丁未の乱とは?(蘇我と物部の宗教戦争)
2015/07/27
四天王寺建立の由縁とされる古墳時代の内乱である 「丁未の乱」 について解説します。
まず、「丁未の乱(ていびのらん)」とは、古墳時代に仏教の礼拝を巡って 大臣・蘇我馬子を中心とする崇仏派(仏教)と、大連・物部守屋を中心とする排仏派(神道)の間で起きた宗教戦争です。
丁未の変、丁未の役、物部守屋の変とも言います。
丁未の乱の中心人物
物部守屋とは?
「物部守屋(もののべのもりや)」とは、古墳時代の豪族であり、大連として軍事を執った人物です。
「大連(おおむらじ)」とは、大臣と並ぶ朝廷の最高官であり、朝廷の軍事と祭祀を司っていたとされています。
物部氏は古来より神道(日本の神)を祀ってきた氏族であるため、外来の神である仏教を認めない立場を取っています。
蘇我馬子とは?
「蘇我馬子(そがのうまこ)」とは、古墳~飛鳥時代の豪族であり、大臣として朝政を執った人物です。
「大臣(おおおみ)」とは、大連と並ぶ朝廷の最高官であり、朝廷の政治を司ったとされています。
蘇我氏は、馬子の父・稲目の時代に仏教が伝来し、朝廷に初めて仏教を取り込んだ氏族とされています。
丁未の乱の経緯
簡単な流れ
仏教伝来から丁未の乱までの簡単な流れは以下の通りです。
01.欽明天皇の時代(538年)に、百済から仏教が日本に伝わる
02.仏教の拝礼を巡って蘇我と物部の間で意見が割れる
03.天皇が試しに蘇我に仏像を祀らせてみると、国内で疫病が流行る
04.仏教を止めさせようとするが、不思議なことが起こるため、結局なおざりになる
05.敏達天皇の時代に、蘇我馬子が本格的に仏教を始める
06.蘇我馬子が病気に罹ったため、原因を占うと、先代の祀った仏像の祟りと出る
07.馬子が先代の仏像を祀ると、国内で疫病が流行する
08.物部守屋が、天皇に仏教の拝礼を止めさせるように進言し、仏教が禁止になる
09.物部守屋を中心とする排仏派が結成され、仏殿や仏像を破壊する
10.国内で天然痘が流行し、仏教の祟りであると言われるようになる
11.排仏派の悪評を受けて、天皇は一部で仏教を認める
12.排仏派の物部守屋は排仏活動を続けたため、崇仏派の蘇我馬子との確執が生まれる
13.用明天皇の時代に、用明天皇が自ら仏教に帰依したいと言う
14.天皇の帰依を巡って、崇仏派と排仏派の間でいさかいが起こる様になる
15.排仏派の中臣勝海が崇仏派の皇族に呪詛をかけるようになる
16.排仏派は新たに天皇を擁立しようとしてクーデターを画策する
17.クーデターの計画が漏えいし、排仏派は朝廷に逆賊と認定される
18.崇仏派・蘇我馬子は兵を起こして、逆賊である排仏派・物部守屋を攻める(丁未の乱)
19.丁未の乱で劣勢に立たされていた蘇我軍のために、厩戸皇子(聖徳太子)が四天王に戦勝祈願をする
20.厩戸皇子の祈願の結果、排仏派の大将・物部守屋を討ち、蘇我軍が勝利する
21.厩戸皇子は、戦勝祈願の誓い通りに四天王寺を建立し、蘇我馬子も法興寺(元興寺)を建立した
02.仏教の拝礼を巡って蘇我と物部の間で意見が割れる
03.天皇が試しに蘇我に仏像を祀らせてみると、国内で疫病が流行る
04.仏教を止めさせようとするが、不思議なことが起こるため、結局なおざりになる
05.敏達天皇の時代に、蘇我馬子が本格的に仏教を始める
06.蘇我馬子が病気に罹ったため、原因を占うと、先代の祀った仏像の祟りと出る
07.馬子が先代の仏像を祀ると、国内で疫病が流行する
08.物部守屋が、天皇に仏教の拝礼を止めさせるように進言し、仏教が禁止になる
09.物部守屋を中心とする排仏派が結成され、仏殿や仏像を破壊する
10.国内で天然痘が流行し、仏教の祟りであると言われるようになる
11.排仏派の悪評を受けて、天皇は一部で仏教を認める
12.排仏派の物部守屋は排仏活動を続けたため、崇仏派の蘇我馬子との確執が生まれる
13.用明天皇の時代に、用明天皇が自ら仏教に帰依したいと言う
14.天皇の帰依を巡って、崇仏派と排仏派の間でいさかいが起こる様になる
15.排仏派の中臣勝海が崇仏派の皇族に呪詛をかけるようになる
16.排仏派は新たに天皇を擁立しようとしてクーデターを画策する
17.クーデターの計画が漏えいし、排仏派は朝廷に逆賊と認定される
18.崇仏派・蘇我馬子は兵を起こして、逆賊である排仏派・物部守屋を攻める(丁未の乱)
19.丁未の乱で劣勢に立たされていた蘇我軍のために、厩戸皇子(聖徳太子)が四天王に戦勝祈願をする
20.厩戸皇子の祈願の結果、排仏派の大将・物部守屋を討ち、蘇我軍が勝利する
21.厩戸皇子は、戦勝祈願の誓い通りに四天王寺を建立し、蘇我馬子も法興寺(元興寺)を建立した
詳しくは、下記の情報を参照してください。
仏教伝来
『日本書紀』によれば、「仏教」は欽明天皇の時代(538年)に百済の聖明王によって献上された仏像と経典により伝来したとされます。
その際、天皇は朝廷の群臣を集めて仏を礼拝するべきか否か議論させるのですが、蘇我稲目大臣は「諸外国で広まっている仏教を日本だけ取り入れないわけにはいかない」として、仏の礼拝に賛成します。一方、物部尾輿大連らは「日本には古来より八百万の神を礼拝する宗教があり、異国の神を取り入れれば日本の神の怒せてしまう」として、仏の礼拝に反対します。
欽明天皇はどちらの意見にも一理あるとして、試しに蘇我稲目大臣に仏を礼拝させてみると、国内で疫病が発生し、多くの国民が病死するという事件が起こります。
そのため、仏の礼拝は良くないとして、一度 仏像や仏堂を焼いて仏教を排斥します。
しかし、後に仏教音楽とともに光り輝く楠木が発見され、天皇はこれを天啓と捉えて仏像を造らせ、仏の礼拝を再開させます。
蘇我と物部の対立
時代は下り、敏達天皇の時代になると、蘇我の仏教を引き継いだ蘇我馬子大臣は、独自に仏殿を建てて仏像を礼拝するなど、本格的に仏教に打ち込んでいきます。
すると、蘇我馬子が病に罹り、原因を占ってみると、先代の蘇我稲目が祀った仏像の祟りであるという結果が出ます。天皇は、馬子に稲目の祀った仏像を祀らせると、今度は国内で疫病が蔓延し、多くの国民が病死するという事件が起こります。
事態を深刻であると捉えた物部守屋大連らは、全ての元凶は蘇我馬子大臣が始めた仏教に原因があると天皇に訴え、天皇は仏教を廃止するように命令を出します。
その後、仏教を根本的に排除しようとする物部守屋を中心とする排仏派が、仏殿や仏像を焼き捨て、さらに馬子の娘の衣服を剥ぎ取って大衆の前で鞭打ちの刑にするなど排仏活動を強行すると、今度は逆に国内で天然痘が蔓延するようになります。その際、天皇と物部大連も天然痘に罹ったとされています。
国民は物部の排仏活動を良く思っておらず、馬子も病気平癒のための仏教の再開を懇願したことから、天皇は一部で仏教を再開することを許可しますが、排仏派は相変わらず仏教の排除を諦めません。
そうした経緯から、神仏を交え、蘇我と物部の間で本格的に対立関係が生じます。
用明天皇の帰依
敏達天皇の後、聖徳太子の父である用明天皇が即位します。
敏達天皇は排仏を支持していますが、用明天皇は仏教を容認しており、自分自身も仏教に帰依しようとして、それを群臣に協議させます。
当然のことながら、物部守屋を中心とする排仏派は大反対しますが、仏教を広めんとする蘇我馬子は大賛成します。以後、蘇我馬子を中心とする崇仏派が、内裏(皇居)に法師を迎えるようになったことから、物部守屋を激怒させ、排仏派は崇仏派の中心人物の命を狙うようになります。
なお『日本書紀』では、排仏派の中臣勝海によって、崇仏派の皇子である太子彦人皇子と竹田皇子に呪詛を掛けようとしますが、未遂に終わり、排仏派を裏切って崇仏派になったものの、崇仏派の舎人に斬り殺されています。
一方『聖徳太子伝暦』では、排仏派の中臣勝海によって、用明天皇と蘇我馬子に呪詛が掛けられ、用明天皇はその影響で呪殺され、蘇我馬子は病に陥ったとされています。
排仏派のクーデター
排仏派は、神道を奉る思想を持つ天皇を擁立しようとして、穴穂部皇子を中心とする一派に取り入ります。
兼ねてより帝位を狙っていたとされる穴穂部皇子は、物部守屋とともに皇位簒奪の計略を画策し、秘密裏に計画実行に向けて活動しますが、途中で計画が露呈したことから正式に逆賊と位置付けられ、朝廷の命によって誅殺されます。
よって、共謀した物部守屋も逆賊と見なされ、蘇我馬子は逆賊粛清の大義名分を以って兵を起こし、物部守屋と対峙します。
丁未の乱
蘇我馬子は皇族や諸豪族など多くの者を味方に付けて進軍し、物部守屋の館で物部軍と衝突します。
物部氏は古来より朝廷の軍事を司ってきた氏族であるため 非常に強く、その強さに怯んだ蘇我軍は 3度も退却したとされます。その蘇我軍には厩戸皇子(聖徳太子)も参戦しており、軍の後方に控えていました。
戦いの最中、厩戸皇子は蘇我軍の劣勢を覆すべく、白膠の木で四天王像を造り、頭上に掲げて、「今、もし私を敵に勝たせてくださるのであれば、必ず護世四王(四天王)のために、寺塔を建てましょう」と戦勝祈願をし、同じく蘇我馬子も、寺院を建てて仏法を広めることを誓ったとされています。
イメージ |
すると、舎人の迹見赤檮(とみのいちい)の放った矢が大将・物部守屋を射抜き、その矢を以って守屋は討死します。
大将を失った物部軍は統制を失い、後に蘇我軍が勝利をおさめて丁未の乱は終戦を迎えます。
その後、厩戸皇子は誓い通りに四天王寺を建立し、蘇我馬子は法興寺(元興寺)を建立したとされています。
ちなみに『聖徳太子伝暦』では、物部守屋も神祇に戦勝祈願して矢を放ったが、その矢は太子の鎧に当たり、迹見赤檮の矢を受けて倒れ、秦河勝に止めを刺されたというような内容になっています。
丁未の乱の戦後
丁未の乱の戦後、蘇我軍は徹底して物部の残党を狩りを行ったとされています。
物部守屋の部下である「資人捕鳥部萬(つかいびとととりべよろづ)」という人物は、難波の守屋邸を守っていたところ、理由も告げられず蘇我軍に攻められたことに憤慨し、蘇我軍の多くの兵士を一人で倒した後に自害したとされています。
資人捕鳥部萬 |
そうした状況の中、物部一族は次々と蘇我軍に捕らえられて奴隷とされていきましが、逃げのびた者も多く、名を変え別人となって各地に散ったという説もあります。
その後、物部の領地と奴隷は、半分は蘇我馬子のものとなり、もう半分は四天王寺に寄進されたとされています。
なお、蘇我馬子の妻は物部守屋の妹であり、妻が物部一族の財産の相続権を主張したため、馬子が領地などを引き継いだともいわれているようです。
丁未の乱の参戦武将
丁未の乱については、主に『日本書紀』と『聖徳太子伝暦』の中に記載されています。
そこでは、物部守屋率いる物部軍に対し、蘇我馬子率いる蘇我軍には多くの皇族や豪族が参戦したと記されています。
以下、蘇我軍に参戦した武将をまとめてみたいと思います。(『日本書紀』のみは青、『聖徳太子伝暦』のみは赤で表示)
蘇我軍に参戦した武将
・泊瀬部皇子(はつせべのみこ、崇峻天皇)
・竹田皇子(たけだのみこ)
・廐戸皇子(うまやどのみこ、聖徳太子)
・難波皇子(なにわのみこ)
・春日皇子(かすがのみこ)
・蘇我馬子(そがのうまこ)
・迹見赤檮(とみのいちい)
・紀男麻呂宿禰(きのをまろのすくね)
・巨勢臣比良夫(こせのおみひらふ)
・膳臣賀施夫(かしはでのおみかたふ)
・葛城臣烏那羅(かづらきのおみをなら)
・大伴連噛(おほとものむらじくひ)
・阿倍臣人(あへのおみひと)
・平群臣神手(へぐりのおみかむて)
・坂本臣糠手(さかもとのおみあらて)
・春日臣(かすがのおみ)
・秦河勝(はたのかわかつ)
丁未の乱の謎
文献に記される「丁未の乱」について
日本の多くの歴史文献には、古墳時代に蘇我氏と物部氏の間で宗教を巡って争いがあったとされています。
しかし、それが戦争に至ったということが具体的に記されているのは『日本書紀』と『聖徳太子伝暦』ぐらいだと思われ、同時代の歴史が記される『古事記』、『先代旧事本紀』には、「丁未の乱」については全く記載されていません。
また、蘇我馬子が建てたとされる元興寺(法興寺)の縁起(元興寺伽藍縁起并流記資財帳)には、「丁未の乱」についての記載はなく、推古天皇の時代に太子と天皇の前で、物部・中臣は過去の過ちを反省して神と仏を共に尊ぶことを誓い、諸臣らは和解した旨が記されています。
こうした文献に記される歴史の矛盾点から、非実在説も存在しているようです。
『聖徳太子伝暦』についてはこちらを参照:【聖徳太子の伝説】
四天王寺で祀られる排仏派の諸連の霊
四天王寺にある聖霊院は、聖徳太子を祀っていることから「太子殿」とも呼ばれていますが、その敷地内の通常非公開の場所には「守屋祠」と呼ばれる社殿が建立されており、そこには「丁未の乱」で蘇我と争った諸連が祀られています。社殿の様相から神道形式で祀られているとも考えられますね。
なお、毎月21日の大師会の日には守屋祠に続く入口が開かれるため、毎月この日にのみ参拝可能とされています。なお、江戸時代の地誌である摂津名所図会には「太子堂の後ろにあり。今参詣の者、守屋の名をにくむや、礫を投げて祠を破壊す。寺僧これを傷んで熊野権現と表をうつ。祭る所、守屋大連、弓削小連、中臣勝海連の三座なり」と記載されています。
守屋祠の祭神
・物部守屋大連(もののべのもりやおおむらじ)
・弓削小連(ゆげのこむらじ)
・中臣勝海連(なかとみのかつみむらじ)
なお、守屋祠について四天王寺には「聖徳太子の誓いによって物部氏の土地を没収し物部氏の部民を使役して四天王寺を建立したのであるが、これを守屋公の霊がお許しになった事、さらにお助けになった事で、無事四天王寺が出来た事を願いが成就できたとして、守屋公を祀った」と伝えられているそうです。
しかしなぜ、わざわざ四天王寺の境内、かつ、太子殿の近くに排仏派の霊を祀ったのでしょうか?という点に疑問を感じます。
四天王寺についてはこちらを参照:【四天王寺】
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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