人文研究見聞録:野見宿禰神社 [島根県]

島根県出雲市にある野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)です。

出雲大社の摂社であり、第13代出雲国造で相撲の祖である野見宿禰命が祀られています。


神社概要

由緒

由緒書によれば、当社は出雲国造(出雲大社宮司)の祖先神・天穂日命(アメノホヒ)の13世孫である野見宿禰命(のみのすくね)を祀る神社であり、野見宿禰命が相撲の始祖であることから、相撲やスポーツの神として崇められているとされます。

また、垂仁天皇の御代まで皇族を葬る際に殉葬(皇族の逝去に伴って臣下や従者を殉死させ、共に葬ること)が行われており、これに反対した天皇に対し、野見宿禰は埴輪を造って共に埋葬し、殉死を止めさせる策を進言したとされており、知恵に優れていることから、文武両道の神としても称えられているそうです。

なお、由緒書による説明は以下の通りです。

【野見宿禰神社 由緒】

野見宿禰命(のみのすくねのみこと)は出雲国造(出雲大社宮司)の祖先神・天穂日命(アメノホヒ)の13世の嫡孫で、第13代 出雲国造・襲髄命(かねすねのみこと)に当たります。

『日本書紀』垂仁天皇7年7月7日の条には、当時、天下一の力士と評判であった当麻蹴速(たいまのけはや)と御前相撲をとり、見事に打ち勝ったことが記され、以来、野見宿禰命は国技・大相撲の元祖を称えられ、今日にでは相撲をはじめスポーツを志す人々に広く崇められています。

また、同32年には陵墓に建てる埴輪(はにわ)を献策して、その叡智が称えられるなど、文武両道の神様です。

祭神

人文研究見聞録:野見宿禰神社 [島根県]

野見宿禰神社の祭神は以下の通りです。

・野見宿禰命(のみのすくね):垂仁朝に活躍した人物で、第13代出雲国造であり、土師氏の祖とされる
 → 別名を襲髄命(かねすねのみこと)と言い、相撲の祖であり、埴輪を造って制度化したとされる
  ⇒ 北島国造館の天満宮の由緒によれば、菅原道真公は野見宿禰の後裔とされる

関連知識

相撲の祖

人文研究見聞録:野見宿禰神社 [島根県]

『日本書紀』には、野見宿禰が相撲の祖とされる説話が載せられています。

垂仁天皇7年秋7月7日、天皇の臣下が「当麻邑に当麻蹴速(たいまのけはや)という勇猛な者がおり、力が強く、動物の角を研いで鉤(かぎ)を持っていると言います。日頃から周りに"四方(周辺)を探しても我が力に並ぶ者は居ない、どうにか強者に会って生死を掛けて全力で争ってみたいものだ"と言っているそうです」と伝えた。

そこで、天皇が群臣に「当麻蹴速に並ぶ者は居ないものか」と問うと、一人の臣が「私が聞いたところ、出雲国に野見宿禰(のみのすくね)という勇士が居ると聞きます。試しに この者を呼び寄せて蹴速と争わせてみたいものです」と答えので、その日に早速 長尾市(ながおち)を派遣して出雲から野見宿禰を呼び寄せた。

野見宿禰が到着すると、すぐに当麻蹴速と相撲を取らせた。二人は相対して立ち、それぞれが足を上げて踏み出すと、野見宿禰が当麻蹴速の肋骨を踏み折り、さらに腰も踏み折って殺してしまった。こうして決着がつくと、当麻蹴速の土地はすべて野見宿禰に与えられた。これが当麻邑の腰折田の由縁である。

その後、野見宿禰は その土地に留まり、朝廷に仕えることになった。

埴輪のはじまり

人文研究見聞録:野見宿禰神社 [島根県]

『日本書紀』には、野見宿禰が埴輪を造って殉死を止めさせたという説話が載せられています。

垂仁天皇28年冬10月5日、倭彦命(ヤマトヒコ)が薨去した。同年11月2日、倭彦命の埋葬が行われ、古い風習に倣って倭彦命の従者を共に生き埋めにした。従者は何日か生き続け、その間の昼夜には その泣き声が周囲に響き渡った。やがて朽ちて死ぬと、その死体を犬や烏が喰いに集まったので、天皇は悲痛に感じ、群卿を集めて殉葬を止めさせる方法を相談させた。

垂仁天皇32年秋7月6日、皇后の日葉酢媛命(ヒバスヒメ)が薨去した。埋葬までに猶予があったため、天皇は群卿を集めて この度の埋葬方法について相談させた。そのとき、野見宿禰(ノミノスクネ)が「後世に殉葬を良くないものだと伝えるために、この代わりになる方法を話し合いましょう」と進言した。

そこで、すぐに出雲国に使者を派遣して土部(はじべ)を100人を呼び寄せ、野見宿禰が土部を使って埴から人や馬などの形を造らせ、これを天皇に献上して「これ以降は、この土物(はにもの)を生者の代わりに陵墓に立て、後世の決まりとしましょう」と提案すると、天皇は喜んで「お前の便議(代替案)は私の望みに適うものだ」と言い、この土物を初めて日葉酢姫命の墓に立てた。

この土物は「埴輪(はにわ)」と名付けられ、また「立物(たてもの)」とも呼ばれるようになった。

天皇は「これ以降は陵墓に必ず土物を立てることとし、人を傷つけないようにせよ」と命じ、野見宿禰を厚く功賞して鍛地(かたしところ)を与え、土部の職に就かせた。これより野見宿禰は姓を改めて土部臣(はじのおみ)となり、これが土師連(はじのむらじ)らが天皇の喪葬を司る所以となった。こうして野見宿禰は土部連らの始祖となったのである。

野見宿禰の死

人文研究見聞録:野見宿禰神社 [島根県]

『播磨国風土記』には、野見宿禰の死に関する説話が載せられています。

立野と名付けられた理由は、昔 土師である野美宿祢(のみのすくね)が出雲国から行き来しているとき、日下部の野で病気になって死に、そのときに出雲国の人々がやってきて、連なり立った大勢の人が川の小石を手から手へ伝え運び、高地に上げて墓の山を造った。だから立野と名付けられた。その暮屋を名付けて「出雲の墓屋」と言う。

境内の見どころ

社殿

人文研究見聞録:野見宿禰神社 [島根県]

野見宿禰神社の社殿です。

出雲大社の駐車場付近に位置しています。

ウサギの像

人文研究見聞録:野見宿禰神社 [島根県]
人文研究見聞録:野見宿禰神社 [島根県]

野見宿禰神社の社殿の前には、力士姿のウサギ像が置かれています。

土俵

人文研究見聞録:野見宿禰神社 [島根県]

野見宿禰神社の付近には土俵があります。

最近では2013年の遷宮のときに、白鵬と日馬富士が土俵入りしたそうです。

料金: 無料
住所: 島根県出雲市大社町杵築東(マップ
営業: 終日開放
交通: 出雲大社前駅(徒歩11分)
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。