呉服神社 [大阪府]
2017/12/22
大阪府池田市にある呉服神社(くれはじんじゃ)です。
応神天皇の御代に渡来した工匠に由来する古社であり、祭神に呉服大神・仁徳天皇を祀っています。
衣服の神として知られ、「呉服(ごふく)」という語も当社に由来するとされています。
神社概要
由緒
由緒書によれば、第15代応神天皇が中国の呉に使者を派遣して機織裁縫の工匠を求めた際に渡来した呉服(クレハトリ)・綾織(アヤハトリ)が、当地に居住して機織・裁縫・染色の技術を伝え、天皇をはじめ万民に衣服をもたらしたという故事に由来するとされます(『日本書紀』にも同様に記述がある)。
その後、第16代仁徳天皇76年(385年)に呉服姫が139歳で逝去し、その翌年に勅令によって神祠が建立され、そこに呉服大神として祀られたことに始まるとされています。なお、境内には呉服大神の形見を納めた姫室跡があり、周辺には染殿井や絹掛松などの関連史跡が残っています。
以後、歴代天皇に篤い崇敬を受け、円融天皇の御代(969~984年)に鎮守府将軍・源満仲によって社祠が修復され、後醍醐天皇の御代(1318~1339年)には天皇の御宸翰によって「呉服大明神」の名が起り、御陽成天皇の御代(1586~1611年)には豊臣秀頼の命で片桐且元が社殿を再建し、文政2年(1819年)には有栖川宮殿下の御祈願所となったそうです。
また、近年には昭和44年(1969年)に拝殿の新造され、衣服に関連する神として今でも服飾関係者の信仰を集めており、初詣や1月9・10・11日に行われる十日戒の際には多くの参拝客で賑わうとされています。
なお、由緒書による説明は以下の通りです。
【呉服神社の御縁起】
大阪府 呉服里(くれはのさと) 池田市にかしこくも鎮座まします。日本最初「繊維の祖神・呉服大神(くれはおおかみ)」の御由緒を申述べます。
人皇第15代 応神天皇の御代に猪名津彦命(いなつひこのみこと)を中国の呉の国に遣わし、機織裁縫(はたおりたちぬい)の工匠をおもとめになりました。その時、久礼波(くれは)・久礼志(くれし)の二人を案内役として呉の国に趣き、呉王に乞うて呉服(くれはとり)・綾織(あやはとり)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の四人を伴い、渡来することとなりました。
帰路、九州の筑紫潟に着きましたが、兄媛は胸形明神の御望みにて この地にお留まりになり、他の媛は摂津国武庫の浦にお着きになりましたので、猪名の港(今の唐船ヶ渕)に機殿を建て、呉服媛をお迎え致しました。
呉服の神女は昼夜怠りなく布帛を織り、少しも倦み給う事がなかったと申します。この時より機織・裁縫・染色の技術が我が国に伝わり、男女寒暑の服装の別が定まりました。なお四季には上妙(うはたえ)の衣服を天子に献じ、下は万民に施されました。
仁徳天皇の76年(385年)9月18日、呉服の大神は御齢139才という人生に倍する御長寿を以って お隠れになり、そのご遺体を今に その跡を残す梅室姫室にお納め申し上げました。その翌年、仁徳天皇が勅令を以って御神祠をお建てになりました。この大神が糸を様々にお染め分けになった所を染殿井(そめどのい)と称し、その糸を掛け晒しになりました松を絹掛松(きぬかけまつ)と名付け、その跡は今も残っております。
大神の御託宣に「我は衣服(ころも)の神となり、人をして寒暑の優なく、養蚕・機織・絹布・裁縫の道を守護し、かつ、航路遥かに この日本に帰化せしゆえ、海上の難も無からしめん」とあります。代々の帝殊に御崇敬篤く、円融天皇の御代には鎮守府将軍・源満仲公が社祠を修復、また下って御陽成天皇の御代には豊臣秀頼公が片桐且元を奉公に命じて再建の事があり、文政2年には有栖川宮殿下の御祈願所となりました。近年になって昭和44年、新拝殿の御造営が相なりました。
因みに呉服大明神(くれはだいみょうじん)の御名は後醍醐天皇より賜りました御宸翰(ごしんかん)より起り、またこれにより我国にて絹布の類をすべて「呉服(ごふく)」と称することとなりました。省みまするに五穀を作るすべを授け、万民に飢餓の憂いの無い事は天照大神の御神徳であると等しく、機織裁縫の道を教えて、寒暑の憂なきは この大神の御遺徳に他ならずと信じます。
この故を以って衣服の業に従い、並びにその産物を商うものは押しなべて その祖神たる呉服大神を崇敬すべき事は論をまたぬ事であり、古来より健康長寿・家業繁栄・文化・経済・手芸上達の神徳があるといわれています。
大阪府 呉服里(くれはのさと) 池田市にかしこくも鎮座まします。日本最初「繊維の祖神・呉服大神(くれはおおかみ)」の御由緒を申述べます。
人皇第15代 応神天皇の御代に猪名津彦命(いなつひこのみこと)を中国の呉の国に遣わし、機織裁縫(はたおりたちぬい)の工匠をおもとめになりました。その時、久礼波(くれは)・久礼志(くれし)の二人を案内役として呉の国に趣き、呉王に乞うて呉服(くれはとり)・綾織(あやはとり)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の四人を伴い、渡来することとなりました。
帰路、九州の筑紫潟に着きましたが、兄媛は胸形明神の御望みにて この地にお留まりになり、他の媛は摂津国武庫の浦にお着きになりましたので、猪名の港(今の唐船ヶ渕)に機殿を建て、呉服媛をお迎え致しました。
呉服の神女は昼夜怠りなく布帛を織り、少しも倦み給う事がなかったと申します。この時より機織・裁縫・染色の技術が我が国に伝わり、男女寒暑の服装の別が定まりました。なお四季には上妙(うはたえ)の衣服を天子に献じ、下は万民に施されました。
仁徳天皇の76年(385年)9月18日、呉服の大神は御齢139才という人生に倍する御長寿を以って お隠れになり、そのご遺体を今に その跡を残す梅室姫室にお納め申し上げました。その翌年、仁徳天皇が勅令を以って御神祠をお建てになりました。この大神が糸を様々にお染め分けになった所を染殿井(そめどのい)と称し、その糸を掛け晒しになりました松を絹掛松(きぬかけまつ)と名付け、その跡は今も残っております。
大神の御託宣に「我は衣服(ころも)の神となり、人をして寒暑の優なく、養蚕・機織・絹布・裁縫の道を守護し、かつ、航路遥かに この日本に帰化せしゆえ、海上の難も無からしめん」とあります。代々の帝殊に御崇敬篤く、円融天皇の御代には鎮守府将軍・源満仲公が社祠を修復、また下って御陽成天皇の御代には豊臣秀頼公が片桐且元を奉公に命じて再建の事があり、文政2年には有栖川宮殿下の御祈願所となりました。近年になって昭和44年、新拝殿の御造営が相なりました。
因みに呉服大明神(くれはだいみょうじん)の御名は後醍醐天皇より賜りました御宸翰(ごしんかん)より起り、またこれにより我国にて絹布の類をすべて「呉服(ごふく)」と称することとなりました。省みまするに五穀を作るすべを授け、万民に飢餓の憂いの無い事は天照大神の御神徳であると等しく、機織裁縫の道を教えて、寒暑の憂なきは この大神の御遺徳に他ならずと信じます。
この故を以って衣服の業に従い、並びにその産物を商うものは押しなべて その祖神たる呉服大神を崇敬すべき事は論をまたぬ事であり、古来より健康長寿・家業繁栄・文化・経済・手芸上達の神徳があるといわれています。
【謡曲「呉服」と呉服神社】
謡曲「呉服」は、時の帝に仕える臣下が西宮に参詣の途次「呉服の里」の松蔭で、一人は機を織り、他の一人が絲を引いている二人の女を見て不思議に思い、素性を尋ねると、自分たちは応神天皇の御代に御衣を織った呉織(くれはとり)・漢織(あやはとり)の姉妹で、昔 呉国から勅使に従って渡来した織女であると名乗り、当時の様を物語った。やがて、明方の頃、呉織が天女の姿となって現れ、君が代を祝って舞を舞い、綾錦を織って献上するという荘重で気品高い曲である。
呉服神社は仁徳天皇の御代に没した呉服の祖神を祀る神社である。その遺体を伊居太神社(上の宮)の梅室に、形見の三面神鏡を境内(下の宮)の姫室に納め、翌年神祠を建てて呉服神社とされた。以来、我が国での絹布類をすべて「呉服(ごふく)」と呼ぶようになった。
謡曲「呉服」は、時の帝に仕える臣下が西宮に参詣の途次「呉服の里」の松蔭で、一人は機を織り、他の一人が絲を引いている二人の女を見て不思議に思い、素性を尋ねると、自分たちは応神天皇の御代に御衣を織った呉織(くれはとり)・漢織(あやはとり)の姉妹で、昔 呉国から勅使に従って渡来した織女であると名乗り、当時の様を物語った。やがて、明方の頃、呉織が天女の姿となって現れ、君が代を祝って舞を舞い、綾錦を織って献上するという荘重で気品高い曲である。
呉服神社は仁徳天皇の御代に没した呉服の祖神を祀る神社である。その遺体を伊居太神社(上の宮)の梅室に、形見の三面神鏡を境内(下の宮)の姫室に納め、翌年神祠を建てて呉服神社とされた。以来、我が国での絹布類をすべて「呉服(ごふく)」と呼ぶようになった。
祭神
呉服神社の祭神は以下の通りです。
・呉服大神(クレハトリ):応神天皇の御代に呉から渡来し、機織裁縫の技術を伝えた人物
・仁徳天皇(にんとくてんのう):第16代天皇
・仁徳天皇(にんとくてんのう):第16代天皇
境内社
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呉服神社の境内社は以下の通りです。
・六神社:市杵嶋姫命・大物主命・大國主命・素盞嗚命・國常立命・猿田彦命を祀る
・恵美須神社:事代主命を祀る
・祓所社:気吹戸主神を祀る
・稲荷社:瓢箪山稻荷大明神・初瀬稻荷大明神を祀る
・伊勢社:天照皇太神・豊受大神を祀る
・天満宮:菅原道真公を祀る
・恵美須神社:事代主命を祀る
・祓所社:気吹戸主神を祀る
・稲荷社:瓢箪山稻荷大明神・初瀬稻荷大明神を祀る
・伊勢社:天照皇太神・豊受大神を祀る
・天満宮:菅原道真公を祀る
関連知識
『日本書紀』の記述
『日本書紀』には、当社の由緒に関わる「呉服・穴織伝承」が記載されています(内容は以下の通り)。
【応神天皇37年の記述】
応神天皇37年春2月1日、阿知使主(アチノオミ)・都加使主(ツカノオミ)を呉(中国の国)に派遣して縫工女(キヌヌイメ)を求めた。
阿知使主らは高麗国(朝鮮の国)を経由して呉に向かおうと思ったが、高麗から先の道が分からなかった。そこで、高麗に着いてから道を知る者を求めると、高麗王に久禮波(クレハ)・久禮志(クレシ)の二人を導者(シルベ)として与えられた。
阿知使主らが呉に至ると、呉の王から工女(ヌイメ)の兄媛(エヒメ)・弟媛(オトヒメ)・漢織(クレハトリ)・穴織(アナハトリ)の4人の婦女を与えられた。
応神天皇37年春2月1日、阿知使主(アチノオミ)・都加使主(ツカノオミ)を呉(中国の国)に派遣して縫工女(キヌヌイメ)を求めた。
阿知使主らは高麗国(朝鮮の国)を経由して呉に向かおうと思ったが、高麗から先の道が分からなかった。そこで、高麗に着いてから道を知る者を求めると、高麗王に久禮波(クレハ)・久禮志(クレシ)の二人を導者(シルベ)として与えられた。
阿知使主らが呉に至ると、呉の王から工女(ヌイメ)の兄媛(エヒメ)・弟媛(オトヒメ)・漢織(クレハトリ)・穴織(アナハトリ)の4人の婦女を与えられた。
【応神天皇41年の記述】
応神天皇41年春2月15日、天皇は明宮(アキラノミヤ)にて110歳で崩御した。
この月、阿知使主(アチノオミ)らが呉から筑紫に至ったが、この時に宗形大神(胸形大神)が工女(ヌイメ)らを乞うたので、兄媛(エヒメ)を胸形大神に奉ることにした。
そのため、三人の婦女を率いて津国に着き、それから武庫(ムコ)に至ったが、この時すでに天皇は崩御していたので、大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に献上した。
この女人らが、今の呉衣縫(クレノキヌヌイ)・蚊屋衣縫(カヤノキヌヌイ)である。
応神天皇41年春2月15日、天皇は明宮(アキラノミヤ)にて110歳で崩御した。
この月、阿知使主(アチノオミ)らが呉から筑紫に至ったが、この時に宗形大神(胸形大神)が工女(ヌイメ)らを乞うたので、兄媛(エヒメ)を胸形大神に奉ることにした。
そのため、三人の婦女を率いて津国に着き、それから武庫(ムコ)に至ったが、この時すでに天皇は崩御していたので、大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に献上した。
この女人らが、今の呉衣縫(クレノキヌヌイ)・蚊屋衣縫(カヤノキヌヌイ)である。
呉服神社 関連史跡
伊居太神社 |
由緒書によれば、付近には以下のような関連史跡があるとされます。
・姫室猪名津彦塚:呉服神社境内
・染殿井:池田市満寿美町ダイエー南下る
・衣懸松:池田市畑町五月山の一部
・唐船ヶ渕:大阪府池田市新町~木部町(呉服橋と絹延橋の中間点)
・星の宮:池田市建石町
・呉服分霊社:池田市下渋谷町(郷土史学館横)
・伊居太神社:池田市綾羽2-4-5
・染殿井:池田市満寿美町ダイエー南下る
・衣懸松:池田市畑町五月山の一部
・唐船ヶ渕:大阪府池田市新町~木部町(呉服橋と絹延橋の中間点)
・星の宮:池田市建石町
・呉服分霊社:池田市下渋谷町(郷土史学館横)
・伊居太神社:池田市綾羽2-4-5
境内の見どころ
鳥居
呉服神社の鳥居です。
神門
呉服神社の神門です。
拝殿
呉服神社の拝殿です。
本殿
呉服神社の本殿です。
社務所
呉服神社の社務所です。
恵美須社の叩き板
呉服神社の境内社・恵美須社の叩き板です。
恵美須神は耳が遠いので、板を叩いてから参拝するようになっています。
伊勢社横の石
呉服神社の境内社・伊勢社横の石です(正式名称は石碑にある)。
天満宮横の石
呉服神社の境内社・天満宮横の石です(正式名称は石碑にある)。
銅色の臥牛像
呉服神社の境内社・天満宮付近には銅色の臥牛像があります。
姫室猪名津彦塚
呉服神社の姫室猪名津彦塚です。
境内奥にあり、石碑が祀られています。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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