修験道・役小角とは?
2015/07/20
修験道(しゅげんどう)とは、日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられ、さらに密教などの要素も取り入れた日本独特の混淆宗教とされています。
なお、日本古来の山岳信仰とは、自然崇拝とアニミズムを基調とする原始神道であり、森羅万象に命や神霊が宿るとして神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象としている信仰を指します。
修験道の開祖は「役小角(えんのおづの)」であり、修験道は奈良時代に成立したとされています。
そして、日本各地の霊山を修行の場として厳しい修行を行うことにより、超自然的な能力「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教体系となっています。
この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る」ことから修験者(しゅげんしゃ)、または山に伏して修行する姿から山伏(やまぶし)と呼びます。
なお、修験道のポリシーは「修行をし 己の心体を鍛え 磨き 追求し その成果を験す 確かめ表す道」であり、それが「修験道」の語源とされているようです。
修験道の歴史
修験道は「役小角」によって創始され、日本の神と仏教の仏を習合して祀る「神仏習合」の宗教として奈良時代には成立していたとされます。
平安時代以降に盛んに信仰されるようになり、修験道の「神仏習合」という思想の影響から、神社の境内には神宮寺が、寺院の境内には鎮守社がそれぞれ建立されるようになったとされています。つまり、修験道の影響で神社と寺院の区別がされなくなっていったということです。
修験道は江戸時代までは主流の信仰として存在していましたが、明治時代に修験禁止令が発布され、根本的に禁止されるようになり、廃仏毀釈という排仏運動に伴って、修験道に関するものが破壊されるようになったそうです。
そのため、行き場を失った修験系の団体は、仏教色を薄めて教派神道(神道系の宗教団体)の一部になったとも言われています。
役小角とは?
役小角(えんのおづの)とは、飛鳥時代から奈良時代に存在したとされる呪術者です。役行者(えんのぎょうじゃ)の名でも知られています。修験道の開祖として有名ですが、その半生が非常に伝説的なため、架空の人物であるという意見もあるようです。
なお、役小角の出身氏族である「役氏」は、「加茂氏(賀茂氏)」から出た氏族であることから、「加茂役君(賀茂役君)」とも呼ばれ、かつては大和国や河内国(畿内)に広く分布していたとされています。
役小角は現在の奈良県で誕生したとされ、父は出雲出身の役大角(えんおおづの)、母は白専女(しらとおめ)とされています。
そして、17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学び、後に葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いたとされます。
呪術に優れ、藤原鎌足の病気を治癒したなど、数多くの伝説を残しています。
しかし、文武天皇3年(699年)、役小角を有能さを妬む者により、妖言によって人を惑わしていると讒言(虚偽の報告)され、役小角は伊豆島に流罪となります。
そのとき、人々は小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂し、命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったとも云われています(『続日本紀』)。なお、流刑中も「空を飛んで、もしくは海上を歩いて富士山で修行していた」という伝説があるそうです。
そして、流刑から2年後の大宝元年(701年)に大赦があり、茅原に帰ることができましたが、同年に箕面の天上ヶ岳にて、68歳で入寂(逝去)したとされています。これに関しても、「実は死んでおらず、仙人となって母親とともに唐へと飛んで行った」という伝説があります。
なお、役小角の最も有名な伝説に、前鬼(ぜんき)・後鬼(ごき)という鬼を使役したというものがあります。この鬼は夫婦の鬼(夫が前鬼、妻が後鬼)であり、現在の奈良県吉野郡下北山村出身とされているそうです。
前鬼・後鬼 |
伝承によれば、前鬼・後鬼は元々生駒山地に住み、人に災いを成す鬼であったとされています。
そこで、役小角は彼らを不動明王の秘法で捕縛し、あるいは彼らの5人の子供の末子を鉄釜に隠し、彼らに子供を殺された親の悲しみを味わわせると、2神は改心し、役小角に従うようになったそうです。彼らが捕えられた山は、鬼取山または鬼取嶽と呼ばれ、現在の生駒市鬼取町にあります。
なお、前鬼・後鬼はフィクション作品にも登場しており「地獄先生ぬ~べ~」の御鬼輪のくだりで出てきます。また、役小角の名は、玉藻京介の火輪尾の術(狐火)のレベルの名称に使用されています。
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また、役小角は葛城の神である「一言主(ひとことぬし)」をも使役したとされています。
その説話として、下記のような説話が残されています。
女神転生シリーズの一言主 |
ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。
そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。
こうして、架橋は沙汰やみになったという。
一言主は『記紀』において第21代雄略天皇の条に登場し、大悪天皇と恐れられた雄略天皇をも畏怖させた神です。しかし、時代が下るにつれてその神格が低下していったため、役小角に使役される立場となったと云われています。
修験道独自の神々
修験道には特有の神々が存在します。以下にその一例を記載したいと思います。
・蔵王権現(ざおうごんげん)
→ 修験道の本尊であり、インドに起源を持たない日本独自の仏とされる
→ 正式名称は金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、または金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)
→ 奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる
→ 「金剛蔵王」とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王という意である
・愛宕権現(あたごごんげん)
→ 愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号である
→ イザナミを垂迹神として、地蔵菩薩を本地仏とする
・若一王子(にゃくいちおうじ)
→ 修験道における神仏習合の神である
→ 本地仏は十一面観音であり、アマテラスあるいはニニギと同一視された
・九十九王子(くじゅうくおうじ)
→ 皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社
・前鬼・後鬼(ぜんき・ごき)
→ 役小角が従えていたとされる夫婦の鬼
・一言主(ひとことぬし)
→ 日本神話に登場する神
→ 『日本霊異記』によれば、役小角に使役されたとされる
・天狗(てんぐ)
→ 山岳信仰において山の神とされる
→ 山神としての天狗は輝く鳥として描かれる
→ 霊峰とされる山々には必ず天狗がいるとされ、それゆえ山伏の姿をしていると考えられている
→ 一説には、仏法を守護する八部衆の一である迦楼羅天(かるらてん)が変化したものとも云われる
→ 修験道の本尊であり、インドに起源を持たない日本独自の仏とされる
→ 正式名称は金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、または金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)
→ 奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる
→ 「金剛蔵王」とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王という意である
・愛宕権現(あたごごんげん)
→ 愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号である
→ イザナミを垂迹神として、地蔵菩薩を本地仏とする
・若一王子(にゃくいちおうじ)
→ 修験道における神仏習合の神である
→ 本地仏は十一面観音であり、アマテラスあるいはニニギと同一視された
・九十九王子(くじゅうくおうじ)
→ 皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社
・前鬼・後鬼(ぜんき・ごき)
→ 役小角が従えていたとされる夫婦の鬼
・一言主(ひとことぬし)
→ 日本神話に登場する神
→ 『日本霊異記』によれば、役小角に使役されたとされる
・天狗(てんぐ)
→ 山岳信仰において山の神とされる
→ 山神としての天狗は輝く鳥として描かれる
→ 霊峰とされる山々には必ず天狗がいるとされ、それゆえ山伏の姿をしていると考えられている
→ 一説には、仏法を守護する八部衆の一である迦楼羅天(かるらてん)が変化したものとも云われる
熊野信仰と修験道
熊野信仰は、熊野三山独自の自然神信仰に先祖神信仰が流入し、後に修験道によって密教と結び付けられた信仰であるとされる。
修験道の開祖である役小角が熊野で修行していることから、役小角が熊野信仰に影響を与えたということが考えられる。
詳しくはこちらの記事を参照:【熊野信仰とは?】
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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