玉津島神社(玉津嶋神社) [和歌山県]
2017/08/24
和歌山県和歌山市にある玉津島神社(たまつしまじんじゃ)です。
創祀は上古に遡ると云われるほどの古社であり、祭神に稚日女尊・息長足姫尊・衣通姫尊・明光浦霊を祀っています。
また、古くから玉津島明神とも呼ばれ、住吉大神・柿本人麻呂と並ぶ和歌三神の一つとして崇敬を集めています。
神社概要
由緒
社伝によれば、当社の起源は「玉津島の神は"上つ世(かみつよ)"から鎮まりませる」と伝えられるほど古いとされ、玉出島(たまでしま)と呼ばれる当地一帯は、古くは満潮時に6つの島山(玉津島山)が玉のように海中に点在する様子が見えたとされます。このことから、歌人・山部赤人(やまべのあかひと)に「神代より然ぞ貴き玉津島山」と詠まれたほど、風光明媚な神の鎮座する場所として崇められてきたそうです。
また、神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓に出兵した際、玉津島の神(稚日女尊)が非常な霊威を現したことから稚日女尊(ワカヒルメ)を篤く崇敬し、戦勝・航海安全の恩に報いるために稚日女尊の分霊を今の伊都郡かつらぎ町天野の地に丹生都比売神(ニウツヒメ)として祀り、後に皇后自身も卯の年・卯の月に玉津島社に合わせ祀られたとされ、正長2年(1429年)までは神輿が玉津島に渡御する「浜降りの神事」も行われていたとされます。
平安時代になると、和歌の道に秀でた絶世の美女として知られる衣通姫尊(そとおりひめのみこと)が、第58代 光孝天皇(こうこうてんのう)の夢枕に現れて「立ちかえり またもこの世に 跡垂れむ 名もおもしろき 和歌の浦波」と詠んだことから、天皇の勅命によって当社に合祀され、以来、衣通姫尊は住吉大社(大阪)・柿本神社(明石)と共に和歌三神の一柱として天皇から貴族・文人・墨客らの崇敬を集めたとされています。
また、玉津島は奈良・平安時代の聖武・称徳・桓武天皇の三帝に こよなく愛された地であり、天皇が当地を訪れて滞在する"玉津島行幸"が行われたとされ、特にに聖武天皇は社殿背後にある奠供山(でんぐやま、玉津島山の1つ)に登って「山に登って海を望む間は最も好く、遠出しても疲れることなく遊覧できる。よって、"弱浜"から"明光浦"と名を改め、守戸を置いて荒れることのないようにせよ。また、春・秋の二季に官人を派遣し、玉津島の神・明光浦霊(あかのうらのみたま)を祀れ(意訳)」との勅命を下したことから、当社に明光浦霊が祀られることになったそうです。
なお、由緒書では以下のように説明されています。
【玉津島神社 由緒略記】
社伝によれば、神代以前の創立にして天照大神の御妹 稚日女尊を祀り後、この大神をいたく尊崇せる神功皇后を併せ祀り、その後、光孝天皇の御悩を平癒せしめられし衣通姫を御勅命により合祀せらる。
小松天皇の勅願所として知られ、また住吉神社・人丸神社とともに和歌三神として朝野の崇敬 殊に厚く、後西天皇 以下八代の御製宸筆を奉献せられ、古来 京師より春秋二季 官人の差遣ありて、祭祀を厳修あらせらる。参拝人 各々 福禄寿楽を願ふとしてかなはざると言い伝へらる大神なり。
【衣通姫神録】
たちかへり またも此の世に 跡たれむ 名もおもしろき 和歌の浦波
社伝によれば、神代以前の創立にして天照大神の御妹 稚日女尊を祀り後、この大神をいたく尊崇せる神功皇后を併せ祀り、その後、光孝天皇の御悩を平癒せしめられし衣通姫を御勅命により合祀せらる。
小松天皇の勅願所として知られ、また住吉神社・人丸神社とともに和歌三神として朝野の崇敬 殊に厚く、後西天皇 以下八代の御製宸筆を奉献せられ、古来 京師より春秋二季 官人の差遣ありて、祭祀を厳修あらせらる。参拝人 各々 福禄寿楽を願ふとしてかなはざると言い伝へらる大神なり。
【衣通姫神録】
たちかへり またも此の世に 跡たれむ 名もおもしろき 和歌の浦波
祭神
玉津島神社の祭神は以下の通りです。
【主祭神】
・稚日女尊(ワカヒルメ):『日本書紀』に登場する神で、アマテラスの妹神と考えられている
→ 当社由緒によれば、イザナギ・イザナミの御子であり、アマテラスの妹神とされる
→ 当社由緒によれば、神功皇后によってかつらぎ町天野に丹生都比売神(ニウツヒメ)として祀られたとされる
→ 『ホツマツタヱ』では、イサナギ(伊邪那岐)・イサナミ(伊邪那美)の子のヒルコ(蛭子命)とされる
⇒ ヒルコはアマテル(天照大御神)の姉に当たるが、後にワカヒルメ(稚日女尊)としてイロト(妹)になった
⇒ 当文献ではワカヒメともいい、歌によって現象を起こすワカ(和歌)を体系化したとされる
⇒ 当文献ではタマツ宮(玉津島神社)で最期を迎え、ヒロタ(兵庫県西宮市)に葬られたとされる
・息長足姫尊(オキナガタラシヒメ):仲哀天皇の皇后であり、応神天皇の母(神功皇后)
・衣通姫尊(ソトオリヒメ):第19代允恭天皇の后で、和歌の道に秀でた絶世の美女だったとされる
【配祀神】
・明光浦霊(あかのうらのみたま):当地 明光浦の御霊
・稚日女尊(ワカヒルメ):『日本書紀』に登場する神で、アマテラスの妹神と考えられている
→ 当社由緒によれば、イザナギ・イザナミの御子であり、アマテラスの妹神とされる
→ 当社由緒によれば、神功皇后によってかつらぎ町天野に丹生都比売神(ニウツヒメ)として祀られたとされる
→ 『ホツマツタヱ』では、イサナギ(伊邪那岐)・イサナミ(伊邪那美)の子のヒルコ(蛭子命)とされる
⇒ ヒルコはアマテル(天照大御神)の姉に当たるが、後にワカヒルメ(稚日女尊)としてイロト(妹)になった
⇒ 当文献ではワカヒメともいい、歌によって現象を起こすワカ(和歌)を体系化したとされる
⇒ 当文献ではタマツ宮(玉津島神社)で最期を迎え、ヒロタ(兵庫県西宮市)に葬られたとされる
・息長足姫尊(オキナガタラシヒメ):仲哀天皇の皇后であり、応神天皇の母(神功皇后)
・衣通姫尊(ソトオリヒメ):第19代允恭天皇の后で、和歌の道に秀でた絶世の美女だったとされる
【配祀神】
・明光浦霊(あかのうらのみたま):当地 明光浦の御霊
境内社
玉津島神社の境内社は以下の通りです。
・金高稲荷社
関連知識
『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』の記述
神代文字で記された『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』という文献には、当社祭神のワカヒルメ(稚日女尊)の来歴に関する記述が多く、まとめると以下のようになります(当社の由緒と一致する部分が多く、なかなか興味深いです)。
昔、イサナキ(伊弉諾尊)・イサナミ(伊弉冉尊)はツクバのイサ宮で互いの身体の様子を問い、各々の余った部分と足りない部分を合せて御子を産んだ。この御子はヒルコと名付けられたが、このとき父は40歳、母は31歳であった。
ヒルコが3歳になる年になれば 父は42歳、母は33歳とアメノフシ(厄年)に当たり、父母のオヱ・クマ(穢れの類)が子に障るということから、ヒルコはイワクス船に乗せて流された。
この後、ヒルコはカナサキ(住吉大神)に拾われて西殿(西宮・廣田)で養育された。ヒルコはアワウタ(言葉)を覚えて、カダカキ(弦楽器)を弾きながら これを歌った(以後、ヒルコの呼称がワカヒメとなる)。
また、オエ・クマを捨て去ったヒルコは慈愛の心を整えたことにより、後にイサナキ・イサナミから産まれたアマテル(天照大御神)のイトロ(愛妹)のワカヒルメ(分日霊妹)となった。
その後、ワカヒメがイサワ宮(伊勢)に居る時に紀州の稲田にホオムシ(害虫)が発生し、被害の様子がアマテルのもとに告げられた。そこで、アマテルの后であるムカツヒメ(向津姫・瀬織津姫)が紀州の民の元に向い、田の東からオシクサ(草の扇)を扇ぎ、ワカヒメの歌(和歌)を詠んで祓いの儀式を行うと、田からホオムシが去って行った。
この際、ムカツヒメは周りに30名の侍女を据え、その各々に祓いのワカを歌わせて害虫を祓ったことから、後にワカヒメの歌は"ワカのまじない"と呼ばれるようになった。
稲田から害虫が去ったことで喜んだ紀州の民は、紀州に太陽宮(日前国懸神宮)とタマツ宮(玉津島神社)を建立した。この太陽宮は紀州の国懸(政庁)となり、タマツ宮にはワカヒメが座し、薨去した後にはワカヒメの霊を祀る宮となった。また、この地はワカヒメの歌によって枯れた稲が若返ったことから、ワカノクニ(沸の国)と称された。
また、ヲヲナムチ(大己貴命)とスクナヒコナ(少彦名神)が共に国を巡っている最中、食糧の尽きた民に牛肉を食べることを許すと、その田にホオムシが発生して民を苦しめた。そこで、ヲヲナムチがワカヒルメに対策を問うとヲシヱクサ(穢虫を祓うまじない)を賜り、これを押して扇ぐと たちまちホオムシは去って行き、稲草は実るほどに若返った。
これによって、ワカヒルメはタカテルヒメ、シタテルヒメ、トシノメグミノオオンカミの名で呼ばれた。ワカヒルメは晩年にはアユミテルヒメにシタテルヒメの名を授け、ワカ国のタマツミヤにヲシテ(遺書)を残して隠れた(神上がった)。
ヒルコが3歳になる年になれば 父は42歳、母は33歳とアメノフシ(厄年)に当たり、父母のオヱ・クマ(穢れの類)が子に障るということから、ヒルコはイワクス船に乗せて流された。
この後、ヒルコはカナサキ(住吉大神)に拾われて西殿(西宮・廣田)で養育された。ヒルコはアワウタ(言葉)を覚えて、カダカキ(弦楽器)を弾きながら これを歌った(以後、ヒルコの呼称がワカヒメとなる)。
また、オエ・クマを捨て去ったヒルコは慈愛の心を整えたことにより、後にイサナキ・イサナミから産まれたアマテル(天照大御神)のイトロ(愛妹)のワカヒルメ(分日霊妹)となった。
その後、ワカヒメがイサワ宮(伊勢)に居る時に紀州の稲田にホオムシ(害虫)が発生し、被害の様子がアマテルのもとに告げられた。そこで、アマテルの后であるムカツヒメ(向津姫・瀬織津姫)が紀州の民の元に向い、田の東からオシクサ(草の扇)を扇ぎ、ワカヒメの歌(和歌)を詠んで祓いの儀式を行うと、田からホオムシが去って行った。
この際、ムカツヒメは周りに30名の侍女を据え、その各々に祓いのワカを歌わせて害虫を祓ったことから、後にワカヒメの歌は"ワカのまじない"と呼ばれるようになった。
稲田から害虫が去ったことで喜んだ紀州の民は、紀州に太陽宮(日前国懸神宮)とタマツ宮(玉津島神社)を建立した。この太陽宮は紀州の国懸(政庁)となり、タマツ宮にはワカヒメが座し、薨去した後にはワカヒメの霊を祀る宮となった。また、この地はワカヒメの歌によって枯れた稲が若返ったことから、ワカノクニ(沸の国)と称された。
また、ヲヲナムチ(大己貴命)とスクナヒコナ(少彦名神)が共に国を巡っている最中、食糧の尽きた民に牛肉を食べることを許すと、その田にホオムシが発生して民を苦しめた。そこで、ヲヲナムチがワカヒルメに対策を問うとヲシヱクサ(穢虫を祓うまじない)を賜り、これを押して扇ぐと たちまちホオムシは去って行き、稲草は実るほどに若返った。
これによって、ワカヒルメはタカテルヒメ、シタテルヒメ、トシノメグミノオオンカミの名で呼ばれた。ワカヒルメは晩年にはアユミテルヒメにシタテルヒメの名を授け、ワカ国のタマツミヤにヲシテ(遺書)を残して隠れた(神上がった)。
参考サイト:ヒルコ(ホツマツタヱ解読ガイド)、ホツマツタヱ・ミカサフミ 現代語訳(ヒルコ)、和歌とは?
境内の見どころ
鳥居
玉津島神社の鳥居です。
拝殿
玉津島神社の拝殿です。
本殿
玉津島神社の本殿です。
根上り松
玉津島神社にある根上り松(ねあがりまつ)です。
天然記念物であり、鶴松とも呼ばれる この松は、大正時代に和歌山市高松より移転保存されたものなんだそうです。
仁井田好古撰文碑
玉津島神社にある仁井田好古撰文碑(にいだこうこせんぶんひ)です。
江戸時代の儒学者・仁井田好古の撰文が刻まれた石碑であり、歴史資料として和歌山県の文化財に指定されています。
奠供山
玉津島神社の背後にそびえる奠供山(でんぐやま)からは、和歌の浦の眺めが一望できます。
望海楼遺址碑
奠供山の山頂にある望海楼遺址碑(ぼうかいろういしひ)です。
文化10年(1813年)に10代紀州藩主・徳川治宝の命によって建立された和歌の浦の景観美を賞賛する顕彰碑とされます。
料金: 無料
住所: 和歌山県和歌山市和歌浦中3丁目4-26(マップ)
営業: 不明(社務所 9:00~17:00)
交通: 紀三井寺駅(徒歩21分)
公式サイト: http://tamatsushimajinja.jp/
住所: 和歌山県和歌山市和歌浦中3丁目4-26(マップ)
営業: 不明(社務所 9:00~17:00)
交通: 紀三井寺駅(徒歩21分)
公式サイト: http://tamatsushimajinja.jp/
スポンサーリンク
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
スポンサーリンク
コメント
0 件のコメント :
コメントを投稿