人文研究見聞録:風土記逸文 現代語訳(山陰道編)

『風土記逸文(山陰道編)』を現代語訳にしてみました。風土記逸文とは風土記の一部のことで、他書に引用されて記載されているものを言います(元々の風土記が失われているため、このような形で復元されている)。

ここでいう「山陰道」とは 丹後国(京都府北部)・丹波国(京都府中央部・兵庫県東部)・但馬国(兵庫県北部)・因幡国(鳥取県東半部)・伯耆国(鳥取県西半部)・出雲国(島根県東半部)・石見国(島根県西半部) のことです。地名由来・神社のいわれ・各地の伝説(浦嶋子・天橋立・因幡の白兎) などが記されており、なかなか興味深い内容になっています。


はじめに


・以下の文章は、専門家ではない素人が現代語に翻訳したものです
・基本的には意訳です(分かりやすさを重視しているため、文章を添削をしています)
・分からない部分については、訳さずにそのまま載せています。
・誤訳や抜けがあるかも知れませんので、十分注意してください(随時修正します)
・資料不足で載せてない部分もあるので、十分注意してください

原文参考:大日本真秀國 風土逸文

丹後国風土記 逸文

天椅立 久志濱

丹後国風土記には このようにある。

與謝郡(よさのこほり)。

群家の東北の隅の方に速食里(はやしのさと)がある。この里の海には長大前(とほしろきさき)がある。その長さは1229丈(約3.7km)で、幅はある所は9丈(約27m)以下、ある所は10丈(約30m)以上20丈(約60m)以下である。

その名を天橋立(あまのはしたて)と言い、後に久志濱(くしはま)と名付けられた。此処のいわれは、国産みの大神である伊射奈藝命(イザナギ)が天に通うために橋を作って立てたという。故に天椅立という。これは神が寝ている間に倒れ伏した。これを、(イザナギは)くしび(神異)であると怪しんだ。故に久志備濱(くしびはま)という。この中間は久志(くし)という。

この東の海を與謝海(よさのうみ)と言い、西の海を阿蘇海(あそのうみ)という。この2つの海には様々な魚や貝が棲んでいる。ただし、蛤があることは少ない。

筒川嶋子 水江浦島子

人文研究見聞録:風土記逸文 現代語訳(山陰道編)

丹後国風土記には このようにある。

與謝郡(よさのこほり)。

日置里(ひおきのさと)。

この里には筒川村(つつかはのむら)がある。此処の人夫(おほみたから)に日下部首(クサカベノオビト)らの先祖の筒川嶋子(ツツカハノシマコ)という者が居た。その人となりは容姿秀麗で風流であることは類例を見ない。これはいわゆる水江浦嶋子(ミヅノエノウラノシマコ)である。

これは旧宰の伊預部馬養連(イヨベノウマカヒノムラジ)が記したもので間違いない。故に概ねの内容を記す。

長谷朝倉宮御宇天皇(雄略天皇)の御世、嶋子は独りで小船に乗って海に出て釣りをした。この時には3日3夜を経ても一匹の魚も釣れなかったが、不意に五色亀(いついろのかめ)を釣り上げた。不思議に思ったので船の中に置き、そのまま眠ったところ、亀はいつの間にか婦人となっていた。その容姿は美麗で他に並ぶ者が居ないほどだった。

そこで嶋子は「此処は人家から遥かに遠い海なのに、どうやって来たのだ?」と問うと、娘は微笑みながら「風流な方が独りで蒼海に浮かんでいらしたので、近くで話したいという思いに耐えられず、風雲に乗ってやって来ました」と答えた。これに嶋子が「その風雲はどこから来たのだ?」と問うと、娘は「私は天上の仙家の人(やまびと)です。どうか疑わないでください。どうか可愛がってお話ください」と言った。

これで嶋子は娘が神女であることを知り、心の中の恐れや疑いを鎮めながら話すことにした。そこで、娘が「私は天地が終わり、月日が極まるまで一緒に居たいと思っています。あなたはどうでしょうか?早く思いをお聞かせ下さい」と問うたので、嶋子は「もう何も言うことはない、どうして怠ることがあろうか?」と答えた。すると、娘は「では、棹を廻してください。蓬山(とこよのくに)に向かいましょう」と言ったので、嶋子は従うことにした。

そこで娘は嶋子に目を瞑らせると、あっという間に海中の広くて大きな島に到った。その地は玉を敷いたようで、闕台(うてな)は明らかに映え、楼台(たかどの)は照り輝いており、今まで見たことも聞いたこともないところであった。2人で手をつないでゆっくりと進んでいくと、ある立派な邸宅の門に到り、そこで娘は「しばらく此処で待っていてください」と言って、門を開いて中に入っていった。すると、そこに7人の童子が来て「この方が亀比賣の夫です」と噂し、また8人の童子が来て「この方が亀比賣の夫です」と噂したので、嶋子は娘の名が亀比賣(カメヒメ)であることを知った。それから娘が出て来たので、嶋子が童子について尋ねると、娘は「この7童子は昴星(スバル)です。その8童子は畢星(アメフリ)です。どうぞ心配なさらないでください」と言って、嶋子の前に立って導きながら邸宅の中に入っていった。

すると、娘の父母が共に揖(をろがみ=両手を前に組んで)して坐って丁重に出迎えた。そして、人間(ひとのよ)と仙都(とこよ)の違いを説くと、人と神が偶然出会ったことを喜んで語り合った。また多くの美味しい食べ物を薦められて、娘の兄弟姉妹らと一緒に杯(さかづき)を酌み交わした。その場は隣の里の着飾った幼女(うなゐ)らが接待し、仙歌が響き、妖艶な神舞が舞われていたが、その様は人の世の万倍も勝っていた。そのため、嶋子は夢中になって日が暮れるのも忘れたが、黄昏時になると仙侶(やまひと)らは退席していき、やがて娘一人だけになった。それから嶋子は娘と互いに肩を並べ、袖を合わせて、遂に夫婦の契りを交わした。こうして嶋子は故郷を忘れて仙都で遊んで過ごし、3年が経過してしまった。

ある時、嶋子はふと故郷をが懐かしくなり、両親を恋しいと思うようになった。故にしきりに郷愁が起こって、その嘆きは日に日に増していった。その時、娘が「この頃のあなたは顔色がいつもと違って見えます。悩みがあるならお聞かせください」と問うと、嶋子は「昔の人が言うには『小人懐土(小人は故郷を思う)、狐死首丘(狐は死ぬ時に巣穴の方に頭を向ける)』と言う。私はこれを虚事だと思っていたが、今 真実だと分かった」と答えた。これに娘は「あなたは帰りたいのですか?」と問うと、嶋子は「私は親や故郷と離れて遠い神仙之堺(とこよのくに)に入ってしまった。そこで故郷への恋しさに耐えられず、軽率に思いを申してしまったのだ。願わくば、しばらく故郷に帰って両親の顔を見たいと思う」と答えた。すると、娘は涙を拭きながら「互いに想いを等しくし、金や石のように固く結ばれて、万年に至るまで一緒にいるものだと信じていましたが、どうして故郷に帰りたいなどと急に私を捨てるようなことを言うのですか」と嘆いたが、2人で手をつなぎながら歩き、語り合いながら別れを悲しんだ。

そして、遂に袂を翻して娘の元から去ることになると、娘の両親や親族が別れを惜しんで見送った。その時に娘は玉匣を嶋子に授けて「あなたが私を捨てずに戻りたいと思うならば、この匣を固く握り、決して開いて見ようなどとしないでください」と教えた。それから互いに別れ、嶋子を船に乗せて目を瞑らせらせた。すると、嶋子は あっという間に故郷の筒川郷(つつかはのさと)に到着した。そこで、嶋子はすぐに村里を見回ってみると、人や物は以前と全く変わっており、知っている者は誰も居なくなっていた。

そこで、嶋子は郷人に「水江浦嶋子の家族は今どこに居ますか?」と問うと、郷人は「あなたはどこの人だ?どうしてそんなに昔の人のことを聞くんだ?私が古老から聞いた話では『昔、水江浦嶋子という人が居て、独りで海に遊びに行ったきり帰ってこない』という。今は それから300年くらいになるが、どうして突然そんなことを聞くんだ?」と答えた。これを聞いた嶋子は放心しながら郷里を歩き回ったが、親しい者には一人として会うことはなく、それから旬月(10日あるいは1ヶ月)が過ぎてしまった。そして、玉匣を撫でながら かつて愛した神女のことを想い、以前の約束を忘れて、遂に玉匣を開けてしまった。すると、瞬く間に嶋子の身体は芳蘭のように風雲によって翻り、天に飛んでいってしまった。そこで、嶋子は約束を破ったことで二度と神女に逢えないと知り、首を回しながら佇んで、涙で咽びながら徘徊したという。

嶋子が涙を拭きながら歌った歌は これである。

「常世邊に 雲立渡る 水江の 浦嶋子が 言持渡る」

神女が遥かに飛んで良い声で歌った歌は これである。

「倭邊に 風吹上げて 雲離れ 退居共よ 我を忘らす莫」

嶋子がさらに悲しみに耐えられずに歌った歌は これである。

「子等に戀ひ 朝戸を開き 我が居れば 常世濱の 波音聞こゆ」

後世の人が追加して歌った歌は これである。

「水江の 浦嶋子が 玉匣 開けず有りせば 復も會はましを」

「常世邊に 雲立渡る 多由女 雲は繼がめど 我そ悲しき」

比治真奈井 奈具社

丹後国風土記には このようにある。

丹後国(たにはのみちのしりのくに)。

丹波郡(たにはのこほり)。

群家の西北の隅の方に比治里(ひぢのさと)がある。

この里の比治山(ひぢのやま)の頂上に井があり、その名を麻奈井(まなゐ)という。今は既に沼と成っている。

この井に8人の天女が降りて来て水浴びをしていた時、和奈佐老夫(ワナサオキナ)・和奈佐老婦(ワナサオミナ)という老夫婦が来て密かに1人の天女の衣裳を隠した。それから衣裳のあった天女は皆 天に飛び上ったが、衣裳の無い天女は1人で地上に留まり、水に身を隠して恥じていた。

ここで老夫が天女に「私には子が居ないので、天女娘(あまつをとめ)のお前を我が子としたい」と言うと、天女は「私は独りで人間(ひとのよ)に留まることになりました。どうして従わないことがありましょうか?だから衣裳を返して下さい」と答えた。これに老夫は「天女娘よ、どうして騙そうとするのだ」と言うと、天女が「およそ天人の志は信じることを基としています。どうしてひどく疑って衣裳を返してくださらないのですか?」と言ったので、老夫は「疑惑が多くて信用が無いのが地上の常なのだ。だから疑って帰さなかったのだ」と答えて、遂に衣裳を返して一緒に自宅に連れ帰り、そのまま10年あまり一緒に住んだ。

ここで天女は良い酒を醸したが、これを1杯飲めば どんな病でもよく治った(云々)。その1杯は直(あたひ)が財を車に積んで送るほど価値が高かった。これにより、老夫婦の家は豊かになり、土形(つぢから=田畑)は富んだ。故に土形里(ひぢかたのさと)というが、中頃から今に至るまでに比治里(ひぢのさと)といわれるようになった。

この後、老夫婦は天女に「お前は我が子ではない。しばらく仮住まいさせていただけだ。早々に出ていけ」と言うと、天女は空を見上げて嘆いたり、地に伏して泣いたりして「私は自分の意志で来たわけでは無く、老夫の願いに従って来たというのに、どうして悪心を起こして急に出ていけなどと言えるのでしょうか?」と言った。すると、老夫は憤慨して早く出ていくように促した。

そこで天女は涙を流して少し門外に出ると、郷人に「久しく人の世に沈んでいたため、天に帰ることが出来なくなりました。親も縁者も無いので頼るところがありません。私はどうしたよいのでしょう。どうしたら…」と涙を拭きながら嘆くと、天を見上げて このような歌を歌った。

「天原 振放見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも」

それから遂に退去して荒鹽村(あらしほのむら)に到った。そこで天女は、村人たちに「老夫婦の心を思えば、私の心は荒鹽(荒潮)となんら異なることはありません」と言った。よって比治里の荒鹽村という。また、天女は丹波里の哭木村(なききのむら)に到り、槻の木にもたれて泣いた。故に哭木村という。

それから天女は竹野郡(たかののこほり)の船木里(ふなきのさと)の奈具村(なぐのむら)に到り、そこで村人たちに「此処で私の心は奈具志久(なぐしく=平穏)になりました」と言い、この村に留まった。これが いわゆる竹野郡の奈具社(なぐのやしろ)に坐す豊宇加能賣命(トヨウカノメ)である。

丹波国號

丹後国(たにはのみちのしりのくに)は、元は丹波国(たにはのくに)と合わせて一つの国であった。その時、日本根子天津御代豊国成姫天皇(元明天皇)の御宇、詔によって丹波国を5つの郡に分け、丹後国を置いた。よって、丹波と名付けられた。

往昔、豊宇氣大神が天降り、この国の伊去奈子嶽(いさなごだけ)に坐した時、天道日女命(アメノミチヒメ)らが大神に五穀(いつつのたなつもの)や桑蠶(くはかいこ)などの種を請うた。そこで、その嶽に真名井(まなゐ)を掘って水を濯ぎ、この水を以って水田や陸田を定めて、そこに種を悉く植えた。

これを見た大神は大いに歓喜して「あなにえし田(なんと素晴らしい田だ)」と言って、植彌(うゑいや)として田庭を与えた。それから大神は高天原に登って行った。故に田庭(たには)という。丹波の元の字は田庭であり、多爾波(たには)と訓ずると当国の風土記にある。

匏宮 與佐郡由縁

…今の世にいう比治之真名井(ひぢのまなゐ)は訛ったものである。

当時、磐境(いはさか)の傍に天吉葛(あめのよさづら)が生えていた。これを天香語山命(アメノカゴヤマ)が採って匏(よさ=ひょうたん)とし、これに真名井の清泉の水を汲んで、日々の神饌として厳かに奉った。故に匏宮(よさのみや)という(匏は與佐と訓ずる)。また久志濱宮(くしはまのみや)でもある。この郡も匏宮によって名付けられた。このように風土記にある。

凡海

凡海(おほしあま)と名付ける所以は、古老が伝えて言うには こうである。

往昔、天下を治めた大穴持神(オホアナムヂ)と少彦名神(スクナビコナ)が この地に到った時、海の中の大島・小嶋を引き集めた。そして小嶋をおよそ拾って一つの大島(おほしま)と成した。故に凡海(おほしあま)と名付けられたと、当国の風土記にある。

常世嶋 男嶋・女嶋

その時、文武朝の大宝元年(701年)辛丑3月己亥に当国で地震があった。これは3ヶ月も止むことがなく、この島を一夜にして蒼茫(あをうなばら)に変わって海となった。

それから島にあった高い山の2つの峯がだんだん立ち上がり、神岩(かむいは)として海上に出てきた。今は常世嶋(とこよのしま)と名付けられているが、俗に男嶋(をしま)・女嶋(めしま)と称されている。

島ごとに神祠(かむほこり)があり、ここに祀られているのは彦火明命(ヒコホアカリ)と日子郎女神(ヒコイラツメ)である。これは当国の風土記にある。

丹波国風土記 逸文

注進風土記事

不詳

但馬国風土記 逸文

不詳

因幡国風土記 逸文

稲葉国

稲葉山(いなばのやま)。

稲葉山は因幡国(いなばのくに)にある。これは武蔵国(むさしのくに)に武蔵があるようなものである。丹後(たにはのみちのしり)にあれば丹後浦という。伊勢にあれば伊勢島である。

稲葉は「去キナバ」という意味である。嶺に生える松を人が待つに添えたり。風土記には稲葉国とあるが、これが誤って因幡とされた。ただし、この国には様々な説がある。

宇倍神社(武内宿禰)

武内の伝承によれば、因幡国風土記には このようにあるという。

難波高津宮治天下(仁徳天皇の御代)55年春3月、大臣の武内宿禰(タケウチノスクネ)は360歳あまりで当国に下向した。そして、亀金(かめかね)に於いて2つの靴を残して行方知れずとなり何処に行ったかは分からない。

聞く所によれば、因幡国の法美郡(ほふみのこほり)の宇倍山(うべやま)の麓に神社があり、これを宇倍神社(うべのかむのやしろ)という。これは武内宿禰の御霊を祀るという。

昔、武内宿禰は東夷(あづまのひな=蝦夷)を平定し、帰って宇倍山に入ったところで行方知れずになった。

白兎

人文研究見聞録:風土記逸文 現代語訳(山陰道編)

因幡の記を見れば、この国の高草郡(たかくさのこほり)の名には2つの解釈がある。その一つは野の草が高かったことから高草を郡名としたというもの。もう一つは竹草郡というものであり、此処には元々竹林があったので竹草の名が付いたという(竹は草の長いものの意味で竹草というのである)。

その竹の事を紐解くと、昔 この竹林には老いた兎が棲んでいた。ある時、俄に洪水が来たので、その竹林は水に沈んでしまった。その時の波が竹の根を掘ったので竹は皆 崩れてしまったが、この兎は竹の根に乗って流されて行き、やがて沖ノ島に流れ着いた。その後、水かさが落ち込むと、兎は元の住処に戻ろうと思ったが、渡る術が無かった。

その時、水中に鰐(ワニ=サメ)という魚がいた。そこで、この兎は鰐に「お前たちの仲間は一体何匹いるのだ?」と問うと、鰐は「同じ仲間はたくさんいて海に満ちているぞ」と答えた。そこで兎は「私の仲間も多くて山野に満ちている。まずはお前たちの仲間の数を数えるので、この島から氣多崎(きたのさき)という所まで鰐を集めよ。一匹ずつ鰐の数を数えて、仲間の多さを調べよう」と提案した。すると、鰐は兎に謀られて親族を集め、その背を並べた。その時に兎は鰐どもの上を踏んでいったが、その数は数えずに氣多崎に渡った。

この後、兎は とうとう渡り終えたと思って鰐たちを嘲笑いながら「私はお前たちを謀って此処に渡って来た。本当は親族の数を調べようなどとは思っていなかったのだ」と嘲ると、水際の鰐は腹を立てて兎を捕えて毛皮(きもの)を剥ぎ取った(これは兎の毛を剥ぎ取って、丸裸の兎としたという意味である)。

これを大己貴神(オホナムチ)は哀れんで「蒲の穂をこきならして、その上に伏しておれ」と教えると、兎はその通りにして以前のようにたくさんの毛を取り戻したという。また、鰐の背中を渡って数えることを兎踏其上讀來渡(よむできたりわたる)という。

伯耆国風土記 逸文

粟島

伯耆国風土記には このようにある。

相見郡(あふみのこほり)。

群家の西北には餘戸里(あまりべのさと)と粟嶋(あはしま)がある。

少日子命(スクナヒコ)が粟を蒔いたので、莠(はぐさ?)がよく実って垂れた。そこで(スクナヒコは)粟に乗ると弾かれて常世国(とこよのくに)に渡った。故に粟島という。

震動之時

雷鳴(かむとけ)、地震(なゐ)の時に雉が鳴くのはなぜか?…伯耆国風土記には このようにある。

地震の時、鶏・雉は恐れて鳴くのである。山鶏(やまどり)は嶺谷(をたに)を越え、樹木に止まり踏み踊る。云々。

伯耆國號

ある書に引用された風土記には このようにある。

手摩乳(テナヅチ)・脚摩乳(アシナヅチ)の娘の稲田姫(イナダヒメ)を八頭之蛇(ヤマタノオロチ)が呑もうとしたために、(稲田姫は)山中に入って逃げた。その時に母が来るのが遅かったので、稲田姫は「母來(ははき)」と言った。故に母來国(ははきのくに)と名付けられた。後に改められて伯耆国(ははきのくに)となった。云々。

出雲国風土記


完本のため、逸文はない

石見国風土記 逸文

人丸

石見国風土記には このようにある。

天武3年8月、人丸は石見守に任じられた。

同年の9月3日に左京大夫正四位上に任じられ、翌年の3月9日に正三位兼播磨守に任じられた。
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。