入鹿神社 [奈良県]
2015/12/11
奈良県橿原市小綱町にある入鹿神社(いるかじんじゃ)です。
飛鳥時代に起こった「乙巳の変」で暗殺された蘇我入鹿の首を祀ったことに始まる神社であり、主祭神に蘇我入鹿(そがのいるか)と素戔嗚尊(スサノオ)を祀っています(かつて存在した普賢寺の鎮守社だったとも)。
入鹿の死因にちなんで首から上の病に霊験あらたかとされ、地元民の崇敬を集めているそうです。
神社概要
由緒
社伝によれば、皇極天皇4年(645年)に起きた乙巳の変で、中大兄皇子らに斬られた蘇我入鹿の首が小綱町に飛んできて、その首を祀ったことに始まり、往古から素戔嗚尊(スサノオ)を合祀して素戔嗚尊と蘇我入鹿の木造を御神体としてきたとされています(もとは廃寺・仏起山普賢寺の鎮守社であったとも)。
なお、入鹿神社のある橿原市周辺は蘇我氏ゆかりの地であり、小綱町の隣の曽我町では、蘇我馬子が創建した宗我都比古神社にて蘇我氏の始祖を祀っています。そのため、古くから「蘇我氏逆臣説」が日本史の通説となっている中、地元では人々の崇敬を集めているそうです。
そうしたことから、明治時代に皇国史観から逆臣とされる蘇我入鹿を祀るのは都合が悪いとして、政府から祭神を「スサノオ」に、社名を「小綱神社」に改めるよう命じられた際、地元住民はそれを拒んだとされています。
祭神
主祭神
・蘇我入鹿(そがのいるか):蘇我蝦夷の子であり、皇極天皇の時代に自ら国政を執ったとされる
→ 「乙巳の変」で中大兄皇子・中臣鎌足らに謀殺された
・素戔嗚尊(スサノオ):古くは牛頭天王を祀っていたとも(明治以降にスサノオとされたという見解もある)
本殿には作者・年代不詳の蘇我入鹿座像・素戔嗚尊立像が御神体として奉安されている。
・蘇我入鹿(そがのいるか):蘇我蝦夷の子であり、皇極天皇の時代に自ら国政を執ったとされる
→ 「乙巳の変」で中大兄皇子・中臣鎌足らに謀殺された
・素戔嗚尊(スサノオ):古くは牛頭天王を祀っていたとも(明治以降にスサノオとされたという見解もある)
本殿には作者・年代不詳の蘇我入鹿座像・素戔嗚尊立像が御神体として奉安されている。
乙巳の変とは?
乙巳の変の様子 |
「乙巳の変(いっしのへん)」とは、中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌子(後の藤原鎌足)らが宮中で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼしたという飛鳥時代の政変のことであり、日本史においては「大化の改新」のきっかけとなった事件としても有名です。
なお、蘇我氏は古代の氏姓制度において「臣」の姓を与えられた高い地位にある豪族であり、『日本書紀』によれば「丁未の乱」で物部氏を倒した蘇我馬子の代から、朝廷にて権勢を振るうようになったとされています。
また、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷(そがのえみし)は、舒明天皇が崩御した後、朝廷において権力を私有化するようになったとされ、自分たちの墓を造るために国民や豪族の私有民を動員したり、子を王子(みこ)と呼ばせ、独断で子の入鹿に冠位十二階で最高位の紫冠(しかん)を与えて大臣のようにしたなど、専横な政治が目立つようになったとされます。
加えて、蝦夷は聖徳太子の子とされる山背大兄王(やましろのおおえのおう)の即位を阻止し、入鹿は兵を挙げて斑鳩の山背大兄王に襲撃をかけて最終的に自決に追い込み、上宮王家一族(聖徳太子の一族)を滅亡させたとされています。
これに対し、中大兄皇子・中臣鎌子は蘇我入鹿の暗殺を計画し、後に「乙巳の変」を起こしたとされます。
なお、『日本書紀』における「乙巳の変」の内容を要約すると以下のようになります。
乙巳の変
中臣鎌子・中大兄皇子は三韓の調の予定日に合わせ、蘇我入鹿暗殺の計画を立てていた。
そこで、まずは蘇我倉山田麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)を抱き込み、入鹿暗殺を上表文朗読中に決行することを伝えた。次に入鹿暗殺の刺客として佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田を用意した。
決行当日、皇極天皇は大極殿(いわゆる玉座)に上がり、傍には古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみ)が控えていた。中臣鎌子は、俳優(わざひと)を使って方便を言わせ、蘇我入鹿の剣を預からせた(武器を奪った)。
そして、蘇我倉山田麻呂は上表文を読み上げた。その際、中大兄皇子は宮中の門を全て閉めさせ、長槍を持って大極殿の脇に隠れ、中臣鎌子は弓を持って中大兄皇子を警護した。中大兄皇子は海犬養勝麻呂に命じて刺客に剣を与え、入鹿暗殺の実行を命じが、刺客はひるんでなかなか実行しようとしなかった。
上表文を読んでいる蘇我倉山田麻呂は計画の未遂を恐れ、焦って震えが止まらなくなり、その様子を不審に思った蘇我入鹿は蘇我倉山田麻呂に震える理由を尋ねた。すると、蘇我倉山田麻呂は「天皇の前ですので、恐れ多くて揚がっているのです」と言い訳をしてその場を凌いだ。しかし、蘇我入鹿の気迫に押された刺客らは未だに手を出せないでいた。
しびれを切らした中大兄皇子は自ら剣を持ち、蘇我入鹿の頭と肩を斬りつけた。蘇我入鹿は驚き、天皇に「なぜ、自分が斬られなければならないのですか!」と尋ねた。
天皇も大変驚いて、中大兄皇子に斬った理由を尋ねた。すると、中大兄皇子は「蘇我入鹿は皇族に仇なす逆賊です」と答え、自らの正統性を訴えた。それを聞いた天皇は席を立って宮殿の中に去った。そこで刺客が登場し、蘇我入鹿にとどめを刺した。
古人大兄皇子はその場から逃げ出し、家臣に「韓人が蘇我入鹿を殺した」と言い残し、自室に閉じこもった。中大兄皇子はすぐに法興寺へ向かって軍備を整えた。その際、皇子・諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造は皆、中大兄皇子に従った。
そして、中大兄皇子は蘇我蝦夷に蘇我入鹿の屍を引き渡すと、それを見た蘇我側の警護兵は軍備を整え、臨戦態勢になった。そこで、中大兄皇子は巨勢徳多臣(こせのとこた)を遣わし、蘇我側の警護を任されていた漢直に君臣の理を説かせた。
それを以って、巨勢徳多臣は「蘇我蝦夷は既に逆賊の身、遅かれ早かれ誅殺されるのだから、無駄な戦は止めよ」と伝えると、それを聞いた蘇我の警護兵は散り散りに逃げ去った。
蘇我蝦夷は誅殺される前に「天皇記」「国記」「珍しい宝」を悉く焼いてしまった。しかし、船史恵尺(ふねのふびとゑさか)は国記をすばやく奪い取り、中大兄皇子に奉ったという。
中臣鎌子・中大兄皇子は三韓の調の予定日に合わせ、蘇我入鹿暗殺の計画を立てていた。
そこで、まずは蘇我倉山田麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)を抱き込み、入鹿暗殺を上表文朗読中に決行することを伝えた。次に入鹿暗殺の刺客として佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田を用意した。
決行当日、皇極天皇は大極殿(いわゆる玉座)に上がり、傍には古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみ)が控えていた。中臣鎌子は、俳優(わざひと)を使って方便を言わせ、蘇我入鹿の剣を預からせた(武器を奪った)。
そして、蘇我倉山田麻呂は上表文を読み上げた。その際、中大兄皇子は宮中の門を全て閉めさせ、長槍を持って大極殿の脇に隠れ、中臣鎌子は弓を持って中大兄皇子を警護した。中大兄皇子は海犬養勝麻呂に命じて刺客に剣を与え、入鹿暗殺の実行を命じが、刺客はひるんでなかなか実行しようとしなかった。
上表文を読んでいる蘇我倉山田麻呂は計画の未遂を恐れ、焦って震えが止まらなくなり、その様子を不審に思った蘇我入鹿は蘇我倉山田麻呂に震える理由を尋ねた。すると、蘇我倉山田麻呂は「天皇の前ですので、恐れ多くて揚がっているのです」と言い訳をしてその場を凌いだ。しかし、蘇我入鹿の気迫に押された刺客らは未だに手を出せないでいた。
しびれを切らした中大兄皇子は自ら剣を持ち、蘇我入鹿の頭と肩を斬りつけた。蘇我入鹿は驚き、天皇に「なぜ、自分が斬られなければならないのですか!」と尋ねた。
天皇も大変驚いて、中大兄皇子に斬った理由を尋ねた。すると、中大兄皇子は「蘇我入鹿は皇族に仇なす逆賊です」と答え、自らの正統性を訴えた。それを聞いた天皇は席を立って宮殿の中に去った。そこで刺客が登場し、蘇我入鹿にとどめを刺した。
古人大兄皇子はその場から逃げ出し、家臣に「韓人が蘇我入鹿を殺した」と言い残し、自室に閉じこもった。中大兄皇子はすぐに法興寺へ向かって軍備を整えた。その際、皇子・諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造は皆、中大兄皇子に従った。
そして、中大兄皇子は蘇我蝦夷に蘇我入鹿の屍を引き渡すと、それを見た蘇我側の警護兵は軍備を整え、臨戦態勢になった。そこで、中大兄皇子は巨勢徳多臣(こせのとこた)を遣わし、蘇我側の警護を任されていた漢直に君臣の理を説かせた。
それを以って、巨勢徳多臣は「蘇我蝦夷は既に逆賊の身、遅かれ早かれ誅殺されるのだから、無駄な戦は止めよ」と伝えると、それを聞いた蘇我の警護兵は散り散りに逃げ去った。
蘇我蝦夷は誅殺される前に「天皇記」「国記」「珍しい宝」を悉く焼いてしまった。しかし、船史恵尺(ふねのふびとゑさか)は国記をすばやく奪い取り、中大兄皇子に奉ったという。
上記のことから、「乙巳の変」は蘇我氏の専横によって起こされたクーデターであるというのが日本史の通説であり、一般的には蘇我氏は逆賊として捉えられています。
しかし、この当時は日本が完全な中央集権国家であるとは言い難い時代であるため、大小無数の国が乱立していた※1という見方もあり、一説には蘇我氏を中心とする「蘇我王朝」が存在したとする説もあります。
また、当時の中国の史書の内容と食い違う部分も多数あり※2、クーデターを成功させた中大兄皇子・中臣鎌足の後裔、特に鎌足の二男である藤原不比等によって『日本書紀』の内容を都合よく書き換えられたという意見もあるようです。
なお、「乙巳の変」については下記の動画が分かりやすいと思うので、ここに貼っておきます。
※1 『唐書』『舊唐書』には、「元々小国だった日本が倭国を併合した」という内容の記述もあるとされる
※2 『隋書』においては、推古朝の時代の大王は「多利思比孤(タシリヒコ)」という男王であるとされる
入鹿神社の伝説
蘇我入鹿 |
入鹿神社は境内地に飛んで来た蘇我入鹿の首を祀ったことに始まるとされ、首を斬られた蘇我入鹿に因んで首から上の病に霊験あらたかとされています。これは祭神の蘇我入鹿が同情的で頭痛に悩む人々を救うと考えられているためなんだそうです。
また「蘇我入鹿が鶏鳴を合図に首を刎ねられたので小綱では昔から鶏を飼わなかった」「小綱で生れたものが入鹿暗殺に関わった中臣鎌足を祀る多武峯へ参ると腹痛が起こる」「明日香村小原は中臣鎌足の母の出生地なので小綱町と小原は縁組みしない」など、他にも多くの伝説もあるとされています。
境内の見どころ
正蓮寺大日堂
入鹿神社の境内にある正蓮寺大日堂(しょうれんじだいにちどう)です。
この大日堂は廃寺となった真言宗高野山派の仏起山普賢寺(ぶっきざんふげんじ)の本堂だったとされており、創建年代は不明なものの、棟札により文明10年(1478年)の建立であるとされています。
なお、普賢寺は明治の廃仏毀釈により廃絶することとなったとされますが、堂宇自体は室町時代の小規模な仏堂として非常に貴重なものとされるため、現在は正蓮寺(小綱町)の管理となり、国の重要文化財にも指定されているそうです。
鳥居
入鹿神社の鳥居です。
石造りの鳥居に、真新しい注連縄が掛けられています。
拝殿
入鹿神社の拝殿です。
本殿
入鹿神社の本殿です。
御神体である蘇我入鹿・素戔嗚尊の木像を安置しており、橿原市の指定文化財にも指定されています。
境内社
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入鹿神社の境内社は以下の通りです。
・稲荷神社:倉稲魂神(ウカノミタマ)を祀る(伏見稲荷の勧請とされる)
・八幡神社:誉田別命(応神天皇)を祀る
・秋葉神社:秋葉大権現(火伏せの神)を祀る
・弁天社:弁財天を祀る
・金毘羅大権現:金毘羅大権現を祀る(大物主か?)
・八幡神社:誉田別命(応神天皇)を祀る
・秋葉神社:秋葉大権現(火伏せの神)を祀る
・弁天社:弁財天を祀る
・金毘羅大権現:金毘羅大権現を祀る(大物主か?)
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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