法隆寺の謎
2015/09/05
法隆寺は聖徳太子によって創建された寺院であり、聖徳太子建立七大寺にも数えられています。
しかし、正史である『日本書紀』には創建記録が無く、太子が存命中には「推古14年(606)7月、聖徳太子が3日間勝鬘経を講讃した後、その同年に斑鳩寺(法隆寺)にそれを納めた」という記録のみしか記されていません。
また、現在では金堂薬師如来像光背銘や最古の聖徳太子伝記である『上宮聖徳法王帝説』の記述から、創建年は推古15年(607)に創建されたとされていますが、『日本書紀』の記述と比較すると ややズレが生じます。
また、『日本書紀』には「天智8年(669)に斑鳩寺(法隆寺)で火災があり、その翌年(670)には一屋も残さず尽く焼けた」と記されています。そのため、現在の法隆寺は聖徳太子の死後に再建されたという説も根強くあります。
そのほか、伽藍様式や収蔵されている仏像に関しても謎が多く、それについても様々な説が唱えられています。つまり、「法隆寺は現代においても多くの謎を含んでいる寺院である」ということです。
そこで今回は「法隆寺の謎」についてまとめてみたいと思います。
法隆寺の歴史、建築美術についてはこちらを参照:【法隆寺】、【法隆寺の建築美術】
法隆寺の七不思議
法隆寺の伏蔵 |
これはネットで「法隆寺」を検索すると大体引っかかる情報なのですが、大体検証してきたので その結果をまとめます。
1.法隆寺の伽藍には蜘蛛が巣を作らず、雀も糞をかけない
→ 全体的には少ないと言えるかもしれないが、よくみれば結構ある
2.南大門の前に鯛石と呼ばれる大きな石がある
→ 実際にある(ここだけ、特別に安置されているような感じ)
⇒ 西円堂付近の小さな滝の下にも似たような形の石が安置されている
3.五重塔の相輪(天辺の部分)に鎌が四本刺さっている
→ 実際にある(遠くからでも目視可能)
⇒ 通説では雷避けとされているが、実際には謎
4.法隆寺の中庭に伏蔵(ふくぞう、地下の宝蔵)が三つある
→ 中庭の一角に四角く囲まれた部分があり、それが伏蔵とされる
⇒ 一説によると、法隆寺に危機が迫ったときに開けるように伝えられているとも
⇒ 神道のような形式で封印されている点が面白い
5.因可池(よるかのいけ)の蛙には片目がない
→ 立ち入れないため検証不可
6.夢殿の礼盤(僧侶の座台)の裏が汗をかいている
→ 暗過ぎてよく見えないため、目視は難しい
⇒ 毎年2月に「夢殿のお水取り」という行事が行われるとされている
7.雨だれの穴が地面に開かない
→ 実際には開いている
→ 全体的には少ないと言えるかもしれないが、よくみれば結構ある
2.南大門の前に鯛石と呼ばれる大きな石がある
→ 実際にある(ここだけ、特別に安置されているような感じ)
⇒ 西円堂付近の小さな滝の下にも似たような形の石が安置されている
3.五重塔の相輪(天辺の部分)に鎌が四本刺さっている
→ 実際にある(遠くからでも目視可能)
⇒ 通説では雷避けとされているが、実際には謎
4.法隆寺の中庭に伏蔵(ふくぞう、地下の宝蔵)が三つある
→ 中庭の一角に四角く囲まれた部分があり、それが伏蔵とされる
⇒ 一説によると、法隆寺に危機が迫ったときに開けるように伝えられているとも
⇒ 神道のような形式で封印されている点が面白い
5.因可池(よるかのいけ)の蛙には片目がない
→ 立ち入れないため検証不可
6.夢殿の礼盤(僧侶の座台)の裏が汗をかいている
→ 暗過ぎてよく見えないため、目視は難しい
⇒ 毎年2月に「夢殿のお水取り」という行事が行われるとされている
7.雨だれの穴が地面に開かない
→ 実際には開いている
中門の謎
法隆寺の中門は一般的な寺院の中門とは形が異なります。
とりあえず、四天王寺の中門と比較してみましょう。
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見ての通り、法隆寺の方には入口の真ん中に柱が立っており その違いは明らかです。
しかし、なぜ入るものを拒むような形になっているのかは不明であり、古くから法隆寺の謎の一つとされています。
なお、謎に因んで「聖徳太子の怨霊が外に出るのを防ぐためである」という都市伝説があります。
また、中門の柱は古代ギリシア発祥の建築様式である「エンタンシスの柱」が用いられています。
この方法は古代ギリシア「パルテノン神殿」に代表される様式であり、国内でも法隆寺の他には類を見ません。
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なぜ 法隆寺ではこの様式を採用したのでしょうか?それも未だに分かっていないそうです。
相輪の謎
相輪(そうりん)とは、五重塔などの仏塔の天辺にある金属製の部分の総称であり、その起源はインドのサーンチー第一ストゥーパ(釈迦の墓)であるとされています。しかし、その目的や用途などについては未だに不明とされているようです。
サーンチー |
この相輪は法隆寺の五重塔にも当然設置されているのですが、法隆寺のものは他の寺院と違い「鎌が4本刺さっている」ことが特徴です。これについては「雷避けのために設置された」という説が通説となっていますが、その真相は不明です。
相輪に刺された鎌 |
なお、この相輪の形自体にも諸説あり、最近では聖書やカバラに登場する「生命の樹」を象徴しているのではないかという説が唱えられています。この「生命の樹」は聖書が初出であると考えられがちですが、実は文明の発祥地と言われる古代シュメールのレリーフの中にも登場します。つまり「生命の樹」という概念は聖書が著される前から既にあったということです。
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この「生命の樹」と「相輪」のコンセプトが酷似しており、その意味合いも「生命の樹」から読み取れるとのことです。この説は はやし浩司氏の説であるため、詳しくは下記のビデオを参照してください。
なお、日本初の相輪の付いた仏塔は、蘇我氏と物部氏の間で起こった「丁未の乱」の後に建立された日本初の官寺「四天王寺」の仏塔であると考えられます。しかし、四天王寺の塔は何度も倒壊しているため、再建に再建を重ねて現在に至ります。よって、当時の塔に相輪があったかどうかは定かではありません。
しかし、その創建は法隆寺と同じく聖徳太子によって成されており、法隆寺の五重塔が当時からそのまま残っているものだとするならば、恐らく四天王寺にも相輪はあったものと思われます。ちなみに中山市朗氏の著書『捜聖記』によれば、四天王寺創建時の仏塔は「七重塔」だったそうです。
秘仏・救世観音像の謎
法隆寺の夢殿に安置されている秘仏・救世観音像(くぜかんのんぞう)は、実は近年まで封印されており、江戸時代には法隆寺の僧ですら拝むことができなかったとされています。その理由については不明ですが、「封印を解けば直ちに神罰が下り、地震で全寺が倒壊する」という言い伝えによって守られていたそうです。
そして、明治17年(1884)に東洋美術史家のアメリカ人・アーネスト・フェノロサが調査のために法隆寺を訪れた際、明治政府の許可を得て法隆寺に秘仏の開帳を迫り、法隆寺側との議論の結果、長年封印されていた救世観音像の封印が解かれたんだそうです。
この救世観音像の開帳時の姿は、「全身に経文の書かれた麻布が巻かれており、その布を取ると光背が後頭部に釘で打ち込まれ、背中はくりぬかれていた」というものだったとされています。なお、通常 仏像の光背は別に支えが付いており、後頭部に打ち込まれていることはありません。それは、法隆寺に所蔵される百済観音と比べてみても違いは明らかです。
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また、救世観音像の表情も一般的な仏像とは異なり、非常に生々しい顔をしています。そのため、この像は太子そのものを模って造ったものではないかという説もあるようです。なお、救世観世音菩薩は一般的に聖徳太子の化身であるとされています。
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救世観音像の開帳以後、この秘仏に対して様々な説が唱えられるようになり、それは「太子の怨霊を封じ込めるためのものだった」というものが大半を占めています。
その怨霊説には、以下のようなものがあります(注釈には個人的推論に基づく情報も追加しています)。
・天平9年(737)に都で流行った天然痘で、政治の中枢を担っていた藤原家の人間が相次いで病死した
→ これは太子の時代の政争にまつわる怨念であり、政争に負けた太子が怨霊となって祟りを起こした
⇒ 文献中の太子の行動は、朝廷と足並みのそろわないことも多々ある(拠点を斑鳩に置いたことなど)
⇒ 文献に無い太子の足跡を追うと、朝廷とは別の政策や外交を行っていた記録が多々ある
⇒ 仏教伝来以降に起こった祟りとして、天然痘が流行ることはよくあった
・救世観音像が封印されていた夢殿が八角堂(供養塔などとして建てられる施設)である
→ 夢殿は上記の祟りを鎮めるために建てた施設である
→ 上記により、救世観音像は太子の怨霊を供養のために造られた仏像である
・救世観音像を覆っていた経文の書かれた麻布や後頭部に打ち込まれた光背は怨霊を封印するための呪詛である
→ 仏像を造った仏師は、仏像の完成まもなく謎の死を遂げた(『聖徳太子伝私記』)
⇒ 鎌倉時代に救世観音像を模刻しようとした仏師が、仏像の完成前に亡くなったとも
・そもそも、斑鳩の法隆寺は具体的な創建理由が不明である
→ 正史には聖徳太子が創建したという記録は無い
→ 『上宮聖徳法王帝説』には「播磨を法隆寺の地と為す」とあり、斑鳩ではない
⇒ 兵庫県加古川市には「西の法隆寺」と云われる「鶴林寺」がある
⇒ 鶴林寺の創建は崇峻天皇2年(589)とあり、ここが斑鳩寺なら『日本書紀』の記述と合う
→ 斑鳩の法隆寺は落雷などにより数々の被害を受けている
⇒ 落雷は怨霊の祟りとして、最も例の多い災害である
→ これは太子の時代の政争にまつわる怨念であり、政争に負けた太子が怨霊となって祟りを起こした
⇒ 文献中の太子の行動は、朝廷と足並みのそろわないことも多々ある(拠点を斑鳩に置いたことなど)
⇒ 文献に無い太子の足跡を追うと、朝廷とは別の政策や外交を行っていた記録が多々ある
⇒ 仏教伝来以降に起こった祟りとして、天然痘が流行ることはよくあった
・救世観音像が封印されていた夢殿が八角堂(供養塔などとして建てられる施設)である
→ 夢殿は上記の祟りを鎮めるために建てた施設である
→ 上記により、救世観音像は太子の怨霊を供養のために造られた仏像である
・救世観音像を覆っていた経文の書かれた麻布や後頭部に打ち込まれた光背は怨霊を封印するための呪詛である
→ 仏像を造った仏師は、仏像の完成まもなく謎の死を遂げた(『聖徳太子伝私記』)
⇒ 鎌倉時代に救世観音像を模刻しようとした仏師が、仏像の完成前に亡くなったとも
・そもそも、斑鳩の法隆寺は具体的な創建理由が不明である
→ 正史には聖徳太子が創建したという記録は無い
→ 『上宮聖徳法王帝説』には「播磨を法隆寺の地と為す」とあり、斑鳩ではない
⇒ 兵庫県加古川市には「西の法隆寺」と云われる「鶴林寺」がある
⇒ 鶴林寺の創建は崇峻天皇2年(589)とあり、ここが斑鳩寺なら『日本書紀』の記述と合う
→ 斑鳩の法隆寺は落雷などにより数々の被害を受けている
⇒ 落雷は怨霊の祟りとして、最も例の多い災害である
上記の説が示唆している通り、奈良時代の日本で実権を握っていたのは藤原家であり、正史とされる『日本書紀』も藤原不比等の監修のもとに編纂された文献であるとされています(つまり、都合の悪い部分はカットされている可能性がある)。
その『日本書紀』の中で、聖徳太子は一方的に「日本仏教の祖」として描かれていますが、その反面、「元四天王寺」や「四天王寺七宮」という太子の建立した神社の存在から、「太子は神道を蔑にしたわけではない」ということが言えます。
よって、聖徳太子は その人物像を正史の中で恣意的に創り上げられた可能性があるとも言え、その背後には それにまつわる政争があったのかもしれません。故に怨霊説はそれなりに信憑性があるとも考えられます。
しかし、具体的な物証があるわけではないので盲信するのは危険です。半信半疑で捉えておくのが丁度良いでしょう。
五重塔の塑像の謎
法隆寺の五重塔には、仏教における説話をテーマにした塑像が安置されています。
その中の「釈迦入滅のシーン」があります。これはガンダーラの釈迦涅槃図と比較しても大分異なる、日本独自のものとなっています。
ガンダーラの釈迦涅槃図 |
そして、法隆寺の塑像群の中にいる「トカゲのような容姿をした人物」が混じっており、近年 ネット上で注目を浴びています。問題の像は、塑像の○の部分にいます(実物では見にくいので、法隆寺の塑像のポストカードで検証しました)。
クリックで拡大 |
この像を単体で取り上げると、このような格好をしています。
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これらの像は侍者像(じしゃぞう)と呼ばれ、それぞれ馬頭形(ばとうぎょう)、鳥頭形(ちょうとうぎょう)、鼠頭形(そとうぎょう)と名付けられています。しかし、どう見ても「トカゲ」ですよね?
なお、この像がネットで注目を浴びている理由は、イラクのウバイド遺跡から発見された「爬虫類人(レプティリアン)の像」と酷似しているためなのです。
爬虫類人(レプティリアン)の像 |
「爬虫類人(レプティリアン)」とは、世界中の神話や伝承などに登場するヒト型の爬虫類のことであり、最近ではデイビット・アイク氏の著書を中心に、様々な陰謀論に登場する「人ならざる者」のことです。
もちろん「日本神話」の中にも それとなく登場しています(龍や蛇に変身する神や人物が数多く登場する)。
また、この像は、飛鳥の石造物の一つである「猿石(女)」や、同じ明日香村の飛鳥坐神社にある「塞の神」に形が酷似しています(トカゲに似たの奇妙な像は奈良県に多いみたいです)。
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この法隆寺の「トカゲ人間の像」にまつわる情報として下記の動画が参考になると思うので、ここに載せておきます。
法隆寺の塑像の中の人ならざる者
上記の「トカゲ人間」以外にも、以下の通りの「人ならざる者」が含まれていることが挙げられます。
① 多肢多面を持つ人物の像
①は「多肢多面を持つ人物の像」です。これは、いわゆる「阿修羅」を彷彿とさせる像ですが、実は『日本書紀』に「両面宿儺(りょうめんすくな)」という名の「人ならざる者」が登場しています。『日本書紀』には挿絵はありませんが、この像は そこに記される特徴と著しく一致します。
両面宿儺(りょうめんすくな)
仁徳天皇65年、飛騨国にひとりの人がいた。宿儺(すくな)という。
一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるがひかがみと踵(かかと)が無かった。
力強く軽捷で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。そこで皇命に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。それゆえ和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した。
② 尻尾が蛇となっている人物の像
②は「尻尾が蛇となっている人物の像」です。日本には尻尾が蛇となっている「鵺(ぬえ)」という妖怪が存在します。これは古くは『古事記』に登場しており、『平家物語』にて その特徴が詳しく描かれています。その鵺の特徴は、この像の人物と一致しています。
鵺(ぬえ)
日本で伝承される妖怪あるいはモノノケであり、日本神話や軍記物語などに数多く登場している。
『平家物語』では、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビというような特徴があると記され、『源平盛衰記』では、背が虎で足がタヌキ、尾はキツネになっていると記される。
③ 顔が龍となっている人物の像
③は「顔が龍となっている人物の像」です。「日本神話」には「和爾(わに)」と呼ばれる人々が数多く登場し、かつ、海幸山幸に登場する山幸彦(ホオリ)に嫁いだトヨタマビメの正体も、実は「八尋和爾」もしくは「龍」だったとされています。また、仏教の経典である「法華経」の中にも「八大竜王」という龍族が登場しており、仏法の守護神とされています。③の仏像は、これらにちなむ人物なのでしょうか?
豊玉姫神(トヨタマヒメ)
海神・オオワタツミの娘であり、天孫・ニニギがオオヤマツミの娘・コノハナサクヤとの間にもうけたホオリ(山幸彦)と結婚し、ウガヤフキアエズを生む。
出産の際、『古事記』や『日本書紀』一書では「八尋和邇(やひろわに)」の姿、『日本書紀』本文では「龍」の姿となったのを、ホオリが覗いていたため、それを恨んでワタツミの国へ帰った。
ウガヤフキアエズは、トヨタマヒメの妹・タマヨリヒメに養育され、後にタマヨリヒメとの間にカムヤマトイワレビコ(神武天皇)を儲けた。
このように法隆寺の五重塔に安置される塑像には「人ならざる者」が複数含まれています。なお、これらは奈良時代のものとされているため、飛鳥時代に亡くなっている太子との関係は不明です。
また、オリジナルと思われるガンダーラの釈迦涅槃図とは著しく異なっており、どのような意図を以って上記の「人ならざる者」を追加したのかはわかりません。なぜ作者はこのような仏像を参列させたのでしょうか?
もしかすると、これらの像は釈迦入滅の際に人間に混じって「人ならざる者」も参列していた、つまり「人ならざる者は存在している」ということを示唆しているのかもしれません。信じるか信じないかはあなた次第です。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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法隆寺
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