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2015年8月11日火曜日

大酒神社 [京都府]

人文研究見聞録:大酒神社 [京都府]

京都市右京区太秦にある大酒神社(おおさけじんじゃ)です。

仲哀天皇の御代に創建されたと伝わる古社であり、渡来系氏族として有名な秦氏の先祖が祀られています。

神社概要

由緒

由緒書によれば、仲哀天皇8年(365年)に秦始皇帝の14世孫である功満王(こうまんおう)が来朝し、当地に始皇帝の神霊を勧請したことに始まるとされます。

推古天皇11年(603年)に広隆寺が創建された後は境内の桂宮院の鎮守社として祀られていたとされ、明治以降は神仏分離令によって広隆寺から当地に移転されて現在に至るとされています。

また、もともと「大避」という社名であったとされ、これは功満王が漢土の兵乱を避けて来日し、当地に創建したことに因んでおり、後に祭神の秦酒公の名に因んで「大酒」となったそうです。

ちなみに、兵庫県赤穂市坂越には同名の大避神社が存在しており、そこでは聖徳太子の側近として知られる秦河勝(大避大神)が主祭神として祀られています。

なお、由緒書による解説は以下の通りです。

由緒書

・祭神:秦始皇帝(しんのしこうてい)、弓月王(ゆんずのきみ)、秦酒公(はたのさけきみ)
・相殿:兄媛命(えひめ)、弟媛命(おとひめ、呉服女、漢織女)
・神階:正一位、治歴4年4月(1068)

当社は、延喜式神名帳葛野郡二十座の中に大酒神社(元名)、大避神社とあり、大酒明神ともいう。

「大避」称するは秦始皇帝の神霊を、仲哀天皇8年(365)に皇帝14世の孫・功満王(こうまんおう)が漢土の兵乱を避け、日本朝の淳朴(じゅんぼく)なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生まれた。

后(のち)の代に至り、功満王の子・弓月王、応神天皇14年(372)に百済より127県の民衆18,670余人を統率して帰化し、金銀玉帛(ぎょくはく)等の宝物を献上す。また、弓月王の孫・秦酒公は、秦氏諸族を率いて蚕(かいこ)を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類をおびただしく織出し朝廷に奉る。

絹布宮中に満積して山の如く丘の如し。天皇御悦の余り、埋益(うずまさる)と言う意味で秦酒公に禹豆麻佐(うずまさ)の姓を賜う。数多の絹綾を織出したる呉服漢織の神霊を祀りし社が大酒神社のかたわらにありしが明歴年中破壊に及びしを以て、当社に合祀す。

機織(はたおり)のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国の輸入するに努め、農耕、造酒、土木、管絃、工匠等産業発達に大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。今大酒の字を用いるは秦酒公を祀るによって此の字に改む。

広隆寺建立后、寺内 桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年政令により神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在広隆寺で10月10日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭は、以前広隆寺の伽藍神であった時の当社の祭礼である。

なお、603年の広隆寺建立者・秦河勝(はたのかわかつ)は秦酒公の6代孫。また、大宝元年(701)に子孫・秦忌寸都理(はたのいみきとり)が松尾大社を創立。和同4年(713)には秦伊呂具(はたのいろぐ)が伏見稲荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発達に貢献した、秦氏族の祖神である。

祭神

大酒神社の祭神は以下の通りです。

主祭神

・秦始皇帝(しんのしこうてい):中国史上初の皇帝
 → 史上初の中華統一を成し遂げた人物であり、統一後は不老長寿を求めて徐福を蓬莱山に派遣した
  ⇒ マンガ『キングダム』の嬴政(えいせい)が始皇帝に当たる
 → 『史記』に「人となりは、鼻が高く目が長く、摯膺のように胸が突き出て、豺のような声をし…」とある
  ⇒ 西洋人のような特徴を持っていたと取れることから、中国より西方の血が入っているという説がある
・弓月王(ゆんずのきみ):応神天皇の御代に帰化し、秦氏の祖となったとされる
・秦酒公(はたのさけのきみ):雄略天皇に仕えて禹豆麻佐(うずまさ)の姓を賜ったとされる

相殿神

・兄媛命(えひめのみこと):呉服女
・弟媛命(おとひめのみこと):漢織女

秦氏とは?

人文研究見聞録:大酒神社 [京都府]
始皇帝

秦氏(はたうじ)とは、古代に朝鮮半島経由で渡来して帰化した渡来系氏族であり、大和国および山背国、河内国、摂津国などに土着して土木・養蚕・機織などの技術を伝えたと言われています。

なお、通説では応神天皇14年に渡来してきた秦始皇帝の後裔の弓月君(融通王)が祖であるとされていますが、当社の由緒書では仲哀天皇8年に来朝した功満王(こうまんおう)に始まるとされます。

そのため当社の主祭神は秦始皇帝および弓月王・秦酒公などの秦氏の先祖であり、この内 功満王の子の弓月王(ゆづきのきみ)は、応神天皇14年(372年)に百済より民衆18,670余人を率いて来朝し、金銀玉帛等の宝物を献上して帰化したとされます(『新撰姓氏録』に記録がある)。

また、弓月王の孫の秦酒公(はたのさけきみ)は、雄略天皇に仕えて絹織物をうず高く積んで献上したことから禹豆麻佐(うずまさ)の姓を賜ったとされます(『日本書紀』に記録がある)。

この他にも、秦酒公の6世孫に当たる秦河勝(はたのかわかつ)は推古天皇11年(603年)に広隆寺を創建し、その子孫の秦忌寸都理(はたのいみきとり)は大宝元年(701年)に松尾大社を創建し、同族の秦伊呂具(はたのいろぐ)も和同4年(713)に伏見稲荷大社を創建したとされます。

詳しくはこちらの記事を参照:【秦氏とは?】

牛祭

人文研究見聞録:大酒神社 [京都府]

京都三大奇祭の一つである太秦の牛祭(うずまさのうしまつり)とは、毎年秋の夜中に行われる奇祭であり、明治以前は大酒神社の祭りとして執り行われていたとされています。

内容については、牛に乗った摩多羅神(またらしん)赤鬼青鬼の四天王を従えて境内周辺を巡り、巡行の後、摩多羅神は薬師堂の前で長い祭文を読みあげます。

そして、その間に群衆によって野次や石が投げられ、祭文を読み終えると、摩多羅神と四天王は堂内へ駆け込んで祭りを終える、といった謎の多いものとなっています。

秦氏の先祖を祀る大酒神社および、秦河勝によって開かれた広隆寺の祭りとされていることから、秦氏に深い関わりを持つ祭りであると思われ、祭りの内容も秦氏のルーツに関わるものではないかと考えられますね。

なお、明治以降は広隆寺の祭として一時的に復興されていましたが、現在は不定期開催とされています(Youtubeなどで動画が見られるようです)。

境内の見どころ

鳥居

人文研究見聞録:大酒神社 [京都府]

大酒神社の鳥居は柱が八角柱になっています。

この形式は内宮源鳥居(ないくうげんとりい)と呼ばれる珍しい形のものとなっています。

手水舎

人文研究見聞録:大酒神社 [京都府]

大酒神社の手水舎です。

社殿

人文研究見聞録:大酒神社 [京都府]

大酒神社の「社殿」です。

社殿は小さいですが、境内自体は なかなか広いです。

料金: 無料
住所: 京都府京都市右京区太秦蜂岡町(マップ
営業: 終日開放
交通: 太秦広隆寺駅(徒歩2分)、太秦駅(徒歩12分)


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