高津柿本神社縁起(柿本人麻呂の資料)
2015/12/20
高津柿本神社の「神社縁起」に柿本人麻呂について詳しく記されていたので、ここに紹介したいと思います。
高津柿本神社についてはこちらの記事を参照:【高津柿本神社】
神社概要
・御祭神:柿本人麻呂命(かきのもとひとまろのみこと)
・鎮座地:島根県益田市高津町鴨山(高角山)
・鎮座地:島根県益田市高津町鴨山(高角山)
御由緒
当神社に鎮まります御祭神・柿本人麻呂命は、第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(アメタラシヒコクニオシヒト)の後胤の小野氏族の分かれである柿本族の支族が、石見小野郷の地へ小野族の縁戚を頼って移住し、小野の地に御生まれになりました。
青年時代に都に上られ、持統天皇・文武天皇の両朝※に宮廷歌人として仕えられ、後に生国 石見国の役人として赴任されました。そして、「鴨山の 岩根し枕ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ」の歌を残して、神亀元年(724年)3月18日に逝去されました。
聖武天皇の御代、神亀年間に人麻呂公の逝去後 間もなく、国司が勅命を奉じて終焉地たる鴨島の地に社殿を建立したのが起源であります。万寿3年(1026年)の断層地震による大津波のため、社殿と島とが海中に陥没したと伝えられています(平成4年(1992年)に鴨島海底学術調査団によって、伝承通りに11世紀に大規模な津波があったことを示す地層が発見されました)。
この時、人麻呂公の尊像は松崎に漂着なされたので、この地に社殿を建立しました。江戸時代には津和野藩主・亀井氏の尊崇が篤く、延宝9年(1681年)に藩主・亀井茲親(かめいこれちか)によって風波の難のない現在地の鴨山に移転、再建されました。
当社は全国柿本神社の本社として歴代の皇室の御崇敬厚く、中御門天皇の御代、享保8年(1723年)に柿本神社の一千年祭にあたり、特に正一位 柿本大明神の神階と神位を宣下せられました。更に宣命、位記、太政官符を御下賜なされ、畏くも勅使下向の沙汰があるなど、和歌の聖・柿本人麻呂公を尊ばれたのであります。
人麻呂公の一千年祭に、霊元上皇御宸筆の御製以下五十首の短冊を御法楽として御奉納され、「国家安全、歌道繁栄」の御祈祷を申し渡されるなど、皇室の勅願所と仰がれました。
※楼門前の由緒書には「天武天皇・持統天皇・文武天皇に宮廷歌人として仕え」とある
御祭神の御実績
宮廷歌人として仕えられ、『万葉集』に数々の歌を残されました。格調高き雄大荘厳な歌は まさしく言霊であり、神業という外はなく、歌の道において歌聖・歌神と仰がれ、歴代皇室を始め、各層の人々から崇敬されています。
人麻呂公が役人として石見国に赴任なされ、国司としての任務(民政・産業開発)達成のため尽力なされました。当時、租税の重要な役割を持つ紙を漉(す)くことを教えられ、人々は楮(コウゾ)を作り紙を漉くことをはじめました。
これは、中国、四国地方の製紙業の源ともなり、石見地方では「石見半紙」として、現在も作られています。そのため、この地方では「紙漉業の神」と仰がれ、昔より毎年紙初穂を奉納する所があります。また、養蚕製絲業を教えられたと伝える地方もあります。
御神徳
皇室の弥栄、国家の安全繁栄をお守り下さることは申すまでもなく、「文学の神」として和歌の上達、学問の向上をお導き下さり、また、「農産業の神」「生活の守り神」として深く御神徳を仰いでいます。
また、「人丸さま」という愛称がありますように、夫婦円満を願って「縁結びの神」と仰ぎ、結婚式を挙げる男女は年間を通じて数多くあります。そのほか、「安産の神※」「火炎消除の神※」としても崇められています。
人麻呂公は活霊神(いくひのかみ)でもあります。活霊神とは、人々の祈りや願いを聞き受けられて、応え給う神のことで、霊験あらたかな神様です。
※安産の神:「人生まる(ひとまる)」から
※火炎消除の神:「火止まる(ひとまる)」から
御祭日
・元旦祭:1月1日
・月次祭:毎月1日、18日
・節分祭:2月節分当日
・例大祭:4月15日(旧暦3月18日の人麻呂の命日にちなむ祭事とされる)
・八朔祭:9月1日、2日(旧暦8月1日の人麻呂の生誕日にちなむ祭事とされる)
・七五三:11月15日
・新嘗祭:12月18日
・月次祭:毎月1日、18日
・節分祭:2月節分当日
・例大祭:4月15日(旧暦3月18日の人麻呂の命日にちなむ祭事とされる)
・八朔祭:9月1日、2日(旧暦8月1日の人麻呂の生誕日にちなむ祭事とされる)
・七五三:11月15日
・新嘗祭:12月18日
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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