人文研究見聞録:高津柿本神社 [島根県]

島根県益田市高津町にある高津柿本神社(たかつかきのもとじんじゃ)です。

飛鳥時代の歌聖・柿本人麻呂の終焉の地と伝わる鴨島に創建された人丸社を起源とする古社であり、『柿本神社縁起』によれば、全国に点在する柿本神社の本社であるとされています。

なお、鴨島は平安中期に起こった万寿地震の影響で沈没したとされることから、後に高津の松島に流れ着いた人麻呂公の尊像を祀り、江戸時代に津和野藩主・亀井氏によって現在地に遷座されたものが、現在の柿本神社とされています。

また、境内を含める一帯は、祭神に因んで「万葉公園」と称する県立公園として整備されています。

ちなみに益田市には柿本人麻呂の生誕地と伝わる「戸田柿本神社」も存在します。

戸田柿本神社についてはこちらの記事を参照:【戸田柿本神社】


神社概要

由緒

社伝によれば、宮廷歌人として天武天皇・持統天皇・文武天皇に仕えた柿本人麻呂は、大宝年中(701~704年)に国司として石見国に赴任し、神亀元年(724年)に「鴨山の 岩根し枕ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ」という辞世の歌を詠んで鴨島に没したとされます。

そして、神亀年間(724~729年)に石見国司が聖武天皇の勅命を受け、人麻呂の終焉地である鴨島に人丸社を建立し、その霊を祀ったことに始まるとされています。また、『柿本社並真福寺由緒明細記』によれば、天平年間(729~749年)には人丸寺も建立したとされます。

その後、万寿3年(1026年)5月の地震と大津波で鴨島とともに海中に沈んだとされますが、人麻呂公の尊像が高津の松崎に流れ着いたため、その地に社殿と人丸寺(別当寺)が再建されたと云われています。なお、後鳥羽天皇の御代(1183~1198年)には、石見国司・平隆和によって社殿の改築と水田10町歩の寄進が行われたそうです。

江戸時代には、石見銀山奉行・大久保長安によって社殿と金の灯篭が奉献され、延宝9年(1681年)には津和野藩主・亀井茲親(かめいこれちか)によって現在地の鴨山に移転・再建され、亀井氏によって篤く崇敬されたと云われています。

また、享保8年(1723年)には「柿本神社の一千年祭」と称して、人麻呂公を「和歌の神」と崇敬した霊元上皇によって「柿本大明神」の神号と「正一位」の神階が宣下され、別当「人丸寺」も「真福寺」と改称したとされています。加えて、享保13年(1728年)には津和野藩から社領13石が寄せられて「石見産紙の祖神」に位置付けられたそうです。

そして、慶応元年(1865年)に真福寺を廃して社号を「柿本神社」に改め、現在に至るとされています。

「人麻呂公の逝去後 間もなく」とされる

詳しい縁起についてはこちらの記事を参照:【高津柿本神社縁起】

祭神

人文研究見聞録:高津柿本神社 [島根県]
柿本人麻呂

高津柿本神社の祭神は以下の通りです。

主祭神

柿本人麿命(かきのもとひとまろ):飛鳥~奈良時代の宮廷歌人で、歌聖とも称される
 → 史書には具体名が登場しないため、主に『万葉集』に載せられた和歌から人物像が推測されている
  ⇒ 哲学者・梅原猛の『水底の歌』では、石見国の「鴨嶋」に流罪となったと推測されている
 → 社伝によれば、第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤の小野氏族の一派である柿本族出身とされる
  ⇒ 石見小野郷で生まれ、青年時代に都に上って天武・持統・文武天皇に宮廷歌人として仕えたとされる
  ⇒ 大宝年中(701~704年)に石見守として赴任し、楮を植えて紙を漉く「製紙業」を広めたとされる
  ⇒ 神亀元年(724年)に辞世の歌を残して鴨島に没したとされる
 → 神徳は「文学」「産業」「生活」「縁結び」「安産」「防火」とされている

なお、高津柿本神社の由緒書では以下のように説明されています。

柿本人麻呂命の実績・御神徳

柿本人麻呂朝臣は、7世紀末~8世紀初めの白鳳時代に活躍した宮廷歌人である。数々の格調高き、雄大荘厳な歌はまさしく言霊(ことだま)である。『万葉集』の代表的な歌人で、一大明星である。

・百人一首に「足曳の 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を 獨りかもねむ」
・都に在りて「東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへりみすれば 月傾きぬ」
・石見にて「石見のや 高角山の 木の際より わか振る袖を 妹見つらむか」

柿本大明神は「文学の神」として学問の向上をお導きくださり、また「農産業の神」「生活の守り神」として、あらたかな御神徳を戴き、広く崇敬されている。

柿本人麻呂について

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柿本人麻呂

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)とは、飛鳥~奈良時代の宮廷歌人であり、和歌集『万葉集』における代表的な歌人として、後世には歌聖(かせい)と呼ばれ称えられています。

しかし、正史には名前が登場しないため、その人物像については詳しくは分かっていない謎多き人物です。江戸時代には、国学者によって草壁皇子の舎人として仕えたと推定されています。

通説では、天武朝に歌人として仕え、天皇を神格化するために和歌を詠んでいたと考えられているようです(持統天皇の御代に活躍したとみられている)。

ただし、人麻呂公の生没については諸説あり、高津柿本神社の社伝によれば「第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤の小野氏族の一派である柿本族出身であり、石見国の小野郷で生まれて青年時代に都に上り、天武・持統・文武天皇に宮廷歌人として仕えた。大宝年中(701~704年)に石見守として赴任して製紙業を広め、神亀元年(724年)に辞世の歌を残して鴨島に没した」と云われています。

社紋について

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高津柿本神社の社紋は、「菊花紋章」と「四ツ目結び紋」が合わさったものとなっています。

「菊花紋章」は皇室の紋、「四ツ目結び紋」は津和野藩主・亀井氏の紋であり、共に人麻呂公を尊崇していたため、このような紋になっているものと考えられます(詳細は知りませんが、関係はしていると聞いています)。

八朔祭

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八朔祭(はっさくまつり)とは、毎年9月1日に行われる高津柿本神社の秋季例祭であり、旧暦8月1日が人麻呂公の生誕日とされることに因む祭礼とされています。

なお、当日は周辺一帯に祭り屋台が立ち並び、家内安全・豊作・殖産繁栄を願う参拝者で溢れるとされ、夕方には付近の高津川の河川敷で「流鏑馬神事」も行われるそうです。

境内の見どころ

鳥居と参道

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高津柿本神社の鳥居参道です。

石段の数は139段と言われています。

楼門

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高津柿本神社の楼門です。

江戸時代に高角山に遷座した時に造られた建物であり、明治と平成に改修されたと説明されています。

楼門(内部)

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楼門の内部には、人麻呂公にまつわる物品が展示されています。

境内社

人文研究見聞録:高津柿本神社 [島根県]
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高津柿本神社には、2社の境内社があります(祭神は不詳だが、1社は稲荷社と思われる)。

拝殿

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高津柿本神社の拝殿です。

独特な社紋をあしらった銅板葺で入母屋造の社殿となっています。

また、随神を祀っているのが珍しいです。

人麿公像

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高津柿本神社の人麿公像です。

祭神である柿本人麻呂の像であり、右手に「」、左手に「」を持っています。

亀趺碑(柿本人麻呂顕彰碑)

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高津柿本神社の亀趺碑(きふひ)です。

碑文は柿本神社の由緒が記されているとされ、内容を間違えずに読み切ると亀が動き出すとも云われているそうです。

なお、明石の柿本神社にも、同様の言い伝えのある亀趺碑があります(ただし、亀は贔屓となっている)。

和風野外音楽堂

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高津柿本神社の和風野外音楽堂です。

祭礼の時に使用される施設であり、石見神楽の奉納などが行われます。

宝物殿

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高津柿本神社の宝物殿です。

霊元上皇を始めとする歴代天皇が納めた短冊和歌(重要美術品)などが展示されています。

休憩所

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高津柿本神社の休憩所には、人麻呂公が詠んだ和歌が紹介されています。

料金: 無料
住所: 島根県益田市高津町上市イ2616-1
営業: 終日開放
交通: 益田駅(徒歩28分)、石見交通バス二条線「人丸下」下車

関連サイト: http://masudashi.sub.jp/index.php/hitomaro
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。