人文研究見聞録:菊理媛神・白山比咩神(ククリヒメ・シラヤマヒメ)とは?(まとめ)

「日本神話」に登場する神である 菊理媛神・白山比咩神(ククリヒメ・シラヤマヒメ) についてまとめました。

【目 次】


ククリヒメ・シラヤマヒメの概要

概要


人文研究見聞録:菊理媛神・白山比咩神(ククリヒメ・シラヤマヒメ)とは?(まとめ)

菊理媛神(ククリヒメ)とは「日本神話」に登場する神であり、一般的には加賀国の白山にある白山比咩神社(石川県白山市)で祀られている白山比咩神(シラヤマヒメ)と同一視されています。

しかし、『記紀』においては『日本書紀』の異伝に登場するのみであり、その内容も"黄泉比良坂にて、イザナミと口論になったイザナギに対して意見を述べた"という程度であるため、性格の分かりづらい神となっています。

このため、神話においてのククリヒメは、イザナギとイザナミの仲を取り持った神として「縁結びの神」と考えられているのが定説となっており、この他にも神名などから様々な性格が推定されています。

一方、白山の女神とされるシラヤマヒメは、古くから白山が麓の民の生活を支えていたことから自然神として信仰されていたとされ、白山比咩神社の由緒によれば 社殿(白山の遥拝所)が創建されたのは崇神7年(BC.91)と 紀元前に遡るほど古いとされます。

また、奈良時代には越前の僧である泰澄(たいちょう)が白山を開山して白山妙理大権現を奉祀したとされ、それ以降は神仏習合において白山権現として祀られるようになったとされています。

ちなみに、神代文字で記された文献である『ホツマツタヱ』には シラヤマヒメ・ココリヒメなどの神名で登場し "アマテル(天照大御神)の叔母であり生誕時に産湯に浸した、カンミムスビ(神皇産霊神)と結婚して夫婦で根国(北陸地方)を治めた"など 数多くのエピソードが記されています。


信仰


人文研究見聞録:菊理媛神・白山比咩神(ククリヒメ・シラヤマヒメ)とは?(まとめ)

白山は麓に流れる四方の川に豊富な水をもたらして人々の生活や農事を支えてきたことから、「命をつなぐ親神様」として古代より山そのものを神体とする原始的な山岳信仰の対象となっていたと言われています。

また、古来より麓の人々は白山を「白き神々の座」と信じて崇めてきたとされ、農業に必要な水をもたらす山の神としてだけでなく、山が航海の指標となっていたことから海の神としても崇められていたそうです。

なお、神道においては崇神7年(BC.91)に船岡山に白山の遥拝所が創建されて 菊理媛尊(白山比咩大神)・伊邪那岐尊(伊弉諾命)・伊邪那美尊(伊弉冉命)の三柱が祀られたという記録があり、これが白山比咩神社の始まりとされます。

また、奈良時代になると修験者が日本各地で信仰対象の山岳を開山するようになり、白山においては越前の僧である泰澄(たいちょう)によって開山された後、原始的だった白山信仰が修験道として体系化され、現在も知られる「白山信仰」が成立したとされています。

参考サイト:ウィキペディア「白山信仰」白山比咩神社公式


ククリヒメ・シラヤマヒメの定義

ククリヒメの定義


人文研究見聞録:菊理媛神・白山比咩神(ククリヒメ・シラヤマヒメ)とは?(まとめ)

ククリヒメの定義を以下にまとめました。

【神名の表記】
※尊称は省略

・菊理媛
・菊理姫
・菊理比咩
・菊理比売
・久久理姫
・久々利姫

【概要】

・『日本書紀』第五段一書(十)にある「イザナギの黄泉国訪問」神話に登場し、この説話に基づいて祀られる
 → 説話の内容より、イザナギ・イザナミと深い関係のある神とされる
・白山比咩神(シラヤマヒメ)と同一視されているが、その経緯は不明とされている(諸説ある)
 → 菊理姫を白山の祭神としたのは、平安後期の学者・大江匡房が扶桑明月集の中で書いたのが最初という説がある
 → 江戸時代には、書物の中で"白山比咩神と菊理媛が同一神"と明記されるようになったとされる

【諸説】

・神名の語源には諸説ある
 → 「括る」に通じ、神話にてイザナギ・イザナミの仲を取り持ったことから、縁結びの神 とする説がある
 → 「水を潜る」という語源で、水の神 とする説がある
 → 「糸を括る」という語源で、養蚕の神 とする説がある
 → 「高句麗が訛ったもの」ということで、外来神 とする説がある
・正体については諸説ある
 → イザナミの別名とする説
 → 死者と生者を繋ぐ巫女(シャーマン)とする説

【備考】

・アトラスのゲームソフト「女神転生シリーズ」には「キクリヒメ」として登場している


シラヤマヒメの定義


人文研究見聞録:菊理媛神・白山比咩神(ククリヒメ・シラヤマヒメ)とは?(まとめ)

シラヤマヒメの定義を以下にまとめました。

【神名の表記】
※尊称は省略


・白山比咩
・白山比売

【概要】

・白山神社の総本社である白山比咩神社(石川県白山市)の主祭神
 → 崇神7年(BC.91)、船岡山に白山の「まつりの庭」として白山比咩神社の社殿が創建されたことに始まるとされる
  ⇒ 当初の祭神はククリヒメ(シラヤマヒメ)、イザナギ、イザナミの三柱であったとされる
・ククリヒメと同一視される(詳細は上記参照)
・白山信仰に基づく神とされた
 → 古代より白山は「命をつなぐ親神様」とされ、山を御神体とし、水神や農業神として崇められていたとされる
  ⇒ 白山は豊富な水をもたらし、麓の民の生活・農事を育んでいたことに基づく信仰とされる
  ⇒ シラヤマヒメは「しらやまさん」という大和言葉で親しまれていたとも
・神仏習合においては、白山権現(白山大権現)・白山妙理権・白山妙理菩薩などと呼ばれた
 → 白山を開山した泰澄の説話に基づく
  ⇒ 本地仏は十一面観音とされた

【備考】

・ククリヒメと同一とされるが、神名自体(シラヤマヒメ)は『記紀』には登場しない
・アトラスのゲームソフト「魔神転生2」に「シラヤマヒメ」として登場している


白山権現の定義


人文研究見聞録:菊理媛神・白山比咩神(ククリヒメ・シラヤマヒメ)とは?(まとめ)

白山権現の定義を以下にまとめました。

【名前】

・白山権現(はくさんごんげん)
・白山大権現(はくさんだいごんげん)
・白山妙理権現(はくさんみょうりごんげん)
・白山妙理菩薩(はくさんみょうりぼさつ)
・白山明神(はくさんみょうじん)
・妙理大菩薩(みょうりだいぼさつ)

【概要】

・白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神
 → 白山は、石川県と岐阜県にまたがる日本三名山(日本三霊山)のひとつ
  ⇒ 古代より、白山そのものを神体とする原始的な山岳信仰があったとされる
・白山を開山した修験道の僧・泰澄(たいちょう)によって祀られたことに始まる
 → 養老元年(717年)に白山の窟にて修行していた泰澄の前に白山の神という伝説に基づく
  ⇒ 『加賀白山伝記之事』『泰澄和尚伝記』『白山之記』などの文献に記載されている
 → 白山権現および白山比咩神(しらやまひめのかみ)とされる女神には諸説ある
  ⇒ 神道としての白山権現は伊弉冊尊(イザナミ)とされる
  ⇒ 神仏習合から神仏分離に至る歴史の変遷から、菊理媛(ククリヒメ)と習合したという説がある
 → 泰澄の前に顕われたとされる三神を併せて白山三所権現と称する
  ⇒ 白山妙理権現、大行事権現(菊理媛神)、大汝権現(大己貴命)の三神を指す
・本地仏は十一面観音とされる
 → 白山を開山した泰澄の説話に基づく
  ⇒ 真言は「オン マカ キャロニキャ ソワカ」とされる(十一面観音菩薩の真言)


『ホツマツタヱ』による定義


人文研究見聞録:菊理媛神・白山比咩神(ククリヒメ・シラヤマヒメ)とは?(まとめ)

『ホツマツタヱ』におけるシラヤマヒメ(ココリヒメ)の定義を以下にまとめました。

【名前】

・シラヤマヒメ(白山姫)
・キクキリヒメ(菊桐姫)
・ココリヒメ(菊理姫)

【系譜】

・父:アワナギ(沫蕩)
 → 根の国(北陸地方)から細戈千足国(中国地方)を治めていたとされる
 → 『記紀』には登場しない神、『旧事紀』ではイザナギの一代前の神として登場している
・兄弟:イサナギ(伊耶那岐)
 → アマテル(天照大御神)の父で、ココリヒメの兄弟(ココリヒメはアマテルの叔母に当たる)
 → 『記紀』などではイザナミとともに国産み・神産みを成し、三貴子を生んだことで知られる
・弟:クラキネ
 → アマテル(天照大御神)の妃であるマスヒメ(モチコ)・コマスヒメ(ハヤコ)の父
 → 『記紀』には登場しないが、ホツマでは『六月晦大祓祝詞』に登場するエピソードの発端となったとされる
・夫:ヤソキネ(カンミムスビ、神皇産霊)
 → トヨケ(豊受大神)の子でイサナミ(伊耶那美)の兄に当たり、6代目タカミムスビを務めた
 → 「日本神話」におけるカミムスビに当たる(1500柱の子が居たとも)
・孫:アチハセ
・義姉妹:ウケステメ
 → ホツマでは西の地のカに当たるアカカタ(シナ国)の出身であり、トヨケに師事したとされる
 → ニシノハハカミという別名があり、文中から中国神話における西王母であると推察される

【経歴】

・根国(北陸地方)から細戈千足国(中国地方)を治めていたアワナギ(沫蕩)の子とされる
 → 系譜が明記されているわけではないが、文中から読み取ることができる
・アマテル(天照大御神)が誕生した際、産湯に浸ける役目を担った
 → アマテルはイサナギ(伊邪那岐)とイサナミ(伊耶那美)の御子である
 → 誕生には多くのカミが立ち会い、各々が何かしらの役目を担ったとされる
・コヱネクニ(越国)にて御子(アマテル)の御衣を織り、献上した
・アマテルの名が定まっていないとき、アマテルの泣き声から直に名を聞き取って「キクキリヒメ」の名を得た
 → 「キクキリヒメ」の名を与えたのは、二尊(イサナギ・イサナミ)であるとされる
・イサナミの葬儀の際に親族に別れを告げる役目を担った
 → この葬儀の際、イサナギがイサナミの遺骸を見ようとしたが、これを止めたとされる
・根国の政治を退廃させた地方官が裁かれた後、根国の政治を司る役目を任じられた
 → 当初は夫のヤソキネ(カンミムスビ)が任じられたが、後に夫婦で政治を執るよう命じられた
 → これにより、ヤソキネ・シラヤマヒメの夫婦が「シラヤマカミ(白山神)」と称えられることになる
 → なお、根国にイサナギは祀られたが、政治の退廃の原因となったクラキネは祀られなかったとされる
・昔話にて、ウケステメ(西王母)と義姉妹の関係であったことが語られている
 → トヨケ(豊受大神・東王父)によって義妹に定められた
・ニニキネ(瓊々杵尊)が各国の土木事業を開始した際、移動に便利なミネコシについて説明している
 → ミネコシを開発したウケステメには、返礼として桃(もしくは桃の花)が与えられている


ククリヒメ・シラヤマヒメの登場する神話・伝説

『日本書紀』


人文研究見聞録:菊理媛神・白山比咩神(ククリヒメ・シラヤマヒメ)とは?(まとめ)

日本書紀』第五段一書(十)


(イザナミが火の神・カグツチを生んだことで亡くなってしまった後のこと)

ある書によれば、イザナギは亡き妻・イザナミの後を追って遂に黄泉国(よみのくに)に到った。

イザナギが「悲しみに耐えきれず、後を追って来た」と告げると、イザナミは「どうか私の姿を見ないでほしい」と答えた。しかし、イザナギイザナミの頼みを聞かずに その姿を見てしまった。

イザナミは恥をかかされたことを恨み「貴方は私の心を見てしまったが、私も貴方の心を見た」と告げた。イザナギが申し訳ないと思って引き返そうとすると、イザナミは「別れましょう」と告げた。これにイザナギは「お前には負けない」と言い返し、唾を吐いた。

(この唾から生った神がハヤタマノオである。次に穢れを祓うとヨモツコトサカノオが生まれた。)

黄泉比良坂(よもつひらさか)でイザナミと言い争ったイザナギは「始めは妻を失った悲しみから恋しいと思っていたが、これは私の心が弱かったからだ」と言うと、ヨモツチモリビトが「イザナミは『私は貴方と国を生みましたが、なぜ、この上 生むことを求めるのでしょう。私はこの国に留まりますので、一緒には還れません』と申しております」と伝えた。

また、ここでククリヒメも言葉を告げると、イザナギは これを褒めて その場を去った。

(この後、イザナギは黄泉の穢れを禊ぐと、その穢れから神々が生まれた)


「白山の伝説」


人文研究見聞録:菊理媛神・白山比咩神(ククリヒメ・シラヤマヒメ)とは?(まとめ)

その一


奈良時代のこと、越前の僧であった泰澄(たいちょう)は白山の麓の舟岡山にある"妙法の窟(みょうほうのいわや)"にこもって修行し、次に手取川の"安久濤の淵(あくどのふち)"で一心に祈っていると、白馬に乗った白山比咩大神(シラヤマヒメ)が現れて「私は白山に住む女神である。私の真の姿を見たいのならば、白山の頂上まで来なさい」と告げた。

泰澄は川を渡って岩を登り、草木の根を踏み分けて今まで誰もが行ったことのなかった白山の頂上に到り、頂上付近の"転法輪の窟(てんぽうりんのいわや)"で行を重ねた。

すると、翠ヶ池(みどりがいけ)の畔から9つの頭を持った竜が躍り出た。これを見た泰澄は「このような恐ろしい姿の竜が白山の女神の真の姿ではありますまい。仮の姿でありましょう、どうか真の姿を お見せください」と念じた。

そこで、九頭の竜は十一面観音(じゅういちめんかんのん)に姿を変え、これを見た泰澄は「これぞ、まさしく白山の女神の真の姿に違いない、ありがたや」と申して伏し拝んだ。

そして、自分の目に焼き付けた十一面観音の姿を木像として刻み、白山の頂上に祀ったという。

参考サイト:白山比咩神社公式


その二


(奈良時代の初めの頃)越前の僧・泰澄(たいちょう)は「未だに誰も登ったことのない雪の峰である白山には霊神が居るに違いない。私が登って顕応(けんおう)を乞おう」と志した。

霊亀2年(716年)、泰澄は越知山から船岡山に移り、妙法窟にこもって観念を懲らして祈願を込めていると、白馬に乗った貴女が現れて「私は船岡に住んでいるが、西の河の深淵に行けば お前に結界荘厳せしめよう」と告げ、その場から隠れ去った。これを聞いた泰澄は急いで阿久濤の淵に移り、滝水の砌に向かって大声を上げて礼拝念誦した。

養老元年(717年)4月1日、再び貴女が現れて「私が阿久濤の淵に住み、和光同塵※の垂迹を示すのは、不浄汚穢の輩を済度(救う)するためである。ただし、ここは仮の住まい、白山は神代の昔から神務の国域であり、私はイザナミの真の姿でアマテラスの玉母である。私の本地真身(真の姿)を拝みたければ、本地のある白山の山頂まで訪ねて来るが良い」との霊感をこうむった。このとき、泰澄は36歳であった。

同年6月16日、泰澄は初めて白山に登り、頂上の転法輪窟にて21日間の記念加持を懲らした。すると、後に翠ヶ池の畔で貴女の本地真身を拝むことができた。次いで別山にて小白山大行事(大行事権現)、大汝山にてオオナムチの真身を拝んだという。

※和光同塵(わこうどうじん):仏が衆生(全ての生命)を救うため、本来の知徳の光を隠し、けがれた俗世に身を現すこと

参考サイト:戸原のトップページ(白山比咩神社)


『ホツマツタヱ』


人文研究見聞録:菊理媛神・白山比咩神(ククリヒメ・シラヤマヒメ)とは?(まとめ)

アマテルの誕生


最初に国を統べたクニノトコタチ(国常立尊)から続く天(中央)の皇統は、6代目のオモタル(面足尊)・カシコネ(惶根尊)の代に世継が無かったことで尽きてしまった。

一方、日の勢いの強い東のヒタカミはタカミムスビ(高皇産霊尊)が統べており、オモタル・カシコネの後は5代目のタカミムスビに当たるトヨケ(豊受大神)が暫定的な中央の君主として就任した。

トヨケにも世継を生す術がなかったことから「皇族の数は多かれど、その中にアメノミチ(陰陽和合の教え)を得て人草の嘆きを和す尊は居ないだろう。居なければ秩序も尽きてしまうのか」と嘆いていると、娘のイサナミ(伊弉冉尊)がヨツキコ(次代の君主となる子)を儲けることを提案した。

これを以って、トヨケイサナミイサナギ(伊弉諾尊)を結婚させた。そして、アメノミチを得るに相応しいアメオシラスルウツノコ(陰陽和合の顕現となる御子)を儲けるために各々が協力しあって祈祷や儀式を為すと、遂に その方法を得ることができた。

そして、イサナギイサナミが交わって出来た御子は、イサナミの胎内で96ヶ月を経て誕生した。これが、後に皇統を受け継ぐアマテル(天照大御神)である。

御子(アマテル)は誕生したときに円いタマコ(胞衣)に包まれて生まれた。このとき、大老翁のヤマスミ(大山祇神)は寿ぎを歌い、「タマノイワトを開け」と言ってイチヰの木の笏でタマコを開いた。次いで、タマコの中から御子を取り上げて産湯に浸したのが御子の叔母に当たるシラヤマヒメ(白山姫)である。

御子が瞳を開くと民は手を打って喜び、これを以って御子は正式な君主となった。なお、シラヤマヒメが御子の御衣を献上する際、御子の泣き声から「あなうれし」と聞こえたと言った。すると、諸人が御子の名を乞うたので、シラヤマヒメ御子に直接 尋ねると「ウヒルキ」と答えた。よって、御子の幼名はウヒルキ(大日霊貴)となった。

イサナギイサナミは、御子から名を聞き出したシラヤマヒメの功を讃えてキクキリヒメの名を与えた。

参考文献:ホツマツタヱ4文


イサナミの死


イサナギイサナミには、ヒルコ(蛭子尊・稚日女尊)・ヒヨルコ・アマテル(天照大御神)・ツキヨミ(月読尊)・ソサノヲ(素戔嗚尊)という5人の御子が居たが、そのうちのソサノヲイサナミの汚穢(おえ)を受け継いで誕生したため、生まれつき粗暴な性格となってしまった。この責任を感じたイサナミは、ソサノヲが諸民に悪影響を及ぼさないように我が身をクマノミヤとして世の汚穢を受けることにした。

クマノ(熊野)で山火事が起こったとき、イサナミは向かい火を放って止めようと火の神・カグツチを生み出して、その炎に焼かれて死んでしまった。イサナミはアリマ(熊野の有馬)に葬られ、葬儀の際にはココリヒメ(菊理媛神)が親族に別れを告げる役目を担った。

このとき、イサナギは亡き妻・イサナミの遺骸を見ようとしたが、ココリヒメは見てはならないと止めた。しかし、イサナギは見て確かめなければ気が済まないとして、ココリヒメの注意を聞かずに遺骸を見に行った。すると、イサナミの遺骸には蛆がたかっていたため、イサナギは「酷く穢れている」と言い残して早々に去った。

(この後、イサナギはカミユキ(幽体離脱?)の状態となり、死んだイサナミのいる黄泉の辺境を訪問する)

参考文献:ホツマツタヱ5文


シラヤマカミ


モロカミ(諸々のカミ)の清汚(さか)を定める(刑罰を制定する)ときのこと、ツハモノヌシ(兵主)より通達が入った。

曰く、"根国(北陸地方)のマスヒト(地方官)であったクラキネは民出身のサシミメを妻としてクラコヒメを儲けた。そして、サシミメの兄であるコクミを細戈千足国(中国地方)の副マスヒトとし、クラキネの次代のマスヒトにはクラコヒメの夫のシラヒトを据えた。

しかし、クラキネの死後、シラヒトサシミメ・クラコヒメを宮津に送り、コクミは送られてきた2人を犯した。細戈千足国のマスヒトであるカンサヒは、コクミ・シラヒトの罪を正さなければならないと考えているが、この件の処分を諸臣に請う"とのことであった。

これにより、勅使が送られて細戈千足国のカンサヒ・コクミ・サシミメ・クラコヒメの4名がタカマ(中央政府)に招集された。そこで、諸臣によって各々が尋問を受け、これを以ってコクミの刑罰が決まった。次いで、根国のシラヒトがタカマに招集されて同様に裁かれると、コクミ・シラヒトは刑罰を以って役職を解任された。

この後、アマテルと諸臣は会議を行い、根国を治めるに相応しい適役を話し合った。そして、その役にカンミムスビ(神皇産霊尊)ヤソキネ(6代目タカミムスビ)が据えられることになった。

また、アマテルは「イサナギのウブヤ(産野)に叔父(ヤソキネ)叔母(シラヤマヒメ)が居れば、政(まつりごと)は絶えること無し」との詔を発し、これを以ってヤソキネシラヤマヒメの夫婦は根国のクニカミ(地方の統治者)となり、シラヤマカミと称えられることになった。

なお、根国にはイサナギが祀られたが、その弟のクラキネは祀られなかったという。

参考文献:ホツマツタヱ7文


シナの義姉妹


アマテルが「食」について説いているときのこと、曰く「食」は寿命だけでなく 心(霊魂)の状態にも影響するという。

なお、アマテルの常食にはチヨミクサというものがあり、これは苦菜の百倍以上の苦味があるが、食せば寿命が伸びるという。これによってアマテルは24万歳の齢であっても若い姿を維持しており、さらに100万年は生きられると言った。

また、アマテルココリヒメから聞いた昔話によれば、最初に国を統べたクニノトコタチが八方を巡った際に西の地をクロソノツミテ(玄圃統みの地域)と定めた。これは、世界の八方を指すト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メのうちの"カ(西・夏?)"に当たる場所であり、アカカタ(赤県)と呼ばれてトヨクンヌ(豊斟渟尊)の子孫が代々治めていたという。

最初はアカカタもアメノミチ(調和の道)によって治まっていたが、年月を経るにつれて忘れられていき、とうとう尽きてしまうかのように思われた。このとき、これを憂いたウケステメ(西王母)は根国のタマキネ(トヨケ・東王父)の元を訪れ、師事することを乞うて熱心に仕えた。

真摯に仕えるウケステメの姿に感銘を受けたタマキネは、ココリヒメの義妹にしてヤマノミチノク(和の道奥)を授けた。喜んでアカカタに帰ったウケステメは、コロヒンキミと結ばれてクロソノツモルを儲けた。以来、ウケステメニシノハハカミと称されるようになったという。

その後、ニシノハハカミ(ウケステメ)は再びタマキネの元を訪れて「コロヤマ(崑崙山)の麓では、愚かにして肉の味を嗜んでいます。それによって民が早死にし、今では100歳から200歳という有様です。稀に1000歳や10000歳に至る者も居ますが、日毎に肉食が進んでいます。そのため、シナキミも『チヨミクサを探して来い』と嘆いています」と伝えた。

これを聞いたタマキネ(トヨケ)は、シナの枯れを嘆いて「穢れた垢を祓って禊せよ、私もお前が"永らう道"を喜ぶ」と告げ、ニシノハハカミ(ウケステメ)に道(問題の解決策)を授けたという。

参考文献:ホツマツタヱ15文


ニニキネの八州巡り


ニニキネ(瓊々杵尊)がニハリ宮とツクバを治めて18万2050年経っていたときのこと、民の数は増えたものの、田を増やす環境が整っていなかったことから、民に比べて糧が不足気味であった。そのため、後に糧が足りなくなってしまうと思い、井堰や堤を築いて、高田を開拓しようと考えた。

そこで、アマテルに御幸の許しを乞うたが許可が降りなかったため、ニニキネは伊勢に仮住まいし、高倉山の宮川の上から井堰と堤を築いた。すると、5年の内に瑞穂が成ったため、この他にも18ヵ所の井堰を造成した。

このようなニニキネの功績を見たアマテルは、ニニキネに「ヤシマ(八州)を御幸せよ」との詔を発し、これによってニニキネの八州巡り(全国各地の土木事業)が行われることとなった。ニニキネは八州巡りに動員する人選を整えると アマテルから三種宝(文・鏡・剣)が与えられ、遂に八州巡りの門出を迎えた。

ニニキネは、まずイセを発ってアスカ宮(大和地方)に到り、次に水路からニシノミヤ(西宮)に到った。そして、カンサキ(播磨の神崎)に大井を掘り、そこからマナヰ(丹後地方)に到るとアサヒカミ(豊受大神)に幣を納めた。

次に根国(北陸地方)に到ると、そこに居たアチハセ(ココリヒメの孫)がミネコシ(峰輿)を献上した。ニニキネが白山峰を巡る際にミネコシを用いると、斜めになることが無かったことために非常に重宝したという。

このことから、ニニキネは「このミネコシは誰が造った?」と詔すると、ココリヒメが「義妹のウケステメ(西王母)が、アカカタにてクロソノツミとの子であるクロソノツメル(崑崙国の君主)を生んだ後、険しい峰を越すためにミネコシを造って子を育てをしていたそうです」と答えた。

そして、ココリヒメウケステメを連れて来てニニキネと会わせると、ニニキネは喜んで「国はコシ(越国)、山はミネコシ(峰輿)」と言って、お礼にミチミノモモ(満ちみの桃)を与えた。そこで、ウケステメは「花見の桃とは珍しい」と言い、国(アカカタ)へのクニツト(土産物)としたという。

参考文献:ホツマツタヱ24文

matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。