吉備津彦神社 [岡山県]
2020/04/30
岡山県岡山市にある吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)です。
桃太郎のルーツになった鬼退治伝説に基づく神社で、主祭神に大吉備津彦命を祀っています。
また、当社の境内には神体山である吉備の中山への登山口があります。
神社概要
由緒
由緒書等によれば、当社の背後にある「吉備の中山」には古代より磐座(神が鎮座する岩)や磐境(神域を示す巨石群)があり、山全体が神として崇められていたとされます。当社の主祭神である「吉備津彦命(キビツヒコ)」は、崇神天皇の御代に四道将軍の一人として西道に派遣され、「温羅(ウラ)」という鬼神を倒して吉備国を平定・統治して現人神として崇められたとされ、281歳で薨去した後は吉備の中山の南嶺に位置する御陵(現・茶臼山古墳)に葬られたそうです。その後、吉備の中山の麓にあった吉備津彦命の住居跡に社殿が建立され、それが当社の起源になったと考えられています(一説に推古天皇の御代に創建されたといわれる)。
平安時代には承和10年(843年)に一品爵位を贈られたことで、一品宮、一品吉備津彦大明神と呼ばれるようになり、吉備国が備前・備中・備後・美作と別れると、当社は備前国一宮として崇敬されるようになったとされます(備前国一宮:吉備津彦神社[当社]、備中国一宮:吉備津神社[岡山市北区吉備津]、備後国一宮:吉備津神社[広島県福山市])。
中世には武家や庶民の信仰が厚かったものの、日蓮宗への改宗を迫る金川城主・松田元成によって社殿が尽く焼かれてしまったそうです。ですが、松田氏の滅亡後には宇喜多直家に崇敬され、高松城の水攻めの際には羽柴秀吉も当社に武運を祈願したと伝えられています。また、江戸時代に入ってからは、当社を崇敬していた岡山藩主の池田氏によって延宝5年(1677年)に三百石の社領が寄進され、その他にも本殿・拝殿などの社殿の再建が始められ、元禄10年(1697年)に完成したとされます。
近代に入ると、明治5年(1872年)に近代社格制度において県社となり、昭和3年(1928年)に国弊小社に昇格したそうです。社殿については昭和5年(1930年)に不慮の火災によって本殿と随神門以外の建物を焼失してしまったとされ、現在見られる社殿は昭和11年(1936年)に再建したものとされます。
※吉備津彦命に関する伝説は「吉備津彦の温羅退治(岡山の桃太郎伝説)」を参照
祭神
吉備津彦神社の祭神は以下の通りです。
【主祭神】
・大吉備津彦命(オオキビツヒコ):第7代孝霊天皇の皇子で、四道将軍の1人として西道に派遣された
→ 別名:[古事記] 大吉備津日子命、比古伊佐勢理毘古命 [日本書紀] 彦五十狭芹彦命、吉備津彦命
→ 岡山県の桃太郎のモデルになったといわれる人物(キビツヒコ、イサセリヒコとも呼ばれる)
【相殿神】
・吉備津彦命(キビツヒコ):稚武吉備津彦命のこと(大吉備津彦命の弟または子)
・孝霊天皇(こうれいてんのう):第7代天皇で大吉備津日子命の父にあたる
・孝元天皇(こうげんてんのう):第8代天皇で大吉備津日子命の兄弟にあたる
・開化天皇(かいかてんのう):第9代天皇で孝元天皇の御子にあたる
・崇神天皇(すじんてんのう):第10代天皇で開化天皇の御子にあたる
・彦刺肩別命(ヒコサシカタワケ):大吉備津日子命の兄
・天足彦國押人命(アマタルヒコクニオシヒト):大吉備津日子命の親族(第5代孝昭天皇の御子)
・大倭迹々日百襲比賣命(オオヤマトトトヒモモソヒメ):大吉備津日子命の姉
・大倭迹々日稚屋比賣命(オオヤマトトヒワカヤヒメ):大吉備津日子命の妹
・金山彦大神(カナヤマヒコ):鉱山を司り、鉱業・鍛冶など金属に関する技工の守護神とされる
・大山咋大神(オオヤマクイ):山背国を開拓したとされる比叡山の神(松尾大社・日吉大社で祀られる)
境内社
摂社 子安神社
【由緒】
古くから祀られていた子安神社を、慶長14年(1609年)に池田照直が光政誕生を祝って新築したことで摂社になったとされます。また、寛文12年(1672年)に健康が優れなかった藩主・池田光政の平癒祈願のために生母の福正院が祈願したところ、光政の病気が全快したという伝承もあるそうです。なお、子安神社の社殿は岡山市指定文化財に指定されています。
【祭神】
・伊邪那岐命(イザナギ):『記紀』において国産み・神産みの男神とされる
・伊邪那美命(イザナミ):『記紀』において国産み・神産みの女神とされる
・木花佐久夜姫命(コノハナサクヤヒメ):天孫・瓊々杵尊(ニニギ)の后
・玉依姫命(タマヨリヒメ):ウガヤフキアエズの后であり、神武天皇の母に当たる
末社
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吉備津彦神社の末社は以下の通りです。
・楽御崎神社(らくおんざきじんじゃ):楽々与里彦命(ささよりひこのみこと)・ 楽々森彦命(ささもりひこのみこと)を祀る
・尺御崎神社(しゃくおんざきじんじゃ):夜目麻呂命(やめまろのみこと)・夜目山主命(やめやまぬしのみこと)を祀る
・岩山神社:建日方別命(中山主神)を祀る
・伊勢宮:天照大神を祀る
・幸神社(こうじんじゃ):猿田彦命を祀る
・鯉喰神社(こいくいじんじゃ):楽々森彦荒魂を祀る
・矢喰神社(やぐいじんじゃ):吉備津彦命御矢を祀る
・坂樹神社(さかきじんじゃ):句々廼馳神を祀る
・祓神社(はらいじんじゃ):祓戸神を祀る
・牛馬神社:保食神を祀る
・祖霊社:当神社社家の祖霊を祀る
・天満宮:菅原道真公を祀る
・卜方神社(うらかたじんじゃ):輝武命(てるたけのみこと)・火星照命(ひほしてるのみこと)を祀る
・稲荷神社:倉稲魂命を祀る
・温羅神社(うらじんじゃ):温羅属鬼之和魂(温羅の和魂)を祀る
・亀島神社:市寸島比売命を祀る
・鶴島神社:底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后を祀る
・龍神社(八大竜王):龍王神を祀る(吉備の中山山頂に鎮座)
・尺御崎神社(しゃくおんざきじんじゃ):夜目麻呂命(やめまろのみこと)・夜目山主命(やめやまぬしのみこと)を祀る
・岩山神社:建日方別命(中山主神)を祀る
・七つの末社
・下宮(しものみやじんじゃ):倭比売命を祀る・伊勢宮:天照大神を祀る
・幸神社(こうじんじゃ):猿田彦命を祀る
・鯉喰神社(こいくいじんじゃ):楽々森彦荒魂を祀る
・矢喰神社(やぐいじんじゃ):吉備津彦命御矢を祀る
・坂樹神社(さかきじんじゃ):句々廼馳神を祀る
・祓神社(はらいじんじゃ):祓戸神を祀る
・三つの末社
・十柱神社:吉備海部直祖・山田日芸丸・和田叔奈麿・針間字自可直・夜目山主・栗坂富玉臣・忍海直祖・片岡健命・八枝麿・夜目丸・牛馬神社:保食神を祀る
・祖霊社:当神社社家の祖霊を祀る
・天満宮:菅原道真公を祀る
・卜方神社(うらかたじんじゃ):輝武命(てるたけのみこと)・火星照命(ひほしてるのみこと)を祀る
・稲荷神社:倉稲魂命を祀る
・温羅神社(うらじんじゃ):温羅属鬼之和魂(温羅の和魂)を祀る
・亀島神社:市寸島比売命を祀る
・鶴島神社:底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后を祀る
・龍神社(八大竜王):龍王神を祀る(吉備の中山山頂に鎮座)
境内の見どころ
鳥居
吉備津彦神社の鳥居です。
狛犬
吉備津彦神社の狛犬です。
当社の狛犬は珍しく、茶色がかった備前焼のものとなっています。
参道
吉備津彦神社の参道です。
本殿に向かうまでには太鼓橋という橋を渡るようになっており、その左右には鶴島・亀島という島が浮かんでいます。
随神門
吉備津彦神社の随神門です。
元禄10年(1697年)に池田綱政が造営したもので、左右の門内には随神が祀られています。
大燈籠
吉備津彦神社の大燈籠です。
日本一大きな燈籠(高さ11.5m.、笠石8畳)で、長年の寄付によって安政6年(1859年)に建立されたものだそうです。
拝殿
吉備津彦神社の拝殿です。
渡殿・祭文殿
吉備津彦神社の渡殿(わたりでん)・祭文殿(さいもんでん)です。
渡殿は大祭時に供物を供える場所で、祭文殿は祭典や御祈祷を斉行する場所とされます。
本殿
吉備津彦神社の本殿です。
元禄10年(1697年)に完成した建物で、本殿・渡殿・祭文殿・拝殿と大社殿が一直線に配置された特徴的なものとなっています。
桃みくじ
吉備津彦神社のおみくじは、桃太郎伝説にちなんだ桃みくじとなっています。
桃太郎絵馬
吉備津彦神社の絵馬には桃太郎が描かれています。
平安杉
吉備津彦神社の平安杉です。
樹齢千年以上とされる御神木で「龍が宿る」という伝承があり、吉備津彦神社のシンボルとなっています。
五色島の環状列石
吉備津彦神社にある環状列石です。
亀島の奥の五色島にある20個の岩石が環状に並べられた列石で、案内板では古代祭祀場と説明されています。
さざれ石
吉備津彦神社の駐車場にあるさざれ石です。
桃太郎像
吉備津彦神社の駐車場にある桃太郎像です。
吉備の中山 登山口
吉備津彦神社の南方には吉備の中山への登山口があります。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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