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2015年7月27日月曜日

聖徳太子とは?(伝説上の人物像)

人文研究見聞録:聖徳太子の人物像(伝説上の人物像)

聖徳太子(しょうとくたいし)とは、 飛鳥時代に活躍した皇族であり、倭国の政治を司った人物です。

その歴史は主に正史である『日本書紀』の中で語られていますが、平安時代に編纂された『聖徳太子伝暦』という書物の中では伝説を含めた歴史がまとめられ、平安時代~鎌倉時代かけて広まった「太子信仰」のバイブルとなったとされています。

なお、『聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)』とは、平安前期(917年あたり)に歌人・藤原兼輔によって編纂されたと云われる聖徳太子の伝記です。難波の百済寺の老僧所伝の古書により編述したとされ、聖徳太子の生涯を誕生から薨去、上宮一族の滅亡までが詳細に書かれており、神秘的な説話を交えて描かれることから太子伝説の集大成とされています。

成立以来、最も中心的な太子伝として広く扱われ、当時の太子信仰の基盤となったそうです。しかし、正史とされる『日本書紀』には見られない設定も多く、歴史年表にも多少のズレ生じています。

以下、『聖徳太子伝暦』の中で語られる聖徳太子の歴史を、年表形式で紹介したいと思います。


聖徳太子伝暦における聖徳太子の歴史(聖徳太子伝暦訳文)

人文研究見聞録:聖徳太子の人物像(伝説上の人物像)

『聖徳太子伝暦』では、年齢は数え年で記載されます。また、書き下し文を訳していますので誤りがある場合があります。ご注意ください。

・欽明天皇31年
 → 欽明天皇の第四皇子・橘豊日尊(後の用明天皇)が穴穂部間人皇女を妃とする
・欽明天皇32年 - 0歳
 → 母・穴穂部間人皇女の夢の中に金色の僧が現れて「吾に救世の願有り。願わくは暫く后が腹に宿らん」と言った
  ⇒ この金色の僧は「救世観音菩薩」であるとされる
 → その後、穴穂部間人皇女は妊娠する
  ⇒ 以後、太子は「救世観音菩薩」の生まれ変わりであるという伝説となる
  ⇒ 妊娠期間は12ヵ月に及んだとされる
・敏達天皇元年 - 1歳
 → 叔父・涬名倉太玉敷が天皇(敏達天皇)に即位する(原文には31代敏達天皇とあるが、『記紀』では30代天皇である)
 → 母・穴穂部間人皇女が宮中を巡っているときに厩の前で産気付き、その場で皇子を出産する
  ⇒ 厩で産まれたため、「厩戸皇子」と名付けられた
 → 父・橘豊日尊は太子の誕生を大層喜び、侍者を庭に集めて様子を聞くと、たちまち赤黄の光が西方より殿内を照らした
  ⇒ そのとき、有司(ゆうし)に命じて大湯坐(おおゆえ)・若湯坐を定め、太子を入浴させた
  ⇒ 皇女が懐を開いて抱くと太子の身はとてもかぐわしかった
 → その後、百人の美女の中から3人を乳母に選んだ
 → 4ヵ月後には言葉を喋り、大人しい態度で、みだりに泣いたりはしなかった
・敏達天皇2年 - 2歳
 → 2月15日の釈迦入滅の朝、東へ向かって手を合わせ「南無阿弥陀仏」と唱えた
  ⇒ 人に教わらなくともそうしたため、乳母は大いに太子を評価した
・敏達天皇3年 - 3歳
 → 3月の桃の花が綺麗に咲いていた朝、太子は後園で遊んでいた
  ⇒ 父・橘豊日尊は、松の枝と桃の花を手に取って「太子よ、お前はどちらが好いか」と尋ねた
  ⇒ 太子が「私は松が好きです」と答えると、父が「何故か」と再度尋ねた
  ⇒ 太子は「桃の花は美しいけど儚(はかな)く、松は万年枯れる事がないからです」と答えた
・敏達天皇4年 - 4歳
 → 皇子らが悪戯を口煩くしていたので、父がそれを戒めんと笞(むち)を持って出た
 → 諸皇子らは逃げたが、太子は一人衣を脱ぎ、進んで笞(むち)に打たれた
  ⇒ 父がなぜ逃げなかったのかと問うと、太子はうやうやしく父を拝して答えた
  ⇒ 天にハシゴをかけようが、地に穴を開けようが、隠れる所がありません。だから進んで罰を受けます
  ⇒ それを聞いた父母は喜び、太子の凛とした態度を褒めて抱擁し、母は太子を寵愛するようになった
・敏達天皇5年 - 5歳
 → 叔母の豊御食炊屋姫(推古天皇)が敏達天皇の皇后になる
  ⇒ そのとき太子は乳母に抱かれて見ていたが、進んで群臣の中に入り、自ら叔母に拝礼をしようとした
  ⇒ そのため、乳母に膝から降ろすように言い、大臣よりも先に立って正式な方式を以って天皇・皇后に拝礼した
  ⇒ 当時、太子は5歳であったが、その姿はまるで成人のようだった
  ⇒ 天皇と皇后は共に驚愕し、太子に一目を置いた
  ⇒ 乳母が太子に天皇・皇后に拝礼した理由を問うと、我が天皇に拝礼するのは当然でしょうと答えた
 → 太子は乳母に文筆書法を学びたいと申し出た
  ⇒ 乳母が太子にそれを習わせると、3年間で極めた(太子の師は高句麗の慧慈法師であった)
・敏達天皇6年 - 6歳
 → 百済の使者が仏教の教典を献上したため、天皇はこれを太子に読ませて内容を尋ねた
  ⇒ 太子は「諸悪莫作 衆善奉行(悪いことはするな、善いことをしなさい)」と書いてありますと答えた
  ⇒ 天皇はこれを異(将来の謀反を疑う)とし、群臣はこれを奇(才能に嫉妬)とした
  ⇒ 父は我が子ながらも敬い尊び、太子を寵愛して上殿に移転した
・敏達天皇7年 - 7歳
 → 百済の使者が仏教の教典を100冊献上してきたため、太子は香を焚いてこれを読み始めた
  ⇒ 日毎に12冊ずつ読み進め、夏から冬までの間に全て読み終えた
 → 太子は仏教の思想に基づく斎日である六斎日(ろくさいにち)を奉った
 → 太子は仏教の思想にに従い、殺生を禁じるように天皇に進言した
 → 天皇はそれを悦び、天下に殺生を禁じる命令を発布した
・敏達天皇8年 - 8歳
 → 新羅から仏像を献上されたとき、太子はその仏像を西国の聖人・釈迦如来像であると言った
  ⇒ 末世にこれを尊べば福を招き、蔑にすれば禍を呼ぶと言った云々
・敏達天皇9年 - 9歳
 → 土師連八島という優秀な歌人が居り、毎夜、家に見知らぬ人が来て、ともに歌を歌った
  ⇒ その人の声は、この世の誰とも違う不思議な声だった
 → 八島は怪しんで帰るときに跡を追って行くと、住吉の浜辺に至って そのまま海に入り消え失せた
 → 話を聞いた聖徳太子はこのように説明した
  ⇒ それはきっとケイ惑星(火星)でしょう
 → 天皇は驚き、ケイ惑星(火星)について詳しく尋ねた
  ⇒ 太子は天には5つの星があり、それぞれ五行(木火土金水)を司り五色を象っています
  ⇒ 歳星(木星)は青色で東を司り、木を表しています
  ⇒ ケイ惑(火星)は赤色で南を司り、火を表しています
  ⇒ この星(火星)は度々地に降って人に姿を変え、幼児の中に混じり、好んで歌を歌います
  ⇒ そして、その歌で未来を予言するのです と申した
・敏達天皇10年 - 10歳
 → 蝦夷(土着の異民族)が飛鳥に攻めてきたため、朝廷は征討のための計略を議論した
  ⇒ そのとき、太子は会議場の傍で群臣らの議論に聞き耳を立てていた
 → 天皇は太子を呼んで、太子の意見を聞いた
  ⇒ 私のような子供が大事に口を挟むべきではないとは思いますが、群臣らの提案は国を滅ぼすことになるでしょう
  ⇒ 私は思うに、まず蝦夷の頭領を呼んで対話し、教えを諭し、同盟を結び、それに対する対価を与えます
  ⇒ そして、無傷で彼らの元へ還せば、彼らの貪性(欲)を削ぐことができると思います
 → それを聞いた天皇は、群臣に命じてすぐに蝦夷の頭領を呼び寄せるように手配した
 → 天皇は蝦夷の頭領に対し言った
  ⇒ 思い返せば貴方がた蝦夷は、景行天皇の時代に殺すべき者を殺し、赦すべき者を放した
  ⇒ そこで、朕(天皇)は前例に従って原悪(頭領)を裁くことを望む
  ⇒ 蝦夷の頭領はそれを聞いて恐れ、泊瀬川に至って三輪山を向いて誓った
  ⇒ これより我ら(蝦夷)は子子孫孫に渡って天皇に刃向いません。破る者には神祇の罰を与えたまえ と
・敏達天皇11年 - 11歳
 → 太子は36人の童子と共に後園で遊んでいた
 → 太子は威を以って左右に2人ずつ置き、また左右に4人ずつ立たせ、更に前に24人。計36人が各々の志を言った
 → それを聞いていた太子は、それらに対して一つ一つ答え、一語として落とすことをしなかった
・敏達天皇12年 - 12歳
 → 百済の賢者・日羅が吉備の海部の羽島に来朝した
  ⇒ 日羅は非常に勇気があり、計策に長け、身からは光明を放ち、それはまるで火の焔のようであった
 → 天皇は使者を派遣して、任那(朝鮮半島の日本領)の国政を日羅に尋ねることとした
  ⇒ そのとき、太子は日羅が異相であることを聞いて、天皇に請願し、日羅の会って見てみたいと言った
 → 天皇はこれを許さず、太子は密かに皇子と計らって、粗末な着物に着替え、童子のフリをして館に入って日羅を見た
  ⇒ そのとき、日羅はすぐさま太子を指さして、彼は神人であると言った
  ⇒ そして太子の身なりが非常に粗末であったにもかかわらず、日羅は遥拝した
 → 諸大夫らは大変な奇瑞であると門を出てみると、太子は衣服を変えて座り、日羅を迎拝していた
  ⇒ そして日羅の房に入ると、目羅は地に伏して合掌して自ら申した「敬禮救世観音菩薩、傅燈東方粟散王」と
  ⇒ 太子はこれに感謝すると、日羅大師は身から光を放す、それは焔のような火であった
  ⇒ 太子もまた眉間から光を放ち、太陽の光の如くであった
  ⇒ その後、太子は日羅に自分の命が尽き果てて惜むことがあるかも知れないが、聖人がこれを許してはくれないだろう
  ⇒ 自分はどうしたらよいか?と日羅に言った…そのような話しが夕方にまで及んだが、人々はそれを理解できなかった
  ⇒ 翌日、宮殿に帰った
 → この年の冬、日羅は新羅人に殺された
  ⇒ だが、一度起き上って「これは私の使いの仕業であるため、新羅ではない」と言い残して死んだ
  ⇒ 太子はそれを聞いたとき、日羅は聖人であると言った…云々
・敏達天皇13年 - 13歳
 → 百済から弥勒菩薩石像が持ち帰られたので、蘇我馬子がそれを勧請して仏殿を造って安置し、3人の尼に奉仕させた
・敏達天皇14年 - 14歳
 → 馬子大臣が仏舎利塔を建てて大いに斎会を開き、太子はその様子を観ていた
  ⇒ そのとき、仏舎利の器に舎利が置かれてないのを見て、舎利を納めなければ仏舎利塔とは言えない
  ⇒ 仏舎利とは釈迦如来の入滅後、その骨を砕いて出たものを言い、願いに応じて現れるだろう
  ⇒ しかし、仏舎利を納めない塔を拝んでも、そのうち倒れるだろうと言った
 → 馬子大臣はそれを聞いて仏舎利が手に入るように願った
  ⇒ その後、斉食の上に舎利を一枚得た
  ⇒ その大きさは胡麻程度で、その色は紅白にして紫の光四にも見える
  ⇒ 水に投げ込んだら心の願いのまま水に浮いたり沈んだりし、試しに鉄槌で打っても砕けず、弥妙なる輝を放った
  ⇒ 馬子大臣は仏舎利を瑠璃の壷に納めて毎夕拝み、次いで太子もそれを拝んだ
 → その後、馬子大臣は病気になり、それを占うと、大臣の父・稲目の時代に祀った仏が原因であると出た
 → 天皇は太子に対して「我が国の神は神道の神を以って主とする。馬子に異国の神を祀らせるのを止めよ」と言った
  ⇒ 太子は「仏教も神道もその道に違いはなく、諸神に従って敢えて仏としているだけです」と言った(神仏習合?)
  ⇒ そのため、太子は「今一度仏法を復興するのが、国家の幸福のためになるでしょう」と答えた
  ⇒ そして、すぐに詔を承って、馬子大臣は弥勒菩薩石像を礼拝し、寿命を延ばした
 → しかしこのとき、国内でも疾病が蔓延したため、物部弓削大連と中臣勝海連らは、国民の死滅を心配した
 → 物部大連、中臣勝海は仏教が疾病の原因だと考え、これを断つべしと仏教を批判するようになった
  ⇒ 太子は「二臣はこの世の理を知らず、善を行えば福に至り、悪を行えば禍を招く、これ自然の理である」と言った
  ⇒ また、続けて「釈迦の教えにそれがあり、この疾病も徳を以って祓うべきである」とも言った
  ⇒ また、続けて「二臣は仏教を武力で排除してはならない、そうすれば必ず天の禍を被るだろう」と忠告をした
 → しかし、二臣は聞く耳を持たず、仏塔や仏像を破壊し、火を放って焼いたりして実力行使で仏教を排した
 → また、3人の尼僧を捕らえて衣服を剥ぎ、大衆の前に曝して辱しめたりもした
  ⇒ その日、雲もないのに雨が降り、大風が吹き荒れた
  ⇒ 太子は父に「これは禍の始まりであり、このままでは国の疾病は更に広まり大変なことになるでしょう」と言った
 → 時の人々は、疾病の原因は二臣が仏像を燃やした罪であろうと言った
 → 太子は「如来の教えは滅して更に興し、興て更に滅す、二臣の罪の報いは疾病となろう、よって祈願し脱するべし」と言った
  ⇒ よって、太子と父は香炉を捧げ、仏を拝礼した
 → その後、大臣は疾病が癒えなかっため、仏法を頼って病気平癒を祈願することを天皇に申し出た
  ⇒ そこで天皇は、馬子に三人の尼僧を還し、馬子等のみに仏教を奉ることを許した
 → 馬子大臣は大変喜んで、新たに精舎を建てて、尼僧を迎え、供養した
・用明天皇元年 - 15歳
 → 敏達天皇が崩御する
 → 父・橘豊日尊が天皇(用明天皇)に即位する(原文には32代敏達天皇とあるが、『記紀』では31代天皇である)
  ⇒ 母・穴穂部間人皇女を皇后とする云々
・用明天皇2年 - 16歳
 → 用明天皇は、群臣に「仏教に帰依しようと思うので、協議せよ」と命じた
  ⇒ 物部大連・中臣勝海は異国の神を祀るべきではないとして、これに反対した
  ⇒ 一方、蘇我馬子大臣は賛成し、皇居の裏に豊國法師を呼んで、そこに入れた
  ⇒ それを見た太子は大いに悦び、大臣の手を取って涙を流して言った
  ⇒ 「三宝の妙理を識別できる人は少ない、妄想に因る異説を唱え、邪険にしてわだかまりを作り出す」云々
  ⇒ そう言って、天皇の帰依に賛成した蘇我馬子大臣を讃えた
 → しかし、物部大連・中臣勝海は馬子大臣の判断に大いに怒り、それを怨んだ
  ⇒ 太子は、二臣にかつて託した忠告(因果の理)の意味が理解されていないことを知り、大いに悲しんだ
 → 物部大連は蘇我氏を武力で抑えるために兵士を集めて、戦争の準備をした
  ⇒ 一方、中臣勝海は、物部大連に協力するために魘魅(えんみ)を作って助ける準備をした(人形を用いた呪術)
 → 二臣の企みを知った馬子大臣は、太子の舎人・迹見赤檮を使って、中臣勝海を誅殺しようとした
  ⇒ また、馬子大臣は物部大連に使いを送って、謀反を働けば全力で阻止すると忠告した
  ⇒ このとき、鞍部多須奈という仏像工が天皇のために出家し、丈六の仏像を坂田寺に奉った
  ⇒ 太子は多須奈の手を握って、彼に感謝した
 → その後、父・用明天皇が崩御したため、太子は大いに悲しんだ
  ⇒ そのとき、将の中には息絶える者が多数おり、死んだり蘇ったりを再三繰り返した(状況不明?)
 → その後、叔母・炊屋姫は馬子大臣に、佐伯連の舟経・綱手等らを使って穴穂部皇子・宅部皇子らの誅殺を命じた
  ⇒ この二皇子は、天皇の兄弟であったが、物部大連側に立ち、謀反を働いたためである
  ⇒ なお、その内訳は用明天皇の呪殺と馬子大臣に魘魅を行った罪である
  ⇒ 太子はそれに対し異を唱え、馬子大臣の行動を諌め、こう言った
  ⇒ 「人が人であるためには命が必要である。彼らは罪を犯したが、天皇の兄弟であり、我が伯父でもある」
  ⇒ 「彼らの罪は経典に則って裁くべし、そこで命を奪うのではなく、流刑にして許すべきである」と言った
  ⇒ 馬子大臣は太子の意見に心が揺れたが、結局は二皇子の罪は免れぬと考え、争うことに決めた
 → 馬子大臣は物部大連らを討つ為に軍を起こし、大伴氏・阿倍氏・平群神手らも軍に参加した
  ⇒ しかし、物部大連の率いる軍は強く、三度攻めたが倒すことはできなかった
  ⇒ その際、蘇我軍の後方に居た太子は、秦河勝に命じて白膠の木を持って来させ、四天王像を刻み作った
  ⇒ そして、その像を頭上に掲げ「軍を勝利に導いてくれるなら、必ず四天王を奉る為の寺塔を起こそう」と誓った
  ⇒ また、馬子大臣も戦勝のために仏に祈り、同様に寺塔を起こすことを誓った
 → 一方、物部大連は、榎の木に登って神祇に誓いを立て、物部の府都の「大明神之矢」を蘇我軍に向けて放った
  ⇒ すると、太子の着ていた鎧に命中した
  ⇒ 太子は舎人の迹見赤檮に「四天王之矢」を放たせると物部大連の胸に命中し、彼の動きを止めた
  ⇒ その途端、物部軍は動揺し始めて統制を失ったため、秦河勝が隙を付いて物部大連の首を斬った(云々)
 → 物部大連を討った蘇我軍は勝利し、後に大連の有していた土地を手に入れ、物部の親族・子孫を奴隷とした(云々)
  ⇒ また、太子の舎人・迹見赤檮には特別に褒賞を与えた
 → 太子は四天王との誓いを守り、玉造の岸に上って初めて四天王寺を建立した
 → 馬子大臣は飛鳥の地に法興寺(飛鳥寺)を建立した云々
・崇峻天皇元年 - 17歳
 → 叔父の泊瀬部皇子が天皇(崇峻天皇)に即位する(原文には33代崇峻天皇とあるが、『記紀』では32代天皇である)
 → 百済の僧・僧慧總・令欣・慧寔らが来朝し、仏舎利を献上する云々
・崇峻天皇2年 - 18歳
 → 太子は天皇に他国(国内)に使者を送って、その様子を知るべしに進言した
  ⇒ そこで、三道に使者を放ち、国境の様子を知らせることを懇願した
 → 天皇は、三道のそれぞれに使いを送った
  ⇒ 東山道(近江~東北)には、近江の臣・蒲(かま)を遣わした
  ⇒ 東海道(伊勢~関東)には、肉人の臣・鴈(かり)を遣わした
  ⇒ 北陸道(若狭~越後)には、阿倍の臣・牧吹(ひらぶき)を遣わした
 → 使者は戻って国境の様子を報告した
  ⇒ 天皇は太子が居なければ、自分は他国の国境を知ることはできなかっただろうと言った
・崇峻天皇3年 - 19歳
 → 百済より学僧の尼・善信らが来朝した
 → 太子は、天皇の前で彼らに釈迦の義を尋ねてみた
  ⇒ しかし、彼らには答えることができなかった
  ⇒ それを見た天皇は、異国の者は何でも知っているとは限らないことを悟り、異国人を当てにするのを止めた云々
・崇峻天皇4年 - 20歳
 → 天皇は任那を建てん(建国?)と欲した際、群臣らはそれに対して うんともすんとも 言えなかった
  ⇒ 太子は一人意見し、失敗するだろうということを道理を以って的確に説明した(シミュレーションした)
  ⇒ しかし、天皇はこれを良く思わず、太子に憎しみを覚えた
・崇峻天皇5年 - 21歳
 → 天皇は密かに太子を呼んでこう言った
  ⇒ 「天は尊く(上は偉く)・地は卑し(下は劣る)。貴賤の位なり。」
  ⇒ 「君は南面し(天子となり)、臣は北面す(臣下・弟子となる)。これ理の常である」と言った
 → 天皇は続けて馬子大臣を批判する胸中を打ち明けた
  ⇒ 「それなのに馬子大臣は私欲を欲しいままにし、外には偽りを飾り、驕っているようだ」
  ⇒ 「初めて仏教を興じた功績は有れども、大人しく忠義を尽くす心は無い」
  ⇒ 「汝(太子)はこれをどう見る?」
 → 太子は答えてこう言った
  ⇒ 「たとえ聖人と言えども三綱五常(儒教で理想となる道徳)を行い続けるのは難しい」
  ⇒ 「愚臣が居ては陽九百六(破滅)の元になります」
  ⇒ 「そこで大臣に驕った態度を改めるように言うべきです」
  ⇒ 「仏教には六波羅蜜がありますが、今はその中の忍辱を以って耐えるべきです」
  ⇒ 「臣には陛下の功徳(善行の報い)を以って、その心が良くなって行くようによく観察することです」
  ⇒ 「禅悦(心からの喜び)を発するのは栄辱の主なのですから」
  ⇒ 「ですから、陛下はみだりに愚痴をこぼすことは止めてください」
 → 天皇は太子の忠告に順じていたものの、強情な性格だったため、太子は幾度も諌めることがあった
 → その後、天皇への貢物にイノシシが献上されたことがあった
 → 太子は天皇の傍らに居たときだったが、天皇はそのイノシシを指さしてこう言った
  ⇒ 「いつかイノシシの首を断つ如く、朕の嫌う者を斬りたいものだ」
  ⇒ 太子はそれを聞いて驚愕し、これから禍が起こるだろうと予言した
  ⇒ とりあえず曲宴を催させ、その場の群臣らに禄物を与えた
  ⇒ 太子は自ら戒めて、群臣らに天皇の愚痴について他言しないように釘を刺した
 → しかし、愚かな一部の群臣が他言し、噂となり、やがて蘇我馬子大臣の耳にも入った
  ⇒ そして、大臣は自らの誅殺を恐れ、東漢直駒を呼んで、我と汝の為に天皇を殺害しろと命じた
  ⇒ 東漢直駒は驕りの強い性格にして、責任感もあり、皇居に入る方法も知っていた
 → 東漢直駒は夜中に皇居に忍び込み、天皇が寝ていることを確認すると、枕元で空かさず剣を抜いて暗殺した
  ⇒ 群臣らは驚き、馬子大臣は人を遣わして怪しい人物を捕らえるように命じた
  ⇒ しかし、群臣らは馬子が犯人であることを知っていた…しかし、それを口に出す者は居なかった
 → 太子も天皇暗殺を知って驚愕した
  ⇒ だが、この結果は天皇自身の行いにも原因があり、免れない報いだったのだろう
  ⇒ また、馬子大臣の行為も同様に罪深く、彼もまた報いを免れることはないだろう
  ⇒ すぐに報いは起こるだろう、喩え他人に手を汚させたとしても、また報いは免れない
 → その後、馬子大臣は駒(東漢直駒)を寵愛するようになり、多くの物を与えるようになった
  ⇒ 東漢直駒は馬子邸に出入りするようになり、そのうち馬子の娘・河上娘を密かに犯した
 → いずれ馬子大臣の耳にも入り、激怒して東漢直駒を激しく怨み、憎むようになった
 → そして馬子大臣は駒を天皇暗殺の罪に問い、逆賊誅殺の大義名分を得て自ら弓を取り、駒に向けて放った
  ⇒ 駒はこれらの罪は大臣に命じられて行ったものだと叫んで、その内訳を皆に聞かせた
  ⇒ 馬子大臣は怒って剣を投げ、駒の腹を貫き、次に駒の首を斬って絶命させた
  ⇒ 太子は「両名理由は違えど天皇暗殺の罪は同じ、実行犯を斬った所で罪が消えることはないだろう」と言った
・推古天皇元年 - 22歳
 → 叔母の豊御食炊屋姫が天皇(推古天皇)に即位する(原文には34代崇峻天皇とあるが、『記紀』では33代天皇である)
 → 法興寺(飛鳥寺)の隅に柱を立て、太子はこれをに礼をした
 → 百済より献上された仏舎利を以って心を安らかにすると、仏舎利が三度光を放った
  ⇒ その光景を見た者は大いに悦んだ
 → 天皇は群臣を集めてこう言った
  ⇒ 「我は女人が故、性物を解らず。万機や国務は日増しに多くなる一方である」
  ⇒ 「そのため、国政は太子は任せることにする。天下のことは皆太子に申し上げよ」
 → そして、天皇は太子を皇太子とした
  ⇒ (太子は厩戸で産まれ、それが名となった云々…聖の様な智を備えていた云々…未来を予知できた云々)
 → この歳、四天王寺を始めて壊し、難波の荒陵の東の下に移転する
  ⇒ 本願の縁起によれば、敬田院の敷地に池があり荒陵池という、その奥底には青龍が居たとされている
  ⇒ 元は丁未の乱を経て、玉造の岸の上(ほとり)に建っていた
  ⇒ この歳に四天王寺の地を改め、現在の地の青龍を鎮め祭り、癸丑の年に荒陵の東に移転した
  ⇒ ここは昔、釈迦如来が法輪を転がした所である
  ⇒ その時(昔)、長者の身と生まれて如来を供養し、仏法の助護をして、その因縁を以って寺塔を建立した
  ⇒ この地には七宝を敷いている。そのため、青龍を垣で守護し、麗水東に流れる。名付けて白石玉出水という。
  ⇒ 慈悲心を以ってこの水を飲めば法薬となる云々(堂宇や本尊についての仕様が記載される)
  ⇒ (また、四神相応で四方の海を守ったとも)
 → 「四箇院の制」について、機能と規約を決めた旨が記される
  ⇒ (四天王寺の縁起に基づいた内容である)
・推古天皇2年 - 23歳
 → 天皇は太子と馬子大臣を呼んで三宝を興隆させた。
  ⇒ 以降、諸臣連らは競って仏殿を造るようになり、これらの仏殿を寺と呼ぶようになった
・推古天皇3年 - 24歳
 → 土佐の南海に夜に光る大きなもの(枕木?)が現れた。また、それは雷のような声(音)を放つものだった
 → その30日後、淡路島の南の岸に着く
  ⇒ 淡路島の島民は、それを枕木と知らずに薪と共に竃に入れて焼いたという
 → 後に使者を出してそれを太子に献上した
  ⇒ 大きさは周囲・長さ8尺(約2.5m)、その香りは異様な香りを放った
  ⇒ 太子はそれを見て大いに悦び、これは「沈木香」というものであると言った云々
 → 後にその枕木香を使って観音菩薩像を造らせ、吉野の比蘇寺(世尊寺)に安置する
  ⇒ この木像は時々光を放ったという
 → この歳、高句麗から慧慈、百済から慧聡という僧が渡来してきた
  ⇒ これらの僧は広く内外に渡っており、釈迦の義にも通じていた
  ⇒ すなわち、太子が道理を尋ねれば、一を聞いて十を知り、十を聞いて百を知るという非常に優れた僧であった
 → この二僧は、太子を宝であり真人であると評価した
  ⇒ なぜなら、太子はある時は話さなくても心を悟り、的確な行動ができたため…云々
 → 政の会議の日、太子は8人の訴えを一度に聞かされた
  ⇒ 太子はそれぞれについて的確に答弁したため、訴えた者は再び太子に問うことはなかった
 → 馬子大臣は、そのことを讃えて群臣を集め、太子に御名を献上しようとした
  ⇒ 厩戸豊聡八耳皇子、または大法王皇太子などと称えようと話し合った
 → しかし太子はこれを辞退した
・推古天皇4年 - 25歳
 → 太子は慧慈法師に、法華経の中に脱字があることを指摘した
  ⇒ しかし、師である慧慈法師には、どこを指しているのかが分からなかった
  ⇒ そのため、「異国の経にも脱字は無かった」と答え、認めようとしなかった
 → 太子は「この句の一字です。私が昔持っていた経には字があったと思うのです」と言った
  ⇒ 慧慈法師は「では、その経は今どこにあるのだ?」と問うた
  ⇒ 太子は微笑んで、「隋(中国)の衡山寺の般若台の上にあったと思います」と答えた(つまり、前世のこと)
  ⇒ 慧慈法師は大いに奇(不思議)として太子に合掌し、礼拝した
 → その日、慧慈法師と慧聡法師は法興寺に住むことになった
  ⇒ そこで太子は天皇に頼んで会を開いた
 → その夕べ、一つの紫雲が現れ、それは花蓋(花)のような形であった
  ⇒ そして、天上より降りてきて、塔の周囲を覆い、また仏堂も覆った
  ⇒ そして、五色に変化し、或いは龍鳳の形となり、或いは人畜のような形など、多種多様に変化した
  ⇒ そして、西に向いて去り、太子はこれに手を合わせて拝み、見送った
 → また、太子は紫雲について、これは前兆であろうと言った
  ⇒ 300年後草露衣を潤し、500年後には塔殿は忘れられるだろう
・推古天皇5年 - 26歳
 → 百済の王の使者として、王子の阿佐らが来朝し、朝貢した
 → 阿佐は「この国に一人の聖人が居ると聞きました。ぜひ面会したいと思います」と言った
  ⇒ 太子はこれを聞いて、直ちに宮殿に招いた
  ⇒ 阿佐は驚き太子を拝んで、じっくりと太子の顔を見て、掌や足の裏などを見た
  ⇒ そして再び太子を拝み、また庭に出て右膝を地に付けて合掌し、念仏を唱えた
  ⇒ 「救世大慈觀音菩薩、妙教流通東方日國、四十九歳傳燈演説、大慈大悲敬礼菩薩」
 → そして太子と目を合わせてしばらくすると、(阿佐は?)眉間より白い光を放った
  ⇒ 長さ約3丈(9m)、そして縮まり入った
  ⇒ その後も、阿佐は太子に再見することを願った
  ⇒ 太子は阿佐について「彼はかつて私の弟子だった者だろう」と言った
  ⇒ そのついて、時の人たちは大いに不思議と思った
・推古天皇6年 - 27歳
 → この歳、太子は膳大娘を妃とする
  ⇒ 従者らは膳大娘の体系を見て、他の人とは(サイズが?)合わないため、太子は妃としたのだろうと言った
  ⇒ また、天皇は太子の婚礼を祝って宴を催し、祝いの品々を贈った
 → この歳、太子は良馬を求めて諸国から馬を集めた
  ⇒ 甲斐国(東海~関東)より集められた数百頭の黒駒の中で四脚の白いものを見つけた(甲斐の黒駒)
  ⇒ 太子はその馬を指して、これは神馬であると断定した
  ⇒ そして、この馬を手に入ると他の馬は皆還された
  ⇒ 後に、舎人・調子麿を呼んで飼養とした
 → 太子は甲斐の黒駒に試し乗りをし、浮雲の如く東に去っていった
  ⇒ 従者はその様子を見て、太子は舎人の調子麿を黒駒に乗せて、直ちに雲の中に入っていったと語った
  ⇒ また、時の人々はそれを見て驚いたという
  ⇒ 3日後、太子は轡(くつわ)を廻して(馬を操って)帰って来た
 → 調子麿は、黒駒で巡航した様子を語って聞かせた
  ⇒ まず、馬に騎乗して、雲を踏み、霧を凌いで直ちに富士の嶽の上に至り、巡って次に信濃に至った
  ⇒ 黒駒は飛ぶこと雷電のようで、三越を経て今帰って来た
  ⇒ 太子は黒駒について「疲れを忘れて私に従う真の忠士である」と評価していた
  ⇒ 太子曰く、まるで陸地を踏み進むが如く、空を踏んで走るが、確かに脚の下に山があるのを見た云々
  ⇒ そうして、太子と調子麿は甲斐の黒駒を大いに評価した
 → この歳、新羅の王から孔雀(くじゃく)が一隻献上された
  ⇒ 天皇はその華麗なる容姿を珍しいと思った
  ⇒ しかし太子は「この程度で珍しいと思ってはなりません。鳳凰というものが南海の丹穴の山に存在します」
  ⇒ 「聖人の徳がなければ、これを見ることはできないと言われています」と申し上げた
  ⇒ 天皇は太子に「朕は、未だ夢においても鳳凰を見ることはできないのか」と答えた
 → その日、天皇の夢に鳳凰が現れた
  ⇒ 天皇はその様子を詳細に太子に話すと、太子は大変悦び、それは長寿の兆しであろうと説明した
・推古天皇7年 - 28歳
 → 太子は天相を見て地震を予知し、そのための備えをさせるように天皇に進言した
  ⇒ その後、大地震が起こり、多くの家屋を倒壊させた
 → 太子は密かに天皇に進言した
  ⇒ 「天は男を為し、陽と為す。地は女と為し、陰と為す。」
  ⇒ 「陰の理を知らなければ、陽迫って通じることは適わず、陽の理を知らなければ、陰塞がって達することは適わない」
  ⇒ 「故に地震が起こったのであろう」
  ⇒ 「天皇は女帝であるが、男の位に座す。つまり、ただ陰の理をおさめて、陽の徳を施していない」
  ⇒ 「そこで、徳沢物を潤し、仁化民に被しめたまへ」
 → 天皇は太子の進言を認め、その年の租税を免除した(免税を行った)
 → この歳、百済よりラクダ、ロバ、羊、白雉(はくち)を献上された
  ⇒ 太子は「白雉は鳳凰の類であるため、珍鳥として扱うのではなく、丁重に扱うように」と言った
・推古天皇8年 - 29歳
 → 新羅が任那を占領しようとした
  ⇒ これ状況について、太子は推移と国益を兼ねた計画を語り、天皇に取るべき行動を進言した
  ⇒ そこで天皇は任那に援軍を送ることを決めた
・推古天皇9年 - 30歳
 → 朝鮮半島情勢について記される(以下略)
・推古天皇10年 - 31歳
 → 朝鮮半島情勢について記される(以下略)
・推古天皇11年 - 32歳
 → 朝鮮半島情勢について記される(以下略)
・推古天皇12年 - 33歳
 → 冠位十二階を制定する
 → 十七条憲法を制定する
  ⇒ 一に言う。和を何よりも大切なものとし、争いを起こさぬことを根本とすべし
  ⇒ 人は集団を作りたがり、悟った人格者は少ない
  ⇒ それ故に、君主や父親のいうことに従わなかったり、近隣の人たちとも上手くいかない
  ⇒ しかし、上の者も下の者も協調・親睦の気持ちを持つことが重要である
  ⇒ そのような気持ちで論議するならば、自ずと物事の道理に適い、どんなことでも成就するものだ(以下略)
 → 朝礼の方法を改めた
 → 太子は側近の秦河勝を呼んで、昨夜 夢に見た内容を語って聞かせた
  ⇒ この地から北に五六里余りの一つの美しい村に至った
  ⇒ 楓林が生い茂り、この林の中で汝(秦河勝)等の親族達が私のために饗を催し、盛大にもてなしてくれた
  ⇒ 秦河勝はそれに対して「臣の住む葛野とも夢は同じです」と答えた
 → 太子はこの地を見たいと思い、すぐに秦河勝に案内するように命じた
 → そしてその夜、泉河の畔に宿泊したときに太子が側近にこう言った
  ⇒ 「私の死後250年後に、一人の聖僧出て寺を建て、道を弘の大に仏法を興す。この僧は他人に非ず、私の後身なり」
  ⇒ 「その弟子ら法を尊び燈を伝え、末法の初めに仏教は繁興するだろう」
 → 翌日、宇治橋に至り、秦河勝が馬に乗って橋のほとりに迎えた
 → 太子は側近に対し、漢族を褒める旨を語り、蜂岡寺(広隆寺)の建設に着手するように命じた
  ⇒ 蜂岡寺は楓野の別宮と呼ばれ、後に新羅王から献上された仏像・仏具を奉納することになる
・推古天皇13年 - 34歳
 → 天皇は常に太子の妙説を納め、遂に仏法の神秘性を理解するに至った
 → そこで大誓願を発願して、仏の職人・鞍作止利に銅仏と縫仏を造るように命じた云々
 → 冬に太子は斑鳩宮に遷った
  ⇒ それを天皇に伝えると、天皇は涙を垂らして、太子を引きとめた
  ⇒ 太子は天皇に感謝して、別宅に住んでも天皇から心は離れませんという旨を伝えた
 → 以後、太子は毎朝黒駒に乗って来朝し、政務が終わるとすぐに斑鳩に帰るようになった
  ⇒ しかし、日日に間(ひま)旡し(日増しに飛鳥に居る時間が少なくなり)、時の人々はそれを怪しんだ
・推古天皇14年 - 35歳
 → 太子が斑鳩宮に居た時、駕籠に命じて、椎坂の北の岡から平群の里を望み、側近に土地を褒める旨を語った
  ⇒ また、「三百歳の後に帝皇の氣有り」と言った
 → そのとき神手の臣が太子が来ていることを聞きつけ、親族を集めて太子を迎え、贄物を献上した
  ⇒ 太子は仏法に帰依する身であるため殺生を好まず、贄物を拒み、菓子か花を献上するように命じた
 → 神手の臣は一族を率いて競って雑花を献上した
  ⇒ 太子は呪願(祈願文)を託して、神手の臣らに会わずにその場を退いた
  ⇒ そして側近に「この村に氣無し云々」と語った
 → 丈六の仏像二体を造り、元興寺に納めようとしたが、入口より大きく造ったため上手く納めることができなかった
  ⇒ その際、鞍作止利の知恵により、堂宇を壊さずに仏像を納めることができた云々
 → 太子は天皇に命じられて勝鬘経を3日間講讃した
  ⇒ すると、その夜に蓮花が降った(花の長さ23尺にして周囲34丈を満たした)
  ⇒ そしてこの地に誓いを立てて、橘寺を建立した
 → 天皇は、太子に法華経は如来の妙義であるため、また構説て欲しいと頼んだ
  ⇒ 太子はそれを受け、岡本宮で構説した
  ⇒ 天皇は命婦を率いて、皆でそれを聞いた。構説は7日間で終わった
 → 天皇は大変悦んで、播磨国の土地を太子に与えた
  ⇒ 太子はそこに播磨の法隆寺(鶴林寺)を建て、後に割いて中宮寺に納る(母・間人皇女の宮)
  ⇒ 中宮寺は間人皇女が薨去した後、寺とされた
・推古天皇15年 - 36歳
 → 太子は前世に漢土(中国)で修行した際に使った経を、使者に持ち帰らせようと考えた
  ⇒ 法華経の脱字についてどうしても比較し、確かめたかったためである
  ⇒ 天皇は大変不思議に思っていたことから、天皇に頼ることはできなかった
 → そこで誰が適役かを選び出すべく、官人の100名からそれを選抜しようとした
  ⇒ 太子は小野妹子が適役だと考えた
 → その年の秋、小野妹子ら遣隋使を隋に派遣する
 → 太子は妹子に命じ、前世に見た記憶を頼りにその辺りの様子を説明した
  ⇒ 隋の衡州に衡山があり、その山には五つの峯があり、各峯には小屋がある…
  ⇒ そこには禅師がおり、この山で道教の修行をし…鋭い山の中に異菓の梨があり、それを食べて千歳に至り…云々
  ⇒ …その山の中に般若台がある…そこには かつて私が使っていた法華経があるだろう
 → 太子は記憶の限りの情報を妹子に伝えると、妹子に その法華経を持ち帰る様に命じた
  ⇒ また、そのことを土地の者に伝え、私の名(念禅法師)を称えてこれを贈るべしとも言った
 → 妹子は漢土で土地の人に場所を尋ねつつ、目的地を目指した
  ⇒ 妹子は太子の言う場所に辿りつき、土地の老僧に事の目的と経緯を説明した
  ⇒ 老僧は大変喜んで、経を漆の箱に入れて妹子に渡し、太子の前世についての話を聞いた云々
 → 翌年、妹子は倭国に戻り、経を太子に渡した
  ⇒ 太子は大変悦んで、箱を開けると舎利3枚などと共に経を確認した
  ⇒ 太子は法華経を呼んで涙を流しながら、それを火の中に投げ込んだ
  ⇒ その真意は誰にもわからず、また、法華経の脱字を確認した者も居なかった
  ⇒ そのため、従者は驚き、その行動を怪しんだ
・推古天皇16年 - 37歳
 → 小野妹子が隋から戻った後、隋の使いが妹子に従って来朝した
  ⇒ その途中、百済を経由した際に荷物を盗まれたという
  ⇒ 妹子曰く、隋帝から預った書も一緒に盗られてしまったと言った
 → そこで群臣らは妹子を流刑にすべしと言ったが、天皇は太子に意見を求めた
  ⇒ 太子は妹子の罪を咎めたものの、経を持ち帰ることが本来の目的であると言った
  ⇒ それを成しているため、妹子は罪を問うワケにはいかないという旨を語った
  ⇒ 天皇も同意し、妹子の罪を許した云々
・推古天皇17年 - 38歳
 → 太子は勝鬘経の注釈書を作成した云々
 → 小野妹子が隋から戻り、太子にそれを報告した
  ⇒ 以前、衡山の般若台で三人の僧に会ったが、今回会ったときには二僧は遷化(死去)し、僧は一人になっていた
  ⇒ その僧曰く、経を取り違えて妹子に渡してしまったという
  ⇒ そこで去年の秋に汝の国の聖徳太子(元・念禅法師)が、青竜の車に乗って500人を従えて、東の方の空より衝山に来た
  ⇒ そして古い部屋に置いてあった経典のうち一巻を持って、雲を掻き分けて去っていかれた
 → と申していたことを告げると、太子は微笑して黙り込んだ
・推古天皇18年 - 39歳
 → 太子が黒駒に乗って小墾田の宮に参じた際、誤ってこれ(宮?)を踏んでしまう
  ⇒ そのとき太子は少し驚いて、斑鳩宮へ還った
 → 以来、黒駒は草を噛むことができず、水も飲まず、両耳も垂れてしまった
  ⇒ 両目が合って過ぎたことを後悔しているような様子に似ている
 → それを聞いた太子は使者を遣わして、黒駒に草を食べ水を飲むように伝えた
  ⇒ すると、黒駒は目を開いて水や草を摂るようになり、以前の姿へと戻った
 → この年の冬、太子は膳妃に語ってこう言った
  ⇒ 汝 我が意の如し、事に触れて違はず、私にとって汝を得たことは私の幸せです…云々
  ⇒ 太子は膳妃に心中を告げ、膳妃を寵愛し、共に天寿を全うしたいという旨を語った
・推古天皇19年 - 40歳
 → 太子は勝鬘経の注釈をの公正を、慧慈法師等の大徳に頼んだ
  ⇒ 彼らが公正を行ったところ、一字たりとも誤字や脱字は見つからなかった
  ⇒ 彼らは太子の注釈書に対し、何も言うことはないと評価した
 → この年の夏、天皇は菟田野に行幸し、自ら狩人が獣を追う様子を観ていた
  ⇒ 太子は諌めて曰く、殺生の罪は仏教で最も重く、儒童菩薩がようやくその礼を降す云々
  ⇒ 天皇は「女帝として この殺生を好んだ。これは私の過ちである」
  ⇒ 「私はこれを深く反省し、以後、太子のために気をつけよう」と言った
・推古天皇20年 - 41歳
 → (準備中)
・推古天皇21年 - 42歳
 → 太子が科長墓所の帰り道、片岡山のほとりで臥せた飢人を見つけた
 → 黒駒が歩みを止めるため、太子は降りて紫の御袍を脱いで飢人に与え、歌を詠んでそれを贈った云々
  ⇒ 太子「しなてる 片岡山に 飯に飢えて 臥せる その旅人あはれ 親なしに 汝なりけめや さす竹の 君はやなき 飯に飢えて 臥せる その旅人あはれ」
 → 飢人は首を上げて歌を返した
  ⇒ 飢人「いかるがの 冨の小川の 絶えばこそ わが王君の 御名は忘れめ」云々
 → 飢人は長い頭を持ち、耳が大きく、目が細い、そして光を放ち、妙に良い香りがする云々
  ⇒ 太子は只者ではないと思っていた
 → 太子は宮殿に戻った後、使者を遣わし飢人の様子を調べさせた
  ⇒ 使者は、飢人は既に死んでいたと報告した
  ⇒ 太子は悲しんで飢人の墓を造らせて埋葬した
 → 後日、馬子大臣が墓を暴くと、そこには遺体が無かった云々
・推古天皇22年 - 43歳
 → (準備中)
・推古天皇23年 - 44歳
 → (準備中)
・推古天皇24年 - 45歳
 → (準備中)
・推古天皇25年 - 46歳
 → (準備中)
・推古天皇26年 - 47歳
 → 太子の「七代記(7度の輪廻転生)」について記される
  ⇒ 「第一の生は貧しい生まれで師の法華経を説くのに逢い僧となって中国・衡山で修業した…」
  ⇒ 「…七代目倭国の王家に生まれ三宝(仏教)を敬い国の支えとなる」
  ⇒ 太子は前世、天台宗の高僧慧思であり、七代目に聖徳太子として生まれた
・推古天皇27年 - 48歳
 → (準備中)
・推古天皇28年 - 49歳
 → (準備中)
・推古天皇29年 - 50歳
 → 太子が斑鳩宮で沐浴しているとき、妃に言った(流れから膳妃を指すと思われる)
  ⇒ 私は夕方に遷化(死去)します。共にこの世を去りましょう
  ⇒ 翌朝、太子と妃は起き上がらなかった
  ⇒ 天下の人々は、父母を亡くなるが如く悲しみ、その泣き声は道に溢れた

参考文献:『聖徳太子伝暦』


正史との違い

人文研究見聞録:聖徳太子の人物像(伝説上の人物像)

まず、正史である『日本書紀』は、あくまで天皇目線で描かれているので、聖徳太子は脇役という体裁で記されます。

逆に『聖徳太子伝暦』は、聖徳太子目線で描かれるので、太子のまつわる説話が非常に詳しく記されます。

また、設定や登場人物の立ち位置が大きく異なる点もあり、それについてまとめて記載したいと思います。

『日本書紀』との違い

・聖徳太子は救世観音菩薩の化身である
・聖徳太子の誕生年が異なる(『日本書紀』では敏達3年、『聖徳太子伝暦』では欽明32年)
・天皇が1代ずれている(『聖徳太子伝暦』では天皇が1代多い)
・用明天皇と蘇我馬子が、中臣勝海の呪詛に掛けられている(『日本書紀』では別の皇子であり、未遂に終わっている)
・用明天皇は呪殺された(死因が天然痘という点では一致するが、『日本書紀』に呪殺の記載はない)
・『日本書紀』で主要とされる泊瀬部皇子(崇峻天皇)ら 数名の皇子が丁未の乱に参加していない(記載がない)
・丁未の乱に秦河勝が参戦し、物部大連の止めを刺している(『日本書紀』では未登場)
・四天王寺を玉造の岸の上に建立し、後に移転したことが記される(『日本書紀』でも二度記載されるが、表記が曖昧)

『日本書紀』では欽明天皇は第29代天皇ですが、『聖徳太子伝暦』では第30代欽明天皇と記されています。

つまり、それ以前に天皇が居たという前提で書かれていますが一体誰を指しているのでしょうか?(気になる所です…)


『聖徳太子伝暦』の信憑性

人文研究見聞録:聖徳太子の人物像(伝説上の人物像)

『聖徳太子伝暦』は かなり伝説的な内容のため、「太子信仰」のための創作とも考えられますが、興味深い内容も多いです。

例えば、「四天王寺」の移転について記載されますが、大阪の玉造には元四天王寺を名乗る施設が存在します。しかし、『日本書紀』には「四天王寺」建立の記載が二度あるものの、移転したことや詳しい場所については記載されません。

また、『聖徳太子伝暦』に登場する寺院は実在しており、そこにも同じ内容の寺伝があったりするので、事実に則って記している点も多く見られます。よって、考古学的に実証が可能な記載については、概ね信憑性が高いように思います。


備考

・聖徳太子の思想は仏教を基調としている
 → しかし、神と仏は元はひとつであるとしており、端から神仏習合の思想を前提としているように思われる
 → 礼や五常について説いていることから、儒教的な思想を含んでいると思われる
 → 陰陽思想などの言及も見られることから、道教的な思想にも精通していると思われる


聖徳太子の主な伝説・逸話

人文研究見聞録:聖徳太子の人物像(伝説上の人物像)

豊聡耳

聖徳太子には「豊聡耳(とよさとみみ)」呼ばれる、多くの人の声を聞き分ける能力があったとされています。

「豊聡耳」という語は「豊かな耳を持つ」ということから来ているとされており、『聖徳太子伝暦』では少なくとも11歳と24歳の時に この能力を発揮しており、最大36人の声を聞き分けたとされています。

なお、『日本書紀』では10人の声を聞き分けたと記載されています。


兼知未然

聖徳太子は予知能力を備えていたとされ、『日本書紀』には それを「兼知未然(けんちみぜん)」と記載しています。

「兼知未然」という語は「兼ねて未然を知ろしめす」ということから来ているとされ、『聖徳太子伝暦』でも予知・予言をしたという説話が度々登場しています。

なお、この能力を使って記された『未来記』という書物があるとされています。

この書の存在は確認されておらず、成立の経緯も伝説的であるため実在しないと言われていますが、鎌倉時代の武将・楠木正成が、それを読んで戦に活かしたという記録が『太平記』の中に記されているそうです。

また、江戸時代に幕府に禁書とされた『先代旧事本紀大成経』には「未然本記」という未来を予言した部分が存在するとされています。


飛翔伝説(甲斐の黒駒)

聖徳太子は「甲斐の黒駒」と呼ばれる「天を駆ける天馬」を愛馬としていたとされています。

これについては、『聖徳太子伝暦』や『扶桑略記』の中で記され、太子は側近を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したと記されています。

なお、『日本書紀』では、聖徳太子の時代には登場せず、それよりずっと以前の第21代雄略天皇の愛馬として登場しています。

ちなみに、太子生誕の地とされる橘寺には甲斐の黒駒像が安置されています。


南嶽慧思の生まれ変わり

聖徳太子は『聖徳太子伝暦』の中で前世の記憶があるとし、小野妹子を遣隋使として派遣した趣旨は それを確かめるためであったとしています。また、その説話の中で、太子の記憶が正しかったと衡山の僧も言っていることから、伝説上では聖徳太子は南嶽慧思の生まれ変わりであるとされています。

なお、聖徳太子47歳の時の記述には、『七代記』という7代に渡って太子が転生してきた旨が記された書の引用文が載せられています。


片岡飢人伝説

推古天皇21年の記録には、聖徳太子が片岡山に行ったときに道に臥せた飢人と出会い、食糧や水、着物などを与えたと記されています。

この伝説は様々な史書や歴史文学に記されており、シチュエーションは一致するものの、設定については多種多様です。

なお、『日本書紀』では、太子は飢人に飲食物と着物を与えたが、すでに息絶えた後であり、墓を造って埋葬するものの、後日確かめさせるとそこに遺体は無く、やはり飢人は真人(仙人)であったか、と太子がそれを見抜いていた旨が記されます。

いずれも、太子が飢人の正体を見破っていたという点で共通性が見られる伝説です。

ちなみに、後世 この飢人を達磨大師とする信仰が生まれ、飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町には達磨寺が建立されています。



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