寺の寺伝によれば三光石の前であったとされる。
・推古天皇15年(607年) - 33歳
→ 屯倉を各国に設置する。高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る。
→ 小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。
⇒ 返書には「東天皇敬白西皇帝(東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)」とあり、隋が「倭皇」とした点を「天皇」とした。
⇒ この返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣した。
・推古天皇20年(612年) - 38歳
→ 百済人味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせた。
→ 片岡山で飢人に水と食料と衣服を与えたが、既に亡くなっていた後だった。
⇒ 聖徳太子はその人を「真人」見抜き大層悲しんだが、墓に遺体は無く、太子が与えた服が畳まれて置かれていた。
・推古天皇21年(613年) - 39歳
→ 掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。
⇒ 日本最古の官道であり、現在の竹内街道とほぼ重なる。
・推古天皇22年(614年) - 40歳
→ 犬上御田鍬らを隋へ派遣する。最後の遣隋使となる。
⇒ 厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに三経義疏を著した。
→ 大臣・蘇我馬子が病に伏せる。
⇒ 病気平癒のために男女併せて1000人を出家させた。
・推古天皇23年(615年) - 41歳
→ 新羅の使者から仏像が献上される。
⇒ 広隆寺の寺伝にある高さ二尺の救世観音像と思われる。
・推古天皇24年(616年) - 42歳
→ 近江国の蒲生河で人のような形をしたものが現れたとの報告がある。
→ 摂津国で魚でもなく、人でもない、幼児のような形をしたものが網にかかった。
⇒ 人魚、もしくはジュゴン、スナメリとも。
・推古天皇28年(620年) - 46歳
→ 長さ一丈ほどの雉の尾のような赤い気が天に現れる。
⇒ 通説では流星と解釈される
→ 厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。
・推古天皇30年(622年) - 48歳(死去)
→ 斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没した。
→ その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。(日本書紀では、同29年2月5日(621年))
⇒ 太子は磯長陵(叡福寺境内の磯長墓)に埋葬される
⇒ 老若男女問わず、味覚がボケるほど泣き悲しんだとされる。
→ 新羅が使者を派遣し、書をもって奉上した。
・推古天皇31年(623年) - 死後
→ 新羅は大使奈未知洗爾、任那は達率奈未知を派遣し、来朝した。
⇒ 仏像一具、金塔、仏舎利、大きな灌頂幡一具、小さな幡十二条を奉った。
⇒ その仏像を広隆寺、仏具を四天王寺に奉納した。
・推古天皇34年(626年) - 死後
→ 蘇我馬子が薨去する
・推古天皇35年(627年) - 死後
→ 狢(ムジナ)人に化けて歌を歌った。
→ ハエの大群が現れ、信濃~関東へ行き散らばった。
・推古天皇36年(628年) - 死後
→ 日食が起こった。
→ 橘豊日皇子(用明天皇)と穴穂部間人皇女との間に生まれた。
⇒ 橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君である。
⇒ つまり、厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。
⇒ 厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹である。
⇒ 幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。
・用明天皇元年(586年) - 12歳
→ 敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。
⇒ この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。
・用明天皇2年(587年) - 13歳
→ 用明天皇は崩御(死去)した。
→ 皇位を巡って争いになり、馬子は豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺した。
→ その後諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった(丁未の乱)。
⇒ 討伐軍は河内国渋川郡の守屋邸を攻めたが軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。
⇒ 討伐軍は三度撃退された。
⇒ このとき厩戸皇子は、白膠の木で四天王の像を造り、戦勝を祈願し、勝利すれば仏塔を造り仏法を広めると誓った。
⇒ 討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。
→ 戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。
⇒ しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立したとされる。
・崇峻天皇5年(592年) - 18歳
→ 馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。
→ その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。
⇒ 天皇家史上初の女帝である。
⇒ 厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。
→ 同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国に四天王寺を建立した。
⇒ 元・四天王寺が存在する。
・推古元年(593年) - 19歳
→ 難波の荒陵に四天王寺を建立した。
⇒ 四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。
・推古天皇2年(594年) - 20歳
→ 仏教興隆の詔を発した。
・推古天皇3年(595年) - 21歳
→ 高句麗の慧慈法師が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」に伝えた。
⇒ その際、慧慈は帰化している
・推古天皇4年(596年) - 22歳
→ 法興寺(飛鳥寺)が完成する。
⇒ 馬子の子・蘇我善徳が初代寺司(司長)に就任し、慧慈(高句麗の僧)と慧聡(百済の僧)が住居とする。
→ 新羅に送った使者・難波吉士磐金が戻り、鵲(カササギ)を二羽献上し、それを難波杜に放す。
⇒ 大阪市にある鵲森宮がその社に当たる。また鵲森宮は元・四天王寺を名乗っている。
・推古天皇5年(597年) - 23歳
→ 吉士磐金を新羅へ派遣し、翌年に新羅から孔雀が贈られた。
⇒ かつて、邪険に扱われていた新羅との積極的な外交を行い、一時的に友好的な関係を築いたとされる。
→ しかし、推古天皇8年(600年)新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる。
・推古天皇7年(599年) - 25歳
→ 大地震が起きて家屋が倒壊したため、全国に地震の神を祀らせた。
・推古天皇9年(601年) - 27歳
→ 斑鳩宮を造営した。
→ 新羅のスパイである迦摩多を捕らえた。
・推古天皇10年(602年) - 28歳
→ 再び新羅征討の軍を起こした。
→ 同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した。
⇒ 来目皇子派新羅の刺客に暗殺されたという説がある。
⇒ 後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。
⇒ この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。
→ 百済の僧・観勒が来日し、暦本・天文地理書・遁甲方術之書(忍術・医術・星術)の書を献上した。
⇒ 観勒を師に玉陳に暦法を、大友村主高聡に天文遁甲を、山背臣日立に方術を学ばせた。
・推古天皇11年(603年) - 29歳
→ 秦河勝に尊い仏像を祀るための蜂岡寺(広隆寺)を建立させた。
⇒ 「尊い仏像」とは「弥勒菩薩像」のことと考えられる。
→ 12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。
⇒ 氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったとされる。
・推古天皇12年(604年) - 30歳
→ 4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定した。
⇒ 豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。
⇒ 9月には、朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めた。
・推古天皇13年(605年) - 31歳
→ 諸王諸臣に、褶の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む。
・推古天皇14年(606年) - 32歳
→ 勝鬘院を三日間講讃する
⇒ 橘寺の寺伝によれば三光石の前であったとされる。
・推古天皇15年(607年) - 33歳
→ 屯倉を各国に設置する。高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る。
→ 小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。
⇒ 返書には「東天皇敬白西皇帝(東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)」とあり、隋が「倭皇」とした点を「天皇」とした。
⇒ この返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣した。
・推古天皇20年(612年) - 38歳
→ 百済人味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせた。
→ 片岡山で飢人に水と食料と衣服を与えたが、既に亡くなっていた後だった。
⇒ 聖徳太子はその人を「真人」見抜き大層悲しんだが、墓に遺体は無く、太子が与えた服が畳まれて置かれていた。
・推古天皇21年(613年) - 39歳
→ 掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。
⇒ 日本最古の官道であり、現在の竹内街道とほぼ重なる。
・推古天皇22年(614年) - 40歳
→ 犬上御田鍬らを隋へ派遣する。最後の遣隋使となる。
⇒ 厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに三経義疏を著した。
→ 大臣・蘇我馬子が病に伏せる。
⇒ 病気平癒のために男女併せて1000人を出家させた。
・推古天皇23年(615年) - 41歳
→ 新羅の使者から仏像が献上される。
⇒ 広隆寺の寺伝にある高さ二尺の救世観音像と思われる。
・推古天皇24年(616年) - 42歳
→ 近江国の蒲生河で人のような形をしたものが現れたとの報告がある。
→ 摂津国で魚でもなく、人でもない、幼児のような形をしたものが網にかかった。
⇒ 人魚、もしくはジュゴン、スナメリとも。
・推古天皇28年(620年) - 46歳
→ 長さ一丈ほどの雉の尾のような赤い気が天に現れる。
⇒ 通説では流星と解釈される
→ 厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。
・推古天皇30年(622年) - 48歳(死去)
→ 斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没した。
→ その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。(日本書紀では、同29年2月5日(621年))
⇒ 太子は磯長陵(叡福寺境内の磯長墓)に埋葬される
⇒ 老若男女問わず、味覚がボケるほど泣き悲しんだとされる。
→ 新羅が使者を派遣し、書をもって奉上した。
・推古天皇31年(623年) - 死後
→ 新羅は大使奈未知洗爾、任那は達率奈未知を派遣し、来朝した。
⇒ 仏像一具、金塔、仏舎利、大きな灌頂幡一具、小さな幡十二条を奉った。
⇒ その仏像を広隆寺、仏具を四天王寺に奉納した。
・推古天皇34年(626年) - 死後
→ 蘇我馬子が薨去する
・推古天皇35年(627年) - 死後
→ 狢(ムジナ)人に化けて歌を歌った。
→ ハエの大群が現れ、信濃~関東へ行き散らばった。
・推古天皇36年(628年) - 死後
→ 日食が起こった。
死後の出来事については、陰陽道において不吉とされる出来事であり、太子の死後に起こった事なので追記しました。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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