人文研究見聞録:風土記逸文 現代語訳(南海道編)

『風土記逸文(南海道編)』を現代語訳にしてみました。風土記逸文とは風土記の一部のことで、他書に引用されて記載されているものを言います(元々の風土記が失われているため、このような形で復元されている)。

ここでいう「南海道」とは 紀伊国(和歌山県・三重県尾鷲市辺り)・淡路国(淡路島)・阿波国(徳島県)・讃岐国(香川県)・伊予国(愛媛県)・土佐国(高知県) のことです。地名由来・神社のいわれ・各地の伝説(道後温泉) などが記されており、なかなか興味深い内容になっています。



はじめに


・以下の文章は、専門家ではない素人が現代語に翻訳したものです
・基本的には意訳です(分かりやすさを重視しているため、文章を添削をしています)
・分からない部分については、訳さずにそのまま載せています。
・誤訳や抜けがあるかも知れませんので、十分注意してください(随時修正します)
・資料不足で載せてない部分もあるので、十分注意してください

原文参考:大日本真秀國 風土逸文

紀伊国風土記 逸文

朝催ひ

朝催(あさもよ)ひとは、人の食う飯を炊くことをいう。と、風土記にある。

手束弓

手束弓(たつかゆみ)とは紀伊国にある。と、風土記に見える。弓取柄(ゆみのとつか)を大きくしたものである。その紀伊國の雄山の關守(せきもり)の持つ弓であるといわれる。

淡路国風土記 逸文

鹿子湊

淡路国風土記には このようにある。

応神天皇20年秋8月、天皇が淡路島で遊猟(みかり)した時、海上に大鹿のようなものが浮かんできたが、それは人であった。そこで天皇は左右の者を呼んで素性を問わせると、その人は「私は日向国の諸縣君牛(モロアガタノキミウシ)である。角の付いた鹿の衣を纏って此処に現れた。年老いてしまったので仕えることはできないが、今もなお天恩(きみのうつくしみ)を忘れることはない。よって、我が娘の長髪姫(カミナガヒメ)を献上しよう」と言い、この娘を御船に示した。これによって、この湊は鹿子湊(かのこのみなと)という。云々。

阿波国風土記 逸文

中湖

中湖(なかのみなと)は牟夜戸(むやのと)と奧湖(おきのみなと)の中間にあるが故に中湖という。と、阿波国風土記にある。

湖(みなと)の字はウシホと訓ずるのは不審である。ミナト(水戸)に使える事は阿波国風土記にあり、中湖・奥湖などにもこれが用いられている。

勝間井冷水

阿波国風土記には このようにある。

勝間井冷水(かつまゐのしみづ)。

勝間井という理由は、倭健天皇命(ヤマトタケル)が大御櫛笥(おほみくしげ)を忘れたために勝間(かつま)という。これは粟人(阿波国の人)は櫛笥のことを勝間と呼ぶからである。

奈汰浦(奈佐浦)

阿波国風土記には このようにある。

奈汰浦(なだのうら)。奈汰浦という理由は、その浦波之音(うらなみのおと)が止むことが無かったためである。よって奈汰(なだ)という。海部(あま=漁民)は波を奈という。

三柱天皇

阿波国風土記には このようにある。

一説には、大倭志紀彌豆垣宮大八嶋國所知天皇朝庭(崇神天皇)。

一説には、難波高宮大八嶋國所知天皇(仁徳天皇)。

一説には、檜前伊富利野乃宮八嶋國所知天皇(宣化天皇)・

天本山

阿波国風土記によれば、空から降ってきた山の大きなもので、阿波国に降ってきたものを天本山(あまのもとやま)という。その山は砕けて大和国に降り付いたものを天香具山(あまのかぐやま)と呼ぶという。

波高

大門(波高瀨戸[なたせと])。

阿波国風土記には このようにある。

波高(たな)云々。明石浦に瀬戸が無い。それは波高であるからだ。

讃岐国風土記 逸文

阿波嶋 屋嶋

阿波嶋(あはしま)は讃岐国の屋島から北に去ること百歩ばかりにある嶋である。その名を阿波嶋という。

伊予国風土記 逸文

御嶋(大山積神)

伊予国風土記には このようにある。

乎知郡(をちのこほり)。

御嶋(みしま)。

坐す神の御名は大山積神(オホヤマツミノカミ)またの名を和多志大神(ワタシノホホカミ)という。この神は難波高津宮御宇天皇(仁徳天皇)の御世に顕れた。この神は百済から渡来して津国の御嶋(みしま)に坐した(云々)。御嶋といわれるのは、津国の御嶋の名からである。

熊野岑

伊予国風土記には このようにある。

野間郡(のまのこほり)。

熊野岑(くまののみね)。

熊野と名付ける由縁は、昔 熊野という船を此処に設けた。今に至っては石となって残っている。よって、熊野のいわれはこれが元である。

湯郡 伊社邇波岡

人文研究見聞録:伊予国風土記

伊予国風土記には このようにある。

湯郡(ゆのこほり)。

大穴持命(オオアナモチ)は、宿奈比古那命(スクナヒコナ)を見て悔い恥じ、活かそうと思って、大分の速見湯(はやみのゆ)を自ら下樋(地下水路)より持って来て、宿奈比古那命を漬浴(ゆあみ)させた。

すると、しばらくしてから活起(よみがえり)、そこで「真暫寝哉(ましまにもいねつるかも=しばらく寝ていたようだ)」と言った。そこで踏みつけて付いた足跡は、今も湯の中の石の上にある。

およそ湯が貴奇(たふとくくすしきこと)は、神の世の時のみではなく、今の世も疹痾(やまひ)に染まる萬生(アオヒトクサ=人々)が病を除き身を保つ要薬(くすり)となっている。

天皇らが、この湯に行幸して降ること5度である。そのうち、大帯日子天皇(景行天皇)と大后・八坂人姫命(ヤサカイリビメ)の二躯(ふたはしら)が1度である。また、帯中日子天皇(仲哀天皇)と大后・息長帯姫命(神功皇后)の二躯が1度である。

また、上宮聖徳皇子(聖徳太子)が1度、この時に侍っていたのが高麗の恵慈僧(ヱジホフシ)と葛城臣(カヅラキ)の臣らである。その時、湯岡(ゆのをか)のほとりに碑文を立てた。その碑文を立てた所は伊社邇波之岡(いさにはのをか)という。

そこを伊社邇波(いさには)と名付けた由縁は、この土地の諸人らが その碑文を見ようとして伊社那比(いざない)来たからである。伊社邇波といわれる元はこれである。

その碑文には このようにある。

「法興6年(596年)10月丙辰の歳、我 法王大王(聖徳太子)と恵慈法師 及び葛城臣は、夷與村(いよのむら)に逍遙(あそ)び、正しく神井(くすしきゐ)を観て、世の妙しき験(しるし)を歎いた。そこで意(おもい)を述べたく思って聊かに1首の碑文を作る。

『思うに、この日月は上から照らすが私せず、神井は下に出て給えぬことはない。萬機(まつりごと)は これゆえに妙應(うるはしくかなひ)、百姓(おもみたから)は これゆえに潜扇(ふかくあふけり=密かに開ける)。

すなわち、照らし給えて私に偏ることが無いことは、壽國(じゅこく=浄土)と何が違うのか。華台(はなのうてな)を隨に開き合わせ、神井で沐(ゆあみ)して瘳疹(やまひをいやす)。これは花池(くわち)に落ちて化羽(あめへゆかむ)に舛(たが)わぬ。

山岳(やま)の巖崿(いはきし)を窺い望み、さらに先に往こうと願うと、そこには椿樹(つばき)は互いに覆い陰って穹窿(おほぞら)を為していて、実(まこと)に五百之張蓋(いほのはれるきぬがさ)のように思う。

臨朝(あした)には啼(な)く鳥が戯れてさえずり、暁にはさえずる声をやかましく聞いた。丹華(あかきはな)や巻葉(まけるは)は照り映え、玉菓(たまのこのみ)は花びらを重ねて井に垂れている。

その下を経て過ぎて、優(ゆたか)に遊べば、どうして洪灌(こうくわん)・霄庭(せうてい)の意を悟らずにいれようか。実(まこと)に才が拙くて七歩を恥じる。後の君子よ、願わくば嘲笑わないでくれ。』」

岡本天皇(舒明天皇)並びに皇后の二躯を以って これが1度である。その時、その大殿戸に椹(むく)と臣木(おみのき)があった。その木には鵤(いかる)と此米鳥(しめどり)が集まって止まった。天皇はこの鳥を枝に掛けた稲穂などで養った。

この後、岡本天皇(舒明天皇)・近江大津宮御宇天皇(天智天皇)・浄御原宮御宇天皇(天武天皇)の三躯を以って、これが1度である。これで行幸すること5度である。

二木

伊予国風土記によれば、2つの木の1つは椹木(むくのき)で、1つは臣木(おみのき)である(臣木は尋ねぬべし)。

後岡本天皇御歌(熱田津云々)

伊予国風土記の中には後の岡本天皇(舒明天皇)の このような歌がある。

「熟田津に 泊てて見れば(云々)」

息長足日女命御歌(橘之云々)

「橘の 嶋にし居れば 川遠み 曝さず縫ひし 吾が下衣」

この歌は伊予国風土記にある息長足日女命(神功皇后)の御歌である。

天山

伊予国風土記には このようにある。

伊豫郡(いよのこほり)。

群家の北東に天山(あまやま)がある。これを天山と名付ける由縁は、倭(やまと)にある天加具山(天香具山)である。(天香具山が)天から天降った時、2つに分かれて片方は倭国に天降り、もう片方はこの土地に天降った。よって、天山というのはこれが元である。その御影(みかげ)を敬って久米らが奉った。

湯桁之數

不明

天山 香山

按ずるに、風土記には天上に山があり、それが分かれて地に堕ちたという。

一方が伊予国の天山(あめやま)となり、もう一方は大和国の香山(かぐやま)になったという。

土佐国風土記 逸文

土左国號

風土記によれば、陰陽(めを)の二神が交通(まぐあひ)したことでこの国が生まれた。それを速依別(ハヤヨリワケ)と名付けたが、その意を取って後に土佐と改めて名付けられた。

土左高賀茂大社 一言主神鎮座

国記によれば、雄略天皇即位2年戌戌に郷を移し奉った。

十市池

土佐国風土記によれば、郡家の西の牧中(まきのうち)に三つの池がある。その一の名を十市(とをち)、その二の名を暗山(くらやま)、その一の名を大乗(おほのり)という。
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著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。