人文研究見聞録:常陸国風土記 現代語訳

『常陸国風土記』を現代語訳にしてみました。「常陸国」とは現在の 茨城県 辺りのことです。

風土の解説の他に夜刀神・巨人・国栖などの伝説も記されており、なかなか興味深い内容となっています。



はじめに


・以下の文章は、専門家ではない素人が現代語に翻訳したものです
・基本的には意訳です(分かりやすさを重視しているため、文章を添削をしています)
・■ は伝説部分を分かりやすくするために勝手に付けています
・分からない部分については、訳さずにそのまま載せています。
・誤訳や抜けがあるかも知れませんので、十分注意してください(随時修正します)

原文参考:大日本真秀國 風土記

常陸国風土記


総記


一、総記


常陸の国司が解き申す。古老より伝え聞いた事を。

国や郡の旧事を問うと、古老が答えて言うには、相模国の足柄岳坂(あしがらのやまさか)より東の諸々の県は、すべて我姫国(あずまのくに)と称されていた(我姫は別名を吾嬬、吾妻、東という)。

この時はまだ常陸国とは言わず、新治(にいばり)・筑波(つくば)・茨城(うはらき)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)といった各国は朝廷から派遣された造(みやつこ)・別(わけ)に治められていた。

その後、難波長柄豊前大宮天皇(孝徳天皇)の御世に高向臣(タカムクノオミ)や中臣幡織田連(ナカトミノハトリダノムラジ)らが派遣され、足柄岳坂より東の国をすべて統治させた。その時に我姫之道(あづまのみち)より8国に分け、そのうちの一つが常陸国として据えられた。

■ 常陸の由来


さて、このように(常陸と)呼ばれるようになったのは、往来する道が川や海の船着き場に隔てられておらず、郡や郷の境界に山河の峰谷が続いていて、直通(ひたみち=続きに続く道)という意味でこの名が付いた。

別の説では、倭武天皇(ヤマトタケル)が東夷の国を巡狩し、新治県を過ぎた時に国造の毗那良珠命(ヒラナス)を派遣して新たに井戸を掘らせたところ、流れる泉が清く澄んでおり、とても新鮮であった。その時、ヤマトタケルは乗輿(みこし)を止めて水を褒め、手を洗うと衣の袖が泉に垂れて濡れた。よって、袖を浸すという意味によって この国の名とした。土地の諺にある「筑波岳に黒雲かかり、衣手でひたちの国」は これに由来する。

そもそも常陸国の堺は広大で、土地もまた遥かに遠く、土はよく肥えており、開墾された場所では山海の幸が得られたことから、人々は安らかであり、家々は賑わっていた。もし、耕作や紡績に励めば立ちどころに富み、自然に貧窮から脱却できる。ましてや、塩を求め魚を味わうなら、左は山で右は海である。桑を植え麻の種を蒔くなら、後ろは野で前は原である。いわゆる水陸之府蔵(うみくがのくら)で、物産は豊かである。古の人が常世国(とこよのくに)と言ったのは この国のことかもしれない。ただし、水田は上は少なく中は多いので、長雨に遭うと苗が実らないという憂いを聞くが、旱魃ならば穀物は実り豊かであるという歓びも聞かれる(略さず)。

新治郡


一、新治総記


新治郡(にひばりのこほり)。東は那賀郡で堺には大山があり、南は白壁郡、西は毛野河、北は下野、常陸二国の堺は波大岡である。

古老が言うには、昔 美麻貴天皇(崇神天皇)の御世に東国の荒ぶる賊(俗に阿良夫流余斯母乃)を討とうと、新治の国造の祖である毗那良珠命(ヒラナス)を遣わした。

毗那良珠命がこの地で新たな井戸を掘ると清水が流れ出た(今は新治里にあり、時々祭りが行われる)。すなわち新たに井戸を治ったことによって新治郡という名が付いた。それは今でも名を改められていない。土地の諺に「白遠(しらとほ)ふ新治の国」というものがある(以下略)。

■ 山賊の伝説


この群より東に50里のところに笠間村(かさまのむら)がある。越えて通る道を葦穂山(あしほやま)という。古老が言うには、この山には山賊がおり、その名を油置売命(アブラオキメ)といった。今も社の中に石屋がある。また、このような土地の歌がある。

「言痛(こちた)けは 小泊瀬山(をはつせやま)の 石城(いわき)にも 率て篭もらなむ な恋ひそ我妹(わぎも)」

(以下略)

筑波郡


一、筑波総記


筑波郡。東は茨城郡、南は河内郡、西は毛野郡、北は筑波岳である。

古老が言うには、筑波の県は古くは紀国(きのくに)と言った。美麻貴天皇(崇神天皇)の御世に采女臣の同族である筑箪命(ツクハ)が紀国の国造として遣わされた時、筑箪命は「我が名を国の名として後世に伝えたい」と言ったので、元の名を筑波と改めた。土地の諺に「握飯(にぎりいひ)筑波の国」というものがある(以下略)。

■ 神祖尊の伝説


古老が言うには、昔 神祖尊(ミオヤノミコト)という神がいた(富士・筑波の2神の親神である)。

この神が諸神の居処を巡行した際、駿河国の福慈岳(富士山)に到った時に日が暮れたので、福慈神(フジノカミ)に宿を乞うた。その時、福慈神は「今は新嘗祭のために家内で物忌をしています。今日のところはどうかお帰り下さい」と言って断った。これを恨んだ神祖尊は泣きながら「お前の親だというのに、どうして宿を貸さないのか。お前の治める山は生きている限り、冬も夏も 雪が降り 霜が降りるほど 重ねて寒さが襲い、人が登らなくなって飲食物を供えなくなるだろう」と罵った。

それから神祖尊が筑波岳(つくばのやま)に登った時に また宿を乞うた。その時、筑波神は「今夜は新嘗祭ではありますが、敢えて尊を断ることもないでしょう」と言い、敬い拝み謹んで饗した。これに神祖尊は歓んで「愛しき我が胤(子孫)よ、高い神宮は天地に並び日月共々に人々が集い、飲食物も豊かで代々絶えること無く、日に日に栄えて 千秋万歳(永遠)に遊楽が尽きないだろう」と言った。

これによって、福慈岳(富士山)には常に雪が積もって登ることができないが、筑波岳(筑波山)には人々が集って歌舞・飲食などが行われることは、今に至るまで絶えたことはない(以下略)。

そもそも筑波岳は高くて雲を突き抜けている。西の峰の山頂は険しく、雄神(ヲノカミ)と呼ばれて人を登らせようとしない。ただし、東の峰は四方に磐石(いわほ)はあるが、登る人はたくさんいる。その側を流れる泉は冬も夏も絶えることはない。この山の東の諸国の男女は、春の開花の時や、秋の紅葉の季節などに、一緒に飲食物を持って馬や徒歩で登り、この山で遊楽して憩う。その時に歌われた歌には このようなものがある。

「筑波嶺に 逢はむと 言ひし子は 誰が言聞けばか 嶺逢はずけむ」

「筑波嶺に 廬りて 妻無しに 我が寢む夜ろは 早や明けぬ哉」

このように詠まれた歌はとても多く、すべて載せることはできない。土地の諺に「筑波嶺の集ひに 妻問のたからを得ざれば 娘とせず」というものがある。

郡から西に10里のところに騰波江(とばのあふみ)がある(長さは2900歩、幅は1500歩である)。東は筑波郡、南は毛野河、西・北には新治郡、東北には白壁郡がある。

信太郡


一、信太総記


信太郡。東は信太流海、南は榎浦流海、西は毛野河、北は河内郡である。

郡から北に10里のところに碓井(うるゐ)がある。古老が言うには、大足日子の天皇(景行天皇)が(霞ヶ浦の)浮島の帳宮(とばりのみや)に居た時に飲水が無くて困った。そこで卜部に占わせてあちこちを掘らせた。その碓井は今も栗之村(をぐりのむら)にある。

■ フツヌシの伝説


ここから西に行くと高来里(たかくのさと)がある。古老が言うには、天地の初めに草木が言葉を話した時、天降る神がおり、その名を普都大神(フツノオオカミ)という。

大神は葦原之中津国を巡って山河の荒ぶる神の類を平定していき、平定し終えると天に帰ろうとした。その時。身に付けていた兵器と玉を悉く皆脱ぎ捨てて、この地に留め置き、白雲に乗って蒼天に昇って帰っていった(俗にその兵器は「稜威の甲・戈・盾・剣」であったと言われる)。

土地の諺に「葦原鹿 味わいくされる 食らう山宍 二国大猟 無可絶えつくす(葦原の鹿は味わいがよく熟しており、山の鹿よりも美味、常陸と下総の二国が大猟でも絶えることはない)」というものがある。

その里の西に飯名社(いひなのやしろ)がある。これは筑波岳に鎮座する飯名神の分霊である。また、榎浦之津(えのうらのつ)には駅家がある。東海道の大道は常陸路の始まりである。そのため、伝駅使(はゆまづかひ)らが初めて国に入ろうとする際には、まず口と手を洗って、東を向いて香嶋之大神(カシマノオオカミ)を遥拝し、それから初めて入ることができる(以下略)。

古老が言うには、倭武天皇(ヤマトタケル)が海辺を巡幸した時に乗濱(のりはま)に到った。その時、浜辺に海苔がたくさん干してあった。これによって、能理波麻之村(のりはまのむら)と名付けられた(以下略)。

乗濱里の東に浮嶋村(うきしまのむら)がある(長さは2000歩、幅は400歩である)。四方は海であり、山野が交錯している。民家は15戸、田は7,8町余りである。ここに住む百姓は塩を焼くことを生業としている。社は9つあり、言動を謹んでいる(以下略)。

茨城郡


一、茨城略記


茨城郡。東は香嶋郡、南は佐我流海、西は筑波山、北は那珂郡である。

■ 国巣の伝説(茨城の由来)


古老が言うには、昔 国巣がおり、その名を山の佐伯・野の佐伯ともいう。これは土地の言葉でツチクモ(土蜘蛛・都知久母)またはヤツカハギ(八束脛・夜都賀波岐)と呼ばれる土着の原住民である。佐伯とは「さえぎる者」すなわち天皇に従わなかった者である。

(この佐伯らは)あちこちに穴を掘って土窟(つちむろ)を設け、常に穴に住んでいた。人が来るとすぐに窟に入って隠れるが、人が去ると外に出て遊んだ。(その性質は)狼の性に梟の情を持ち、鼠のように窺い、狗のように盗むというもので、招いても慰められることはなく、一般の人々とは相容れない隔たりがあった。

この時、大臣の一族の黒坂命(クロサカ)が、佐伯らが外に出ている時を窺って、その居穴に茨棘(うばら)を施しておき、騎兵を以って急襲した。すると、佐伯らはすぐに土窟に走り帰り、仕掛けられた茨棘にかかって身動きが取れずに死んでしまった。よって、茨棘が由縁で県の名となった。いわゆる茨城郡は、今は那珂郡の西にある。昔、郡家が置かれており、それは茨城郡の中にあった。土地の諺に「水うつくしぶ茨城国」というものがある。

別の説では、山の佐伯・野の佐伯は自ら賊長となり、手下を率いて国中で悪事を働き、多くの人の命を奪った。そこで黒坂命は計略を以って賊を滅ぼそうと茨城を造った。これによって茨城という地名が付いた。茨城の国造の始祖である多祁許呂命(タケコロ)は、息長帯比売天皇(神功皇后)の御世から當至品太天皇(応神天皇)が誕生するまで朝廷に使え、この多祁許呂命には8人の子が居た。次男の筑波使祖(ツクハノオミ)は茨木郡湯坐連の始祖である。

この郡の西南近くには川があり、それは信筑之川(しづくのかは)と呼ばれている。その水源は筑波山であり、西から東に流れて郡内を巡り、高濱之海(霞ヶ浦)に入る(以下略)。

そもそも この地では、花が香る良い季節や紅葉が落ちる涼しい頃に、駕籠に乗って出向いたり、舟に乗って遊んだりする。春には浦の花が千々に彩り、秋には岸の紅葉が百に色付く。野のほとりでは鶯の歌が聞こえ、渚では鶴が舞う様子が見える。村の男と海女が浜に集まり、商人と農夫は小舟に棹を差して往来する。言うまでもなく、夏の暑い朝や、陽が黄金色に輝く夕べには、友人や下僕を率いて浜辺に並んで座り、海を一望する。波の冷気を含んだ風が吹けば、暑さを避ける者は蒸し暑さから去り、岡の陰がようやく傾くと、涼しさを追う者は歓びを覚える。ここで詠まれる歌にはこのようなものがある。

「高浜に 来寄する浪の 沖浪 寄すとも寄らじ 子等にし寄らば」

「高浜の 下風喧ぐ 妹を戀ひ 妻と言はばや 醜と召しつも」

郡から東に10里のところに桑原岳(くわはらのをか)がある。昔 倭武天皇(ヤマトタケル)が岳の上に留まり、供物を進めようとした。その時、水部(もひとりべ)に新たな井戸を掘らせたところ、清水が湧き出た。その泉は清く香りがあり、飲用するのに適していた。そこでヤマトタケルは「よく溜まった水である」と言った。これが里名の由来であり、今は田餘(たまり)といわれている(以下略)。

行方郡


一、行方略記


行方郡(なめかたぐん)。東南は並流海、北は茨城郡である。

古老が言うには、難波長柄豊前大宮天皇(孝徳天皇)の御世の癸丑の年、茨城国造小乙下の壬生連麿は、那珂国造大連の壬生直夫子ら・惣領の高向大夫・中臣幡織田大夫らに乞うて、茨城の8里を割き、700戸余りを合わせて、別に群家を置いた。

行方郡と言われる由縁は、昔 倭武天皇(ヤマトタケル)は天下を巡狩して海の北を平定した時、この国を通って槻野之清泉(つくののしみづ)に行幸して手を洗ったが、この井戸は玉で作られていた。今も行方の里にあり、玉清井(たまのしみづ)という。

また、車駕(みこし)を廻らせて現原の丘に行幸し、そこで供物を奉った。その時、ヤマトタケルは四方を望み、侍従の方に振り返って「輿を止め、歩いて辺りを望んでみれば、山の尾根も海の入江も互い違いに交わり、うねうねと曲がりくねって蛇のようである。峰の山頂に雲を浮かべ、谷の麓には露を抱く。美しい風景で、素晴らしい地形だ。この地の名は行細国(なみくはしくに)というが良い」と言った。後世も事蹟を偲んで行という。土地の言葉に「立雨零る行方の国」というものがある。

その岡は高く開けているので、その名を現原(あらはら)という。この岡から降って大益河(おほやがは)に行き、小舟で川を上る時に棹梶が折れた。これによって無梶河という。この河は茨城・行方の二郡の境にあり、そこには鯉や鮒の類が棲んでいるが、(多すぎて)すべてを書き記すことはできない。

無梶河から郡境に到った時、鴨が飛び渡ったので、ヤマトタケルが自ら矢を射ると、鴨は弓弦の音とともに堕ちた。これによって鴨野という。土地は痩せており、草木は生えていない。野の北には、櫟・柴・榧・斗などの樹木が所々に生えており、それが自然と山林を成している。ここには枡池がある。これは高向大夫の時に築かれた池である。北には香取神子之社があり、社の側の山野は土地が肥えていて、草木が密生している。

郡の西の渡し場は、いわゆる行方之海(なめかたのうみ)である。ここには海松や燒鹽藻(しほをやくも)が生えている。この海には様々な魚が棲んでおり、ここには(多くて)載せきれない。ただし、鯨鯢(くぢら)は昔から見たことが無いと聞く。

郡の東に国社(くにつやしろ)がある。これは縣祇(あがたのかみ)と呼ばれている。この社の中には寒泉があり、これは大井(おほゐ)と呼ばれている。郡に住む男女は、ここに集って水を汲んで飲む。

群家の南門には一本の大きな槻の木がある。その北の枝は自然に垂れて地面に着き、再び空中に聳えている。その地には昔 水之澤(みずのさは)があった。今は長雨に遭うと、郡家の庭に水が溜まってしまう。郡家の側の村には橘の木が生えている。

■ 佐伯の手鹿(テガ)


郡の西北には堤賀里(てがのさと)がある。ここには佐伯がおり、名を手鹿(テガ)という。この者が住んでいたため、後に里の名となった。この里の北には香島神子之社がある。社の周囲の山野はよく肥えており、草木・椎・栗・竹・茅の類がたくさん生えている。

■ 佐伯の疏彌毗古(ソネビコ)


ここより北に曽尼村(そねのむら)がある。ここには古に佐伯がおり、その名を疏彌毗古(ソネビコ)といった。この者から名を取って村の名とした。今は駅家が置かれており、そこは曽尼之駅(そねのうまや)という。

二、夜刀神伝説


古老が言うには、石村玉穗宮大八洲所馭天皇(継体天皇)の御世に箭括氏の麻多智(マタチ)という者がおり、郡の西の谷の葦原を開墾して新たに田を作り、これを献上した。その時、夜刀神(ヤトノカミ)が群れの総てを率いてやって来て、あれこれ妨害したので、水田を耕せなくなった。

土地の言葉で蛇のことを夜刀神と言う。その形は、身は蛇のようだが、頭に角がある。また、家族を率いて難を免れようとする際に、一人でも夜刀神を見てしまうと、その家は滅び、子孫も絶えてしまうという。およそ、この郡の側の野原にとてもたくさん棲んでいる。

これに麻多智は大いに怒って、鎧兜を身に着けて自ら鉾を取り、夜刀神を打ち殺して追い払った。そして、山の入口の堀に境界を示す柱を立て、麻多智は「これより上は神の土地とすることを許す。だが、これより下は人が田を作る場所である。今後は私が神主になって永遠に敬い祀ろう。願わくば祟らずに恨まないで欲しい」と夜刀神に告げた。それから社を設けて、初めての神主になった。それから、また田を作り始め、それは10町余りになり、麻多智の子孫は代々神主を受け継いで、それは今も絶えていない。

その後、難波長柄豊前大宮天皇(孝徳天皇)の御世に、壬生連麿が初めてその谷を占有し、池に堤を築かせた時、夜刀神が池のほとりの椎の木に昇って集まり、時が経っても去ろうとしなかった。そこで麿は大声で「この池を修造し、お前たちに誓わせ、民を活かそうとしているのだ。何処の天津神・国津神が従わないというのか」と叫ぶと、すぐに労役の民に「目に見える様々な物や魚・虫の類は、憚り恐れることなく悉く打ち殺せ」と命じた。すると、妖しい蛇(夜刀神)たちは逃げ隠れてしまった。

その池は、今は椎井(しひのゐ)と呼ばれている。池の西には椎の木があり、そこからは清い泉が湧き出している。この井から名を取って池の名とした。すなわち、向かいは香島の陸之駅道である。

郡より南に7里いったところに男高里(をたかのさと)がある。古に佐伯の小高(ヲタカ)という者が住んでおり、この者に因んで名付けられた。国宰の当麻(タギマ)の大夫の時に池を築き、今も道の東にある。池の西の山には、猪・猿がたくさん棲んでおり、草木も密生している。南には鯨岡(くぢらをか)がある。上古に海の鯨が腹ばいになってやって来て、ここに横たわった。ここには栗家池(くりやのいけ)がある。その栗が大きかったので、池名とした。北には香取神子之社がある。

麻生里(あさふのさと)。古に沢の水際に麻がたくさん生えていた。また、竹は太く、長さは1竹(約3m)余りであった。里の周りには山があり、そこには 椎・栗・槻・櫟 が生えており、猪・猿が棲んでいる。また、その野では力強い馬が出る。飛鳥浄御原大宮臨軒天皇(天武天皇)の御世に、同じ郡の大生里(おほふのさと)の建部の袁許呂(ヲコロ)は、この野で馬を得て朝廷に献上した。いわゆる行方の馬である。別の説では茨城の里馬といわれるが、これは間違いである。

三、平定東垂荒賊


郡から南に7里のところに香澄里(かすみのさと)がある。古い言い伝えによれば、大足日子の天皇(景行天皇)が下総国の印波鳥見丘(いなみのとみのをか)に登って座し、遠くのあちこちを望み、東を振り返って侍臣らに「海は青く強い波が立ち、陸には朝焼けの雲が霞んでいる。その中にある国であるように朕には見える」と言った。これによって当時の人は霞郷(かすみのさと)と呼んだ。東の山には社がある。この山には、榎・槻・椿・椎・竹・箭・ヤマスケがあちこちにたくさん生えている。この里より西の海中の北の州を新治州(にひばりのす)という。名前の由縁は、州の上に立って北を遥かに望むと、新治国の小筑波之岳が見えるので、これによって名付けた。

ここ(香澄里)から南に10里のところに板来村(いたくのむら)がある。近くから海辺が望める場所に駅家が置かれている。ここを板来之駅(いたくのうまや)という。その西には榎木が林を成している。飛鳥浄御原大宮臨軒天皇(天武天皇)の御世に麻績王(ヲミノオホギミ)を流して住まわせた場所である。その海には、燒鹽藻(しほをやくも)・海松・白貝・辛螺・蛤がたくさんある。

■ 国栖の伝説(ヤサカシとヤツクシ)


古老が言うには、新貴滿垣宮大八洲所馭天皇(崇神天皇)の御世に東国の荒ぶる賊を平定しようと、天皇は建借間命(タケカシマ)を遣わせた(建借間命は那珂国造の始祖である)。建借間命は軍兵を率いて凶賊を討伐した。安婆之島(あばのしま)に駐屯して、海の東の浦を遥かに望んだ。その時に煙が見えたので、そこに人が居るだろうと疑い、建借間命は天を仰いて誓約して「もし、天人(大和朝廷方の人)が起こした煙ならば こちらに来て我が上を覆うだろう。もし荒ぶる賊が起こした煙ならば海中に棚引くだろう」と言った。その時、煙は海に向かって流れた。これによって凶賊が居ることが分かったので、部下に命じて早々に食事を済まさせて海を渡った。

ところで、国栖の中に夜石斯(ヤサカシ)・夜筑斯(ヤツクシ)という2人がいた。これらの者は自ら首長となり、穴を掘って砦を造り、常に此処に住んでいた。そして、官軍を狙って隙を窺おうと、身を伏せて守りを固めていた。建借間命は兵を遣わせて追いやると、賊はにわかに逃げ帰り、砦の戸を堅固に閉ざした。そこで建借間命は大きな計略を思いつき、決死の覚悟を持つ兵を選んで山の曲がり角に伏せ隠しておき、それから賊を滅ぼすために造った兵器を備えさせた。それから渚を飾り、舟を連ねてイカダを編み、雲のような天蓋を翻し、虹のような旗を張った。そして、天之鳥琴(あめのとりごと)・天之鳥笛(あめのとりぶえ)の音を潮の波音と共に響かせ、杵を鳴らして唄を歌い、それを7日7夜続けて 遊び楽しみ 舞い踊った。その時、賊の仲間が盛んな音楽に聞くと、男女ともに皆で家から出てきて、(建借間命の葬儀だと思って)浜に並んで歓び笑った。

そこで、建借間命は騎兵を走らせて砦を閉鎖させると、賊を背後から襲撃し、一族を悉く捕らえると、一時に焼き滅してしまった。この時に「痛殺(いたくころす)」と言ったので伊多之郷(いたくのさと)と呼ばれるようになった。また「臨斬(ふつにきる)」と言ったので布都奈之村(ふつなのむら)と呼ばれるようになった。また「安殺(やすくきる)」と言ったので今は安伐之里(やすきりのさと)といわれている。また「吉殺(えくさく)」と言ったので今は吉前之邑(えさきのむら)といわれている。

板来の南の海には州がある。ここの周囲は3,4里ばかりである。春になると香島・行方の二郡から男女が皆でやって来て、州で白貝や様々な貝類を拾う。

四、日本武尊伝説


この郡から東北15里のところに当麻郷(たぎまのさと)がある。

■ 佐伯の鳥日子(トリヒコ)


古老が言うには、倭武天皇(ヤマトタケル)が巡行の際に郷を通り過ぎたが、ここには佐伯がおり、名を鳥日子(トリヒコ)と言った。この者はヤマトタケルに逆らったので すぐに殺された。それから屋形野の仮宮に行幸した際に車駕の通る道が狭く、地面も凸凹していた。この悪路(あしきみち)から名を取って当麻という。土地の言葉では悪路のことを「多支多支斯(たぎたぎし)」という。ここの野は痩せているが、紫は生えている。ここには香島・香取の2神の子之社がある。その周囲の山野には、櫟・柞・栗・柴があちこちに生えて林を成しており、猪・猿・狼がたくさん住んでいる。

■ 国栖の伝説(キツヒコとキツヒメ)


ここより南には藝都郡(きつのさと)がある。古に国栖が住んでおり、その名を寸津毗古(キツヒコ)、寸津毗賣(キツヒメ)という二人であった。この寸津毗古(キツヒコ)が当天皇(ヤマトタケル)が行幸した時に命令に背いた上に大変無礼に振る舞った。そこでヤマトタケルは剣を抜いて直ちに斬り殺した。

これに寸津毗賣は恐れ愁いて、白旗を掲げながら道に出迎えて拝礼した。ヤマトタケルは哀れんで恵みを与え、放免して家に帰してやった。また、ヤマトタケルが乗輿(みこし)に乗って小抜野の仮宮に行幸した際、寸津毗賣は姉妹を率いて誠に心を尽くし、雨風も避けることなく朝夕に仕えた。

ヤマトタケルは、その真心のこもった礼儀正しさを愛でて慈しんだ。この慇懃惠慈(ねもころうるはしみ)ということに由来して、この野は宇流波斯之小野(うるはしのをの)と呼ばれるようになった。

その南には田里(たのさと)がある。息長足日売皇后(神功皇后)の御世に この土地には古津比古(コツヒト)という人が居た。この人は3度 韓国に遣わされたが、その功労を重んじられて田を賜ったので このように名付けられた。また、ここには波耶武之野(はやむのの)がある。倭武天皇(ヤマトタケル)がこの野に宿って弓弭を修理させたので この名が付いた。弓弭が波耶武(はやむ)あるいは波聚武(はずむ)と訛ったものと思われる。野の北には海辺があり、そこには香島の神子の社がある。土は痩せているが、櫟・柞・楡・斗が1,2ヵ所に生えている。

これより南には相鹿(あふか)・大生里(おほふのさと)がある。古老が言うには、倭武天皇(ヤマトタケル)が相鹿丘前宮(あふかのをかざきのみや)に座していた。その時、膳炊屋舍(御供を調理する舎)を浦の浜に構えて、小舟を並べて橋を編み、御在所に通わせた。この大炊(おほひ)から名を取って大生之村(おほふのむら)と名付けた。また、倭武天皇(ヤマトタケル)の后である大橘比売命(オホタチバナヒメ)が大和から降ってきて、この地で天皇と逢った。これによって安布賀之邑(あふかのむら)と呼ばれるようになった。

香島郡


一、香島略記


香島郡。東は大海、南は下総、常陸との堺には安是湖、西は流海、北は那賀、香島の堺には阿多可奈湖がある。

古老が言うには、難波長柄豐前大朝馭宇天皇(孝徳天皇)の御世の己酉の年、大乙上の中臣□子(鎌子といわれる)・大乙下・中臣部兎子(ナカトミベノウノコ)らが惣領の高向大夫に申し出て、下総国の海上国造の領内である軽野より南の1つの里と、那珂国造の領内である寒田より北の5つの里を割いて、別に神郡を置いた。そこにあった天之大神社(鹿島神宮)、坂戸社・沼尾社の3社を合わせて香島天之大神(カシマノアメノオホカミ)と総称するので、これに以って郡に名付けられた。土地の言葉に「霰(あられ)ふる香島の国」というものがある。

■ 香島神宮の由来


澄んだものと濁ったものが混じり合い、天地の初めよりも前に、諸祖天神(土地の言葉で女神祖を賀味留弥[カミルミ]・男神祖を賀味留岐[カミルキ]という)が八百万の神々を高天原に集めた時、諸々の祖神たちに「今、我が孫が統治すべきなのは豊葦原水穂之国である」と告げた。そこで高天原から降りて来た大神の名を香島天之大神という。天にある時は日香島之宮(ひのかしまのみや)と名付け、地にある時は豊香嶋之宮(とよかしまのみや)と名付ける。土地の人が言うには、豊葦原水穂之国の統治を委任しようと詔した時に「荒ぶる神ら、また、石根・木立・草の葉までは言葉を話して、昼は蝿のようにうるさく、夜は火が輝く国であった。ここを平定する大御神である」と言い、天降らせて皇孫に仕えさせたという。

その後、初國所知美麻貴天皇(崇神天皇)の御世に奉納した幣帛は、太刀10口、鉾2枚、鉄弓2張、鉄箭2具、許呂4口(不詳だが武具であろう)、枚鉄1連、練鉄1連、馬1疋、鞍1具、八咫鏡2面、五色の絁1連であった。土地の人が言うには、美麻貴天皇(崇神天皇)の御世に大坂山の山頂に、白細の大御服を着て、白桙の御杖を持って座した神が「我が前を祀るなら、汝が治めるべき国の大国・小国のことも任せよう」という神託を下した。その時、天皇は数多の族長を集めて神託を意味を問うた。すると、大中臣の神聞勝命(カムキキカツ)が「大八嶋国は貴方が統治する国だというのが、この国を平定し、香島に鎮座される天津大御神の教えです」と答えたので、天皇は恐れ驚いて先の幣帛を神宮に奉納したという。

二、諸郡諸事


神戸は65戸(本八戸。難波天皇(孝徳天皇)の御世に加えて50戸を奉り,飛鳥浄見原大朝(天武天皇の御世)に加えて9戸を奉り、ここで併せて67戸である。庚寅年に減ること2戸、ここで定まるのが65戸である)。

淡海大津朝(天智天皇の御世)に初めて使いを遣わせて神の宮を造らせた。それ以降は修理を絶やしたことはない。毎年7月には舟を造って津の宮に納める。

古老が言うには、倭武天皇(ヤマトタケル)の御世に天之大神(鹿島大神)が中臣の狭山命(サヤマ)に「今から社に御舟を祀れ」と言うと、臣の狭山命は「謹んで大命を承り、敢えて断ることなど致しません」と答えた。それから天之大神は夜明けに「お前の舟は海の中に置いた」と言ったので、船主の狭山命が探してみると、それは岡の上にあった。また、天之大神が「お前の舟は岡の上に置いた」と言ったので、また探してみると それは海の中にあった。このようなことが、既に2,3回とは言えないほどだった(それほど多かった)。そこで、狭山命は恐れて畏まり、新たに長さ2丈(約6m)余りの舟を3隻造らせて献上したのが初まりである。

また、毎年4月10日には祭を催して酒を飲む。卜部氏の一族から男女が集い、連日酒を飲んで歌舞を楽しむ。そこで歌われる唄には以下のようなものがある。

「新盛の 神御酒を 食げ食げと 言ひけば哉よ 吾が醉ひにけむ」

神社(鹿島神宮)の周囲は卜部氏の住む所である。地形は高く開けており、東西には海が見え、峰や谷が犬の牙のように村里と交わっている。山の木と野の草は垣根となって内庭を隠し、谷を流れる川や岸にある泉は朝夕の汲水として流れ出ている。嶺の頂上に家を構えれば、松や竹は外を守る垣となり、谷の中腹に井戸を掘れば、ツタとヒカゲノカヅラが崖の上を覆う。春にその村を通れば百艸□花が見え、秋にその道を通れば千の樹に錦の葉が見える。神仙の幽居之境(かくりすむさかひ)であり、霊異が姿を変えて生まれる地である。麗しいものが豊かで、すべてを記すことはできない。

その社の南には群家がある。北には沼尾池がある。古老が言うには「神代に天から流れてきた水沼」という。ここに生える蓮根は香りと味わいがとても良く、甘いことは他と比べても優れている。また、病人がこの沼の蓮根を食べれば、早く癒える験がある。また、鮒や鯉がたくさん棲んでいる。以前は群家が置かれており、橘もたくさん植えられていた。その実は美味しい。

郡から東に2,3里のところに高松濱(たかまつのはま)がある。大海によって流れつく砂と貝が積もって高い丘になり、松林が自然と出来ている。椎・柴が交じっており、既に山野となっている。あちこちの松の下には泉がある。泉の周囲は89歩ばかりで、清らかな水を湛えていて大変良い。

慶雲元年(704年)、国司・采女朝臣(ウネメノアソミ)が鍜の佐備大麿(サビノオホマロ)らを率いて若松浜で鉄を採って剣を造った。高松浜から南の軽野里にある若松浜までの距離は30里余りであり、ここは全て松山になっている。伏苓(まつほど)、伏神(ねあるまつほど)を毎年掘る。その若松浦は常陸・下総の二国の堺である。安是湖(あぜのみなと)にある砂鉄で剣を造ると大変鋭い剣となる。しかし香島の神山なので、容易く入って松を伐ったり、鉄を掘ったりすることはできない。

郡の南20里のところに濱里がある。ここから東の松山の中には一つの大きな沼がある。そこを寒田という。その周囲は4,5里(2~3km)である。ここには鯉や鮒が棲んでいる。之万(しま)・軽野(かるの)の二つの里にある田を少し潤している。軽野より東にある大海の浜辺には漂着した大船があり、その長さは15丈(約45m)、幅は1丈(約3m)余りである。既に朽ちて砕けて砂に埋まっているが、今もなお残っている。この船は淡海の御世(天智天皇の御代)に国を視察させようとして、陸奥国の石城の船大工に造らせた大船で、この岸に到ったがすぐに壊れたという。

三、童子松原


その南に童子松原(わらはのまつばら)がある。古に年若い童子がいた。土地の言葉で、加味乃乎止古(カミヲトコ)・加味乃乎止賣(カミヲトメ)という。

男を那賀寒田郎子(ナカノサムタノイラツコ)といい、女を海上安是嬢子(ウナカミノアゼノイラツメ)という。ともに容姿が美しく、村里の中で光り輝いていた。この二人は相手の評判を聞いていたので、お互いに会いたいと思うようになり、その気持は心から消えなくなった。それから月日が経過して、歌垣の集いが行われると、そこで二人は出会うことになった。その時の郎子がこれである。

「彌著の 阿是小松に 木棉垂でて 吾を振見ゆも 阿是小島はも」

孃子の返歌はこれである。

「潮には 立たむと言へど 奈西子が 八十島隱り 吾を見際走り」

そこで互いに語り合いたいと思ったので、人目を避けて歌垣の場から去り、松の下に隠れて互いに手を取り、膝を近づけて思いを述べ、今まで溜めていた想いを吐露した。すると、長年積もった恋の病から解放され、また新たなる歓びにしきりに笑みが起こった。

その時は、玉のような露がつく秋の暮れで、秋風の吹く季節だった。煌々と月が照らすところは、鳴く鶴の帰る西の洲であり、松風が吹き渡るところは、渡る雁が行く東の山である。夕べは静寂で以前から巌の清水が流れ、夜は寂しく煙のような霜が新たに降りる。近い山に林に散る葉は色づいており、遥かな海にはただ青波が磯に砕ける音が聞こえるのみであった。

今宵は これより楽しいことはなかった。ひたすらに甘い言葉の味わいにふけり、夜が明けるのも忘れた。すると、にわかに鶏が鳴き、狗が吠え、夜が明けて日が昇った。その時に童子らは成す術を知らず、遂に人に見られることを恥じて松の木に成ってしまった。郎子を奈美松(なみまつ)、嬢子を古津松(こつまつ)といった。古より名が付けられており、今に至るまで改められていない。

郡の北より30里のところに白鳥里(しらとりのさと)がある。古老が言うには、生目天皇(垂仁天皇)の御世に白鳥がいた。それは天から飛来して童女に化け、夕方に上り、朝に下っていった。童女は石を積んで池を造って堤を築こうとしたが、いくら日月を重ねても、築いては壊れを繰り返すばかりで完成することは無かった。そこで童女はこのような歌を詠んだ。

「白鳥の 羽が堤を 築むとも 洗ふま□□□ □□うき羽越え」

このように口々に唄って天に昇り、二度と降りて来なかった。これによって、そこを白鳥郷と名付けた(以下略)。

ここから南には平原があり、そこを角折浜(つのをれのはま)という。古に大蛇がおり、東の海に通おうと思って浜に穴を掘っていたが、そこで蛇の角が折れて落ちたので、これに因んで名が付いた。別の説では、倭武天皇(ヤマトタケル)がこの浜に宿り、神饌を供えようとしたが、その時に水が無かった。そこで鹿の角で地面を掘ったところ、その角が折れた。これが浜の名の由来といわれている(以下略)。

那賀郡


一、那賀略記


那賀郡。東は大海、南は香島と茨城郡、西は新治郡、下野国との堺には大山、北は久慈郡がある。

■ 巨人伝説


(最前略す)。平津駅家の西12里に岡がある。その名を大櫛(おほくし)という。上古、ここには人がおり、その体は極めて長大で、その身は丘の上から浜辺の蜃をほじくるほどであった(蜃とは大蛤である)。そこで食べた貝の殻は積もり積もって岡となった。当時の人は、貝塚が朽ちた様子から大朽と言ったが、今は大櫛之岡(おほくしのをか)と呼ばれている。その足跡は長さ30歩余り、幅は20歩余りで、尿の穴の直径は20余歩ばかりであった(以下略)。

■ 蛇子の伝説


茨城里(うばらきのさと)。ここより北に高い丘があり、その名を晡時臥之山(くれふしのやま)という。

古老が言うには、(昔)兄と妹が二人で住んでおり、兄の名を努賀彦(ヌカヒコ)といい、妹の名を努賀姫(ヌカヒメ)という。妹が室にいた時に、人がやってきたが、姓名を知ることはできなかった。常にやって来て求婚(よばい)し、夜に来て昼に去った。それから遂に夫婦となって一晩で懐妊した。そして臨月を迎えると、やがて子を出産したが それは小さな蛇だった。その小蛇は昼間は無言であったが、日が暮れると母と語った。これに母と伯父(努賀彦)は驚き不思議に思って、神の子ではないかと心に思った。そこで小蛇を清浄な坏(つき)に乗せ、祭壇を設けて安置した。だが、小蛇は一夜で坏を満たすほど成長した。そこで、さらに大きい瓮(ひらか)に移し替えたが、また瓮を満たすほどに成長した。

このようなことが3,4回続いたので、とうとう器を用意できなくなった。そこで、母は小蛇に「お前の器を量れば自ずと神の子と分かります。ですが、私達ではもう養うことは出来ません。父のところに行きなさい、此処に居てはなりません」と言った。すると、小蛇は哀しく思って泣き出し、涙を拭いながら「謹んで母の命令を承ろうと思います、敢えて断るようなことなどしません。ですが、独りで行けば助けてくれる者がおりません。願わくば、哀れんで子供を一人付けてはくれませんか」と言ったが、母は「我が家には母と伯父しかおりません。それはお前もよく知っているでしょう。だからお前に付き従う人などおりません」と言ったので、小蛇は恨みを抱いて黙ってしまった。

それから別れる時に怒りを抑えきれずに、伯父を殺して天に昇っていった。その時に母は驚き、瓮を取って投げつけると、それに触れた小蛇は天に昇れなくなった。よって、この峰に留まった。この蛇を持った瓮と甕(みか)は今も片岡の村にある。また、その子孫が社を建てて祀り、それは相伝されて絶えていない(以下略)。

この郡の東北を流れる粟河を渡ったところには駅家がある(元は粟河に近いところにあり、河内駅家といった。今もその名を使っている)。そこから南に当たる場所の坂の中に泉が出ている。水量は多く、とても清く、そこは曝井(さらしゐ)という。泉のある村の婦女たちは、夏に集まって布を洗い、日に曝して乾かす(以下略)。

久慈郡


一、久慈略記


久慈郡。東は大海、南西は那珂・那賀郡、北は多珂郡、陸奧国との堺には岳がある。

古老が言うには、この郡より南の近くには小さな丘があり、そこは鯨鯢(くぢら)の体に似ている。これによって倭武天皇(ヤマトタケル)に久慈と名付けられた(以下略)。

淡海大津大朝光宅天皇(天智天皇)の御世、藤原内大臣(藤原鎌足)の所領の民戸の検分に遣わされた軽直里麿(カルノアタヒサトマロ)が、堤を造って池を成した。その池より北を谷会山という。あらゆる岸壁が巌のような形で、色は黄色く、横穴が開けられている。ここには猿が集まり、常に住んで食物を食っている。

■ 鏡の中に消えた鬼


郡の西北6里のところに河内里がある。元の名は古々之邑(ここのむら)という。土地の言葉では、猿の声は古々(ここ)といわれる。東の山には石鏡がある。昔、此処には魑魅(おに)がいた。魑魅は集まって遊んでいた時に鏡を見たところ、自然と消え去ってしまったという。土地の人は、疾鬼(ときおに)は鏡に向かうと自然と滅ぶと言った。この土地の土は青い紺のようで、絵具に用いると鮮やかである。土地の言葉では阿乎尓(あをに)あるいは加支川尓(かきつに)という。これは朝廷の命令によって採取して献上する。いわゆる久慈河の水源は猿声(ここ)である(以下略。なお、猿声は地名である)。

郡の西□里に静織里(しとりのさと)がある。上古の時、綾を織る機を知る者は居なかった。その時、この村で初めて織ったので、これに因んで名付けられた。北には小川がある。ここには丹石(あかきいし)が混じっている。それは色は琥珀に似ており、火打に使うと大変良い。よって玉川と呼ばれている。

郡の北2里のところに山田里がある。ここを開墾してたくさんの田を作ったため、これを以って名付けた。ここに流れる清河の水源は北の山であり、群家の近くを経て、南の久慈河と合流する。ここでは年魚(あゆ)がたくさん捕れ、その大きさは人の腕のようである。その清河の淵を石門(いわと)という。慈樹(うつくしびのき)は林を成しており、それは頭上を覆うように茂っている。清浄な泉は淵を作り、足元を水を飛び散らせて流れる。青葉は自然と翻って日陰を作る衣笠となっており、白砂は波を弄ぶむしろとなって川底に敷かれている。夏の暑い日には遠近の郷里から避暑地を求めて人々が集まり、筑波の雅曲を歌いながら久慈の美酒を飲む。これは人の世の遊びとはいえ、ひたすらに俗塵の中の憂いを忘れられる。その里の大伴村には崖がある。土の色は黄色で、鳥の群れが飛来して啄んで食っている。

郡の東7里のところに太田郷がある。ここには長幡部之社がある。古老が言うには、珠賣美萬命(スメミマノミコト=ニニギ)が自ら天降った時、服を織るために従って降った神がおり、その名を綺日女命(カムハタヒメ)といった。元は筑紫国の日向の二所之峰(ふたがみのみね)に降りたが、それから三野国の引津根之丘(ひきつねのをか)に到った。その後、美麻貴天皇(崇神天皇)の御世に、長幡部の遠祖である多弖命(タテノミコト)は危険を避けて三野より久慈に移り、機殿を造って初めて服を織った。そこで織った服は自ずと衣装となり、裁ったり縫ったりすることも無かった。これは内幡(うちはた)といわれる。別の説では、絁(ふときぬ)を織るにあたって容易く人に見られるので、機殿の扉を閉ざして闇の中で織ったという。これによって鳥織(うつはた)と名付けられた。これは鈎の武器でも、強い刃でも、裁ち切ることができない。今は毎年 特別に神への貢物として奉納している。

二、土蜘蛛伝説


これより北に薩都里(さつのさと)がある。古に国栖がおり、名を土雲(ツチクモ)と言った。これを兎上命(ウナガミ)が兵を挙げて誅滅した。その時に上手く殺せたので「福哉(さちなるかも)」と言った。これにより佐都(さつ)と名付けられた。北の山には白土(しらに)があり、絵に色を塗るのに良い。

東には大きな山があり、そこを賀毗禮之高峰(かびれのたかみね)という。そこには天津神がおり、名を立速男命(タチハヤヲ)といい、別名に速経和気命(ハヤフワケ)という。元は自ら天降り、松澤松樹八俣(まつざはまつのきやまた)の上に鎮座していた。この神の祟りはとても厳しい。ある人が神に向かって大小便をした時、災いを起こして病にかけて苦しめた。

この神の付近の住人は、日々とても苦しめられていたので朝廷に奏上した。すると、片岡大連が遣わされてきて、この神を祀り、崇敬して「今、鎮座されている場所は百姓の家が近くにあるので、朝夕は不浄となります。鎮座するには不適当です。ですので、ここを避けて移り、高い山にある清浄な土地に鎮座なさいませ」と言った。すると、神は願いを聞き届け、遂に賀毗禮之峰に登っていった。その社は石を垣根とし、中には神の一族がとてもたくさんいる。また、様々な宝があり、弓・桙・釜・器の類は皆石になって残っている。この辺りを飛ぶ多くの鳥は悉く避けて飛び、この峰の上を通らない。古からそうであり、今も同じである。ここには小川があり、その名を薩都河(さつがわ)という。小川の水源は北の山であり、そこから流れて南の久慈河に入る(以下略)。

ここを高市という。ここから東北に2里のところに密筑里(みつきのさと)がある。この村の中には清浄な泉があり、俗に大井(おほゐ)と呼ばれている。この水は夏は冷たく冬は温かく、湧き流れて川となっている。夏の暑い時には遠近の郷里から酒と肴を持ち寄って男女が集い、憩ったり、遊んだり、酒を飲んで楽しむ。その東南には海浜が望める。ここには、石決明(アワビ)・棘甲蠃(ウニ)・魚介類がたくさん棲んでいる。西北は山野を帯びている。ここには、椎・櫟・榧・栗が生えており、鹿・猪が棲んでいる。この山海の珍味は多く、すべてを載せることはできない。

この東北30里のところには助川駅家がある。昔、ここは遇鹿(あふか)と呼ばれていた。古老が言うには、倭武天皇(ヤマトタケル)が此処に至った時、皇后(オトタチバナヒメ)と逢った。これによって名付けられた。また、国宰が久米大夫の時に川で鮭を捕ったことから、助川と名を改められた。土地の言葉では鮭の祖のことをスケという。

多珂郡


一、多珂略記


多珂郡。東南には大海、西北には陸奧、常陸二国の堺には高山がある。

古老が言うには、斯我高穴穗宮志賀大八洲照臨天皇(成務天皇)の御世に建御狭日命(タケミサヒ)を多珂国造に任命した。この人が初めてやって来た時に、この国の地形をあまねく巡り見て、峰が険しく山が高いと思って多珂の国と名付けた。建御狭日命は出雲臣と同族である。今、多珂・石城というのは此処である。土地の言葉に「薦枕(こもまくら)多珂の国」というものがある。

建御狭日命が遣わされた時、久慈との境の助河を道前(みちのくち=国の入口)とした。ここは群家を去ること西北60里であり、今もなお道前里(みちのくちのさと)という。また、陸奥国石城郡の苦麻之村(くまのむら)を道後(みちのしり)とした。その後、難波長柄豐前大宮臨軒天皇(孝德天皇)の御世の癸丑年に、多珂国造の石城直の美夜部(ミヤベ)、石城評造部の志許赤(シコアカ)らが、惣領の高向大夫に願い出て、所轄する地域が遠く隔たっていて往来が不便だということで多珂・石城の二つの郡に分置した。石城郡は今は陸奥国に属する。

その道の前の里に飽田村(あきたのむら)がある。

古老が言うには、倭武天皇(ヤマトタケル)が東の辺境を巡ろうと この野に留まった。その時、ある人が「野の上に群れる鹿は無数でとてもたくさんいます。その角は枯れた芦原のようで、その息吹は朝霧が立つのに似ています。また、海には鰒魚(アワビ)がおり、その大きさは8尺(約2.4m)です。また、様々な珍味があります…」と言った。そこでヤマトタケルは野に出て狩りをすることにし、橘皇后(オトタチバナヒメ)には海で漁をさせることにして、互いに獲物の数を競おうと、山と海に分かれて出掛けた。

この時、野で狩りをした方は、終日狩りをしても一頭の鹿さえ得られなかった。しかし、海で漁をした方は、僅かの時間であらゆる魚介を得られるほど大漁だった。こうして狩猟を終えて神饌を供える時に、ヤマトタケルは従者に「今日の遊びは、朕と后とで野と海に行き、共に幸を争った。野の物は得られなかったが、海の物は大漁だったので飽きるほど食べられた」と言った。後世に この事蹟から飽田村と名付けられた。

国宰の川原宿禰の黒麿(クロマロ)の時に、大海の辺りの石壁に観世音菩薩の像を刻んだ。これは今も残っている。これによって佛濱(ほとけのはま)と呼ばれるようになった。

郡の南30里のところに藻嶋駅家(めしまのうまや)がある。東南の浜には碁石があり、色は珠玉のようである。いわゆる常陸国にある麗しい碁石は、この浜のみで取れる。昔、倭武天皇(ヤマトタケル)が船に乗って海上を浮かび、島の磯を見た時に、様々な海藻がたくさん生えていた。これによって名付けられた。今も同じである(以下略)。

常陸国風土記 逸文


新治、白壁、筑波、香嶋、那賀、多珂


常陸国風土記。新治国、白壁国、筑波国、香嶋国、那賀国、多珂国などなど云々。

大神駅家


常陸国風土記には新治郡のことが記されている。

この大神駅家という名は、周辺に大蛇がたくさん居たことから名付けられた。

※大物主神または三輪大神はその形が蛇の形とされる

枳波都久岡


枳波都久岡は常陸国の真壁郡にある。

信太郡 日高見国


公望(キミモチ)の私記によれば、常陸国風土記にあると云われる。

信太郡は、古老が言うには、難波常柄豐前宮之天皇(孝徳天皇)の御世の癸丑の年に、小山上の物部河内(モノノベノカフチ)、大乙上の物部会津(モノノベノアイズ)らが惣領の高向大夫らに申し出て、筑波・関城郡700戸を分けて信太郡を置かせた。この地を日高見国という。

信太郡縁由


常陸国風土記には信太田の由縁が記されている。

黒坂命(クロサカ)が陸奥の蝦夷を言向け、凱旋して多珂郡の角枯之山まで来た時、病のためにここで亡くなった。この時に角枯を黒前山と改めた。黒坂命の亡骸を乗せた車が この山から日高見国に向かった。葬列の赤旗・青旗は入り交じって翻り、雲を飛ばして虹を引いたとされ、野や道を輝かせたという。このことから幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮めて信太の国といわれた。

覺賀鳥


覺賀鳥(かくがのとり)というのはどんな鳥か、風土記を案ずるに、常陸の国の河内郡にある浮嶋村には2羽の鳥がいた。これを賀久覺(かくが)の鳥といい、その囀りの声は愛しいといわれた。

大足日子天皇(景行天皇)が浮嶋村に行幸し、仮宮を建てて留まってから30日を経た。その間に天皇は この鳥の囀りを聞いて、伊賀理命(イカリ)を遣わせて網を張らせて捕えさせた。天皇はこれを喜んで鳥取(トトリ)という姓を与えた。その子孫は今は此処に棲んでいるという。

大谷村


常陸国風土記に曰く、採大谷村の大きな榛の木を伐採して,根の部分で鼓を造り,先の部分で琴を造った。俗に比佐頭(ひさつ)といわれる(云々)。

久慈理岳


常陸国に久慈理の岳(くじりのおか)という岳がある。その岳の形が鯨鯢(クジラ)に似ていたため、この名で呼ばれるようになったと伝えられている(云々)。俗のいわれに鯨に似ていたため久慈理と呼ばれたともいわれる。

道後 桁藻山


常陸の国の多珂郡には桁藻山がある。

風土記に記される歌の中に

「道後(みちのしり) 桁藻山(たなめのやま)」

と詠まれたものがある。

三柱天皇


三柱天皇は常陸国風土記に中に登場する天皇で、巻向日代宮大八洲照臨天皇(景行天皇)の御世、あるいは石村玉穗宮大八洲所馭天皇(継体天皇)の御世、あるいは難波長柄豐前大朝八洲撫馭天皇(孝徳天皇)の御世とされる。

賀蘓理岡


刺蜂(サソリ)とは刺す蜂という物で、子を呪(まじな)うことに使われ、常陸国では賀蘓理(サソリ)とも言い伝えられる。この国には賀蘓理岡(かそりのおか)という岡があり、昔 この岡には刺蜂がたくさんいた。これにより、刺蜂岡(さそりのおか)と呼ばれるようになり、それが賀蘓理岡というようになった。

尾長鳥 酒鳥


常陸国風土記に記される他の鳥に尾長(オナガ)または酒鳥(サカトリ)という鳥がいる。その形は、天辺が黒くて尾が長く、アオサギに似ており、わずかにヒワやニワトリにも似ているが、ハヤブサのようではない。この鳥は山野や里村に棲んでいる。

伊福部岳


常陸国記にはこのようにある。

昔 兄と妹が同じ日に田を作ったが、遅い時間に田植えをすると伊福部神(イフキベノカミ)の災いを被るといわれていたのに、妹は遅い時間に田植えをした。その時に妹は雷鳴に撃たれて死んだので、兄は大いに嘆き恨んで、妹の仇を討とうと思ったが、その居場所が分からなかった。

その時、一羽の雌雉が飛んできて肩に止まった。そこで、兄は績麻を取って雉の尾に麻糸を括り付けると、雉は伊福部岳まで飛んでいった。兄が麻糸を追って進むと、やがて雷神の住処である石屋に辿り着き、そこで寝ていた雷神を斬ろうと太刀を抜くと、雷神は恐怖して「助けてくれるならば貴方に従い、100年の後に至るまで貴方の子孫に雷の被害がないようにしよう」と助けを乞うた。兄はこれを聞いて許してやることにし、また雉に助けてもらったことを感謝して「もし、雉に危害を加えたら病に冒されて生涯不幸になるべし」と誓った。そのため、この土地に住むものは、雉を食うことはない。
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。