2015年3月24日火曜日

石舞台古墳 [奈良県]

人文研究見聞録:石舞台古墳 [奈良県]

奈良県の明日香村にある石舞台古墳(いしぶたいこふん)です。

古墳時代後期の古墳とされ、盛土が無く、多数の巨石を積んで造られた石室が特徴的であるとされています。

なお、被葬者は当時権勢を振っていた蘇我馬子であるという説が有力視されているようです。


概要

石舞台古墳とは?

人文研究見聞録:石舞台古墳 [奈良県]

石舞台古墳とは、奈良県明日香村にある国内最大級の方墳であり、巨大で平らな天井石が露出している様子が舞台に見えることから、"石舞台"と呼ばれるようになったとされます。また、被葬者は明らかでないものの、7世紀初頭に権力を持っていたとされる蘇我馬子が有力視されているそうです。

なお、案内板による解説は以下の通りです。

特別史跡 石舞台古墳

石舞台古墳は、早くから石室を覆っていた盛土が失われ、巨大な天井石が露出していたことから石舞台の名前で親しまれている。

昭和8年(1933年)から実施された調査では、墳丘は一辺約55メートルの方墳、または上円下方墳で、周囲には周濠と外堀が巡らされており、墳丘と外堤の斜面には貼石が施されていることが明らかとなった。

埋葬施設については、南に開口する両袖式の横穴式石室で、玄室(墓室)の長さは約7.8メートル、幅約3.4メートル、羨道(通路)の長さは約11.5メートル、幅約2.2メートルあり、玄室から羨道にかけて排水溝が設けられている。

石室内からは凝灰岩片が出土していることから家形石棺が安置されていたものと推定される。

石舞台古墳のスペック

人文研究見聞録:石舞台古墳 [奈良県]
石の総重量 約2300トン
人文研究見聞録:石舞台古墳 [奈良県]
天井石 約77トン
人文研究見聞録:石舞台古墳 [奈良県]
墳丘一辺 約55メートル
人文研究見聞録:石舞台古墳 [奈良県]
全体一辺 約80メートル
人文研究見聞録:石舞台古墳
羨道の長さ 約11.5メートル
人文研究見聞録:石舞台古墳
羨道の幅 約2.2メートル
人文研究見聞録:石舞台古墳
玄室の長さ 約7.8メートル
人文研究見聞録:石舞台古墳
玄室の幅 約3.4メートル

石舞台古墳のサイズ・特徴は以下の通りです。

【墳丘のサイズ・特徴】

・長さ: 約55メートル
・高さ: 約1.2メートル
・堀幅: 約5.9~8.4メートル
・堤幅: 約7.0メートル
・全体: 一辺約80メートル
・墳形: 方墳(2段積の方墳、上円下方墳、下方八角墳という説がある)

【玄室(墓室)のサイズ・特徴】

・長さ: 7.8メートル
・横幅: 3.4メートル
・高さ: 4.7メートル
・総重量: 約2300トン
・天井石: 約77トン
・墓室: 両袖式の横穴式石室
・材質: 花崗岩
・副葬品: 石棺の欠片等(盗掘にあったとされる)

【羨道(通路)のサイズ・特徴】

・長さ: 11.5メートル
・横幅: 2.2メートル
・副葬品: 土師器、須恵器、銅の金具ほか(宋銭や寛永通宝が出たとも)

【特徴・備考】

・露出した両袖式の横穴式石室は、独特な形状とされる
・封土が剥がされているため、正確な墳形は不明とされる
・築造は7世紀初頭と推定される
・石室内部から微妙なバランスで石が積まれている部分が確認できる
・石室内部に排水施設がある
・被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力とされる
・「狐が女の姿に化けて古墳の上で踊ったことから石舞台と名付けられた」という伝説がある

石舞台古墳の築造方法

人文研究見聞録:石舞台古墳 [奈良県]

案内板で解説される石舞台古墳の製作方法は以下の通りです。

石舞台古墳の製作方法

1.右側の土のうを順に外し、重りとバランスをとってだんだん巨石を浮かす
2.てこ、ころ、ろくろ、滑車などを利用して運ぶ
3.石をたてながら土をつめこんでまっすぐにする
4.天井石をおいてから内部の土を取り除き、封土でおおい壕を掘り、上部を小石でふいて完成する

石舞台古墳の復元石棺

人文研究見聞録:石舞台古墳 [奈良県]

石舞台古墳には、石室から発見された岩の破片から復元された石棺が安置されています。説明は以下の通りです。

石舞台古墳の復元石棺

この石舞台古墳は、昭和5年の発掘調査で30数個の大きな石で築造された大規模な古墳で、6世紀末期から7世紀初頭のものであることが分かりました。古墳の形状は、上円下方墳と推定されます。

被葬者は、古代 この地で最大の勢力を誇っていた大豪族の蘇我馬子の桃源墓(日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十四年 626年『大臣…桃源墓に葬る』)であるとの説が最も有力視されています。

古墳の規模は、下方形墳(外掘)一辺が85m、玄室の長さ7.7m、幅3.4m、高さ4.8mで玄室南側の天井石は約77tと推定されます。

この発掘調査では、石棺は発見できませんでしたが、石室からは平らに加工した凝灰岩の破片が見つかりました。このような発掘調査の成果と、飛鳥時代の古墳に施されている石棺の資料を基にして石舞台古墳の石棺を復元しました。

フィクション

人文研究見聞録:石舞台古墳 [奈良県]

手塚治虫の原作のアニメ「火の鳥(ヤマト編)」の最後に登場する古墳は、石舞台古墳と同じ形になっています。

備考

蘇我馬子とは?

人文研究見聞録:石舞台古墳 [奈良県]

蘇我馬子(そがのうまこ)とは、敏達・用明・崇峻・推古天皇の時代の大臣であり、古墳時代から飛鳥時代にかけて勢力を誇った豪族である蘇我氏(そがし)の全盛の礎を築いた人物であるとされています。

『日本書紀』によれば、馬子は仏教を朝廷に取り入れた父・稲目の意思を継いで仏法を敬い、排仏を唱える物部氏を丁未の乱で討ち滅ぼした後、初めて飛鳥寺(日本最初の本格的寺院)を建て、仏教の影響力を以って一気に勢力を高めたとされます。

その後、馬子は実質的に政治の実権を握ったとされ、そのことから崇峻天皇との間に確執が生じ、天皇の発言を命を狙われていると解釈した馬子は、東漢駒(やまとのあやのあたいこま)という刺客を使って天皇を暗殺したとも記されています。

そして、推古天皇の御代には聖徳太子と共に政治を行い、死去すると桃原墓に葬られたとされます。文献内には桃原墓が石舞台古墳であるとする具体的な記述はありませんが、今のところ被葬者は蘇我馬子が有力視されているようです(周辺が蘇我氏の所有地であり、当地に馬子の庭園があったとも)。

ちなみに、蘇我氏は馬子以降も、子の蝦夷(えみし)、孫の入鹿(いるか)の時代に至るまで実権を握り、専横政治(専制で横暴な政治)を敷いたことから、中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我石川麻呂らによって乙巳の変で滅ぼされたとされています。

石舞台の伝説

人文研究見聞録:石舞台古墳 [奈良県]

当古墳が"石舞台"と名付けられた理由として「狐が女に化けて石の上で舞を見みせた」「旅芸人がこの地にやって来きたが、舞台がなかったので仕方しかたなく大石を舞台に演じた」という伝説に由来するという説があります。

しかし、明日香村出身の考古学者である網干善教は、明日香村に住んでいても上記のような伝説を聞いたことが無いとして、近年に創作された話であろうとしているそうです(ちなみに、ネット検索してもソースとなるような伝説はありませんでした)。

古墳築造の謎

人文研究見聞録:石舞台古墳 [奈良県]

国内では多くの古墳が発見されていますが、実は国史とされる文献には古墳築造の具体的な記録がありません。

強いて言えば、『日本書紀』の崇神天皇条にある「倭迹々日百襲姫命の墓の築造記録(箸墓伝説)」が古墳築造の記録に当たると思われ、その内容は以下の通りです。

箸墓伝説

倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)大物主神(オオモノヌシ)の妻となったが、この神は昼は見えず、夜にしか現れなかった。

倭迹々姫命大物主神に対して「あなた様は常に昼は見えないので、はっきりとその お顔を見る事ができません。お願いですから、もう少しゆっくりしてください。明日の朝に美麗しい お姿を見たいと思います」と言った。

すると、大物主神は「お前の言ってる事はよく分かる。私は明日の朝、お前の櫛笥(櫛を入れる箱)に入っているから、私の姿を見て驚くなよ」と答えた。

このとき、倭迹々姫命は心の裏で密かに怪しんでいた。そして、夜が明けるのを待ってから櫛笥の中をを見てみると、長さと太さが下衣の紐のような とても美麗い小蛇が入っていたため、それを見て驚き叫んでしまった。

大物主神は妻に驚かれたことを恥じ、すぐに人の形になって「お前は我慢出来ずに私に恥をかかせた。私も山に還って お前に恥をかかせよう」と言って、大空を踏んで三輪山に登っていった。

倭迹々姫命は その様子を仰ぎ見ながら後悔すると、その場に尻もちをつき、箸で女陰をついて亡くなってしまった。この後、亡骸は大市(桜井市北部)に葬むられ、世の人はその墓を箸墓(はしのはか)と名付けた。

また、この墓は大坂山から墓に至るまで人民が並んで手渡しに石を運んできて、昼は人が作り、夜は神が作ったものであり、世の人は「大坂に 継ぎ登れる 石群を 手遞傳に越さば 越しかてむかも(大坂山の麓から頂上に並ぶ大量の石は、手渡しで渡していけば きっと運んで行けるだろう 」という歌を歌った。

『日本書紀』には古墳時代に当たる時代の歴史が記されていますが、上記以外に古墳の築造と思しき記述はなく、大阪府堺市の百舌鳥古墳群には応神天皇以降の天皇陵が点在していますが、それに治定される天皇の記録は"御陵の場所のみ"であり、古墳築造に関する記録は一切ありません。

個人的には『記紀』の内容を否定するスタンスではありませんが、この点は非常に謎です。なぜ、古代人は古墳築造の詳細な記録を残さなかったのでしょうか?

なお、"古墳は天皇や豪族などの権力者の墓として築造されたもの"というのが定説となっていますが、"古墳は人々が定住する以前から存在した建造物である"とする説もあるようです(参考ビデオ:はやし浩司「古墳が先、人間は後…」)。

古墳の用途の異説

人文研究見聞録:石舞台古墳 [奈良県]

定説では、"石舞台古墳は墓として造られた建造物であり、その被葬者は蘇我馬子が有力である"とされていますが、実は石舞台古墳に似たような建造物は世界各地に点在しているようです(参考:ウィキペディア「ドルメン」)。

よって、"そもそも墓として建てられた建造物ではなく、既に存在していた建造物を墓として利用した"という意見もあり、元々の用途は別の目的であったとする説もあります。これについて、以下に後者の参考ビデオを貼っておきます。


料金: 一般 250円、高校生 200円、中学生 150円、小学生 100円
住所: 奈良県高市郡明日香村島庄(マップ
営業: 8:30~17:00(受付16:45まで)
交通: 岡寺駅(徒歩42分、バスまたはレンタサイクル推奨)

スポンサーリンク


0 件のコメント :

コメントを投稿