人文研究見聞録:天豊足柄姫命神社(石神社) [島根県]

島根県浜田市にある天豊足柄姫命神社(あめのとよたらしからひめのみことじんじゃ)です。

古くに石見国を開き、衣食の道を授けたと伝わる天豊足柄姫命を祀ったことに始まると伝えられています。


神社概要

由緒

碑文の説明によれば、主祭神の天豊足柄姫命(アメノトヨタラシカラヒメ)は"石見国を開いて民に衣食の道を授けた神"ということから、民が慕い尊んで御殿を造って祀ったことに始まるとされています。

また、ウィキペディアによれば、創建の由緒は不詳であるとされますが、古くは式内社であったことから栄えたことが窺え、中世以降の戦乱によって長らくの間、荒廃していたとされています。

なお、中世には文明18年(1486年)に社殿を改築、近世には元和6年(1620年)の浜田城築城の際に城郭内に鎮座されたという記録があるようです。

また、近代には明治の廃藩置県に伴って社殿を新造することになり、明治6年(1873年)に県社となり、明治7年(1874年)に本殿・拝殿共に建造し、明治8年(1875年)7月に郷社となったとされています。

なお、境内の碑文による説明は以下の通りです。

【碑文の説明】

石神は、石見の天豊足柄姫命を御祀りしてある神であり、その伝によると神が石と化した事は根拠がなくて信ずる事が出来ない。推測する処では、神は石見国を お開きになって民に功徳を与えられたので、民はその徳をお慕い尊んで御殿を造ってお祭りしたものであった。その位、式内にのっているのを観ると、当時の御殿がいかに大きく、しかもお祭りが厳粛で栄えたことを知る。

中古以来、禍乱が相続いてお祭りも出来ず廃れたことが、数百年明治の世になって藩を廃し県が置かれ、信寛が この地方を治める事になって、朝廷に敬神の念あるを申し上げ石神の由縁のある処となって、その後 復興に萌え、茲に新しく御殿を造ってお祭りをし、県社とすることを議り、県民をして末永く尊崇するようにしむけた。この事をしるす為に石に刻みつけた。

祭神

天豊足柄姫命神社の祭神は以下の通りです。

【主祭神】

・天豊足柄姫命(アメノトヨタラシカラヒメ):石見国ゆかりの神で、当地に衣食の道を授けたとされる
 → 石見国の神話によれば、民を悩ませる八色石を退治した後に石となったとされる

【配祀神】

・豊受姫命(トヨウケビメ):ワクムスビの子で、豊受大神と同一視される食物を司る女神
 → かつて境内にあった稲荷社に祀られていたが、明治期に本殿に合祀されたという

境内社

人文研究見聞録:天豊足柄姫命神社(石神社) [島根県]

天豊足柄姫命神社の境内社は以下の通りです。

・亀山神社:歴代の浜田藩主を祀る

関連知識

八色石の伝説

ウィキペディアによれば、天豊足柄姫命を祀る邑智郡邑南町の龍岩神社には、以下のような伝説があるとされています。

出雲の八束水臣津野命(ヤツカミズオミツノ)の前に女神(天豊足柄姫命)が現れ「この国に八色石という巨岩があり、山河は枯れ、蛇と化して民を悩ませている」と告げると、八束水臣津野命は青民草のために これを滅ぼそうと思召した。

八束水臣津野命女神に導かれて八色石のもとに赴き、八色石を二段に切ると、その首は飛び去って邑智郡の龍石となり、その尾は美濃郡の角石となった。

これで災いが無くなったと歓んだ女神八束水臣津野命を庵に誘ってもてなした。そして夜が明けると、女神は岩に変わっており、八束水臣津野命は「これは不思議な岩を見たこと」だといぶかしくしく思ったという。

境内の見どころ

拝殿

人文研究見聞録:天豊足柄姫命神社(石神社) [島根県]

天豊足柄姫命神社の拝殿です。

黒瓦の社殿となっています。

本殿

人文研究見聞録:天豊足柄姫命神社(石神社) [島根県]

天豊足柄姫命神社の本殿です。

浜田城主歴代碑

人文研究見聞録:天豊足柄姫命神社(石神社) [島根県]

天豊足柄姫命神社の浜田城主歴代碑です。

料金: 無料
住所: 島根県浜田市殿町77(マップ
営業: 不明
交通: 浜田駅(徒歩14分)
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。