人文研究見聞録:国王神社 [茨城県]

茨城県坂東市岩井にある国王神社(こくおうじんじゃ)です。

関東の英雄・平将門公を祀る神社であり、境内地は将門公の終焉の地であるとも云われています。

そのため、地元からの篤い崇敬を集め、毎年11月の第2日曜日には「将門まつり」が行われているそうです。

なお、神社のある坂東市岩井は将門公の本拠であったことから、将門公に因む史跡が数多く残っています。

平将門についてはこちらの記事を参照:【平将門とは?】


神社概要

由緒

社伝によれば、平将門の戦没の折、出家して陸奥磐城(福島県)の恵日寺付近に隠棲していた将門公の三女・如蔵尼(にょぞうに)が、父の33回忌に当たる天禄3年(972年)に霊夢を見たことから下総に帰郷し、山林で見つけた霊木から父の霊像を造り、祠を建てて像を祀ったことに始まるとされています。

なお、『神社分限帳』には「平将門が討たれた所にその霊を祀った」という記述があり、天慶3年(940年)2月14日、藤原秀郷・平貞盛連合軍との戦で落命した将門公の終焉の地が国王神社の境内と伝えられているそうです。

祭神

人文研究見聞録:国王神社 [茨城県]

国王神社の祭神は以下の通りです。

主祭神

・平将門公(たいらのまさかど):平安時代に活躍した関東の豪族であり、民衆を救ったとして関東では英雄視される
 → 死後も首だけで生き続けたとする伝承があり、日本最強の怨霊としても有名である
 → 国王神社の境内地が終焉の地と伝えられる(『神社分限帳』による)
 → 御神体は「寄木造 平将門木像」である(茨城県指定文化財)

社紋

人文研究見聞録:国王神社 [茨城県]

国王神社の社紋は平将門公が用いた「九曜紋(くようもん)」となっています。

九曜(くよう)とは、インド占星術で扱われる9つの天体とそれらを神格化した神に由来し、日本では宿曜道や陰陽道の占星術に用いられたとされています。

なお、将門公は妙見信仰(北極星を神格化した妙見菩薩の信仰)であったとされ、一説によれば将門公の九曜紋は「北斗七星、輔星、北極星」を表すとも云われているようです。

平将門について

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平将門(たいらのまさかど)とは、平安中期の関東の豪族であり、平安時代 最大の内乱である「天慶の乱(平将門の乱)」の首謀者として有名です。

また、武士の魁(さきがけ)ともいわれ、関東の所領から産出される豊富な馬を利用した騎馬隊を駆使し、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも云われています。

そのほか、「鋼鉄の身体を持ち、七人の影武者を宿す」という不死身伝説や、「晒し首になった後も生き続けた」という首の伝説など、多くの伝説を持ち、近世も「首塚を壊そうとすると祟られる」という怨霊伝説で畏怖や畏敬を集めています。

そんな平将門について、坂東平氏の台頭から平将門の乱までの歴史を追って紹介したいと思います。

坂東平氏の台頭

平安中期、朝廷は地方の政治を国司に一任していたため、地方において国司は祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持っていた。そのため、私利私欲に走る国司が多く、地方の政治は乱れていった。それに伴い、治安も悪化の一途を辿っていったため、自分たちの土地を護るために人々は武装し始めた(「武士」の発生)。

武士は当初は単独で戦っていたが、力を持った山賊らに勝てなくなったため、武士を率いる棟梁を地方の土着国司に求めた。そして、武士は土着国司を筆頭に「武士団」を結成し、やがて小勢力が集まって大勢力となり、貴族支配の社会を転覆させるほどの軍事力を有するようになった。

その代表格が、平将門の血筋である桓武平氏(桓武天皇の血統)である(ほかに清和源氏)。

将門の祖父・高望(たかもち)は、上総国(千葉県周辺)の国司として赴任したが、任期が過ぎても帰京せずに在地勢力との関係を深め、一族を率いて常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発した。その中で、将門の父・良将(よしまさ)は下総国(茨城県南部)を本拠として未墾地を開発、鎮守府将軍を勤めるなどして出世し、坂東平氏の勢力を拡大していった。

平氏一族の私闘

将門は15~6歳の頃に上京し、藤原忠平を私君として中級官人となるが、父・良将が死去したために帰郷すると、父の所領の多くが伯父・国香(くにか)や叔父・良兼(よしかね)によって横領されていた。将門はそれに怒り、下総国豊田を本拠として勢力を培っていった。

承平5年(935年)、将門は源護の子・扶、隆、繁の三兄弟に常陸国野本(筑西市)にて襲撃されるが、源三兄弟を討ち破り、逃げる扶らを追って源護の館のある常陸国真壁に攻め入り、周辺の村々を焼き払って三兄弟を討ち取った。その際、さらに伯父・国香の館である石田館にも火をかけ、国香を焼死させた(襲撃のきっかけは諸説ある)。

その後、源護や国香の子・貞盛(さだもり)らによって報復のための襲撃を受けるが、将門はそれを悉く撃破し、源護は朝廷に告状を出して将門を裁こうとするも、朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を赦(ゆる)された。

朝廷との対立

天慶2年(939年)、常陸国の豪族・藤原玄明(ふじわらのはるあき)が将門に頼ってきた。玄明は常陸国司・藤原維幾(ふじわらのこれちよ)に反発して納税を拒否、乱暴をはたらき、さらに官物を強奪したことなどから追捕令が出されていた。維幾は玄明の引渡しを将門に要求するが、将門は玄明を匿い、それに応じなかった。

その対立が高じて合戦となり、将門は兵1000人を率いて出陣した。維幾は3000の兵を動員して迎え撃ったが、将門に撃破されて国府に逃げ帰った。将門が国府を包囲すると、維幾は降伏して国府の印璽を差し出した。

その勝利を機に、将門は関東八ヵ国の国府を次々と占領し、独自に関東諸国の国司を任命した。また、上野国を占領した将門の陣営に、突如、八幡大菩薩の使いと称する巫女が現れて「八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授け奉る」と託宣すると、将門はそれを以って自らを「新皇(しんのう)」と称した(この巫女は菅原道真の霊魂だとされる)。

以来、将門の勢いに恐れた諸国の国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国などの国々も従え、遂に関東全域を手中に収めた。

将門謀反の報は直ちに京にもたらされ、同時期に西国で「藤原純友の乱」の報告もあったことから朝廷は驚愕した。そこで直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷(将門呪殺)が命じられた。また、「将門を討った者は身分を問わず貴族とする」という「太政官符」を全国各地に発布した。

平将門の乱

天慶3年(940年)、藤原忠文が征東大将軍に任じられ、追討軍が京を出立した。そのころ、将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた(この間、藤原秀郷は将門側につこうとしていたとも云われる)。

すると間もなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷と力を併せて4000の兵を集めているとの報告が入った。将門のもとには1000人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えてその人数で出陣した。

藤原玄茂の率いる将門軍の先鋒は、貞盛と秀郷の軍に撃破され、下総国で合戦になるもわずかな手勢の将門軍の勢いは揮わず、退却を余儀なくされた。

貞盛と秀郷はさらに兵を集めて、将門の本拠である石井に攻め入り、火を放った。将門は兵を召集するが、劣勢のためになかなか集まらず、わずか400の兵で陣を敷いた。そして、貞盛と秀郷の軍には藤原為憲も加わり、連合軍と将門の合戦が始まった。

南風(春一番)が吹き荒れると、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、貞盛、秀郷、為憲の軍を撃破した。しかし、将門が勝ち誇って自陣に引き上げる最中、急に風向きが変わり北風(寒の戻り)になり、風を負って勢いを得た連合軍は反撃に転じた。

将門は自ら先頭に立って奮戦するが、何処からか飛んできた矢が将門の額に命中し、その瞬間に首を刎ねられた。すると、将門の首は勢いよく飛び立ち、現在の東京の大手町に落ちたという。なお、将門に刺さった矢には藤原秀郷の名が刻まれていたとされる(また、将門の胴体は首を追いかけていき、途中で力尽きた場所が神田明神とも)。

将門の死によって将門軍は鎮圧され、その後、関東独立国はわずか2ヶ月で瓦解した。また、残党は掃討され、将門の弟たちや興世王、藤原玄明、藤原玄茂などは皆誅殺された。そして、将門を討った秀郷には従四位下、貞盛、為憲には従五位下がそれぞれ授けられた。

※藤原秀郷(ふじわらのひでさと):当時の関東最強の武士(俵藤太とも)。近江三上山の百足退治の伝説で有名

将門の首

平将門の乱の後、将門の首は京に持ち帰られて梟首(晒し首)とされた。しかし、将門の首は何ヶ月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかった。

しかし、歌人の藤六左近がそれを見て「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて」と歌を詠み上げると、将門はカラカラと笑い、たちまち朽ち果てたという(また、将門の首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいう)。

境内の見どころ

鳥居

人文研究見聞録:国王神社 [茨城県]

国王神社の鳥居です。

神仏習合を思わせる両部鳥居となっています。

参道

人文研究見聞録:国王神社 [茨城県]

国王神社の参道です。

真っ直ぐに拝殿へ繋がっています。

狛犬

人文研究見聞録:国王神社 [茨城県]
人文研究見聞録:国王神社 [茨城県]

国王神社の狛犬です。

拝殿

人文研究見聞録:国王神社 [茨城県]

国王神社の拝殿です。江戸中期の延宝3年(1675年)の建造物とされています。

茅葺屋根で千木や鰹木が無いという珍しい形であり、茨城県の重要文化財に指定されているそうです。

また、内部には「神像(御神体)の写真」や「将門公の肖像画」などが奉納されています。

なお、参拝時には神拝詞(祓え給い、清め給え、守り給い、幸え給え)を唱えるという独特の参拝作法があるようです。

人文研究見聞録:国王神社 [茨城県]
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本殿

人文研究見聞録:国王神社 [茨城県]

国王神社の本殿です。江戸中期の文化14年(1813年)の再建と云われています。

拝殿と同様に茅葺屋根の珍しい形であり、社殿の裏にはいくつかの彫刻があしらわれています。

人文研究見聞録:国王神社 [茨城県]
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境内社

人文研究見聞録:国王神社 [茨城県]
妙見社
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守大明神
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浅間大神

国王神社の境内社は以下の通りです。

・妙見社:由緒などは不明だが、社名から妙見菩薩もしくは天之御中主神を祀っているものと思われる
・守大明神:室町期の将門公の子孫・猿島郡司・平守明を祀っているとされる
・浅間大神:富士信仰に基づいて浅間大神(コノハナサクヤヒメ)を祀っているものと思われる

庚申供養塔

人文研究見聞録:国王神社 [茨城県]

国王神社の庚申供養塔(こうしんくようとう)です。

道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔とされ、日、月、青面金剛、三猿などが彫り込まれています。

なお、石塔に刻まれた記録から江戸中期の延享年間(1744~1748年)の造立であるとされています。

供養塔

人文研究見聞録:国王神社 [茨城県]

国王神社の供養塔です。

塔の付近には将門公とその娘・瀧夜叉姫についての説明書があります。

絵馬

人文研究見聞録:国王神社 [茨城県]

国王神社の絵馬には将門公に因んだ馬が描かれています。

社務所

人文研究見聞録:国王神社 [茨城県]

国王神社の社務所です。

御朱印を受けることもできるそうですが、参拝時には全く人気(ひとけ)がありませんでした。

料金: 無料
住所: 茨城県坂東市岩井951
営業: 終日開放
交通: 三妻駅(徒歩126分)、坂東号 庁舎間シャトル「国王神社」下車ほか

公式サイト: http://www.kokuou.org/
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。