人文研究見聞録:浜松城 [静岡県]

静岡県浜松市にある浜松城(はままつじょう)です。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世していることから「出世城」とも呼ばれています。

城内にはボランティアの方が常駐しており、浜松の歴史に関する解説を聞くことができます。また、徳川家康が三方ヶ原の戦いで武田軍に敗れた後、自身の戒めのために描かせたとされる「顰像(しかみ像)」も展示されています。


歴史

浜松城は、永正年間(1504~1520年)に築城された曳馬城(ひきうまじょう)に始まるとされ、その築城主は瀬名姫の先祖である今川貞相であると云われています(ただし、諸説ある)。

なお、浜松城の主な歴史は以下の通りです。

・永正年間に曳馬城(引馬城、引間城)が浜松の拠点として築城された
・斯波氏と今川氏の抗争の際、当地を支配していた大河内貞綱は斯波氏に味方するが今川氏に敗れた
 → その後、今川氏の支配下となり、今川氏親の配下・飯尾氏がこの地を支配することになった
・永正11年(1514年)、飯尾乗連(またはその父・飯尾賢連)が城主になったと云われる
 → 永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」で今川義元が戦死すると今川氏の衰退が始まる
・永禄8年(1565年)、城主飯尾連竜が今川氏真に反旗の疑惑をもたれ、今川軍に攻囲される
 → 多大な損害を被るが、陥落は免れた
 → この時、今川からの和議勧告が出されたが、和議は謀略で連竜は殺された
 → 以後、連竜の家老の江間氏に守られたものの、内紛によって分裂し、徳川家康によって早期攻略された
・元亀元年(1570年)、家康は武田信玄の侵攻に備えるため本拠地を三河国岡崎から遠江国曳馬へ移した
 → その際、曳馬城を拠点として拡張し、「馬を引く」を連想する縁起の悪い地名・城名を「浜松」に改めた
・元亀3年(1573年)の「三方ヶ原の戦い」で武田軍に侵攻され、家康は反撃に打って出るも敗北する
 → その際、家康は討死寸前に追い詰められるが、命辛々浜松城に逃げ帰ったという
  ⇒ 家康はこの敗北の苦渋を忘れぬよう、絵師を呼んで「顰像(しかみ像)」を描かせたという
 → 家康は全ての城門を開いて篝火を焚き、空城計を行った
  ⇒ 追撃してきた武田軍の山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ、そのまま引き上げたという
・浜松城の拡張・改修は天正10年(1582年)頃に大体終わった
 → その4年後の天正14年(1586年)、家康は浜松から駿府に本拠を移した
・天正18年(1590年)以降、秀吉の家臣・堀尾吉晴と、その次男・堀尾忠氏が合わせて11年間在城した
 → 以後、一時的に徳川頼宣の領地だった時期を除いて、譜代大名の各家が次々に入った
・明治維新後、浜松城は廃城となり破壊された

三方ヶ原の戦いの逸話

人文研究見聞録:浜松城 [静岡県]
三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦いで敗走した徳川家康について、以下の様な逸話が残されているとされています。

三方ヶ原の戦いの折、武田軍の山県昌景に追撃された家康は恐怖のあまり馬上で脱糞してしまった。

そして、命からがら浜松城に逃げ帰ったとき、それに気付いた大久保忠世に大笑いされたが、家康は真っ赤になって怒り出し「これは腰の弁当の焼味噌だ」と苦し紛れの嘘を付いたという。

顰像(しかみ像)

人文研究見聞録:浜松城 [静岡県]
顰像(しかみ像)

三方ヶ原の戦いで敗走した徳川家康は、浜松城に戻った際に絵師を呼び、自らの苦渋の表情の肖像画を描かせたと云われ、それが「顰像(しかみ像)」であるとされています。

これは一般に、血気逸って武田軍の誘いに乗り、多くの将兵を失った自分に対する戒めとして描かせたと云われ、後に家康は熱くなった自分を抑えるために絵を見て自重していたという逸話が残っているそうです。

料金: 大人(高校生以上)200円 小中学生は無料
住所: 静岡県浜松市中区元城町100-2(マップ
営業: 8:30~16:30(12/29・30・31休館)
交通: JR浜松駅から徒歩20分(タクシー約5分)

公式サイト: http://www.hamamatsu-navi.jp/shiro/index.html
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。