五十猛神社 [島根県]
2015/10/21
島根県大田市五十猛町にある五十猛神社(いそたけじんじゃ)です。
五十猛駅からほど近い場所に位置しており、祭神にスサノオの子である五十猛神(イソタケル)を祀っています。
大田市には「スサノオが息子のイソタケルを連れて高天原から新羅国に天降り、そこから船で五十猛海岸に浮かぶ神島に上陸した」という言い伝えがあり、五十猛神はこの地に因む神として祀られ、地名の由来にもなっているようです。
なお、これと同様の説話が『日本書紀』にもあり、それを以ってスサノオは石見経由で出雲に至ったとも云われています。
神社概要
由緒
『神国島根』という県発行の調査報告書には、「この地には須佐之男命、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命が半島から帰国の上陸の地との伝えがある。 磯竹村(五十猛町)の内大浦の神島に舟で上陸し、父神・武進雄命(素戔嗚尊)は大浦港に鎮座し、御子・五十猛神、抓津姫神、大屋姫三柱の神は、磯竹村の内の今の宮山に御社を立て鎮座した。それより地名を五十猛村と言う」としています。
この内容に従えば、スサノオは出雲以前に石見の大浦港(韓神新羅神社)に鎮座し、イソタケルと2柱の妹神は現在の五十猛に上陸してそこに鎮座し、それが現在の五十猛神社になったということになります。となると、創祀は神代に遡る相当古い神社であると考えることができます。
また、県発行の『ふるさと読本』にある「石見風土記」には、五十猛神社と韓神新羅神社とは共に平安時代(925年)に創建されたとあります。ただし、これは社殿の創建を意味するとされています。
なお、上記の由緒と同様の神話が『日本書紀』の中に異伝として記されており、周辺の伝承としても伝えられています。
祭神
五十猛神社の祭神は以下の通りです。
主祭神
・五十猛命(イソタケル、イタケル):スサノオの御子神で、妹神と共に全国に木々の種を撒き、最終的に紀伊国に鎮まった
→ 紀伊国の大屋毘古神(オオヤビコ)と同神とする説がある
→ 当地では地名からイソタケルと読まれるが、文献ではイタケルと読まれるのが通例である
・應神天皇(おうじんてんのう):第15代天皇であり、八幡大神として祀られる
→ 全国の八幡神社で祀られている(武神として武士の崇敬を集めたとされる)
配祀
・抓津姫神(ツマツヒメ):スサノオの御子神で、兄神・五十猛神と共に全国に木々の種を撒いたとされる
・大屋姫神(オオヤヒメ):同上
合祀(式内社 國分寺霹靂神社)
・別雷神(ワケイカツチ):上賀茂神社祭神
→ 『ホツマツタヱ』という文献では、ニニキネ(瓊々杵尊)の別名とされる
・玉依姫命(タマヨリヒメ):下鴨神社祭神
→ 『ホツマツタヱ』という文献では、タケヒト(神武天皇)の母とされる
・五十猛命(イソタケル、イタケル):スサノオの御子神で、妹神と共に全国に木々の種を撒き、最終的に紀伊国に鎮まった
→ 紀伊国の大屋毘古神(オオヤビコ)と同神とする説がある
→ 当地では地名からイソタケルと読まれるが、文献ではイタケルと読まれるのが通例である
・應神天皇(おうじんてんのう):第15代天皇であり、八幡大神として祀られる
→ 全国の八幡神社で祀られている(武神として武士の崇敬を集めたとされる)
配祀
・抓津姫神(ツマツヒメ):スサノオの御子神で、兄神・五十猛神と共に全国に木々の種を撒いたとされる
・大屋姫神(オオヤヒメ):同上
合祀(式内社 國分寺霹靂神社)
・別雷神(ワケイカツチ):上賀茂神社祭神
→ 『ホツマツタヱ』という文献では、ニニキネ(瓊々杵尊)の別名とされる
・玉依姫命(タマヨリヒメ):下鴨神社祭神
→ 『ホツマツタヱ』という文献では、タケヒト(神武天皇)の母とされる
関連知識
五十猛神とは?
五十猛神(イソタケル)とは日本神話に登場する神であり、『日本書紀』と『先代旧事本紀』に登場しています。なお、「射楯神(いたてのかみ)」とも呼ばれることがあるそうです。
『日本書紀』の異伝には、イソタケルについて以下のように記述されています。
『日本書紀』第八段第四の一書
神々の時代、高天原(たかまがはら)で悪行の数々を働いたスサノオは、その罪を以って高天原を追放され、子のイタケルを連れて新羅国(しらぎのくに)に天降り、曾尸茂梨(そしもり)に辿り着きました。
そこでスサノオは「私は この土地に居たくはない。」と言い、土で船を造って東を目指して旅立ち、出雲の簸之川(ひのかわ)に辿り着き、その川上の鳥上之峯(とりかみのみね)に降り立ちました。
(中略)
また、スサノオはイタケルとともに天降ったときに、多くの木の種を持っていました。この種は韓国には植えずに全て持ち帰り、九州から本州にかけて撒いたため、日本に青々としていない山は無いのです。その後、イタケルは紀伊国(きいのくに)に留まりました。
また、スサノオは「韓国(からくに)の島には金銀がある。子孫が治める国に船が無ければきっと困るだろう。」と言い、自らの髭を抜くと杉が生まれ、胸毛を抜くと檜(ひのき)が生まれ、尻毛を抜くと柀(まき)が生まれ、眉毛を抜くと樟(くすのき)が生まれました。
スサノオは、その木々の用途を定め、こう言いました。「杉と樟は船を造るのに使い、檜は宮殿を造るのに使い、柀は人々の棺桶を造るのに使いなさい。その他、作物の成る種は よく蒔いて育てなさい。」
スサノオの子であるイタケルと妹のオオヤツヒメとツマツヒメは、スサノオの言うことを守り、木々の種を蒔いて廻りました。スサノオはしばらく熊成峯(くまなりのみね)に留まった後、やがて根の国へと旅立ちました。
神々の時代、高天原(たかまがはら)で悪行の数々を働いたスサノオは、その罪を以って高天原を追放され、子のイタケルを連れて新羅国(しらぎのくに)に天降り、曾尸茂梨(そしもり)に辿り着きました。
そこでスサノオは「私は この土地に居たくはない。」と言い、土で船を造って東を目指して旅立ち、出雲の簸之川(ひのかわ)に辿り着き、その川上の鳥上之峯(とりかみのみね)に降り立ちました。
(中略)
また、スサノオはイタケルとともに天降ったときに、多くの木の種を持っていました。この種は韓国には植えずに全て持ち帰り、九州から本州にかけて撒いたため、日本に青々としていない山は無いのです。その後、イタケルは紀伊国(きいのくに)に留まりました。
また、スサノオは「韓国(からくに)の島には金銀がある。子孫が治める国に船が無ければきっと困るだろう。」と言い、自らの髭を抜くと杉が生まれ、胸毛を抜くと檜(ひのき)が生まれ、尻毛を抜くと柀(まき)が生まれ、眉毛を抜くと樟(くすのき)が生まれました。
スサノオは、その木々の用途を定め、こう言いました。「杉と樟は船を造るのに使い、檜は宮殿を造るのに使い、柀は人々の棺桶を造るのに使いなさい。その他、作物の成る種は よく蒔いて育てなさい。」
スサノオの子であるイタケルと妹のオオヤツヒメとツマツヒメは、スサノオの言うことを守り、木々の種を蒔いて廻りました。スサノオはしばらく熊成峯(くまなりのみね)に留まった後、やがて根の国へと旅立ちました。
なお、『日本書紀』『先代旧事本紀』では「イタケル」と読まれます。それぞれに記される内容は ほぼ同様です(文末にそれぞれの紹介動画を載せておきます)。
また、『先代旧事本紀』に「またの名を大屋彦神」と記されることから、『古事記』で大穴牟遅神(オオナムチ、後の大国主)を匿った木国の大屋毘古神(オオヤビコ)と同一神であるとも云われています。
しかし、全国に祀られるスサノオの八王子(八柱御子神)の中で五十猛神と大屋毘古神が別々に祀られることや、大田市内には「五十猛」と「大屋」というそれぞれの神々に因む地名が存在することなどから、五十猛神は大屋毘古神とは別々の神であるという説もあるようです。
なお、五十猛神は上記の神話から、主に「林業の神」として信仰され、土の船を作り海を渡ったことから、造船、航海安全、大漁の神としても信仰されています。
ちなみに、五十猛神社の創建由緒では五十猛に磯竹村(五十猛町)降臨したとされますが、仁多郡の島上の峰(船通山)や対馬、壱岐を経由して有明(佐賀県)に上陸したとも云われているそうです。
五十猛(地名)の由来
「五十猛」という地名は、上記の五十猛神社の創建由緒に由来するとされています。
また、大田市の五十猛海岸の東には創建由緒にも記される「神島(かみしま)」という島が浮かんでおり、「スサノオが新羅国から出雲の国に向かう途中、上陸地点を探すのに船を泊めて、対岸を観察した場所である」という言い伝えが残されているそうです。
なお、案内板による説明は以下の通りです。
神島
神島は『日本書紀』により、日本の国造りの祖であるスサノオノミコトが息子のイソタケルノミコトと共に、高天原から新羅国へ天降り、後に埴土船に乗って上陸された地と云い伝えられる。
砂浜から神島へ向かっている岩場は、神島に船を繋いだ後、スサノオノミコト一行が最終的に陸地に上がられた場所と伝えられ、「神上(しんじょう)」と呼ばれる。
また、近くにはスサノオノミコトを主祭神として祀る韓神新羅神社(からかみしらぎじんじゃ)、イソタケルノミコトを主祭神として祀る五十猛神社がある。
神島は『日本書紀』により、日本の国造りの祖であるスサノオノミコトが息子のイソタケルノミコトと共に、高天原から新羅国へ天降り、後に埴土船に乗って上陸された地と云い伝えられる。
砂浜から神島へ向かっている岩場は、神島に船を繋いだ後、スサノオノミコト一行が最終的に陸地に上がられた場所と伝えられ、「神上(しんじょう)」と呼ばれる。
また、近くにはスサノオノミコトを主祭神として祀る韓神新羅神社(からかみしらぎじんじゃ)、イソタケルノミコトを主祭神として祀る五十猛神社がある。
なお、江戸中期(1759)の『八重葎』には「沖に竹島あり、其の磯だから磯竹と言うと記す」とあり、太田市五十猛町の昔の名前が「磯竹」であったことを示しています。
ちなみに、朝鮮半島の東には鬱陵島(ウルルン島)という島があり、木々が生い茂るこの島には半島からの逃亡者も住んだと云われているそうです。後に竹嶋と呼ばれ、また磯竹嶋とも呼ばれたとされています。
この磯竹嶋は「五十猛嶼」とも表記され、これも五十猛神に由来すると云われており、五十猛神が新羅の曽尸茂梨から木種を持って日本に戻る途中に立ち寄ったとの伝承が江戸時代の『残太平記』にあります。
『残太平記』の一文
ところで隠岐国の商人を呼んで五十猛嶋の事を問えば、隠州より七十里辺りにあるという。
東西九里に竹が生茂る竹藪の中に路があり人の居ない一つの岩屋がある。内の広さは一町四方も有るという。
ここに行けば、色が黒く一つ眼で、竹の葉を衣として着て、鉄棒を振う者に追い出されるという…。
その者は、素盞烏尊(スサノオ)の御子で此の島に住む五十猛命(イソタケル)と伝えられる神という。
※古文を現代語訳にしているため、誤訳を含む可能性があります。
ところで隠岐国の商人を呼んで五十猛嶋の事を問えば、隠州より七十里辺りにあるという。
東西九里に竹が生茂る竹藪の中に路があり人の居ない一つの岩屋がある。内の広さは一町四方も有るという。
ここに行けば、色が黒く一つ眼で、竹の葉を衣として着て、鉄棒を振う者に追い出されるという…。
その者は、素盞烏尊(スサノオ)の御子で此の島に住む五十猛命(イソタケル)と伝えられる神という。
※古文を現代語訳にしているため、誤訳を含む可能性があります。
境内の見どころ
鳥居
五十猛神社の鳥居です。
最近、狛犬と共に建て直されたようで、非常に綺麗な石鳥居となっています。
拝殿
五十猛神社の拝殿です。
注連縄
拝殿には巨大な注連縄が掛けられています。
神紋
五十猛神社の社殿には「二重亀甲に剣花角」の紋が刻まれています。
これは出雲大社と同様の紋となっています。
謎の祠
五十猛神社の境内には謎の小さな祠があります。
そして、その左右の傍らには、狛犬とも取れる奇妙な石像が安置されています(直立している)。
スポンサーリンク
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
スポンサーリンク
コメント
1 件のコメント :
日韓の史料を見ると新羅は倭人系の国家であることが分かります。
『三国史記』によると新羅の祖の赫居世居西干は異国人
『新撰姓氏録』によると神武天皇の兄である稻飯命が新羅の祖(朴氏の始祖で初代王の赫居世居西干)
『三国史記』によると新羅の建国時に諸王に仕えた重臣である瓠公は倭人
『三国遺事』によると「朴」は辰韓の語で瓠を意味する(朴氏の始祖である赫居世居西干と瓠公は同族とする説がある)
『古事記』『日本書紀』によると赫居世居西干の次男アメノヒボコが日本の但馬国に移住
『三国史記』によると昔氏の始祖で第4代王の脱解尼師今は倭人(多婆那国の出身。多婆那国の場所は日本の但馬あたり)
『三国史記』によると新羅三王家の一つ金氏の始祖である金閼智を発掘したのは瓠公(おそらく金氏も倭人)
コメントを投稿