人文研究見聞録:風土記逸文 現代語訳(東海道編)

『風土記逸文(東海道編)』を現代語訳にしてみました。風土記逸文とは風土記の一部のことで、他書に引用されて記載されているものを言います(元々の風土記が失われているため、このような形で復元されている)。

ここでいう「東海道」とは 伊賀国(三重県北西部)・伊勢国(三重県)・志摩国(志摩市)・尾張国(愛知県西半部)・参河国(愛知県東部)・遠江国(静岡県西部)・駿河国(静岡県中部)・伊豆国(静岡県南部)・甲斐国(山梨県)・相模国(神奈川県の一部) ・上総国(千葉県中部)・下総国(千葉県北部・茨城県南西部・埼玉県東部)・常陸国(茨城県)のことです。地名由来・神社のいわれ・各地の伝説 などが記されており、なかなか興味深い内容になっています。



はじめに


・以下の文章は、専門家ではない素人が現代語に翻訳したものです
・基本的には意訳です(分かりやすさを重視しているため、文章を添削をしています)
・分からない部分については、訳さずにそのまま載せています。
・誤訳や抜けがあるかも知れませんので、十分注意してください(随時修正します)
・資料不足で載せてない部分もあるので、十分注意してください

原文参考:大日本真秀國 風土逸文

伊賀国風土記 逸文

伊賀國號

伊賀国風土記 伊賀郡(いがのこほり)。

猿田彦神(サルタヒコ)。

この国は初めは伊勢加佐波夜国(いせかさはやのくに)に属していた。それから20万年余りの時が経って この国が見つかった。猿田彦神の娘の吾娥津媛命(アガツヒメ)は、日神之御神(ヒノミカミ)が天上より投げ降した三種之寶器(みくさのたから)の内、金の鈴を見つけて守っていた。

その見つけ守っていた御齋(いつき)の処を加志之和都賀野(かしのわつかの)という。今の時代に手柏野(たかしはの)というのは、誤りである。また、この神の見つけ守っていた国に因んで吾娥之郡(あがのこほり)という。

その後、淸見原の天皇(天武天皇)の御代に吾娥郡を分けて国の名と為した。その国の名の定まらぬこと十餘歳である。これを加羅具似(からくに)というのは虚国(むなしくに)という意味である。後、伊賀(いが)と改められたが、これは吾娥の音からの転訛である。

伊賀之郡(いがのこほり)は、その郡の一である。この郡は土地が乾いているが小川がたくさんある。その川のすべての名を久禮波之登利須須杵川(くれはのとりすすきのかは)という。この国で、昔 呉服之君(クレハトリノキミ)が衣を濯いだ由縁である。この川は水が多く出ており、年魚(あゆ)や鮭などが入り混じって鮮やかである。今は内膳司(うちのかしはでのつかさ)の干魚は、この川の物を貢いでいる。

伊賀津姫 伊賀國號

伊賀國風土記。

伊賀国は、往昔に伊勢国に属していた。大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)の御代の癸酉に国を分けて伊賀国とした。この名の由来は、伊賀津姫(イガツヒメ)の所領の郡である。これにより、郡の名、また国の名が付いた。西の限界は高師川(たかしのかは)で、東の限界は加富唐岡(かとみのからをか)で、北の限界は篠嶽(しののたけ)で、南の限界は中山(なかやま)である。土地は肥えており、民が用いる山川があって仕事も足りている。

唐琴

唐琴という所が伊賀国にある。この国の風土記には このようにある。

大和と伊賀の堺には河がある。中嶋の辺りの神女は常に来くると琴を鳴らす。人はこれを怪しんで見ていたので、神女はその琴を捨ててしまった。よって、この神のために琴を齋き祀った。故に此処は唐琴と名付けられたのである。

伊勢国風土記 逸文

伊勢国號(其の一)

伊勢國風土記には このようにある。

そもそも伊勢国は、天御中主尊(アメノミナカヌシ)の12世孫の天日別命(アメノヒワケ)が平定した所である。

最初は天日別命は、神倭磐餘彦天皇(神武天皇)が西の宮より この東州(ひむかしのくに)を征伐した時、天皇に従って紀伊国の熊野村に到った。その時、金烏(こがねなるからす)の導きに従って中州(なかつくに)に入り、菟田の下縣に到った。天皇は大部の日臣命(ヒオミ)に「逆黨(あた=逆賊)である膽駒(いこま)の長髓(ナガスネ)を早く征伐せよ」と勅命を下し、また天日別命に「天津の方に國がある。その國を平(ことむ)けよ」と勅命を下して標劔(みしるしのつるぎ)を与えた。

天日別命は勅命を承り、東に数百里 入っていくと。その邑に伊勢津彦(イセツヒコ)という神がいた。天日別命は「汝の国を天孫(あめみま)に献上するか?」と問うと、伊勢津彦は「吾はこの国を求めて長らく居住している。敢えて命令を聞かないことにしよう」と答えた。

すると、天日別命は兵を起こして その神を殺そうとしたが、その時に伊勢津彦が畏み伏して「吾が国は悉く天孫に献上しよう。吾は敢えて居ることもあるまい」と言ったので、天日別命は「汝が去る時には何か験(しるし)を残せ」と言うと、伊勢津彦は「私は今夜を以って八風(やかぜ)を起して海水(うしほ)を吹き、波浪(なみ)に乗って東に入る。これが吾が退いた由である」と答えた。そこで天日別命が兵を整えて窺うことにした。すると、中夜(よなか)に大風が起こって波瀾(なみ)を扇擧(うちあ)げ、日のように光り輝いて、陸も海も共に朗かになり、伊勢津彦は遂に波に乗って東に去っていった。

古語(ふること)には このようにいわれる。"神風伊勢国(かむかぜのいせのくに)、常世浪寄国(とこよのなみよせるくに)"といわれるのは、思うにこれ(伊勢津彦)が留まっていたため、このようにいわれるのであろう(伊勢津彦の神は、信濃国に逃げたという)。

天日別命はこの国を平定して天皇に復命した。すると、天皇は大変歓んで「この国は國神(くにつかみ)の名を取って、伊勢と名付けよ」と詔したので、天日別命の封地国(よさしのくに)となり、宅地(いへどころ)として大倭耳梨之村(やまとのみみなしのむら)を与えた。

ある本では、天日別命の詔を承って熊野村よりすぐに伊勢国に入り、荒ぶる神を殺戮し、遵(まつろ)はぬものを罰して平定し、山川を境に地邑(くにむら)を定めた後、橿原宮に復命したとある。

伊勢国號(其の二 石城)

伊勢国風土記にある伊勢国號 其の一の別説に このようなものがある。

伊勢というのは、伊賀穴志社(いがのあなしのやしろ)に坐す神である出雲神の御子の出雲建子命(イヅモタケルノミコ)またの名を伊勢都彦神(イセツヒコ)またの名を天櫛玉命(アメノクシタマ)は、昔 石で城を造って この地に坐した。これを阿倍志彦神(アベシヒコ)がやって来て奪おうとしたが、勝てずに帰っていった。よって、この名となった。云々。

的形浦

風土記には このようにある。

的形浦(まとかたのうら)は、この浦の地形が的に似ている。よって、この名となった。今はすでに渚が川や湖になっている。持統天皇が浜辺に行幸した時に、このような歌を残した。

「丈夫の 得物矢手挾み 向立ち 射るや的形 濱清けさ」

度會郡

裏書勘注や風土記には このようにある。

そもそも度會郡(わたらひのこほり)と名付けられたのは、畝傍橿原宮御宇神倭磐余彦天皇(神武天皇)の詔によって天日別命(アメノヒワケ)が国を求めた時、度會の賀利佐嶺(かりさのみね)が噴火した。

そこで天日別命は「此小佐居歟」と言って礼使(いやまいのつかい)を遣わせて見に行かせると、使者は帰ってきて「大国玉神(オホクニタマ)が賀利佐に到っています」と申し上げた。その時、大国玉神に使者を遣わせて天日別命は迎え奉った。よって、そこに橋を造らせたが、造り終える前に(大国玉神が)到ってしまった。

そこで、今は梓弓を以って橋にして渡らせることにした。そこで大国玉神を補助するために彌豆佐佐良比賣命(ミツササラヒメ)が参って迎えた。そこを土橋郷の岡本村という。天日別命は歓んでその地に出ていき、(大国玉神)と会って「刀自、ここに渡り会えた」と言ったので、この名となった。

度會 拆釧

風土記には このようにある。

度會(わたらひ)と名付けられたのは、川が作られて名付けられた。五十鈴、神風百船(かむかぜももふね)、度會縣、佐古久志呂(さこくしろ)、宇治五十鈴河上、これらは皆 古語の名である。百船は御船を神に奉った所である。佐古久志呂は河水が流れ通って底に通じるという意味である。云々。

五十鈴

五十鈴(いすず)は、風土記によれば、日から八小男(やをと)と八小女(やをめ)ら降ってきて、この木で交わったからである。これを以って名とした。云々。

※原文が意味不明なので翻訳に自信は無い

宇治郷

風土記には このようにある。

宇治郷(うぢのさと)は、伊勢国の度會郡の宇治村の五十鈴川の川上に宮社を造り、太神(アマテラス)を齋き奉った。これに因んで宇治郷となり、内郷(うちのさと)でもある。今は宇治の二字を以って郷の名とした。云々。

瀧原神宮

伊勢国風土記には このようにある。

倭姫命(ヤマトヒメ)が船に乗り、河を上って度會に坐し、瀧原神宮(たきはらのかむみや)を定めた。

八尋機殿 建郡

風土記で このようにいわれる。

機殿を八尋(やひろ)と名付けるのは、倭姫命(ヤマトヒメ)が天照大神を齋き祀った日に作り建てたからである。この神邑(みわのむら)もまた名付けれらた郷である。これは大同本紀に載っている。

建郡(たきのこほり)。難波長柄豊碕宮御宇天皇(孝徳天皇)の御代の丙午の年に、竹連(たけのむらじ)・磯直(いそのあたひ)の二氏がこの郡を建てた。

服機社

神服機殿(かむはとりどの)。倭姫命(ヤマトヒメ)は飯野の高丘宮(いひののたかをかのみや)に入り坐し、機屋を作って大神の御衣を織った。それから高丘宮より磯宮に入り坐した。よって、社を その地に建てて、服織社(はとりのやしろ)と名付けた。

麻績郷

麻績郷(をみのさと)と名付けられたのは、郡の北に神がおり、この神が大神の宮に荒妙の衣(あらたへのみぞ)を奉った。神麻績(かむを)の氏人(うぢびと)らは、この村に別れて居した。よって、この名となった。

安佐賀社

伊勢国風土記によれば…

天照大神が美濃国に巡り到り、安濃(あのう)の藤方(ふぢかた)の片樋宮(かたひのみや)に坐した。その時、安佐賀山(あさかのやま)に荒ぶる神がおり、道を行く人を殺し、4,50人のうち20人が亡くなった。よって、倭姫命(ヤマトヒメ)は此処には居られないと思い、藤方片樋宮から度會郡の宇治村の五十鈴川之宮(いすずがわのみや=伊勢神宮)に齋き奉った。

その時、中臣大鹿嶋命(ナカトミノオホカシマ)・伊勢大若子命(イセノオホワクゴ)・忌部玉櫛命(イミベノタマクシ)を遣わせて、安佐賀山の荒惡神(あらぶるかみ)のことを天皇に奏上させた。すると、天皇は「その国は、大若命の先祖の天日別命が平定した所である。大若命はその神を祭平(まつりはやし)、倭姫命は五十鈴宮に入って奉れ」と詔して、種種幣(くさぐさのみてぐら)を与えて帰し遣わせた。そして、大若命はその神を祀って安く鎮めて、安佐賀に社を建てて、これの祭者(まつれるもの)となった。

稲生社

本社縁起引風土記には このようにある。

大宮は那江大國道命(ナンオホクニミチ)、西宮は地主姫命(チヌシヒメ)、三大神宮は雷電神(イカヅチノカミ)である。昔、天若(アメワカ)・國若(クニワカ)の時、天照大神と大國道命(オオクニミチ)は共に計って、我らが天降端穂国(あもりみづほのくに)の王となり、人民(おほみたから)を豊かにしようとした。

この時、保食神(ウケモチ)の腹から稲が生えた。天熊人(天照人)はこれを取って持ち、(天照大神に)進め奉った。その時、天照大神は喜んで「これは顯見蒼生(うつしきあをひとくさ=人民)を活かす食糧になるだろう」と言った。云々。

志摩国風土記 逸文

吉津島

神宮の中に禮奠(れいてん=供物を捧げて祭ること)の間に行う永例(ながきためし)がある。これは三角柏(みつのかしは)といわれる。件の柏は、志摩国の吉津島(よしつしま)と堺の土具島(どくしま)の中にある。山中に生える木の上にある。

吉津島は風土記によれば、昔 行基菩薩(ギョウキボサツ)が南天婆羅門僧正(ミナミテンジクバラモンソウジョウ)・天筑の僧の佛哲(ブッテツ)に請うて三角柏を植えるため、太神宮の御園に天平9年(737年)12月17日に向かって謹んで御祭した。その後、伝教大師(最澄)・弘法大師(空海)・慈覚大師(円仁)が連れ立って修行し、それぞれが法楽した。

尾張国風土記 逸文

吾縵郷

尾張国風土記の中巻には このようにある。

丹羽郡(にはのこほり)。

吾縵郷(あづらのさと)。

巻向朱城宮御宇天皇(垂仁天皇)の御代、品津別皇子(ホムツワケ)は生まれて7年経っても言葉を話さなかった。そこで、天皇は周りの群臣に話させる方法を問うたが、誰も良い案を出さなかった。その後、皇后の夢に神が現れて「吾は多具国の神の阿麻乃彌加都比女(アマノミカツヒメ)である。吾は未だに祝われていない。もし、吾に祝人を宛てるならば、皇子はよく喋るようになり、また その寿命も延びるだろう」と告げた。

そこで帝は卜人に占わせて神の祝人を探させると、日置部らの祖である建岡君(タケヲカノキミ)が良いと出た。よって、すぐに遣わせて神を探させると、建岡君は美濃国の花鹿山(はなかのやま)に到り、そこで賢樹(さかき)の枝を取り、縵(かづら)を造って「吾の縵が落ちたところに必ず この神が居るだろう」と誓約して神を探した。そして、縵が落ちた場所に神が居るとして社を建てた。これによって社名と里名が付いた。後に訛って吾縵里となった。

熱田社

尾張国風土記には このようにある。

熱田社(あつたのやしろ)は、昔 日本武命(ヤマトタケル)が東国をあまねく巡って帰った時、尾張連の遠祖の宮酢媛命(ミヤズヒメ)を娶った。そして、その家に泊まった時の夜に厠に向かい、身に付けていた剣を桑の木に掛けて、それを残したまま殿に入ってしまった。

そこで驚いて取りに行ったが、そこで剣は神のような光を放っていたので、握ることができずに取れなかった。よって、宮酢媛命は「この剣は神氣(くすしきけ)があります。よって齋き奉って吾が形影(みかた)としましょう」と言って社を建てた。これによって郷名とした。

尾張國號

風土記によれば、日本武尊が東夷を征伐して この国に帰り到った時、身に付けていた剣を熱田宮に納めたという。その剣は、元は八岐巨蛇(ヤマタノヲロチ)の尾から出たという。よって、尾張国(をはりのくに)という。

川嶋社

尾張国風土記によれば、葉栗郡(はぐりのこほり)に川嶋社(かはしまのやしろ)がある(河沼郷の川嶋村にある)。奈良宮御宇聖武天皇の時、凡海部忍人(オホシアマベノオシヒト)が「この神は白鹿と化して時々出現します」と申したので、天皇は「ならば齋き奉って、天社(あまつやしろ)と為せ」と詔した。

福輿寺(三宅寺)

同国(尾張国)の愛智郡(あいちのほこり)に福輿寺(ふくこしでら)がある(俗に三宅寺と言い、郡家を南に去ること9里14歩の日下部郷の伊福村にある)。平城宮御宇天璽國押開櫻彦命天皇(聖武天皇)の神亀元年(724年)に王政の外従七位下の三宅連の麻佐(マサ)がこれを造り奉った。

玉置山 星池(星石)

玉置山(たまおきやま)という山には鹿や狐が出る。ここには神がおり、その名を道主命(ミチヌシ)という。また、ここには一つの小石がある。昔の人が言うには「赤星(あかぼし)が此処に落下した」という。山麓には星池(ほしいけ)があり、星が常に宿る場所である。また、怪しい石があり、それは星の石だという。今もなお星が落ちる。

阿波手森(咲山)

顯昭がいうには、歸山(かへるやま)は越前にある…。

私がいうには、古物には風土記などを引いて、阿波手森(あはでのもり)や咲山(わらふやま)などという所では、皆 このように言い表せられる。

宇夫須那社

尾州の葉栗郡(はぐりのこほり)の若栗郷(わかぐりのさと)に宇夫須那社(うぶすなのやしろ)という社がある。これは廬入姫(イホイリヒメ)の誕生した産屋の地である。故に社名とした。

葉栗尼寺

尾州の葉栗郡に光明寺という寺がある。葉栗尼寺(はぐりのあまでら)とも呼ばれた。これを飛鳥浄御原御宇(天武天皇の御代)の丑丁に小乙中の葉栗臣人麿(ハグリノオミヒトマロ)が最初に建立したという。

大呉里

尾張国の大呉里(おほくれのさと)は、景行天皇の御代に西方から大きな笑い声が聞こえてきたので、天皇は怪しんで石津田連を遣わせて調べさせた。石津田連が見に行くと、牛のような顔をしたものが集まって大声で笑っていたので、石津田連は少しも恐れずに剣を抜いて皆悉く切り殺した。これよって、大斬里と名付けられたが、後の人が訛って大呉里となった。

張田邑

不詳

藤木田

昔、尾張国の春部郡に国造の川瀬連という者が田を作ろうとした時に、一夜にして藤(はぎ)が生い茂った。(川瀬連は)怪しみ畏れて、これを切り棄てることもできずにいると、その藤はだんだん大きくなっていった。故にこの田藤田(はぎた)という。菅清公卿の尾州記によれば、その藤が大きな樹となったので、藤木と名付けられたという。俗には波木田といわれる。

登々川

管清公記によれば、大穴大神と小彦命が巡行した時の行き帰りの足跡があったので、跡々(とと)という。または賭々ともいう。

徳々志

尾州記によれば、昔の美女の特徴で顔が太っていることを徳々志(ふくよかな)と呼ぶという。

参河国風土記 逸文

豊川

参河国に3つの川があり、その1を男川、その2を豊川、その3を矢作川という。云々。

矢作河

晏子春秋(あんししゅんじゅう)には「望むに兵器を鋳造するのは難しく、望むに井戸を掘っても乾いている。この類である」とあるが、愚かしくも按ずるに、本朝の参河国風土記にある矢作河(やはぎかは)であろう。

遠江国風土記 逸文

白羽官牧

不詳

駿河国風土記 逸文

富士山之雪

富士山には雪が降り積もっているが、6月15日にはその雪は消えて、子(ね)の時より下にまた降り替わると、駿河国風土記に見えるという。

駿河國號

風土記によれば、国の中に富士河(ふじかは)がある。その水は極めて猛く疾い。故に駿河国と称される。云々。

神女羽衣(三保松原)

三保松原(みほのまつはら)は、駿河国の有度郡(うどのこほり)にある。濱の北を渡ると富士山がある。南に大洋海がある。久能山(くのうのやま)が険しく西に聳えている。清見關(きよみがせき)と田子浦(たごのうら)がその前にある。松林が青々と茂っており、よく分からないが幾千万株あるだろう。その境は危なく非凡である。そこは天女(アマツヲトメ)や海童(ワタツミ)が遊んだり休息する場所である。

風土記を案ずるに、古老が伝えて言うには、昔 神女(カムメ)が此処に天降り、その羽衣を松の枝に掛けていた。その羽衣を漁人が拾って見ると、なんとも軽くて柔らかかったという。その衣は六銖衣(ろくしゅのころも)や織女機(おりめのはた)などといわれる。神女は漁人に返してくれるように乞うたが、漁人は拒んだ。そのため、神女は天に上ることは叶わず、漁人と夫婦となった。

その後、神女は羽衣を取り返して雲に乗って去った、または、その漁人が神仙のように登ったといわれる。

手兒呼坂 不來見濱

「東道の 手兒呼坂 越兼て 山にか寢むも 宿りは無しに」

「東道の 手兒呼坂 越えて去なば 我れは戀ひなむ 後は逢ひぬとも」

駿河国風土記には このようにある。

庵原郡(いほはらのこほり)の不來見濱(こぬみのはま)に妻を置いて通う神がいた。その神は常に岩木山(いはきのやま)を越えて通ったが、この山には道を妨げる荒ぶる神がいて、その神を遮って通さなかった。なので件の神は荒ぶる神の居ない間を窺って通っていた。そのため、通うのは難しかった。妻の女神は、夫の男神を待っていた時に岩木山の此方に到り、そこで夜通し待っていたが、男神が来なければ その名を呼んで叫んだ。よって、その場所は手兒呼坂(てこのよびさか)と名付けられた。云々。

手兒(てこ)は東の土地の言葉で、女のことをいう。田子浦(たごのうち)も手子浦(てこのうら)である。上の2首の歌は、その男神の歌という。その女神の歌にはこのようなものがある。

「岩木山 直越來坐せ 庵崎の 不來見濱に 我立待たむ」

この歌も『万葉集』に入っている。庵崎(いほさき)は庵原之崎(いほはらのさき)である。不來見濱(こぬみのはま)は男神が来ないことにより、このように呼ばれるようになった。云々。

伊豆国風土記 逸文

伊豆國 奥野神猟(猟鞍)

伊豆国風土記には このようにある。

駿河国の伊豆の崎を分けて、そこを伊豆国と名付けた。(この国の)日金嶽(ひがねがたけ)には瓊々杵尊(ニニギ)の荒神魂(アラミタマ)が祀られている。

奥野神猟(おくののみかり)には、毎年国ごとの役(えだち)が置かれ、八牧別所(やまきのわけどころ)を構えて幣(みてぐら)として狩具(かりくら)を納めたとされ、その事の次第は国記にある。推古天皇の御代、伊豆・甲斐の2国の間には聖徳太子の領地が多かったので、この猟鞍(かりくら)を留めた。

八牧別所は、往古は猟鞍の司であり、山神(やまつかみ)を祀り司った社は幣坐神社(みてぐらのかみのやしろ)と名付けられた。その旧法(ふるきのり)は絶えて久しい。夏野猟鞍は、伊藤・奥野で、毎年 鹿柵(かせ)の射手が選ばれる。云々。

奥野 伊豆船(船造)

応神天皇5年甲午の冬10月、伊豆国に造船を命じた。その長さは10丈である。完成した船を海に浮かべると葉のように軽く走った。この舟木(ふなき=舟の材木)は日金山(ひがねやま)の麓の奥野の楠であり、これが応神朝で初めて造られた大船であると伝えられている。

日金嶽

日金嶽(ひがねがたけ)は、往昔 伊豆別王子(イヅワケノオウジ)が謹んで瓊々杵尊(ニニギ)を勧請した所であると、伊豆国風土記に見える。(この山は)伊豆で最も高い山である。

伊豆温泉

准后親房記(じゅごうのちかふさのしるし)には、伊豆国風土記からの引用で このようにある。

考えるに、玄古(むかし)天孫がまだ天降ってない頃に、大己貴尊(オホナムヂ)と少彦名(スクナヒコナ)が我が秋津洲(あきづしま=日本)の民を哀れんで、若死しないように禁薬(くすり)を製造し始め、温泉(ゆあみ)の術(みち)を教えた。

伊津神湯(いづのかみのゆ)もまたその一つであり、それは箱根元湯(はこねのもとつゆ)のことである。だが、走湯(はしりゆ)はそうではなく、これは人王44代(元明天皇)の養老年中に開いた湯である。尋常でない湯が出ており、昼に一度、夕方に二度、火焔が盛んに起こって温泉が出る。とても熱いので湯をぬるくして、樋を以って湯船に注ぐ。これに身体を浸せば、諸々の病は悉く治癒する。

甲斐国風土記 逸文

菊花山

「雲上に 菊掘植ゑて 甲斐國 鶴郡を 映してぞ見る」

この歌の注釈として風土記には、甲斐国の鶴郡(つるのこほり)にある菊花山(きくかさん)に流れる水で菊を洗い、その水を飲めば人の寿命は鶴のように長くなる とある。

相模国風土記 逸文

足軽山

相模国風土記には このようにある。

足軽山(あしからのやま)は、この山の杉の木を取って船を作ると とても足が軽くなることから、他の場所でも此処の材木で船を作った。故に足軽山と名付けられた。云々。

下総国風土記 逸文・上総国風土記 逸文

下総・上総国號

下総(しもふさ)・上総(かづさ)の総は、木の枝のことである。昔 この国には巨大な楠が生えており、その長さは数百丈に及んだ。当時の天皇は不思議に思って占わせたところ、大史(おほふひと)は「天下の大禍事です」と奏上したので、この巨木を斬り捨てると、南方に倒れた。その上の枝が上総で、下の枝が下総であると風土記にある。

常陸国風土記 逸文

新治、白壁、筑波、香嶋、那賀、多珂

常陸国風土記。新治国、白壁国、筑波国、香嶋国、那賀国、多珂国などなど云々。

大神駅家

常陸国風土記には新治郡のことが記されている。

この大神駅家という名は、周辺に大蛇がたくさん居たことから名付けられた。

※大物主神または三輪大神はその形が蛇の形とされる

枳波都久岡

枳波都久岡は常陸国の真壁郡にある。

信太郡 日高見国

公望(キミモチ)の私記によれば、常陸国風土記にあると云われる。

信太郡は、古老が言うには、難波常柄豐前宮之天皇(孝徳天皇)の御世の癸丑の年に、小山上の物部河内(モノノベノカフチ)、大乙上の物部会津(モノノベノアイズ)らが惣領の高向大夫らに申し出て、筑波・関城郡700戸を分けて信太郡を置かせた。この地を日高見国という。

信太郡縁由

常陸国風土記には信太田の由縁が記されている。

黒坂命(クロサカ)が陸奥の蝦夷を言向け、凱旋して多珂郡の角枯之山まで来た時、病のためにここで亡くなった。この時に角枯を黒前山と改めた。黒坂命の亡骸を乗せた車が この山から日高見国に向かった。葬列の赤旗・青旗は入り交じって翻り、雲を飛ばして虹を引いたとされ、野や道を輝かせたという。このことから幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮めて信太の国といわれた。

覺賀鳥

覺賀鳥(かくがのとり)というのはどんな鳥か、風土記を案ずるに、常陸の国の河内郡にある浮嶋村には2羽の鳥がいた。これを賀久覺(かくが)の鳥といい、その囀りの声は愛しいといわれた。

大足日子天皇(景行天皇)が浮嶋村に行幸し、仮宮を建てて留まってから30日を経た。その間に天皇は この鳥の囀りを聞いて、伊賀理命(イカリ)を遣わせて網を張らせて捕えさせた。天皇はこれを喜んで鳥取(トトリ)という姓を与えた。その子孫は今は此処に棲んでいるという。

大谷村

常陸国風土記に曰く、採大谷村の大きな榛の木を伐採して,根の部分で鼓を造り,先の部分で琴を造った。俗に比佐頭(ひさつ)といわれる(云々)。

久慈理岳

常陸国に久慈理の岳(くじりのおか)という岳がある。その岳の形が鯨鯢(クジラ)に似ていたため、この名で呼ばれるようになったと伝えられている(云々)。俗のいわれに鯨に似ていたため久慈理と呼ばれたともいわれる。

道後 桁藻山

常陸の国の多珂郡には桁藻山がある。

風土記に記される歌の中に

「道後(みちのしり) 桁藻山(たなめのやま)」

と詠まれたものがある。

三柱天皇

三柱天皇は常陸国風土記に中に登場する天皇で、巻向日代宮大八洲照臨天皇(景行天皇)の御世、あるいは石村玉穗宮大八洲所馭天皇(継体天皇)の御世、あるいは難波長柄豐前大朝八洲撫馭天皇(孝徳天皇)の御世とされる。

賀蘓理岡

刺蜂(サソリ)とは刺す蜂という物で、子を呪(まじな)うことに使われ、常陸国では賀蘓理(サソリ)とも言い伝えられる。この国には賀蘓理岡(かそりのおか)という岡があり、昔 この岡には刺蜂がたくさんいた。これにより、刺蜂岡(さそりのおか)と呼ばれるようになり、それが賀蘓理岡というようになった。

尾長鳥 酒鳥

常陸国風土記に記される他の鳥に尾長(オナガ)または酒鳥(サカトリ)という鳥がいる。その形は、天辺が黒くて尾が長く、アオサギに似ており、わずかにヒワやニワトリにも似ているが、ハヤブサのようではない。この鳥は山野や里村に棲んでいる。

伊福部岳

常陸国記にはこのようにある。

昔 兄と妹が同じ日に田を作ったが、遅い時間に田植えをすると伊福部神(イフキベノカミ)の災いを被るといわれていたのに、妹は遅い時間に田植えをした。その時に妹は雷鳴に撃たれて死んだので、兄は大いに嘆き恨んで、妹の仇を討とうと思ったが、その居場所が分からなかった。

その時、一羽の雌雉が飛んできて肩に止まった。そこで、兄は績麻を取って雉の尾に麻糸を括り付けると、雉は伊福部岳まで飛んでいった。兄が麻糸を追って進むと、やがて雷神の住処である石屋に辿り着き、そこで寝ていた雷神を斬ろうと太刀を抜くと、雷神は恐怖して「助けてくれるならば貴方に従い、100年の後に至るまで貴方の子孫に雷の被害がないようにしよう」と助けを乞うた。兄はこれを聞いて許してやることにし、また雉に助けてもらったことを感謝して「もし、雉に危害を加えたら病に冒されて生涯不幸になるべし」と誓った。そのため、この土地に住むものは、雉を食うことはない。

沼尾池

常陸国風土記にはこのようにある。

香嶋の沼尾社に沼尾池がある。神代から水が下って蓮が生えており、この水を飲むものは不老不死となるという言い伝えがある。

流れ海

常陸国風土記にはこのようにある。

香嶋の埼には下総の海の境から深く入り込んだ利根川の河口がある。これを流海と呼ぶ。今では内海という。一つの流れは鹿島郡と行方郡に流れ、もう一つの流れは行方郡と下総の先を流れて信太郡・茨城郡に入っている。
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。