島根県益田市鎌手町の沖に浮かぶ高島(たかしま)です。

別名「七戸島」とも呼ばれ、1960年までは島民が暮らしていたとされています。


概要

人文研究見聞録:上空から見た高島

高島(たかしま)は、島根県益田市北部の沖に浮かぶ島であり、人が住み付き始めた時期は明らかでないとされています。なお、室町時代の応永年間(1394~1428年)に高島を根拠地とする海賊が現れ、当時 石見を支配していた益田兼理(ますだかねまさ)が兵を送って平定したと云われているそうです。

高島平定後より、島に人が住み着き始めたとされていますが、江戸中期の正徳元年(1711年)秋にネズミが大量発生して耕作物を食い荒らしたために、島民の生活困窮が顕著になり、翌年には全員が本土へ逃げたとされています。しかし、藩によって島民に対する帰島の説得が行われ、逃げた島民の内の少数が帰島したそうです。

その後、島民は漁業など営んで暮らしていたそうですが、昭和47年(1972)の集中豪雨で大きな被害を受けたため、島民は本土へ集団移住することとなり、以後無人島となったとされています(現在は磯釣りスポットとなっている)。

お伊勢島伝説

高島にはお伊勢島伝説という伝説が伝えられています。

お伊勢島伝説

昔、津田村の娘「お伊勢」が高島の若者に嫁いだ。はじめは幸せな気持ちだったが単調な島の生活に飽き、やがて望郷の思いに変わった。

しかし、津田村までは三里の海に隔てられおり、帰るすべもなく対岸を眺めては涙を流す日々を送っていた。ある日、お伊勢は島の周囲(一周)が一里であると知り、三周できると対岸に泳ぎつける事に気づいた。

波の静かな日、お伊勢は試しに泳いでみたところ、島を三周する事ができた。「これで帰ることができる」という喜びに疲れも忘れ、そのまま対岸を目指して泳ぎ始めた。そして、荒磯へ半里の小島に泳ぎ着き、あと少しで着くと微笑んだ。

しかしその時、お伊勢は安堵で気が緩んだのか、そのまま息絶えてしまった。そして、これを知った浦人たちは、お伊勢の心根を哀れみ涙を流した。

以来、この小島を「伊勢島」と呼び、月夜の晩にはお伊勢の声が聞こえてくると伝えられている。

参考:「石見舟歌に生きる『おイセ』の物語」案内板

ちなみに、高島の「お伊勢島伝説」は、「まんが日本昔ばなし」「お伊勢物語」としてアニメ化されており、昭和62年に放送されたそうです。

なお、動画はyoutubeなどの動画投稿サイトで視聴することができます。

乙子狭姫伝説

高島には益田市に残る乙子狭姫伝説(おとこさひめでんせつ)に因むとされています

乙子狭姫伝説(おとこさひめでんせつ)

※原話は石見弁ですが、標準語に修正してあります

神様がこの世を治めておられた頃のお話です。広い海の上を1羽の雁(がん)が飛んでおりました。この雁は、羽の一部に赤い色が混じっているのか、光の加減で体全体が赤く見えることがあります。

また、よく見ると、その背中に小さくて可愛い女の子がしっかりとしがみついています。しかも、その腰には小さな袋がくくりつけてあります。

雁は女の子に「もうすぐでございます。目指す島が見えてきましたよ。」とでも言うように、1つの島を目指して大きく羽ばたいて飛んでいました。

この小さな女の子は、乙子狭姫(おとこさひめ)という名であります。母は大宣都比売命(おおげつひめのみこと)と言って、乙子狭姫はその末娘でした。

そして、母はもともと五穀(米、麦、キビ、アワ、マメの5種類の作物)を育てる神様でした。この母神様は実に不思議な力を持っておられまして、身体のどこかを撫でれば作物の種が自由に出てきます。

このことを知った曽茂利(そもり、朝鮮半島)に住んでいる気性の荒い神様が、「大宣都比売命の身体は、一体どんな仕組みになっているのやら実に不思議だ。どれ、ひとつ身体の中を調べて見てやろう。」と言って、ある日、大宣都比売命を呼んできて、その身体を目も当てらないほどに切り裂きました。

しかし、特別変わっていることなど何もありませんでした。それをもって大宣都比売命は憐れな最後を遂げてしまわれたのです。

大宣都比売命は、自分がいつかはこんなことになると知っておれたんでしょうね。ある日、乙子狭姫を呼んで、「私に万一のことがあったら、お前は遠い東の国へ行きなさい。そして、その時にはこの袋を必ず持って行きなさい。この中には色んな作物の種がある。この種を東の国の人に分け与えるが良い。種は千年も万年も生き続けるでしょう。東の国は、美しい静かな国だからそこでお前は暮らすのよ」と言っておられた矢先のこの災難でしたからねえ。

乙子狭姫は母の大宣都比売命にすがりついて泣きました。しかし、いつまでも悲しんでおるわけにはいかない。母神様が言っておられたように、袋を持って東へ東へと向いて海の上を飛んでいました。

姫が乗っている赤い雁は、姫が小さい頃から可愛がって育てた鳥でした。なので雁はよく姫の言うことを聞き分け、また姫も雁の顔を見るとその気持ちがよく分かります。

長いこと飛んでいた雁は、やがて1つの島に舞い降りました。するとその時「ワシの背中に降り立ったのは誰じゃ」と言って、荒々しい声が地の底から聞こえてきました。「私は、大宣都比売命の子の乙子狭姫です。五穀の種を、はるか西の国から持ってきたんですよ」姫は大きな声で答えました。「ワッハッハッハッ…五穀の種か。ここは大山祗(おおやまずみ)足長土賊(あしながつちぞく)の使いの鷹(タカ)が住む島だ。ワシらは肉食こそするが五穀の種などはいらん。そうそうに立ち去れ」姫と雁は仕方なく、再び飛び上がりました。この島は「高島(益田市鎌手町の沖に浮かぶ高島)」という名の島で、畑を作ってもほとんど何も作物はできなくなってしまったそうです。

鷹の勢いに驚いて飛び立った雁は、遥か彼方の島へ舞い降りました。しかし、ここでも「ワシの背中で休む者は誰じゃ」と言って叫ぶ者がいました。姫は先ほどと同じように名を名乗りました。「ここは、大山祗の使いの鷹が住むところじゃ。ワシらは肉を食らう者だから五穀の種などには用はない。1日たりともここに置いておくわけにいかん。早く立ち去れ」この島は「大島(那賀郡三隅町の沖に浮かぶ大島)」という名の島でした。

こうして雁と姫は、あちらこちらを飛び回ってようやく安住の地を見つけました。それが今の「狭姫山(さひめやま)」でした。またの名を「比礼振山(ひれふりやま)」とも言いいます。「狭姫」というのは「小さい姫」いう意味なのです。後の世の人は、この姫を「ちび姫さん」と呼ぶようになりました。また、雁が降り立った地を「赤雁(あかがり)」と呼び、後に地名となりました。

姫はこの山を住処にして、あちらこちらの里に出ては、稲や麦の種を分け与えました。それで、この辺りを「種(現・益田市下種町、上種町)」と呼ぶようになったのだそうです。

山に囲まれ、海にも近いこの土地は、五穀が非常に豊かに実り、里ではのんびりとした暮らしが続きました。人々は乙子狭姫を「ちび姫さん」と呼んで親しんだそうです。

そして、姫の働きを讃えて感謝して狭姫山の近くにお宮を建てて祀りました。これが「乙子の権現さん」であり、今でもこの辺りの人達は五穀豊穣を願ってお参りしています。

参考サイト:伝説の部屋

この伝説で雁が最初に降り立った場所が、この高島だとされています。そして、伝説の通り、高島では作物があまり収穫できないんだそうです。

乙子狭姫伝説の考察

乙子狭姫伝説に登場する大宣都比売命(オオゲツヒメ)は、『古事記』にも登場する神様です。

『古事記』では、高天原を追放されて食糧を求めてやってきたスサノオに食事を振る舞うも、鼻や口、尻から食材を取り出して、それを調理していたところを見られて、それに怒ったスサノオに斬り殺されるという憐れな神様です。その後、オオゲツヒメの頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれたとされています。

また、『日本書紀』では同様に食を司る神として保食神(ウケモチ)が登場し、ここではツクヨミに食事を振る舞った際に口から飯を出したので、ツクヨミを怒らせて斬り殺されています。その後、保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となったとされており、古事記における大宣都比売命(オオゲツヒメ)の説話と類似します。

「乙子狭姫伝説」では、大宣都比売命(オオゲツヒメ)は曽茂利の気性の荒い神によって斬り殺されますが、曽茂利とは朝鮮半島の新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)を指し、この地にはスサノオにまつわる伝説が残っているとされています。仮に「曽茂利に住んでおる気性の荒い神様」がスサノオだったとしたら、「乙子狭姫伝説」が『古事記』の説話と繋がりますね。

また、とある古史古伝では、スサノオはツクヨミと同一の神とされます。そうなると「日本書紀」とも繋がる事となり、それが「乙子狭姫伝説」に繋がるとなれば、文献上における面白い歴史の解釈ができます。

となると、石見地方にはそれらを裏付ける変わった文化遺産があるのかもしれませんね。

住所: 島根県益田市西平原町(マップ
交通: 益田市鎌手の大浜港から釣り船、島義丸、恵翔丸、益田丸が出ているとされる(要検証)
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。