人文研究見聞録:風土記逸文 現代語訳(山陽道編)

『風土記逸文(山陽道編)』を現代語訳にしてみました。風土記逸文とは風土記の一部のことで、他書に引用されて記載されているものを言います(元々の風土記が失われているため、このような形で復元されている)。

ここでいう「山陽道」とは 播磨国(兵庫県南部)・美作国(岡山県北東部)・備前国(岡山県東部)・備中国(岡山県西部)・備後国(広島県東部) のことです。地名由来・神社のいわれ(蘇民将来)・各地の伝説(塵輪鬼) などが記されており、なかなか興味深い内容になっています。



はじめに


・以下の文章は、専門家ではない素人が現代語に翻訳したものです
・基本的には意訳です(分かりやすさを重視しているため、文章を添削をしています)
・分からない部分については、訳さずにそのまま載せています。
・誤訳や抜けがあるかも知れませんので、十分注意してください(随時修正します)
・資料不足で載せてない部分もあるので、十分注意してください

原文参考:大日本真秀國 風土逸文

播磨国風土記 逸文

爾保都比賣命

播磨国風土記には このようにある。

息長帯日女命(神功皇后)が新羅国を平定しようとして下って来た時に諸神に祈願した。この時、国堅大神(くにかためまししおほかみ)の御子神である爾保都比賣命(ニホツヒメ)が国造の石坂比賣命(イハサカヒメ)に「好く治めて我が前に奉れば、善き験(しるし)として 比比良木八尋桙底不附國(ひひらぎの やひろほこ そこつかぬくに)、越賣眉引國(をとめの まゆひきくに)、玉匣賀賀益國(たまくしげ かがやくくに)、苦尻有寶白衾新羅國(こもまくら たからある たくふすま しらきのくに) を丹浪(にのなみ)を以って平伏(ことむけ)させてやろう」と教えた。

そこで、此処に赤土(まはに)を出して、それを天之逆桙(あまのさかほこ)に塗り、神舟の艫舳(ともとへ)に建てた。また、御船の裳(も)や御軍(みいくさ)の著衣(よろひ)も赤土で染めた。こうして、海水をかき濁して海を渡ると、その時には船底に潜っていた魚や空高く飛ぶ鳥なども往来せず、御船を遮るものは何も無くなった。こうして新羅を平伏させると、已訖(をはり=終わり)として帰ることになった。この後、その神を紀伊国の管川(つつかは)にある藤代之峰(ふぢしろのみね)に鎮め奉った。

明石駅家 駒手御井 速鳥

播磨国風土記には このようにある。

明石駅家(あかしのうまや)。

駒手御井(こまでのみゐ)は、難波高津宮天皇(仁徳天皇)の御世、井戸の上に楠が生えた。この楠は朝日が上れば淡路島を隠し、夕日が沈む頃には大倭嶋根(やまとしまね)を隠した。よって、その楠を伐採して舟を造らせた。その舟は飛ぶように速く、一漕ぎで7浪を越え去ることができる。よって速鳥と名付けられた。朝夕にはこの舟に乗り、御食を供えて、井戸の水を汲む。しかし、ある朝の御食の時に会えなかった。そこで、このような歌が詠まれた。

「住吉の 大倉向きて 飛ばばこそ 速鳥と云はめ 何そ速鳥」

八十橋

播磨国風土記には このようにある。

八十橋(やそばし)は、陰陽二神(めをのふたがみ)および八十二神(やそあまりふたがみ)の天降った跡地である。これにより、丹後・播磨の共に橋がある。

藤江浦

藤江浦(ふぢえのうら)。播磨国で住吉大明神が、藤の枝を切らせて海上に浮かべて「この藤の枝の流れ着いたところより先を我が領とすべし」と誓を立てた。これにより、この藤が波に揺られて流れ着いた場所を藤江浦と名付けた。この地は住吉の御領である。

美作国風土記 逸文

美作国守 上毛野堅身

旧記によれば、和銅6年(714年)甲丑4月、備前守に百済の南典(ナムテン)・介の堅身(カタミ)らが説いて、備前国を6つの郡に分け、美作国(みまさかのくに)を置いたことに始まる云々。

上毛野堅身(カミツケノノカタミ)を以って(美作国の?)国守とした。

勝間田池

美作国風土記には このようにある。

日本武尊(ヤマトタケル)が櫛を池に落としてしまった。これによって勝間田池(かつまたのいけ)と名付けられた。云々。この玉勝間(タマカツマ)とは、櫛の古語とされている。

備前国風土記 逸文

牛窗

神功皇后の舟が備前の海を通過しようとした時、大牛(おほうし)が現れて舟を覆そうとした。そこに老翁に化けた住吉明神が現れて、その大牛の角を持って投げ倒した。故に此処は牛轉(うしまろび)と名付けられた。今は訛って牛窗(うしまど)と呼ばれている。

その牛は塵輪鬼(ちんりんき)が化けたものである。塵輪には8の頭があり、黒雲にやって来て、仲哀天皇を攻めた。そこで天皇は弓矢を射って対抗すると、塵輪は身体と首の2つになって落ちて死んだ。また、塵輪を討ち取った天皇も遂に崩御された。

備中国風土記 逸文

邇磨郷

臣により、去ること寛平5年(893年)に備中介に任じられた。その国の下道郡(しもつみちのこほり)には邇磨郷(にまのさと)がある。ここにおいて、その国の風土記には このようにある。

皇極天皇6年、大唐の将軍である蘇定方(ソテイホウ)が新羅軍を率いて百済を攻めた。そこで百済は使者を遣わせて救援を乞うたので、天皇は筑紫に行幸して救援の兵を送った。その時、皇太子だった天智天皇が摂政として随行し、下道郡に身を置いた。そこで、ある郷の村を見ると戸数が大変多かったので、皇極天皇は詔を下して この郷で兵士を集った。その時に得た兵は2万人だったので、天皇は大変喜んで この村を二萬郷(にまんのさと)と名付けた。これが後に爾磨(にま)と改められた。

その後、天皇が筑紫の仮宮で崩御したので、この軍勢は遣わせずに終わった。

備後国風土記 逸文

疫隅國社 蘇民将来

備後国風土記には このようにある。

疫隅國社(えのくまのくにのやしろ)。

昔、北海に坐す武塔神(ムタノカミ)が南海の神の娘と結婚しようと出掛けると、途中で日が暮れた。その地には蘇民将来という兄弟がおり、兄の蘇民将来はとても貧しかったが、弟の将来は富んで賑わっており、家や蔵は100ほど持っていた。この時、武塔神は弟の将来に宿を頼んだが、貸すのを惜しんで追い返した。そこで、兄の蘇民将来に宿を頼むと、粟柄を以って座の敷物とし、粟飯などを以って丁重に奉った。

それから武塔神が旅だった後、年を経てから八柱子(ヤハシラノミコ)を率いて戻って来て蘇民将来を訪ねた。そこで、蘇民将来に「我は将来への報復に来たが、お前の家には子孫は居るか?」と問うと、蘇民将来は「私には娘と妻がおります」と答えた。すると、武塔神は「茅輪(ちのわ)を以って、それを明らかに腰の上に付けよ」と詔したので、蘇民将来と家族は そのようにした。

すると、その夜に蘇民の娘一人を置いて、皆を悉く殺し滅ぼしてしまった。そこで武塔神は「私は速須佐雄能神(ハヤスサノヲ)である。後世に疫氣(えやみ)があってもお前たちは蘇民将来の子孫と言って茅輪を明らかに腰につけておけば、それを免れるだろう」と説いた。
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。