観亀稲荷社(観亀神社) [京都府]
2017/11/14
京都市東山区にある観亀稲荷社(かんきいなりしゃ)です。
江戸時代に創建された神社であり、祭神に加具都智命・宇賀御魂命を祀っています。
なお、当初は火伏の神を勧請したことに始まるため、火除の御利益があるとされています。
由緒
由緒書によれば、当地は近江国膳所藩(今の滋賀県大津市)の京屋敷跡に位置しており、宝永6年(1709年)より、藩主・本多康慶は将軍から郡山・淀・亀山藩と共に御所の火の番(火元管理)命じられ、この4藩が隔月交代で幕末まで京都の火消役を勤めていたとされます。
康慶の子・康命は、「御所の火の番である膳所藩が火を発しては恐れ多い、火伏せの神・遠州(今の静岡県)の秋葉山から秋葉権現を勧請せよ」という父の遺言に従って、享保3年(1718年)に膳所藩内の茶臼山に勧請し、さらに その分霊を当地に移し祀ったことに始まるとされます。
創建当時には この付近で竹藪を伐り開く時に亀が出て歓んだという伝説があるとされ、これによって観亀、歓亀または観亀神社と称したとされ、その後は歓喜稲荷社と改称し、火伏の神として崇敬を集めるようになったそうです。
なお、由緒書による説明は以下の通りです。
【観亀稲荷社の由来】
当地は御所警衛の近江国善所藩主・本多俊次公へ、万治2年10月に賜わった善所藩の京屋敷跡で、その区域は東は今の東大路、西は花見小路北は新橋町通り、南は富永町通りに囲まれた約4350坪であった。
それから50年後の宝永6年に善所藩主・本田康慶公は、郡山・淀・亀山(今の亀岡)藩と共に御所火の番のため、京詰を将軍より仰付かり、4藩が隔月交代で幕末まで行っていた。
観亀稲荷神社は康慶の子・康命が御所火の番の善所藩で火を発しては恐れ多い、火防せの神、遠州秋葉山の秋葉権現に勧請せよとの父の遺言により、享保3年に善所茶臼山に勧請し、更にその御分霊を当地に移祀したもので、創建当時 付近は竹藪でこれを伐り開く時、亀が出て歓んだと云う。
よって観亀、歓亀または観亀神社と称したが、その後 観亀稲荷社と称し、火伏せ(防火)の神として崇敬者がすこぶる多い。現在地は善所藩京屋敷の中庭に当たる。
当地は御所警衛の近江国善所藩主・本多俊次公へ、万治2年10月に賜わった善所藩の京屋敷跡で、その区域は東は今の東大路、西は花見小路北は新橋町通り、南は富永町通りに囲まれた約4350坪であった。
それから50年後の宝永6年に善所藩主・本田康慶公は、郡山・淀・亀山(今の亀岡)藩と共に御所火の番のため、京詰を将軍より仰付かり、4藩が隔月交代で幕末まで行っていた。
観亀稲荷神社は康慶の子・康命が御所火の番の善所藩で火を発しては恐れ多い、火防せの神、遠州秋葉山の秋葉権現に勧請せよとの父の遺言により、享保3年に善所茶臼山に勧請し、更にその御分霊を当地に移祀したもので、創建当時 付近は竹藪でこれを伐り開く時、亀が出て歓んだと云う。
よって観亀、歓亀または観亀神社と称したが、その後 観亀稲荷社と称し、火伏せ(防火)の神として崇敬者がすこぶる多い。現在地は善所藩京屋敷の中庭に当たる。
祭神
観亀稲荷社の祭神は以下の通りです。
・加具都智命(カグツチ):主に防火の神として祀られる(愛宕権現とも)
・宇賀御魂命(ウカノミタマ):稲荷神であり、スサノオの御子神とされる
・宇賀御魂命(ウカノミタマ):稲荷神であり、スサノオの御子神とされる
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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