風土記逸文 現代語訳(東山道編)
2021/01/28
『風土記逸文(東山道編)』を現代語訳にしてみました。風土記逸文とは風土記の一部のことで、他書に引用されて記載されているものを言います(元々の風土記が失われているため、このような形で復元されている)。
ここでいう「東山道」とは 近江国(滋賀県)・美濃国(岐阜県南部)・飛騨国(岐阜県北部)・信濃国(長野県)・陸奥国(福島県・宮城県・岩手県・青森県) のことです。情報量は少ないですが、地名由来・神社のいわれ・各地の伝説(羽衣伝説・土蜘蛛伝説) などが記されており、なかなか興味深い内容になっています。
はじめに
・以下の文章は、専門家ではない素人が現代語に翻訳したものです
・基本的には意訳です(分かりやすさを重視しているため、文章を添削をしています)
・分からない部分については、訳さずにそのまま載せています。
・誤訳や抜けがあるかも知れませんので、十分注意してください(随時修正します)
・資料不足で載せてない部分もあるので、十分注意してください
原文参考:大日本真秀國 風土逸文
近江国風土記 逸文
淡海国號(細浪国)
浅井家記録からの引用で、近江国風土記には このようにある。
淡海国(あふみのくに)は、淡海を以って国の名とした。故に別名を細浪国(ささなみのくに)という。思うに国の向かいに湖上の漣(さざなみ)が観えるからであろう。
八張口神社 左久那太李神
近江国風土記によれば、八張口神社(やはりぐちのかみのやしろ)は伊勢の左久那太李神(サクナダリノカミ)を忌んで、瀨織津比咩(セオリツヒメ)を祀っている。云々。
息長川
不詳
伊香小江
古老が伝えて言うには、近江国の伊香郡(いかごのこほり)や胡郷(よごのさと)の伊香小江(いかごのをうみ)は郷の南にある。天之八女(アメノヤヲトメ=8人の天女)は白鳥と共に天降り、江の南の津で川浴をした。
その時、西の山には伊香刀美(イカトミ)という者がおり、遥か遠くに白鳥を見て、その形を不思議に思い「もしかして神人か?」と言って様子を見に行くと、それは本当に神人であった。これを見た伊香刀美は一目惚れしてしまったので帰る気が失せてしまい、密かに白犬を遣わせて(天女の)天衣(あまのはごろも)を盗み取らせた。それは弟衣(いろとのころも=末の天女の衣)であった。天女がこれを知った時、その7人の姉は天上に昇っていくことができたが、末の天女は昇ることが出来なかった。そのため、永らく天に帰らずに土地の民となった。天女が川浴した浦は、今は神浦(かみのうら)といわれる所である。
伊香刀美は末の天女を家に迎えて そこに住まわせた。そして結婚して、男2人・女2人の子を儲けた。長男の名を意美志留(オミシル)・次男の名を那志等美(ナシトミ)・長女の名を伊是理比咩(イゼリヒメ)・次女の名を奈是理比賣(ナゼリヒメ)といった。これは伊香連(イカゴノムラジ)らの先祖である。
その後、母(天女)は天羽衣(あまのはごろも)を捜して見つけると、それを着て天に昇っていった。よって、伊香刀美は空床(むなしきとこ)を独りで守って眺めることしか出来なかった。
竹生島
霜速比古命(シモハヤヒコ)の子の多多美比古命(タタミヒコ)は夷服岳神(イブキノヲカノカミ)ともいわれる。(霜速比古命の)娘は比左志比女命(ヒサシヒメ)で、これは夷服岳神の姉で久惠峰(くゑのみね)にいる。次の浅井比咩命(アサイヒメ)は夷服岳神の姪で浅井岡(あさゐのをか)にいる。
この夷服岳(いぶきのをか)と浅井岳(あさゐのをか)は高さを競い合った。その時に浅井岡の高さが一夜で増したので、夷服岳は怒って刀剣(つるぎ)を抜いて浅井比賣を斬り殺した。すると、比賣の頭は江中(うみのなか)に落ちて江嶋(えしま)となった。その名を竹生嶋(ちくぶしま)というが、その頭だろうか?
注進風土記事
不詳
美濃国風土記 逸文
金山彦神 一宮
風土記によれば、伊弉並尊(イザナミ)が火の神の軻遇槌(カグツチ)を生んだ時、熱さに悶えて懊悩(なやみ)、これによって吐いた。これが神と化したのが金山彦神(カナヤマヒコ)である。一宮の神である。
飛騨国風土記 逸文
飛駄国號
風土記によれば、この国は元は美濃国の内であった。往昔、江洲大津造王宮(天智天皇)の時、この郡から良い木材がたくさん出た。それを駄馬に背負わせて往来させたが、それは飛ぶように速かった。よって、飛駄国(ひだのくに)と改称した。
信濃国風土記 逸文
其原伏屋 帚木
昔、風土記と申す文書を見た時に、この帚木(ははきざ)の由来の大略を見た。しかし、時が経ってはっきりとは覚えていない。件の木は美濃・信濃の2国の堺の其原伏屋(そのはらふせや)という所にあった木である。
遠くから見れば帚木を立てたように見えるが、近くで見ればそのように見える木はない。そこで「あるように見えるが逢えぬ」と喩えよう。
陸奥国風土記 逸文
八槻郷
陸奥国風土記にはこのようにある。
これが八槻(やつき)と名付けられた由来である。巻向日代宮御宇天皇(景行天皇)の御世に日本武尊(ヤマトタケル)が東夷を征伐しようと此地に至った時、八目鳴鏑(やつめのかぶら)で賊を射殺した。その矢が落ちた場所は矢着と呼ばれるようになった。ここには正倉があり、神亀3年(726年)に八槻と字を改めた。
古老が言うには、昔 この地には8人の土知朱(ツチグモ)がいた。その一を黒鷲(クロワシ)・その二を神衣媛(カムミゾヒメ)・その三を草野灰(クサノハヒ)・その四を保々吉灰(ホホキハヒ)・その五を阿邪爾那媛(アザニナヒメ)・その六を栲猪(タクシシ)・その七を神石萱(カムイシカヤ)・その八を狭磯名(サシナ)と言い、それぞれに一族があり、その住処は八處石室(八ヵ所の石窟)であった。
この八ヵ所は皆 要害の地であった。よって、天皇には従わなかった。国造の磐城彦(イワキヒコ)が敗走した後は、百姓から略奪することを止めなかった。そこで纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)は日本武尊に詔をして土知朱の征討を命じた。これに土知朱らは力を合わせて防戦した。また、津軽の蝦夷と共謀し、鹿や猪を狩るのに使う弓を石城に重ねて張って、それで官兵を射った。これにより官兵は進軍することができなくなった。
そこで日本武尊は、槻弓に槻矢をつがえて7発,8発と射った。すると、その7発の矢は雷鳴の如く鳴り響いて蝦夷らを追いやり、8発の矢は8人の土知朱を射貫いて殺した。すると、射たれた土知朱に刺さった矢から悉く芽が生えて、やがて槻の木になった。その地を八槻郷という(ここには正倉がある)。また、神衣媛と神石萱の子孫は許されて郷の中に住んでいる。今は綾戸(あやべ)というのがこれである(大善院旧記)。
飯豊山
同風土記にはこのようにある。
白川郡(しらかはのこほり)。
飯豊山(いひとよやま)。
この山は豊岡姫命(トヨヲカヒメ)の忌庭(ゆには)である。また、飯豊蒼尊(イヒトヨアヲ)が物部臣を遣わせて御幣を奉った。このため山の名となった。
古老が言うには、昔 巻向珠城宮御宇天皇(垂仁天皇)27年の戊午の年の秋に、人民が飢えて多くの死人が出た。これによって宇恵恵(うゑゑ)の山と呼ばれるようになった。これが後に豊田(とよつだ)と改められ、また飯豊と呼ばれるようになった。
淺香沼
不詳
鹽竈神社
不詳
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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