人文研究見聞録:平将門とは?(まとめ)

平将門(たいらのまさかど)とは、平安中期の関東の豪族であり、平安時代 最大の内乱である「天慶の乱(平将門の乱)」の首謀者として有名です。

また、武士の魁(さきがけ)ともいわれ、関東の所領から産出される豊富な馬を利用した騎馬隊を駆使し、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも云われています。

そのほか、「鋼鉄の身体を持ち、七人の影武者を宿す」という不死身伝説や、「晒し首になった後も生き続けた」という首の伝説など、多くの伝説を持ち、近世も「首塚を壊そうとすると祟られる」という怨霊伝説で畏怖や畏敬を集めています。

そんな平将門についての歴史や伝説などを、まとめて紹介したいと思います。



平将門の人物像

将門公の概要


人文研究見聞録:平将門とは?(まとめ)

名前


・幼名:鬼王丸、外都鬼王
・別名:豐田小次郎、相馬小次郎、滝口小次郎、新皇(平新皇とも)

系譜


・父:平良将
・母:県犬養春枝女(あがたのいぬかいのはるえのむすめ)
・兄弟:将持、将弘、将頼、将平、将文、将武、将為
・正室:君の御前(平真樹の娘、源護の娘など諸説ある)
・側室:桔梗の前、小宰相、御代の前、和歌御前、車の前、片目の姫、駿河の前
・子:良門、将国、景遠、千世丸、五月姫(滝夜叉姫)、春姫(如春尼)、如蔵尼


将門公の信仰


人文研究見聞録:平将門とは?(まとめ)

平将門公は「九曜紋(くようもん)」を用いたとされています。この「九曜(くよう)」とは、インド占星術で扱われる9つの天体とそれらを神格化した神に由来し、日本では宿曜道や陰陽道の占星術に用いられたとされています。

また、「九曜紋」は北極星・北斗七星の信仰である「妙見信仰」に由来するとされています。なお「妙見信仰」とは、北天に輝く北極星・北斗七星に対する信仰を指し、「北辰信仰」とも呼ばれています。

この北辰・北斗の化身とされる「妙見菩薩」は、軍神として武士の間で崇められるようになったそうです。また、一説によれば、将門公の九曜紋は「北斗七星、輔星、北極星」を表すとも云われているようです。

ちなみに、この「妙見信仰」は飛鳥時代には既に存在したとされ、山背大兄王が創建したとされる奈良県の「法輪寺」には、妙見菩薩を祀る妙見堂があります。また、一説によれば、聖徳太子が建てた「四天王寺」の伽藍方式にも そのような痕跡が見られるとされ、聖徳太子もこの「妙見信仰」を持っていたのではないか、とも言われています。


平将門の経歴


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平将門公の大まかな経歴は以下の通りです(経歴については諸説ある)。

坂東平氏の台頭


平安中期、朝廷は地方の政治を国司に一任していたため、地方において国司は祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持っていた。そのため、私利私欲に走る国司が多く、地方の政治は乱れていった。それに伴い、治安も悪化の一途を辿っていったため、自分たちの土地を護るために人々は武装し始めた(「武士」の発生)。

武士は当初は単独で戦っていたが、力を持った山賊らに勝てなくなったため、武士を率いる棟梁を地方の土着国司に求めた。そして、武士は土着国司を筆頭に「武士団」を結成し、やがて小勢力が集まって大勢力となり、貴族支配の社会を転覆させるほどの軍事力を有するようになった。

その代表格が、平将門の血筋である桓武平氏(桓武天皇の血統)である(ほかに清和源氏)。

将門の祖父・高望(たかもち)は、上総国(千葉県周辺)の国司として赴任したが、任期が過ぎても帰京せずに在地勢力との関係を深め、一族を率いて常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発した。その中で、将門の父・良将(よしまさ)は下総国(茨城県南部)を本拠として未墾地を開発、鎮守府将軍を勤めるなどして出世し、坂東平氏の勢力を拡大していった。

平氏一族の私闘


将門は15~6歳の頃に上京し、藤原忠平を私君として中級官人となるが、父・良将が死去したために帰郷すると、父の所領の多くが伯父・国香(くにか)や叔父・良兼(よしかね)によって横領されていた。将門はそれに怒り、下総国豊田を本拠として勢力を培っていった。

承平5年(935年)、将門は源護の子・扶、隆、繁の三兄弟に常陸国野本(筑西市)にて襲撃されるが、源三兄弟を討ち破り、逃げる扶らを追って源護の館のある常陸国真壁に攻め入り、周辺の村々を焼き払って三兄弟を討ち取った。その際、さらに伯父・国香の館である石田館にも火をかけ、国香を焼死させた(襲撃のきっかけは諸説ある)。

その後、源護や国香の子・貞盛(さだもり)らによって報復のための襲撃を受けるが、将門はそれを悉く撃破し、源護は朝廷に告状を出して将門を裁こうとするも、朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を赦(ゆる)された。

朝廷との対立


天慶2年(939年)、常陸国の豪族・藤原玄明(ふじわらのはるあき)が将門に頼ってきた。玄明は常陸国司・藤原維幾(ふじわらのこれちよ)に反発して納税を拒否、乱暴をはたらき、さらに官物を強奪したことなどから追捕令が出されていた。維幾は玄明の引渡しを将門に要求するが、将門は玄明を匿い、それに応じなかった。

その対立が高じて合戦となり、将門は兵1000人を率いて出陣した。維幾は3000の兵を動員して迎え撃ったが、将門に撃破されて国府に逃げ帰った。将門が国府を包囲すると、維幾は降伏して国府の印璽を差し出した。

その勝利を機に、将門は関東八ヵ国の国府を次々と占領し、独自に関東諸国の国司を任命した。また、上野国を占領した将門の陣営に、突如、八幡大菩薩の使いと称する巫女が現れて「八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授け奉る」と託宣すると、将門はそれを以って自らを「新皇(しんのう)」と称した(この巫女は菅原道真の霊魂だとされる)。

以来、将門の勢いに恐れた諸国の国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国などの国々も従え、遂に関東全域を手中に収めた。

将門謀反の報は直ちに京にもたらされ、同時期に西国で「藤原純友の乱」の報告もあったことから朝廷は驚愕した。そこで直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷(将門呪殺)が命じられた。また、「将門を討った者は身分を問わず貴族とする」という「太政官符」を全国各地に発布した。

平将門の乱


天慶3年(940年)、藤原忠文が征東大将軍に任じられ、追討軍が京を出立した。そのころ、将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた(この間、藤原秀郷は将門側につこうとしていたとも云われる)。

すると間もなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷と力を併せて4000の兵を集めているとの報告が入った。将門のもとには1000人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えてその人数で出陣した。

藤原玄茂の率いる将門軍の先鋒は、貞盛と秀郷の軍に撃破され、下総国で合戦になるもわずかな手勢の将門軍の勢いは揮わず、退却を余儀なくされた。

貞盛と秀郷はさらに兵を集めて、将門の本拠である石井に攻め入り、火を放った。将門は兵を召集するが、劣勢のためになかなか集まらず、わずか400の兵で陣を敷いた。そして、貞盛と秀郷の軍には藤原為憲も加わり、連合軍と将門の合戦が始まった。

南風(春一番)が吹き荒れると、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、貞盛、秀郷、為憲の軍を撃破した。しかし、将門が勝ち誇って自陣に引き上げる最中、急に風向きが変わり北風(寒の戻り)になり、風を負って勢いを得た連合軍は反撃に転じた。

将門は自ら先頭に立って奮戦するが、何処からか飛んできた矢が将門の額に命中し、その瞬間に首を刎ねられた。すると、将門の首は勢いよく飛び立ち、現在の東京の大手町に落ちたという。なお、将門に刺さった矢には藤原秀郷の名が刻まれていたとされる(また、将門の胴体は首を追いかけていき、途中で力尽きた場所が神田明神とも)。

将門の死によって将門軍は鎮圧され、その後、関東独立国はわずか2ヶ月で瓦解した。また、残党は掃討され、将門の弟たちや興世王、藤原玄明、藤原玄茂などは皆誅殺された。そして、将門を討った秀郷には従四位下、貞盛、為憲には従五位下がそれぞれ授けられた。

※藤原秀郷(ふじわらのひでさと):当時の関東最強の武士(俵藤太とも)。近江三上山の百足退治の伝説で有名

将門の首


平将門の乱の後、将門の首は京に持ち帰られて梟首(晒し首)とされた。しかし、将門の首は何ヶ月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかった。

しかし、歌人の藤六左近がそれを見て「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて」と歌を詠み上げると、将門はカラカラと笑い、たちまち朽ち果てたという(また、将門の首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいう)。


平将門の伝説


人文研究見聞録:平将門とは?(まとめ)

平将門公には様々な伝説があります。その多くは社寺の縁起や軍記物語などの文献に記されており、一部は民話として語り継がれています。その代表的なものは以下の通りです。

平将門の伝説一覧


・冥界伝説:『将門記』には将門が死後に地獄に落ち、諸々の罪を被って責苦に遭っていると記されている
・調伏伝説:「平将門の乱」が起きた際、朝廷は諸社諸寺に将門調伏の祈祷を命じたとされている
・祭祀伝説:将門の死後、「怨霊の鎮魂」および「英雄として追慕」のための社寺や祠が建てられた
・王城伝説:将門は「新皇」を名乗った後、朝廷のように文武百官を任命し、王城を建設したと云われている
・鉄身伝説:将門は、その無敵さ故に「身体が鋼鉄だった」と云われている
・七人の影武者伝説:将門には「七人の影武者」がいたとされ、本物は咀嚼の時にこめかみが動くと云われている
・東西呼応の伝説:将門と同時期に乱を起こした藤原純友は、将門と共謀して乱を起こしたという伝説がある
・将門一族の伝説:娘・春姫(滝夜叉姫)は妖術使いになって将門の無念を晴らそうとしたと云われている
・追討者の伝説:追討者の代表として知られる藤原秀郷は、最初は将門方につこうとしていたとも云われている
・首の伝説:将門の首は晒された後も生き続け、そのうち胴体を求めて東へ飛んでいったと云われている
・結界伝説:徳川家康の側近・天海は、将門の怨霊の力を利用して江戸を守る結界を設置したと云われている
・怨霊伝説:大手町の将門塚には、数多くの怨霊伝説が残されており、未だに語り継がれている

将門の伝説について詳しくはこちらの記事を参照:【平将門の伝説】


平将門についての考察

将門公の評価


人文研究見聞録:平将門とは?(まとめ)

平将門公は、一般的に「怨霊」として有名であるため、恐怖の対象として語られることが多いですが、東京・茨城・千葉をはじめとする将門公ゆかりの土地では「貧しい民衆を救った関東の英雄」として紹介されていることも少なくありません。

そのため、関東とその他では評価に温度差があり、将門公の地元では今でも崇敬されている傾向にあると思われます。


将門公と御霊信仰


人文研究見聞録:平将門とは?(まとめ)

将門公は日本最強の怨霊であり、日本三大怨霊の筆頭としても有名です。

日本には奈良末期から平安期にかけて、都で疫病や天変地異が起こる原因を怨霊の仕業と捉え、その怨霊を鎮め慰めることによって、鎮護の神とするという「御霊信仰」が広まっていったとされています。

関西における代表的な怨霊は、藤原時平の讒訴よって大宰府に左遷された菅原道真公(すがわらのみちざね)であり、道真公の死後、延長8年(930年)に起こった「清涼殿落雷事件」では、平安京は落雷に焼かれ、左遷に関わった藤原清貫が落雷の直撃を受けて焼死したとされています。

そのことから、菅原道真公は天満天神として祀られることとなり、現在では全国各地の天満宮で祀られています。

将門公も同様に、都内をはじめとする関東地方を中心に信仰されており、最強の怨霊として恐れられる反面、真摯な態度で尊崇すれば強力な守護神となるとも云われます。

なお、上記に示した「結界伝説」によれば、江戸時代に建てられた将門公を祀る神社が北斗七星の形に配置されている理由は、徳川家康の側近である天海が仕掛けた江戸守護のための結界であると言われています。

そのため、将門公を現在でも東京の守護神とする信仰も存在します(「帝都物語」の影響とも)。

詳しくはこちらの記事も参照:【御霊信仰とは?】


菅原道真公との関係


人文研究見聞録:平将門とは?(まとめ)

上記のとおり、菅原道真公は平安時代を代表する怨霊として有名ですが、同じく怨霊として有名な平将門公との繋がりを示す文献も存在するとされています。

『将門記』によれば「上野国を占領した将門の陣営に、突如、八幡大菩薩の使いと称する巫女が現れて『八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授け奉る』と託宣した。また、その巫女は『左大臣・菅原朝臣の霊魂』であるという。この時より、将門は自らを「新皇(しんのう)」と称した(「十六、巫女告授皇位於將門」より)」とあり、将門公に「親皇」の位を授けたのは道真公の霊魂が顕現した巫女だったとされています。

また、明治期に発行された『平将門故蹟考』によれば「菅原道真は延喜三年死す、将門此の歳に生る故に菅公の再生という評あり」とあり、将門公は道真公の生まれ変わりであるとする評価もあったようです。

そのため、将門公と道真公は霊的な繋がりを持った人物なのかもしれません。

菅原道真公について詳しくはこちらの記事を参照:【菅原道真とは?】


将門公にまつわるのスポット

人文研究見聞録:平将門とは?(まとめ)

平将門公にまつわるのスポットをまとめました(随時更新)。

静岡県


・平将門十九首塚:静岡県掛川市十九首
 → 藤原秀郷が平将門一門19名を討伐してその首を弔った塚とされる

栃木県


・御門神社:栃木県岩舟町静3591
 → 昭和初期までは「将門神社」と呼ばれ、平将門を氏神としていた
・大手神社:栃木県足利市五十部町375
 → 平将門の手が落ちてきた場所と云われている
・大原神社:栃木県足利市山前町1402
 → 平将門の腹が落ちてきた場所と云われている
・子の権現:栃木県足利市樺崎町字堤谷
 → 平将門の股を祀っているとされる
・鶏足寺:栃木県足利市小俣町2748
 → 土で将門の頭を造り、将門調伏の祈祷が行われたとされる

群馬県


・八幡川原:群馬県太田市只上
 → 藤原秀郷が将門を討伐した川原と伝えられる
・只上神社:群馬県太田市只上町1706
 → 秀郷が将門の首を鶏足寺に送る途中、首が奇声を発して怪異が頻発したため、将門の胴体を埋めて祀ったという
・心王寺:群馬県太田市只上町1352-1
 → 秀郷の命で慈正上人が将門調伏の祈祷を行った場所とされる
・伊勢神社:群馬県太田市内ケ島町589-1
 → 秀郷が将門追討の折に参拝したとされ、その伝承に基づく「伊勢神社の弓引き」を行っているとされる
・柳沢寺:群馬県北群馬郡榛東村山子田2535
 → 将門が襲来してこの寺に火を放った際、大力の男が寺の千巻経を背負って運んだとされ、千ヶ窪という地名が付いた
・染谷川古戦場跡:群馬県北群馬郡榛東村広馬場
 → 将門と平良文とが戦ったとされる場所
・黒髪神社:群馬県北群馬郡榛東村広馬場3615
 → 将門の美しい黒髪に由来するという黒髪山(相馬山)に建つ
・駿河大明神:群馬県多野郡神流町神ヶ原
 → 将門の妾・駿河姫の逸話に因み、男根形の「おんまらさま」を祀る

茨城県


国王神社茨城県坂東市岩井951番
 → 将門の三女・如蔵尼によって創建された神社であり、将門の終焉の地とされる
延命寺(島の薬師)茨城県坂東市岩井1111
 → 石井営所の鬼門除けとして創建され、将門の守り本尊とされる薬師如来を祀る
島広山・石井営所跡茨城県坂東市岩井1603
 → 将門軍の営所(政治・経済・軍事の拠点)であり、王城建設の地とも云われる
石井の井戸茨城県坂東市岩井1627
 → 将門が王城建設の地を求めていた際に喉が渇いて困っていたところ、老翁が現れて水を湧き出させたという
一言神社茨城県坂東市岩井1584
 → 将門が石井の井戸を湧き出させた老翁を祀った神社
九重の桜茨城県坂東市岩井2454-2
 → 将門が平安京から持ち帰った桜を植えたとされる
富士見の馬場茨城県坂東市岩井2245-5
 → 将門の軍馬の調練場があったとされ、かつては富士が見えたため、この名で呼ばれる
・平将門公之像(坂東市総合文化ホール):茨城県坂東市岩井5082
 → 将門公の像が安置されている
・延命院(将門公胴塚):茨城県坂東市神田山715
 → 将門の胴を密かに祀ったとされる
・深井地蔵尊:茨城県坂東市沓掛2205
 → 将門の妻子受難の地とされる
・西念寺:茨城県坂東市辺田355-1
 → 将門の軍が寺の鐘を陣鐘にしたが「辺田村恋し、辺田村恋し」と響いたため、将門は怒って寺に鐘を返したとされる
・高聲寺:茨城県坂東市岩井3478
 → 将門が夢で「自分に罪は無い、謀反人にされて残念でならない」と嘆くため、慰霊のために建立されたという
・慈光寺:茨城県坂東市弓田388-2
 → 将門が石井に営所を構えた際、鬼門除けの本尊として深く信仰したとされる
・松崎天神社:茨城県坂東市内野山919
 → 将門の開拓思想を受け継ぎ、飯沼の開発構想を練ったとされる
・沓掛香取神社:茨城県坂東市沓掛4124
 → 将門が近くに館を新築した際、社殿を再建して一本の杉の木を植え御神木とした
・弓田香取神社:茨城県坂東市弓田274
 → 承平3年(933年)に将門が参拝したとされる
・鷲神社:茨城県結城郡八千代町沼森
 → 将門に関係する神社
・館沢天満宮:茨城県結城郡八千代町新地
 → 将門の叔父・平良文が城をかまえた場所
・御所神社(五所神社):茨城県結城郡八千代町仁江戸1428
 → 将門が拠点を置いた場所
・香取神社:茨城県下妻市鎌庭
 → 将門が拠点を置いた場所

千葉県


将門大明神(将門口ノ宮神社)千葉県佐倉市大佐倉1929-1
 → 同族の千葉氏によって創建された
・将門山:千葉県佐倉市将門町
 → 将門がこの地に生まれたとも館を構えたともいわれる
・桔梗塚:千葉県佐倉市将門町
 → 将門の愛妾・桔梗の前の墓とされる
・八幡神社:千葉県佐倉市将門町
 → 瀧夜叉姫が、父・将門の恨みを晴らそうとして「蝦蟇の妖術」を習った場所とされる
・勝胤寺:千葉県佐倉市大佐倉1467-1
 → 将門版羽衣伝説の伝わる「千葉石」が安置されている
・本佐倉城址:佐倉市大佐倉、酒々井市本佐倉
 → 将門の城だったという説がある
・麻賀多神社:佐倉市城
 → かつて将門を祀る神社だったと云われる
・鷲神社:佐倉市先崎1580
 → 朱雀天皇の勅命により慈恵僧正が創建した神社であり、将門の悪行を取り除いたとされる
将門神社千葉県我孫子市日秀131
 → 将門の死後、その霊が手賀沼を騎馬で乗り越えて朝日を拝んだとされる
・将門神社:千葉県柏市岩井42
 → 将門が城を築いた場所とされる
・将門館跡:千葉県柏市大井
 → 将門が居館を設けた跡と云われる
・王城の地:千葉県柏市大井
 → 『将門記』にある王城の地の比定地の一つ

埼玉県


・城峯神社:埼玉県秩父市吉田石間4716
 → 将門が城峯山に籠って追討軍と戦ったと伝えられる
・九十九神社:埼玉県秩父市大滝
 → 将門の妾・桔梗姫が追手に追い詰められて自害した場所とされる
・桔梗塚:埼玉県秩父市大滝大血川部落
 → 将門の妾・桔梗姫が追手に追い詰められて自害した場所とされる
・将門の首塚:埼玉県幸手市神明内1469
 → 将門の愛馬が運んできた首が埋められたと伝えられる
・八幡神社:埼玉県幸手市木立
 → 将門の生地の八幡宮を祀ったとされるが、秀郷が布陣した場所とも云われる
・赤木明神:幸手市神明内
 → 将門の血潮で木が赤く染まったことから、赤木を御神体とした祀ったという(首が落ちた場所とも)
・宝聖寺:埼玉県幸手市平須賀2-458
 → 将門調伏に用いたとされる空海の松虫鈴(銅鈴)がある

東京都


鳥越神社東京都台東区鳥越2-4-1
 → 一説によれば、「鳥越」は将門の首が飛び越えたことに由来するという
兜神社東京都中央区日本橋兜町1-12
 → 一説によれば、藤原秀郷が将門の兜を埋めた場所と云われる
将門塚東京都千代田区大手町1
 → 将門公の首が落ちて来た場所と伝わり、怨霊伝説の中心地とされる
神田明神東京都千代田区外神田2-16-2
 → 祭神に将門を祀る。かつて将門塚の地に鎮座しており、首塚の祭礼にも関わる
筑土八幡宮東京都新宿区筑土八幡町2-1
 → かつて築土神社の前身・津久戸明神を併設していた
水稲荷神社東京都新宿区西早稲田3-5-43
 → 藤原秀郷に勧請された稲荷神社
鎧神社東京都新宿区北新宿3-16-18
 → 将門の鎧を埋めたとされる
稲荷鬼王神社東京都新宿区歌舞伎町2-17-5
 → 社名が将門の幼名・鬼王丸に因むと云われる(同名の名刀が奉納されていたとも)
烏森神社東京都港区新橋2-15-5
 → 藤原秀郷に勧請された稲荷神社
築土神社東京都千代田区九段北1-14-21
 → 京都からひそかに持ち帰った将門の首桶を祀ったことにはじまる
・日輪寺:東京都台東区西浅草3丁目15-6
 → かつて神田明神の別当寺であり、「将門公の体が訛って神田になった」という言い伝えが残る
・赤城神社:東京都新宿区赤城元町1-10
 → 一説には、飛んで来た将門の首が落ちて、木に血がついたので「アカギ」となったとも
・椙森神社:東京都中央区日本橋堀留町1-10-2
 → 天慶3年(940)、藤原秀郷(俵藤太)が平将門を追討するために戦勝祈願した
・下谷神社:東京都台東区東上野3-29-8
 → 天慶3年(940)、藤原秀郷(俵藤太)が平将門を追討するために戦勝祈願し、戦勝後に社殿を造営した
・香取神社:東京都江東区亀戸3-57-22
 → 天慶の頃、藤原秀郷(俵藤太)が平将門を追討するために戦勝祈願し、戦勝後に弓矢を奉納した
・浅間神社:東京都江戸川区上篠崎町1-126
 → 天慶承平の乱のとき、平貞盛が将門平定を祈って霧島神宮を祀り、金幣・弓矢を献じて関東の平安を祈願した
・稲荷神社:東京都新宿区下落合2-101-5
 → 将門公の伝説に因む
・千束八幡神社:東京都大田区南千束2-23-10
 → 平将門の乱の際に鎮守副将軍・藤原忠方が留まり、平定後に池畔に館を構え、八幡宮を氏神として祀った
・小豆沢神社:東京都板橋区小豆沢4-16-5
 → 小豆沢の名は、将門公への貢物の小豆を積んだ船が、暴風雨のために小豆沢の入江で沈没したことに因む
・金剛寺(将門誓いの梅):東京都青梅市天ヶ瀬町1032
 → 将門を開基とする寺院であり、境内の梅は かつて将門が鞭代わりに使った梅の枝が育ったものとされる

神奈川県


・苅宿神社(苅宿八幡宮):神奈川県川崎市中原区苅宿19-17
 → 将門の軍勢が一夜の宿をとったことから「借宿村」と名が付いたとされ、将門ゆかりの石を御神体とする
・師岡熊野神社:神奈川県横浜市港北区師岡町1137
 → 将門が巡検したとされる
・大熊杉山神社:神奈川横浜市都筑区大熊町497
 → 将門が願掛けしたとされる

岐阜県


・御首神社:岐阜県大垣市荒尾町1283-1
 → 東に飛んでいった将門の首を射落として祀ったとされる

京都府


京都神田明神京都府京都市下京区新釜座町722
 → 討ち取られた将門の首が晒された場所

matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。