人文研究見聞録:秦河勝とは?

秦河勝(はたのかわかつ)とは、聖徳太子の側近中の側近とされる人物です。

以下に、その人物像をまとめていきたいと思います。


基本情報

概要


秦河勝は飛鳥時代に活躍した人物であり、主に聖徳太子の側近として太子を支えていたとされています。

山城国葛野を拠点にしていた渡来系氏族である秦氏(はたうじ)の出身であり、そのルーツを辿ると古代中国の秦の始皇帝に遡るとされています。また、飛鳥時代においては秦氏の族長的人物であったといわれているようです。

伝説によれば、初瀬川が氾濫した際に三輪大神の社の前に流れ着いた童子であり、当時の天皇であった欽明天皇は、夢の中で「私は秦の始皇帝の再誕である。縁あって この国に生まれた」と名乗る神童と出会っていたことから、「夢にみた童子は、この子である」として殿上に召抱え、後に始皇帝に因んで童子に「」の姓(かばね)を与え、初瀬川の氾濫より助かった童子であることから「河勝」と称したとされています。

また、富裕な商人でもあり、朝廷の財政に関わっていたといわれ、その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったという説もあります。なお、四天王寺の造成は、秦河勝の財力によって成し遂げられたともいわれています。

秦河勝の経歴は『日本書紀』や『聖徳太子伝暦』などで見られますが、詳しいことは ほとんど記されていません。ですが、忍者の祖であるとか、陰陽道に長けていたなど、なかなか興味深い伝説も伝えられています。

また、兵庫県赤穂市にある大避神社は河勝を大避大神として祀っており、縁起として河勝の最期についても伝えられています。その縁起によれば、河勝は聖徳太子の死後 蘇我氏の迫害を避けて海路より坂越(赤穂市)に漂着し、千種川の開拓を進めた後、大化3年(647年)に80余歳で坂越にて没したとされ、遺骸は生島に葬られたとされています。

聖徳太子についてはこちらの記事を参照:【聖徳太子とは?(史実)】【聖徳太子とは?(伝説)】

経歴


秦河勝の主な経歴は以下のとおりです。

【用明天皇2年(587年)

丁未の乱では、物部守屋の追討戦に従軍し、厩戸皇子(聖徳太子)を守護しつつ守屋の首を斬った(聖徳太子伝暦)。

推古天皇11年(603年)

聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、蜂岡寺を建てそれを安置した(日本書紀)。

推古天皇18年(610年)

新羅の使節を迎える導者の任に土部連菟(はじのむらじうさぎ)とともに当る(日本書紀)。

皇極天皇3年(644年)

駿河国富士川周辺で、大生部多を中心とした常世神を崇める信仰宗教団体を討伐する。

皇極3年(644年)

皇極3年(644年)9月12日、蘇我氏による迫害を避けて海路より坂越(赤穂市)に漂着した。
河勝はこの地で千種川の開拓を進めた(大避神社縁起)。

大化3年(647年)】

大化3年(647年)、坂越にて80余歳で死去した。河勝の御霊は神仙と化し、村人が朝廷に願い出て祠を築き祀った。
これが、大避神社の創建と伝えられている(大避神社縁起)。

関連する社寺等


秦河勝にまつわる社寺や場所は以下のとおりです。

四天王寺(大阪市天王寺区)秦河勝が創建に関与したとされる
・伝・秦河勝の墓(大阪府寝屋川市):秦河勝の墓と伝わる五輪塔がある
広隆寺(京都市右京区)秦河勝が創建したと伝わる寺
京都御所(京都市上京区)秦河勝の邸宅跡に建つといわれる
大避神社(兵庫県赤穂市)秦河勝が大避大神として祀られている
生島(兵庫県赤穂市)秦河勝の墓所がある

伝説

文献による伝説


河勝の出自


欽明大皇の御代、大和国の泊瀬川(初瀬川)で洪水が起こった時に川上から一口の壺が流れ下ってきた。このとき、殿上人が三輪の杉の鳥居の辺りで この壺を拾うと中に嬰児(赤ん坊)がおり、その容姿は柔和で玉のようであった。殿上人は"これは天降り人である"と思い、さっそく参内して帝に奏聞した。

その夜、帝の夢に嬰児が現れて「我は大国・秦の始皇帝の再誕である。日本に機縁あって今現れた云々」と申したので、帝は奇特に思って殿上に召された。その嬰児は成人になるに従って才智は他に優れ、15歳の時には大臣の位に昇った。そこで帝より「秦」の姓を賜ったのである。「秦」という文字は「はた」である故に「秦河勝」である。

※世阿弥『風姿花伝』より

猿楽の祖


聖徳太子は天下に少し障りがあった時、神代や天竺の吉例に倣って六十六番の物真似を河勝に仰せられ、六十六番の御作の面を河勝に与えた。そして、奈良は明日香の橘の内裏の紫宸殿にて これを執り行った。

すると、天下は治まり、国は静謐になった。聖徳太子は末代のためにと「神楽」の「神」という字の偏を外して旁を残された。これは暦の「申」であることから「申楽(猿楽)」と名づけられた。すなわち「楽しみを申す」によるものである。また、神楽の偏を外し旁を残して申楽とし、双方を分けたことにもよる。

※世阿弥『風姿花伝』より

秦河勝と常世神


皇極天皇(644年)7月、東国の富士川周辺で、そこに住む大生部多(おほふべのおほ)が、「この虫は常世の神である。この神を祭れば、富と長寿を与えられる」と言い、虫を祀ることを村人に勧め、巫らも「常世神を祭る者は豊かになり、若返る」という神言を述べた。

そして、人々に財産を寄付させて都人も田舎人も皆して常世の虫を祀ったが、結局 何の御利益もなかった。そのことを知った秦河勝は、民衆の苦難を憂い、珍妙な宗教を広めようとする大生部多を討った。そこで時の人は このような歌を詠んだ。

ウヅマサハ、カミトモカミト、キコエクル、トコヨノカミヲ、ウチキタマスモ。(太秦は神の中の神という評判が聞こえてくる。常世の神を打ち懲らしめたのだから。)

※『日本書紀』より
※余談ですが、常世神とされる虫は、橘や山椒の木に付く蚕(かいこ)に似た虫であり、親指ほど大きさで、緑色に黒い斑点があるという特徴があるとされています。このことから、アゲハ蝶の幼虫を指していたのではないかと言われています。

大荒大明神となった河勝


河勝は、欽明、敏達、用明、崇峻、推古の帝より聖徳太子に仕え奉り、この芸能を子孫に伝えて「役目を終えた化生の人は、足跡を残さず」の言い伝えによって摂津国の難波の浦から空舟に乗り、風に任せて西海に出た。

河勝は播磨国・坂越の浦に着いたが、浦人は「舟を開けて見れば姿は人間ではなかった」「人々に憑き祟って奇瑞を為した」などと言った。このようにして人々は河勝を神と崇めると国は豊かになったので"大いに荒れる"と書いて「大荒大明神」と名づけた。今の代も霊験あらたかである。本地は毘沙門天王であり、聖徳太子が物部守屋という逆臣を平定された折も、河勝の神通方便の手にかかって守屋は敗れたと云々。

※世阿弥『風姿花伝』より

民間伝承、風説など


下記は出典が曖昧な情報です。

河勝の最期


兵庫県赤穂市にある大避神社では秦河勝を大避大神として祀っています。この神社の縁起によれば「秦河勝は、聖徳太子死後の皇極3年(644年)9月12日に蘇我入鹿の乱を避けて海路より坂越に漂着し、千種川の開拓を進めた後、大化3年(647年)に坂越の地で没した」と伝えられているそうです。

『日本書紀』によれば、蘇我入鹿は皇極天皇の次期天皇を決める際に古人大兄皇子を擁立し、皇位継承の邪魔になる山背大兄王(聖徳太子の子)を襲撃したとされます。この伝承から河勝は聖徳太子の側近であったことから同じく襲撃を受けたと推測されますが、『日本書紀』には詳しいことは記されていません。

また、河勝は80余歳まで生き、死後は坂越の生島の古墳に葬られたとされます。また、河勝の霊は神仙と化し、村人が朝廷に願い出て祠を建てて祀ったとされ、それが大避神社の始まりだともいわれています。このことから河勝は当地で畏怖の対象になっており、生島は今でも禁足地になっています(世阿弥の『風姿花伝』では「大荒大明神」と名付けられたとされる)。

河勝の容姿


人文研究見聞録:秦河勝とは?
大避神社の舞楽面

上記の大避神社の伝承によれば「秦河勝は、鼻が高く、西洋人顔であった」と伝えられているそうです。また、社宝の面には「目鼻立ちのハッキリとし顔立ちであり、鼻が高い」という特徴があります。これは蘭陵王の面であるといわれていますが、もしかすると河勝本人の顔立ちを模して彫られた面なのかもしれません。

イスラエルの失われた10氏族の子孫


景教(ネストリウス派キリスト教)の研究者である佐伯好郎は「秦氏の大部分は景教徒のユダヤ人である」という説を唱えたとされています(いわゆる日ユ同祖論)。

佐伯氏は、赤穂の大避神社について「"大避"とは"避""闢"が類字であることなどから、本来は聖書に登場するダビデ王の漢訳である"大闢(ダヴィ、たいびゃく)"のことを指すものであり、ダビデ王を祀った神社である」と主張しており、京都の太秦にある大酒神社おいても「かつては昔は"大辟"、さらに遡れば"大闢"と号していた」の説を唱えていたとされますが、学術的にはほとんど支持されていないそうです。

しかし、秦氏に関する神社には奇妙な由来や建造物があることも多く、例えば京都の木嶋神社(蚕の社)には「三柱鳥居」という三本柱の鳥居があり、これについて佐伯氏は「三位一体を表現している」と主張しています。

また秦河勝が建てた広隆寺には「いさら井」と呼ばれる井戸があり、佐伯氏は「これはイスラエルの転訛である。したがって秦氏は旧約聖書に登場する失われた10支族の末裔なのではないか」などと推察しているそうです。なお、赤穂の大避神社にも「ヤスライの井戸」というものがあり、広隆寺の井戸と通じるものがあります。

忍者の祖


忍者のルーツを探ると「聖徳太子が志能便(志能備)を使って朝廷内の動きを探っていた」という話が見つかります。この話は『日本書紀』などの一級史料ではなく、『忍術応義伝』や『萬川集海』などの忍術書によって伝えられています。

なお、聖徳太子が志能便として使っていたのは大伴細人(おおとものほそひと)という人物で「奇門遁甲」という自然現象を利用した技術を身に着けて戦闘に使えるように発展させ、忍術の原型を生み出したとされます。ちなみに、志能便は用明天皇2年(587年)に起こった「丁未の乱」で初めて使われたとされています。

一方、聖徳太子の側近であった秦河勝は、豊富な財力と広い情報網を持つ秦氏の頭領であったとされ、志能便という組織を統括していたとされます。この他にも服部氏族が志能便として使われていたといわれており、服部氏族は伊賀忍者の祖、大伴細人は甲賀忍者の祖となったといわれています。

ちなみに服部氏族は秦氏の後裔であるという説もあります。この説によれば「はっとり」という名は、秦氏が日本に伝えた「機織り」がルーツになっているとのことです。

参考サイト:忍者マイスター忍者の歴史

陰陽道の祖


陰陽道は渡来文化をルーツとし、5~6世紀に日本に伝えられたとされています。しかし、誰がどのように伝えたのかまでは明らかになっておらず、様々な説が唱えられているようです。

一説には秦氏が伝えたといわれており、平安時代の陰陽師にも秦文高など秦氏出身の者が多いとされています。また、陰陽道が体系化されていなかった時代においても、聖徳太子が制定した冠位十二階や十七条憲法には陰陽道とされる思想を垣間見ることができるという指摘もあります。

この聖徳太子の側近であった秦河勝は陰陽道に通じる四神相応などの知識に長けていたとされ、平安京も陰陽道的に優れた立地にあった秦河勝の邸宅跡に造営されています。また、一説によれば四天王寺も古代中国における四神相応に沿った場所に建てられているといわれています。

また、河勝が没した播磨の地は秦氏の一大拠点であったとされ、安倍晴明とライバル関係にあった播磨の陰陽師・蘆屋道満も、本名を「秦道満」とする秦氏出身の人物であったといわれています。

これらのことから、秦河勝は陰陽道の祖ではないかともいわれているようです。

参考サイト:るいネット

香具師の祖


香具師(やし、こうぐし、かうぐし)とは祭礼や縁日で露店を開いたり、街頭で見世物などの芸を披露する商売人のことで、辻医者や軽業・曲芸・曲独楽などをして客寄せし、薬や香具などを売っていたとされます。その一方で、行商という立場で怪しまれずに全国各地を移動して諜報活動を行っていたともいわれます。

一説に秦河勝は香具師のルーツといわれており、この流れは後裔の川勝氏に受け継がれたとされています。

参考サイト:皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集

matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。