伝説の剣豪・岩見重太郎の伝説
2015/09/18
京都府宮津市の天橋立には、岩見重太郎という伝説の剣豪にまつわる場所がいくつかあります。
そこで、今回は その岩見重太郎という剣豪の人物像を交えて、伝説の各スポットを紹介したいと思います。
岩見重太郎とは?
岩見重太郎(いわみじゅうたろう)とは、桃山~江戸初期に活躍したとされる武芸者です。
父の仇討のために、仇である広瀬軍蔵、鳴尾権蔵、大川八佐衛門を追って各地を旅したとされ、その道中で怪物退治をはじめとする数々の武勇談を打ち立てて、天正18年(1590年)、天橋立にて ついに三人を討ち果たしたとされています。
なお、怪物退治で言えば、「若杉山の大蛇退治」や「信濃の狒々(ひひ)退治」が知られています。
そうした数々の武勇伝が江戸時代の軍記や講談、歌舞伎などで語られ、やがて伝説の剣豪として有名になったそうです。
なお、岩見重太郎と同一人物とされる人物に、戦国武将の薄田兼相がいます。
薄田兼相とは?
薄田兼相(すすきだかねすけ)とは、前半生不明とされる戦国武将であり、京都または九州出身とされています。
初めは小早川隆景、後に豊臣秀頼に仕官したとされ、大坂の陣に参戦し、大坂冬の陣では浪人衆を率いて博労ヶ淵砦の守備に当たったそうです。そして、後の大坂夏の陣にて、伊達政宗の家臣・片倉重綱の軍勢と戦って、河内の道明寺で討死にしたと云われています。
なお、上記の岩見重太郎同一人物説によれば、小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男として誕生し、父が同僚の広瀬軍蔵によって殺害されたため、その敵討ちのために各地を旅したとされています。
そして、その道中で怪物退治をはじめとする数々の武勇談を打ち立て、天正18年(1590年)天橋立にてついに広瀬を討ち果たし、その後、叔父の薄田七左衛門の養子となったとされているようです。
岩見重太郎試切之石
天橋立の途中にある「岩見重太郎試し切りの石」です。
重太郎が父の仇を追って宮津までやってきた際、刀の切れ味を試したとされています。
岩見刀
天橋立の途中に展示されている「岩見刀」です。天橋立神社付近の磯清水亭にあります。
上記の岩見重太郎の仇討にまつわる刀とされ、かつては天橋立明神に奉納されていたそうです。
しかし、戦後の混乱で行方不明になってしまったんだそうです。
そのため、現在は磯清水亭主によって作られた木製の岩見刀が展示されています。
岩見重太郎仇討ちの場
天橋立の途中にある「岩見重太郎仇討ちの場」です。
岩見重太郎が、仇を匿っていた藩主の京極家の許しを得て、見事仇討を成し遂げた場所とされています。
籠神社の狛犬
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籠神社の狛犬には作者の魂が宿っているとされ、天正年中には、天橋立の松林で通行人を脅かしていたそうです。
そこで仇討のために宮津を訪れていた岩見重太郎が、狛犬の鎮霊を決意し、待ち伏せて一太刀浴びせたとされています。
その際、狛犬の前足が重太郎に斬られたため、社前に還って出歩かなくなったと云われています。
そのため、籠神社の狛犬の前足には、現在でも修復痕が見られます。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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