土佐神社 [高知県]
2015/11/16
高知県高知市にある土佐神社(とさじんじゃ)です。
国史や風土記をはじめとする多くの歴史書に記される土佐国の古社であり、土佐国一宮として、皇室をはじめ、長宗我部氏や土佐山内氏など代々の領主に崇敬された神社であるとされています。
なお、境内に安置された「礫石」という磐座には独自の神話も残されており、一説にはこの石を祀る神社として古代から存在していたのではないか、とも言われているようです。
また、例祭である「志那禰祭(しなねまつり)」は、古代から続く祭礼として土佐三大祭の一つにも数えられています。
土佐神社の概要
由緒
創祀については不詳とされますが、当初は境内の北東に位置する「礫石(つぶていし)」と呼ばれる自然石を祀る磐座信仰の神社であり、その起源は古代に遡ると推定されているようです。
また、創建については、鎌倉末期成立の『釈日本紀』にある「第21代雄略天皇4年2月、天皇が大和葛城山にて狩りをしている最中に一言主神と出会ったが、その不遜な言動により一言主神を土佐に流した。流された一言主神は、土佐において初め『賀茂之地』に祀られ、その後『土佐高賀茂大社』に遷祀された。そして、天平宝字8年(764年)に賀茂氏の奏言によって一言主神は大和国の『葛城山東下高宮岡上』に遷されたが、その和魂は土佐国に留まり、そこで祀られている」という記事から、雄略天皇4年(460年)に創建されたとする説があり、神社側もこの説を由緒に取り入れています(由緒書より)。
なお、平安時代の『延喜式』神名帳で「都佐坐神社」として式内大社に列せられ、土佐国における唯一の大社となり、天慶三年(940年)には、神社における最高位の神階である正一位を賜ったとされています。
その後、鎌倉時代初頭には土佐国総鎮守一宮とされ、当社・神宮寺・善楽寺(四国八十八箇所第30番札所)で一宮を形成し、「土佐高賀茂大明神」と称えられたそうです(神仏習合の社)。
中世以降は武門の崇敬が篤く、戦国末期(1570年)には長宗我部元親が、本殿、幣殿、拝殿を再興し、安土桃山時代(1601年)には土佐藩主である山内一豊・忠義の二代にわたって、摂社、末社、鳥居、楼門、鼓楼が増築され、土佐国で最上の祈願所となったとされています。
そして、明治期の神仏分離令によって神宮寺と分けられ、社名を「土佐神社」と改称して現在に至っているそうです。
なお、土佐神社に関する記録は、社伝の他に国史や歴史書などにも幅広く記録されており、その内容から祭神や歴史について諸説唱えられているようです。
祭神
主祭神
・味鋤高彦根神(アジスキタカヒコネ):オオクニヌシとタギリヒメの子であり、別称を「迦毛大御神」とする
・一言主神(ヒトコトヌシ):『記紀』の雄略天皇記に登場する神で、『旧事紀』ではスサノオの子とされる
・味鋤高彦根神(アジスキタカヒコネ):オオクニヌシとタギリヒメの子であり、別称を「迦毛大御神」とする
・一言主神(ヒトコトヌシ):『記紀』の雄略天皇記に登場する神で、『旧事紀』ではスサノオの子とされる
祭神について
国司である『日本書紀』の天武天皇の条には「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」または「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあることから、古くは祭神を「土左大神」としていたと推定されています。
また、『土佐国風土記(逸文)』には「土左の郡。郡家の西のかた去くこと四里に土左の高賀茂の大社あり。その神の名を一言主の尊とせり。その祖は詳かにあらず。一説に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鋤高彦根の尊なりといふ。」とあることから、祭神の変化を加味して、現在は一言主尊と味鋤高彦根尊の二柱を祭神としています。
なお、この二柱の神は、古来より賀茂氏によって大和葛城の里で篤く尊崇されてきた神とされ、大和の賀茂氏および、その同族が土佐の国造に任命されたことなどから、賀茂氏の神を当地に祀ったものであると伝えられているそうです。
ちなみに、『土佐国風土記(逸文)』によれば、土左大神には御子神として天河命(あまのかわのみこと)がおり、天河命には浄川媛命(きよかわひめのみこと)という娘神がいるとも記されています。
国司である『日本書紀』の天武天皇の条には「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」または「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあることから、古くは祭神を「土左大神」としていたと推定されています。
また、『土佐国風土記(逸文)』には「土左の郡。郡家の西のかた去くこと四里に土左の高賀茂の大社あり。その神の名を一言主の尊とせり。その祖は詳かにあらず。一説に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鋤高彦根の尊なりといふ。」とあることから、祭神の変化を加味して、現在は一言主尊と味鋤高彦根尊の二柱を祭神としています。
なお、この二柱の神は、古来より賀茂氏によって大和葛城の里で篤く尊崇されてきた神とされ、大和の賀茂氏および、その同族が土佐の国造に任命されたことなどから、賀茂氏の神を当地に祀ったものであると伝えられているそうです。
ちなみに、『土佐国風土記(逸文)』によれば、土左大神には御子神として天河命(あまのかわのみこと)がおり、天河命には浄川媛命(きよかわひめのみこと)という娘神がいるとも記されています。
雄略天皇と一言主神
由緒で触れたとおり、雄略天皇4年を創建とする根拠として、『釈日本紀』にある「雄略天皇が大和葛城山にて狩りをしている最中に一言主神と出会い、その不遜な言動により一言主神を土佐に流した云々」という記事が挙げられています。
しかし、『記紀』における雄略天皇と一言主神の関係は全く異なります。参考までに以下に載せておきます。
雄略天皇と一言主神(古事記)
雄略天皇が葛城山へ鹿狩りに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いている姿を見かけた。
天皇は「この倭国に私を除いて王は居ない。どうして同じような姿の者がここに居るのだ?」と問うと、 相手も天皇のように振る舞ってそれに答えた(真似をした)。
天皇は激怒して相手に弓矢を構えると、官吏も合わせて弓矢を構えた。すると、相手の一行も同様に弓矢を構えた。
そこで天皇は「まずは名を名乗れ、互いに名を名乗ってから矢を撃とうではないか」と相手に名を問うと「吾(われ)は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。
それを聞いた天皇は恐れ畏み、「恐れ多いことです。我が大神が現世に姿を表すとは知りませんでした」と言って、 弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。
すると、一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った。
雄略天皇が葛城山へ鹿狩りに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いている姿を見かけた。
天皇は「この倭国に私を除いて王は居ない。どうして同じような姿の者がここに居るのだ?」と問うと、 相手も天皇のように振る舞ってそれに答えた(真似をした)。
天皇は激怒して相手に弓矢を構えると、官吏も合わせて弓矢を構えた。すると、相手の一行も同様に弓矢を構えた。
そこで天皇は「まずは名を名乗れ、互いに名を名乗ってから矢を撃とうではないか」と相手に名を問うと「吾(われ)は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。
それを聞いた天皇は恐れ畏み、「恐れ多いことです。我が大神が現世に姿を表すとは知りませんでした」と言って、 弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。
すると、一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った。
雄略天皇と一言主神(日本書紀)
雄略天皇が葛城山へ狩りに行ったとき、顔や姿が天皇によく似た背の高い人に出会った。
天皇はその者を神であろうと思ったが、敢えて「どこの公だ?」と尋ねると、背の高い人は「私は現人之神(あらひとかみ)である。お前から先に名乗れ、その後で私が名乗ろう」と答えたので、天皇は「私は幼武尊(ワカタケノミコト)である」と答えると、背の高い人は「私は一言主神(ヒトコトヌシ)である」と答えた。
その後、天皇は神と共に狩りを楽しんだ。神の様子は、一頭の鹿を追って矢を放つことを互いに譲り合い、轡(くつわ)を並べて馳せたりし、また神は言詞を恭しく慎み、まるで仙人に会ったようだった。
日が暮れてくると狩りを止め、神は天皇を来目水まで送り届けた。このとき、百姓は悉く「有徳な天皇である」と言った。
雄略天皇が葛城山へ狩りに行ったとき、顔や姿が天皇によく似た背の高い人に出会った。
天皇はその者を神であろうと思ったが、敢えて「どこの公だ?」と尋ねると、背の高い人は「私は現人之神(あらひとかみ)である。お前から先に名乗れ、その後で私が名乗ろう」と答えたので、天皇は「私は幼武尊(ワカタケノミコト)である」と答えると、背の高い人は「私は一言主神(ヒトコトヌシ)である」と答えた。
その後、天皇は神と共に狩りを楽しんだ。神の様子は、一頭の鹿を追って矢を放つことを互いに譲り合い、轡(くつわ)を並べて馳せたりし、また神は言詞を恭しく慎み、まるで仙人に会ったようだった。
日が暮れてくると狩りを止め、神は天皇を来目水まで送り届けた。このとき、百姓は悉く「有徳な天皇である」と言った。
上記の通り、『記紀』においては雄略天皇は一言主神に対して低姿勢であるということが言えます。
しかし、『記紀』より時代が下ってから書かれた『続日本紀』では「高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された」と記され、『日本霊異記』では役小角に使役される神としても描かれています。
これは、一説によれば「鴨神(一言主神)を祀っていた賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないか」と言われているそうです。そのため、神を奉祀する氏族の力関係によって神話が書き換えられることもあったのかもしれませんね。
ただし、時代を下るにつれて一言主神と高鴨神が混同されるようになり、その結果として神話における扱いが変わったという見解もあるようです。
志那禰祭
志那禰祭(しなねまつり)は、毎年夏の8月24日・25日に行われる土佐神社と鳴無神社の例祭であり、「土佐三大祭」の1つとされています。また、別名を「御船遊び」と言うそうです。
その起源は古く、奈良中期(759年)には既に行われていたとされ、古代には鳴無神社まで御座船で海上神幸を行なったとされています。しかし、海難や狼の襲撃に遭うことがあったため、五台山北麓に御旅所(土佐神社離宮)を建てて、そこまでの船渡御と変わり、さらに明治13年(1880年)に一本松御旅所(土佐神社御旅所)が建てられたことから、現在はその御旅所までの徒歩神幸となったそうです。
そのため、現在では土佐神社と鳴無神社は別々に志那禰祭を行っているようです。ちなみに鳴無神社の志那禰祭では、祭の終盤に漁船3隻に神輿を乗せ、供船の漁船20隻を従えて、大漁旗をなびかせて海上を渡航する船渡御が行われるそうです。
なお、志那禰祭の「しなね」の語源は、風神のシナツヒコに基づくとする説や、新稲祭(新嘗祭)の「新稲」の転訛とする説などの諸説あり、24日早朝の忌火祭で扱われる松明は「狼の襲撃に遭った際に松明で追い払った」という故事に因み、また参詣者が持ち帰ると落雷から免れるという信仰(火雷信仰)もあるとされています。
土佐神社の境内社
西御前社・大国主神社・事代主神社
土佐神社の摂社である西御前社・大国主神社・事代主神社です。
西御前社に祭神は不明とされますが、それ以外は社名の通りの祭神が祀られています。
厳島神社
土佐神社の末社である厳島神社です。
祭神に宗像三女神(市寸嶋姫命・多紀理比賣命・多岐都比賣命)を祀っています。
神明宮
土佐神社の末社である神明宮です。
祭神に伊勢神宮の神(天照皇大御神・豊受大御神)を祀っており、古くは伊勢神宮遥拝所であったとされています。
土佐神社の関係地
秋葉神社
土佐神社の鳥居付近にある秋葉神社です。
祭神に防火の神とされる火之迦具土神(ヒノカグツチ)を祀っています。
土佐神社御旅所
土佐一宮駅付近にある土佐神社御旅所です。
「志那禰祭」の際に神輿が一時的に鎮座する場所であり、御旅所には珍しく神明造の社殿となっています。
その他の関係地
土佐神社には下記のような関係地があります。
・瀧宮:土佐神社境外(北東)に鎮座する祭神不明の社
・善通寺:かつての土佐神社の神宮寺であり、現在は四国八十八箇所第30番札所として知られる
・斎籠岩(いごもりいわ):境内北西約300mの山中にある大岩であり、かつてはこの岩で斎籠祭を行なったとされる
・東天神社:土佐神社境外(東)に鎮座する神社であり、かつては末社だったとされる
・鳴無神社:須崎市浦ノ内に鎮座する神社であり、一言主が土佐に配流となったときに漂着した場所とされる
・土佐神社離宮:高知市吸江の五台山の北麓に鎮座する神社であり、かつて志那禰祭の御旅所だったとされる
・葛木男神社:高知市布師田する神社であり、風土記において土佐大神の子を祀る社とされている
・善通寺:かつての土佐神社の神宮寺であり、現在は四国八十八箇所第30番札所として知られる
・斎籠岩(いごもりいわ):境内北西約300mの山中にある大岩であり、かつてはこの岩で斎籠祭を行なったとされる
・東天神社:土佐神社境外(東)に鎮座する神社であり、かつては末社だったとされる
・鳴無神社:須崎市浦ノ内に鎮座する神社であり、一言主が土佐に配流となったときに漂着した場所とされる
・土佐神社離宮:高知市吸江の五台山の北麓に鎮座する神社であり、かつて志那禰祭の御旅所だったとされる
・葛木男神社:高知市布師田する神社であり、風土記において土佐大神の子を祀る社とされている
土佐神社の見どころ
楼門(神光門)
土佐神社の楼門です。
土佐藩の二代藩主・山内忠義によって建立されたものであり、国の重要文化財に指定されているそうです。
鳥居
土佐神社の鳥居です。
拝殿
土佐神社の拝殿です。
大河ドラマ「龍馬伝」のロケ地になったとされています。
本殿
土佐神社の本殿です。
長宗我部元親によって建立されたものとされ、本殿前に建つ幣殿と拝殿は平面に「十字形」になっています。
これは「入蜻蛉(いりとんぼ)」形式と言われ、戦からの凱旋報告を意味する土佐神社独特のものなんだそうです。
鼓楼
土佐神社の鼓楼(ころう)です。内部には時を知らせるための太鼓が吊されています。
楼門と同様に山内忠義によって建立されたものであり、国の重要文化財に指定されているそうです。
礫石
土佐神社の礫石(つぶていし)です。
二畳程の大きさの自然石であり、土左大神が鎮座地を選定する際に投げられた石という言い伝えがあるそうです。
また、古くはこの礫石を磐座として祭祀が行われたとする説もあります。
案内板にある謂れが興味深い内容だったので、一応ここに転載しておきます(読みやすく加筆修正しています)。
礫石(つぶていし)の謂れ
古伝によれば、土佐大神が土佐に流されてきた時、御船をまず高岡郡浦ノ内(現・須崎市浦ノ内)に寄せて宮を建て「加茂の大神」として崇め奉った(鳴無神社の由来)。
ある時、神体を顕わして「此処は神慮に叶わず」として石を取って投げさせ、この石が落ちた所に宮を建てることにした。そして、石を投げると14里を隔てた此の地に石が落ちたため、此処を社地と定めた(土佐神社の由来)。
社地を定めたこの石は「つぶて石」と称され、古来より大切な石とされてきた。また、これが古来より当神社から浦ノ内(鳴無神社)まで行われてきた御神幸(志那禰祭)の所以である。
なお、この地は蛇紋岩の地層であるが、この「つぶて石」は珪石(けいせき)である。そのため、学界では性質が異なるこの石を「転石」と称し、学問上の特殊な資料とされている。
古伝によれば、土佐大神が土佐に流されてきた時、御船をまず高岡郡浦ノ内(現・須崎市浦ノ内)に寄せて宮を建て「加茂の大神」として崇め奉った(鳴無神社の由来)。
ある時、神体を顕わして「此処は神慮に叶わず」として石を取って投げさせ、この石が落ちた所に宮を建てることにした。そして、石を投げると14里を隔てた此の地に石が落ちたため、此処を社地と定めた(土佐神社の由来)。
社地を定めたこの石は「つぶて石」と称され、古来より大切な石とされてきた。また、これが古来より当神社から浦ノ内(鳴無神社)まで行われてきた御神幸(志那禰祭)の所以である。
なお、この地は蛇紋岩の地層であるが、この「つぶて石」は珪石(けいせき)である。そのため、学界では性質が異なるこの石を「転石」と称し、学問上の特殊な資料とされている。
禊岩
土佐神社の禊岩(みそぎいし)です。
境内の東の神苑に安置されており、古来より身心を清める禊の神事に用いられてきた貴重な石とされています。
そのため、祓戸の神として祓戸四神が宿っており、身心を清める御神徳があるそうです。
なお、かつては禊の斎場である「しなね川」にあったとされています。
輪抜け祓所
土佐神社の輪抜け祓所です。
社の中に、くり抜かれた巨大な杉(御神木)の切り株が嵌め込まれています。
なお、これを8の字を描くように潜ると、土木の長寿や逞しさを授かることができるとされています。
料金: 無料
住所: 高知県高知市一宮しなね2丁目16-1(マップ)
営業: 終日開放
交通: 土佐一宮駅(徒歩25分)、とさでん交通バス「一宮神社前」下車
公式サイト: http://www.tosajinja.i-tosa.com/
住所: 高知県高知市一宮しなね2丁目16-1(マップ)
営業: 終日開放
交通: 土佐一宮駅(徒歩25分)、とさでん交通バス「一宮神社前」下車
公式サイト: http://www.tosajinja.i-tosa.com/
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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