子安神社(東大寺境内) [奈良県]
2017/07/27
奈良県奈良市にある子安神社(こやすじんじゃ)です。
東大寺の境内に鎮座しており、安産と子孫繁栄を願う社として伊弉冊命を祀っています。
由緒
由緒書によれば、東大寺の古図に描かれている古社であり、当社は古くは「富貴社」と注記され、「フキのやしろ」と呼ばれていたとされます。解体修理の際に発見された棟板から17世紀には「子安宮」と呼ばれていたことが分かったそうです。
祭神については、二月堂神名帳に「子安大明神」と表記されており、由緒書では これを他国の明神と説明しています。また、江戸時代の東大寺諸伽藍略図には"東大寺の開山である良弁僧正が母を祭祀した社である"という旨が記されて「孝養社」と呼ばれたとも云われているそうです。
なお、由緒書による解説は以下の通りです。
【子安神社(こやすじんじゃ)】
大仏殿と指図堂の間に、白壁の土塀に囲まれた子安宮・子安明神と呼ばれる小社がこれである。
東大寺の古図には、この子安宮の位置に神社が描かれていて「富貴社」と注記され、「フキのやしろ」と呼ばれていたらしい。
平成元年に当社の解体修理が行われた際、社殿内より寛文11年(1671年)9月24日と文久2年(1862年)の日付の還宮の棟札2枚が発見された。そこから中門堂衆の文殊院によって既に改築されていたことが明らかになり、子安宮の称号が17世紀に遡ることも判明した。
二月堂神名帳には「子安大明神・穴師大明神」と子安明神の名がみえるが、この子安神は他国の明神である。
享保年間(1716~1735年)の東大寺諸伽藍略図録によると、良弁僧正の母を祭祀したと言い、「相模国から来られた母がここに住し、良弁は孝養を尽くした」旨の説明がなされ、「孝養社」と言ったとも記されている。
寛文の頃は、丁度二月堂の焼失と再建が江戸幕府の尽力で行われ、二月堂観音信仰を通して、良弁・実忠 2人の祖徳が顕揚された時期でもある。
安産と子孫繁栄を願う社として「富貴社」より改称されたものらしい。
大仏殿と指図堂の間に、白壁の土塀に囲まれた子安宮・子安明神と呼ばれる小社がこれである。
東大寺の古図には、この子安宮の位置に神社が描かれていて「富貴社」と注記され、「フキのやしろ」と呼ばれていたらしい。
平成元年に当社の解体修理が行われた際、社殿内より寛文11年(1671年)9月24日と文久2年(1862年)の日付の還宮の棟札2枚が発見された。そこから中門堂衆の文殊院によって既に改築されていたことが明らかになり、子安宮の称号が17世紀に遡ることも判明した。
二月堂神名帳には「子安大明神・穴師大明神」と子安明神の名がみえるが、この子安神は他国の明神である。
享保年間(1716~1735年)の東大寺諸伽藍略図録によると、良弁僧正の母を祭祀したと言い、「相模国から来られた母がここに住し、良弁は孝養を尽くした」旨の説明がなされ、「孝養社」と言ったとも記されている。
寛文の頃は、丁度二月堂の焼失と再建が江戸幕府の尽力で行われ、二月堂観音信仰を通して、良弁・実忠 2人の祖徳が顕揚された時期でもある。
安産と子孫繁栄を願う社として「富貴社」より改称されたものらしい。
祭神
子安神社の祭神は以下の通りです。
・伊弉冊命(イザナミ):「日本神話」において、国産み・神産みを成した女神とされる
※祭神については「良弁僧正の母」など、諸説あるとされる
※祭神については「良弁僧正の母」など、諸説あるとされる
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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