島広山・石井営所跡 [茨城県]
2015/12/13
2020/09/29
茨城県坂東市岩井にある石井営所跡(いわいえいしょあと)です。
この島広山と呼ばれる台地には、かつて関東一円を制覇した平将門公の拠点である石井営所があったとされています。
そのため、坂東市の将門公ゆかりの史跡の一つに数えられています。
平将門についてはこちらの記事を参照:【平将門とは?】
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由緒
「石井の井戸」の伝説によれば、承平5年(935年)に将門公が王城建設の地を求めて島広の野を駆け巡っていた際、喉が渇いて困っていたところ、老翁が現れて水を噴出させたとされ、将門公はその老翁を祀るとともに当地を王城の地に定め、此処に営所を設けたとされています。
また、『将門記※』には「承平7年(937年)、将門公の雑役夫であった丈部小春丸が平良兼の間者となり、営所内を調査して報告すると、良兼は好機とばかりに精兵80余騎で石井営所に夜襲をかけたが、将門方の郎党の急信によって大敗した」と記されています。
※将門記(しょうもんき):平将門の乱の顛末を描いた初期軍記物語
規模
将門公が関八州(関東八カ国)を攻めた時、2000~3000騎が終結したとされることから、営所の周辺には重臣・郎党の住居および駐屯所、食糧庫、馬場などの施設が揃っていたと推測されています。
そして、将門公が治める関東の政治・経済・軍事の拠点として賑わったとされていますが、天慶3年(940)に将門公は藤原秀郷と平貞盛の連合軍との合戦して破れたため、営所周辺は概ね焼き払われてしまったそうです。
石井営所之記
石井営所跡に安置された石碑には以下のように記されています。
平将門は桓武天皇5代の孫で、父・良将の没後、藤原忠平を頼って在京すること十年余、相馬御厨下司として帰郷し、地論のことから豊田郡鎌輪に出陣して伯父等と戦い進めて、この地 島広山の石井営所に館して、良兼の軍を退け、ついに関東を制覇した。
しかし、親皇と称されたことから追われる身となり、藤原秀郷、平貞盛等の軍に倒れた。時に天慶3年2月14日、齢38歳であった。将門の真意は久しく誤解されて来たが、今日になって経世済民の志が知られ、岩井市民や一般に敬愛されるに至った。云々
しかし、親皇と称されたことから追われる身となり、藤原秀郷、平貞盛等の軍に倒れた。時に天慶3年2月14日、齢38歳であった。将門の真意は久しく誤解されて来たが、今日になって経世済民の志が知られ、岩井市民や一般に敬愛されるに至った。云々
石井営所の雰囲気
石井営所は住宅地の一角にあり、周囲には石碑などが置かれています。
具体的な営所の痕跡は見当たりませんでしたが、将門公ゆかりの史跡として大切に保存されているようです。
なお、付近には一言神社や延命寺など、将門公にまつわる社寺や史跡がいくつかあります。
料金: 無料
住所: 茨城県坂東市岩井1603-2
営業: 終日開放
交通: 三妻駅(徒歩123分)、坂東号 庁舎間シャトル「国王神社」下車ほか
公式サイト: http://www.city.bando.lg.jp/sp/page/page000384.html
住所: 茨城県坂東市岩井1603-2
営業: 終日開放
交通: 三妻駅(徒歩123分)、坂東号 庁舎間シャトル「国王神社」下車ほか
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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