平将門の伝説(まとめ)
2015/12/18
平安中期に「天慶の乱」を起こしたことで知られる平将門公には様々な伝説が残されています。その多くは社寺の縁起や軍記物語などの文献に記されており、一部は関東地方の民話などでも語り継がれています。
このページでは、そうした伝説をまとめてみたいと思います。
平将門についてはこちらの記事を参照:【平将門とは?】
冥界伝説
『将門記』によれば、将門公は死後に地獄に落ちたとされ、その後 冥界から将門公の使者がやって来て その消息を田舎のある人に伝えたとされています。その内容は以下の通りです。
将門は地獄で諸々の罪を被って一人苦しんでいる。身は剣の林の苦しみを受け、肝は鉄囲いの猛火に焼かれる。その激しい苦痛は喩え様がないほどである。ただし、一月のうちに一時だけの休みがあり、それは金光明経一巻の助けである。
冥官の暦は、この世の12年を1年とし、この世の12月を1月とし、31日を1日とする。将門は生前、請願を込めて金光明教を写経したので、その功徳によって日本国の暦でいう92年で地獄の苦しみから救われる。
そのため、兄弟・妻子たちは他に慈しみを施し、悪業を消すために善をなせ。口に甘くとも、生類を殺して食べてはならない。心に惜しいと思ったとしても、進んで仏僧に施して供えなければならない。
冥官の暦は、この世の12年を1年とし、この世の12月を1月とし、31日を1日とする。将門は生前、請願を込めて金光明教を写経したので、その功徳によって日本国の暦でいう92年で地獄の苦しみから救われる。
そのため、兄弟・妻子たちは他に慈しみを施し、悪業を消すために善をなせ。口に甘くとも、生類を殺して食べてはならない。心に惜しいと思ったとしても、進んで仏僧に施して供えなければならない。
調伏伝説
成田山新勝寺 |
平安時代に「平将門の乱」が起きた際、朝廷は諸社諸寺に将門調伏の祈祷を命じたとされています。
その中でも代表的なのが千葉県成田市の成田山新勝寺であり、新勝寺は朱雀天皇の密勅によって僧・寛朝が東国に派遣され、平将門を調伏するため不動護摩の儀式を行ったことを起源としています。
そのため、将門公の子孫や崇敬者が新勝寺に参拝しようとすると、道中に必ず災いが起こると云われているようです。
祭祀伝説
国王神社 |
将門公の死後、将門公の子孫や崇敬者によって関東を中心に社寺や祠が建てられるようになったとされています。
その目的は「怨霊を鎮めるため」もしくは「英雄として追慕するため」などの諸説あり、主に同族である相馬氏や千葉氏らによって建立・庇護されてきたと云われています。
王城伝説
石井営所跡 |
平将門公は、関東一円を手中に収めて「新皇」を名乗った後、朝廷のように文武百官を任命し、自らを中心とする王城を建設したとされています。
その比定地はいくつかあり、千葉県柏市の「平将門王城の地」や茨城県坂東市の「石井営所跡」などが その代表的な跡地とされています。
鉄身伝説
蚩尤(しゆう) |
平将門公は戦場において無敵を誇ったとされ、その由縁として「鋼鉄の身体」を持っていたと云われています。『将門記』では中国神話に登場する「蚩尤(しゆう)」に喩えられ、中国神話によれば蚩尤は「獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持つ」という特徴があるとされています。
また、『太平記』には「比叡山に四天王像を安置して将門調伏の行に入ったため、将門の鉄身が痛み滅んだ」という記述があるそうです。なお、将門公の弱点は「こめかみ」もしくは「脳天」とされ、後者については「将門の母は大蛇であり、将門誕生の際に全身を舐めて加護を与えたが、脳天だけ残しておいた(火を吹いて加護したとも)」と伝わっています(茨城県取手市の民話より)。
七人の影武者伝説
平将門公には七人の影武者がいたという伝説があり、室町期の『俵藤太物語』には「将門と全く同じ姿の者が六人いた」とあり、『師門物語』には「同じ姿の武者が八騎いた」と記されているそうです。
また、この伝説に因む「七天王塚(千葉県千葉市)」は、一説によれば「平将門の七騎馬武者の墓」と云われており、この墓の被葬者は「将門に助力した興世王、藤原玄茂、藤原玄明、多治経明、坂上遂高、平将頼、平将武とする説」や「将門の弟六人説」などがあるとされています。
東西呼応の伝説
藤原純友 |
平安中期、東国で乱を起こした平将門公と同時期に、西国では藤原純友(ふじわらのすみとも)が瀬戸内の海賊を率いて乱を起こしており、この東西の大乱は「承平天慶の乱」として知られています。これによって、朝廷は一時転覆の危機に陥ったとも云われていますが、この背景には将門公と純友の間で密かに協定が結ばれていたという伝説があります。
この伝説は『大鏡』や『将門純友東西軍記』に記されており、『将門純友東西軍記』には「京都で偶然にして出会った将門と純友が、承平6年(936年)8月19日に比叡山へ登り、平安城を見下ろしながら『将門は王孫なれば帝王となるべし、純友は藤原氏なれば関白にならん』と約束し、双方が国に帰って反乱を起こした」と記されています。
将門一族の伝説
中世の軍記物語には、平将門公は「日本将軍平親王(ひのもとしょうぐんたいらしんのう)」と称したという伝説が成立しているとされ、これによれば「将門は妙見菩薩の御利生で八カ国を打ち随えたが、凶悪の心をかまえ神慮に憚らず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門の伯父にして養子の平良文の元に渡った」とされているそうです。
なお、妾や娘についての伝説もあるため、それらを以下に記載しておきます。
将門公の妾・桔梗の前(桔梗姫)の伝説
将門公が源氏の兵に捕らえられた際、影武者達も共に捕らえられたが、立ち振る舞いも姿も本物の将門公に瓜ふたつだった為、なかなか処刑に踏み切る事が出来なかった。
その際、同じく捕らえられた桔梗姫が『本物は食事のときに こめかみ が大きく動く』と言うこと白状してしまい、それによって本物の将門公は首を打たれた。
そして将門公は処刑される間際、処刑場の傍に聳える城峯山を睨んで『この山に 桔梗あれども 花咲くな』と詠んだ。そのため、埼玉県の城峯山では桔梗が咲かないとされている。
将門公の娘・五月姫(滝夜叉姫)にまつわる伝説
天慶の乱で平将門および一族郎党滅ぼされたが、生き残った将門の娘・五月姫は怨念を募らせ、貴船明神の社に丑三つ時に参るようになった。満願の二十一夜目に貴船明神の荒御霊の声が聞こえ、彼女に妖術を授けた。
荒御霊のお告げどおり、滝夜叉姫と名乗った五月姫は下総国へ戻り、相馬の城にて、夜叉丸、蜘蛛丸ら手下を集め朝廷転覆の反乱を起こした。朝廷は滝夜叉姫成敗の勅命を大宅中将光圀と山城光成に下し、激闘の末、陰陽の術を持って滝夜叉姫を成敗した。
死の間際、滝夜叉姫は改心し平将門のもとに昇天したという。
追討者の伝説
藤原秀郷(俵藤太) |
平将門公の追討者として最も有名なのが藤原秀郷(俵藤太)ですが、この人物は「近江の百足退治」などの伝説を残す関東最強の武士であったことでも知られています。
将門が関東独立を標榜した際、秀郷は最初は将門方につこうとして将門の館を訪ねたという伝説があり、それによれば「将門が酒席で袴の上にこぼした飯粒を拾って食べたため、将門を軽率で指導者には相応しくないとして裏切った」や「秀郷が館を訪ねた際に将門が入浴中であったため、秀郷を下着姿で出迎えたことから、それを不敬として朝廷方についた」などと云われています。
藤原秀郷についてはこちらの記事を参照:【烏森神社】
羽衣伝説
「羽衣伝説」と言えば、天女の羽衣を盗むところから展開する伝説として日本各地に存在しますが、千葉県佐倉市大佐倉の勝胤寺には「将門版羽衣伝説」が伝わっているとされています。その内容は以下の通りです。
将門が佐倉の「おもが池」に赴いたとき、一人の天女が羽衣を脱いで遊んでいた。将門は天女の羽衣を奪い取り、天女を連れ帰って契りを結んで三人の子を生ませた。その後、天女は羽衣を取り戻して天に帰っていったという。
しかし、天女の子を思う情は尽きず、後に三通の便りを送ってきた。そのとき、月に星の備わった石(千葉石)に、便りを結びつけて天から降らした。この千葉石は「千葉」の地名の由来になったという。
しかし、天女の子を思う情は尽きず、後に三通の便りを送ってきた。そのとき、月に星の備わった石(千葉石)に、便りを結びつけて天から降らした。この千葉石は「千葉」の地名の由来になったという。
首の伝説
平将門公の戦没後、その首は京で晒し首になったとされますが、何ヶ月も腐らずに胴体を求めて東へ飛び去ったと云われています。この伝説は将門公の伝説の中で最も有名なものですが、この説話にはいくつかのバリエーションがあるようです。
なお、下記に最も有名な説話を載せておきます(その他の説話は「京都神田明神」のページにまとめてあります)。
将門の首は京都に運ばれて七条河原に晒されたが、何ヶ月経っても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだった。
ある時、歌人の藤六左近がそれを見て一首詠むと、将門の首は笑いだし、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始めた。そして、首が「躯(からだ)つけて一戦(いく)させん。俺の胴はどこだ」と言い、その声は毎夜響いたという。
その後、ある夜に首が白光を放ち、胴体を求めて東方へ飛んでいったと伝えられている。
ある時、歌人の藤六左近がそれを見て一首詠むと、将門の首は笑いだし、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始めた。そして、首が「躯(からだ)つけて一戦(いく)させん。俺の胴はどこだ」と言い、その声は毎夜響いたという。
その後、ある夜に首が白光を放ち、胴体を求めて東方へ飛んでいったと伝えられている。
結界伝説
東京23区内には平将門公を祀る場所がいくつかありますが、それらを線で結ぶと「北斗七星」の形になっていることが分かります。一説によれば、これは江戸幕府が開かれた際、徳川家康の側近として仕えた南光坊天海が、江戸の霊的守護のために将門公の怨霊の力を利用した結界を張ったものと云われています。
なお、線の途中にある「水稲荷神社」は、藤原秀郷が勧請した将門調伏のための神社とされていますが、これが含まれている理由は、「首」を祀った場所と「胴」を祀った場所を敢えて分断することで、将門公の怨霊の力を利用することができる配置になっていると云われています。
また、この線については、秀郷が勧請した「水稲荷神社」と「烏森神社」を結んで分断しているという説もあるようです。
結界に関連する場所
01.鳥越神社:頭部にまつわる
02.兜神社:頭部にまつわる
03.将門塚:頭部にまつわる
04.神田明神:頭部にまつわる(※体という話もある)
05.筑土八幡宮:かつて頭部を祀る築土神社が隣にあった
06.水稲荷神社:将門調伏の神社
07.鎧神社:胴部にまつわる
08.稲荷鬼王神社:幼名にまつわる
09.烏森神社:将門調伏の神社
10.築土神社:頭部にまつわる
11.日輪寺:胴部にまつわる(※将門公の体が訛って神田になったという言い伝えが残る)
怨霊伝説
将門公の怨霊伝説は未だに存在し続けており、現代も都市伝説として語られています。近年では、特にゲームソフトの「女神転生・ペルソナシリーズ」で「マサカド公」を扱う、アトラス関係の都市伝説が多いようです(以下まとめ)。
・1923年、首塚を潰して大蔵省の仮庁舎を建築した際、役人の中から怪我や病気に罹る人間が続出した
・1926年、当時の大蔵大臣・早速整爾が突然倒れ意識不明となり、後に早速整爾をはじめとする14名が急死した
・1940年、大蔵省に落雷が落ちて庁舎が炎上した
・1945年、GHQが将門塚一帯を駐車場とする工事を行うと、工事中のブルドーザーが転倒して運転手が死亡した
・アトラスが女神転生シリーズで将門公を商品化した際、お祓いをしなかったためにスタッフに不幸が相次いだ
→ 以後、首塚に参拝し、神田明神でお祓いを受けるようになり、キャラクター名に尊称を付けるようになったとも
・爆笑問題の太田光がブレイク前に首塚にドロップキックをすると、仕事が全く来なくなった
・おぎやはぎのおぎが悪霊に憑かれた際、首塚の将門公に助けを乞うと鎮魂碑が光って霊障が止んだという
・女神転生の攻略本にマサカド公の右手が切れたイラストが掲載された際、編集スタッフが事故で右手を粉砕骨折した
・アトラスが「真・女神転生Ⅳ」の発売の際にお祓いを怠ると、親会社の粉飾決算が露呈した
・1926年、当時の大蔵大臣・早速整爾が突然倒れ意識不明となり、後に早速整爾をはじめとする14名が急死した
・1940年、大蔵省に落雷が落ちて庁舎が炎上した
・1945年、GHQが将門塚一帯を駐車場とする工事を行うと、工事中のブルドーザーが転倒して運転手が死亡した
・アトラスが女神転生シリーズで将門公を商品化した際、お祓いをしなかったためにスタッフに不幸が相次いだ
→ 以後、首塚に参拝し、神田明神でお祓いを受けるようになり、キャラクター名に尊称を付けるようになったとも
・爆笑問題の太田光がブレイク前に首塚にドロップキックをすると、仕事が全く来なくなった
・おぎやはぎのおぎが悪霊に憑かれた際、首塚の将門公に助けを乞うと鎮魂碑が光って霊障が止んだという
・女神転生の攻略本にマサカド公の右手が切れたイラストが掲載された際、編集スタッフが事故で右手を粉砕骨折した
・アトラスが「真・女神転生Ⅳ」の発売の際にお祓いを怠ると、親会社の粉飾決算が露呈した
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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