腕塚神社 [兵庫県]
2015/09/16
兵庫県明石市にある腕塚神社(うでづかじんじゃ)です。
祭神に平忠度(たいらのただのり)を祀っており、腕の病に霊験あらたかとされています。
由緒
由緒書によれば、平安末期(1184年)に起こった源平合戦の一ノ谷の合戦に敗れた西軍の大将・平忠度が、両馬川で源氏の岡部忠澄と闘って負傷したところであり、それに因んで腕塚が設けられ、神社として祀られるようになったとされています。
また、その時に切り落とされた平忠度の右手には怨念が残っているとされ、それが腕や腰の痛みに霊験があるとされることから、腕痛・腰痛平癒の神社としても信仰されているそうです。
なお、腕塚神社では「腕塚神社縁起」が無料配布されており、その内容は以下の通りです。
腕塚神社縁起
寿永3年(1184)2月7日、源平一の谷の戦いに敗れた薩摩守・平忠度(たいらのただのり)は海岸沿いに西へ落ちていった。源氏の将の岡部六弥太忠澄(おかべのろくやたただすみ)は、はるかにこれを見て十余騎で追った。
忠度に付き添っていた源次ら四人は追ってに討たれ、ついには忠度は一人になって明石の両馬川(りょうまがわ)まで来た時、忠澄に追い付かれた。二人は馬を並べて戦い組み討ちとなる。忠度は忠澄を取り押さえ首をかこうとした。忠澄の郎等は主人の一大事と駆け付け、忠度の右腕を切り落とす。「もはやこれまで」と、忠度は念仏を唱え討たれる。
箙(えびら)に結び付けられた文を広げると「行きくれて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし忠度」とあり、初めて忠度と分かった。敵も味方も、武芸、歌道に優れた人を、と涙したという。
清盛の末弟の忠度は、藤原俊成に師事した歌人であった。年齢は41歳。忠度が馬を並べて戦った川を、その後、両馬川と呼ぶようになり、つい最近まで山電人丸前駅の北に細い流れが残っていたが、埋められて暗渠(あんきょ)になってしまい、昔を偲ぶ縁もない。
腕の病に霊験あらたかだとお参りする人が絶えず、今神社にある木製の右手で患部を撫でれば、良くなると云われている。これは地元の彫刻家が彫って奉納したものである。山電の路線脇に忠度の腕を埋めたという小さい祠があった。
昭和59年3月、山電の高架化工事のため、東約30mの位置に移されたものが現在の腕塚神社である。町名もこれに因んで右手塚町(うでづかちょう)と称していたが、天文町に変更された。時代の流れとはいえ、歴史や伝説が消えていくのは惜しい。云々
寿永3年(1184)2月7日、源平一の谷の戦いに敗れた薩摩守・平忠度(たいらのただのり)は海岸沿いに西へ落ちていった。源氏の将の岡部六弥太忠澄(おかべのろくやたただすみ)は、はるかにこれを見て十余騎で追った。
忠度に付き添っていた源次ら四人は追ってに討たれ、ついには忠度は一人になって明石の両馬川(りょうまがわ)まで来た時、忠澄に追い付かれた。二人は馬を並べて戦い組み討ちとなる。忠度は忠澄を取り押さえ首をかこうとした。忠澄の郎等は主人の一大事と駆け付け、忠度の右腕を切り落とす。「もはやこれまで」と、忠度は念仏を唱え討たれる。
箙(えびら)に結び付けられた文を広げると「行きくれて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし忠度」とあり、初めて忠度と分かった。敵も味方も、武芸、歌道に優れた人を、と涙したという。
清盛の末弟の忠度は、藤原俊成に師事した歌人であった。年齢は41歳。忠度が馬を並べて戦った川を、その後、両馬川と呼ぶようになり、つい最近まで山電人丸前駅の北に細い流れが残っていたが、埋められて暗渠(あんきょ)になってしまい、昔を偲ぶ縁もない。
腕の病に霊験あらたかだとお参りする人が絶えず、今神社にある木製の右手で患部を撫でれば、良くなると云われている。これは地元の彫刻家が彫って奉納したものである。山電の路線脇に忠度の腕を埋めたという小さい祠があった。
昭和59年3月、山電の高架化工事のため、東約30mの位置に移されたものが現在の腕塚神社である。町名もこれに因んで右手塚町(うでづかちょう)と称していたが、天文町に変更された。時代の流れとはいえ、歴史や伝説が消えていくのは惜しい。云々
平忠度とは?
平忠度(たいらのただのり)とは、平清盛の異母弟に当たる平安末期の平氏の武将です。腕力に優れた強い武将であり、また優秀な歌人でもあったともされています。
平安末期に起こった源平合戦の一ノ谷の合戦において、西軍の大将として明石に流れる両馬川で源氏の岡部忠澄(おかべただずみ)と戦い、そこで負傷して41歳で討死したとされています。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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