人文研究見聞録:築土神社(築土明神) [東京都]

東京都千代田区九段にある築土神社(つくどじんじゃ)です。

平安時代の「天慶の乱」で戦没した平将門公の首桶を祀ったことに始まる神社であり、多くの戦場で活躍した将門公に因む武勇長久の神社として、日本武道館の氏神にもなっています。

なお、正月限定(1月1日~1月15日)で授与される「勝守」という築土神社独自の御守が有名とされています。

平将門についてはこちらの記事を参照:【平将門とは?】


神社概要

歴史

人文研究見聞録:築土神社(築土明神) [東京都]

平安中期の天慶3年(940年)、「天慶の乱」で討ち取られて平安京で晒された「平将門公の首」を首桶に納めて密かに持ち去り、武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺)の観音堂に祀って「津久戸明神(つくどみょうじん)」と称したことに始まるとされます(「血首明神」という説もある)。

戦国時代になると、天文21年(1478年)に太田道灌が江戸城の北西に社殿を造営し、太田家の守護神・江戸城の鎮守神として厚く崇敬され、天文21年(1552年)には上平河村内の田安郷に移転して「田安明神」と称し、江戸三社(日枝神社、神田明神)の一つとして江戸庶民の崇敬を集めたそうです。

その後、江戸城の拡張に伴い、天正17年(1589年)に下田安牛込見附米倉屋敷跡(現・JR飯田橋駅付近)に移転し、さらに元和2年(1616年)に筑土八幡神社隣地(現・新宿区筑土八幡町)へ移転して「築土明神」と呼ばれるようになったとされます。

明治7年(1874年)には、氏子の請願によって天津彦火邇々杵尊(ニニギ)を主祭神とし、社名を「築土神社」へ改称したとされています(将門公は教部省の指示によって相殿に格下げされたとも)。

昭和期には、第二次世界大戦の戦災によって社殿が焼失したことから戦後に千代田区富士見へ移転すると、九段中学校(現・九段中等教育学校)建設のために立ち退き余儀なくされ、現在地にあった世継稲荷神社の敷地内へ移転して社殿を再建したそうです。

そして、平成6年(1994年)の社殿の大改築に伴い、末社の木津川天満宮で祀られていた菅原道真公を相殿に配祀して、現在に至るとされています(要約すると、創建から何度も移転を繰り返しているようですね)。

祭神

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瓊々杵尊
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平将門公
人文研究見聞録:築土神社(築土明神) [東京都]
菅原道真公

築土神社の祭神は以下の通りです。

主祭神

・天津彦火邇々杵尊(あまつひこににぎのみこと):日本神話に登場する神で、天孫(天照大神の孫)に当たる

相殿

・平将門公(たいらのまさかど):平安中期の関東の豪族(数多くの伝説を持つことで有名)
 → 関東を平定し「親皇」を名乗って東国の独立を標榜するも、朝廷側の藤原秀郷らの手にかかって討死
 → 死後も「首だけで空を飛んだ」など、近世まで数多くの怨霊伝説を残している(日本三大怨霊)
  ⇒ 「将門公は道真公の生まれ変わり」という伝説がある
・菅原道真公(すがわらのみちざね):平安前期の貴族(政治家)
 → 有能な政治家であったが藤原時平に讒訴によって大宰府に左遷された
 → 死後、京で天変地異が多発したことから怨霊と畏れられ、天満天神として信仰の対象となる(日本三大怨霊)
 → 1994年に境内末社・木津川天満宮を相殿に合祀

社宝

人文研究見聞録:築土神社 [東京都]

創建当初は「将門の首桶」を御神体として祀っており、その首桶は「見ると目が潰れる」と云われて宮司すら容易に見ることは許されなかったとされています。また、かつては平将門公の首(頭蓋骨や髪の毛)そのものを安置していたとされ、将門所縁の多くの社寺の中でも、将門信仰の象徴的神社となっているそうです。

このほか、将門の肖像画(束帯姿)、木造の束帯坐像等が社宝として伝わっていたとされますが、第二次世界大戦の戦災で社殿とともに全て焼失し、現在は一部の写真のみが残っているとされています。

参拝時のタブー

人文研究見聞録:築土神社 [東京都]
成田山新勝寺

築土神社には「参拝者は成田山新勝寺を参拝してはならない」というタブーがあると伝えられているそうです。

これは「平将門の乱」が起きた当時、朝廷が平将門を討伐するために僧・寛朝(かんちょう)を東国に遣わし、新勝寺を創建して、乱の鎮圧のための不動護摩の儀式(将門公の呪殺の儀式)を行わせたことに因むとされています。

そのため、新勝寺を参拝することは将門公を苦しめることとなり、道中に必ず災いが起こると云われているようです(新勝寺を参拝する場合は、時期をずらした方がいいとも)。

なお、このタブーは将門公を祀っている神田の神田明神にも同様に言い伝えられているとされます。

勝守

人文研究見聞録:築土神社(築土明神) [東京都]

築土神社独自の御守である勝守(かちまもり)です。

戦場で多くの勝利を収めたと云われる将門公にあやかって、あらゆる勝負事に御利益があるとされています。

なお、授与期間は毎年1月1日~1月15日までの15日間のみと限定されているそうです。

平将門について

人文研究見聞録:築土神社 [東京都]

平将門(たいらのまさかど)とは、平安中期の関東の豪族であり、平安時代 最大の内乱である「天慶の乱(平将門の乱)」の首謀者として有名です。

また、武士の魁(さきがけ)ともいわれ、関東の所領から産出される豊富な馬を利用した騎馬隊を駆使し、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも云われています。

そのほか、「鋼鉄の身体を持ち、七人の影武者を宿す」という不死身伝説や、「晒し首になった後も生き続けた」という首の伝説など、多くの伝説を持ち、近世も「首塚を壊そうとすると祟られる」という怨霊伝説で畏怖や畏敬を集めています。

そんな平将門について、坂東平氏の台頭から平将門の乱までの歴史を追って紹介したいと思います。

坂東平氏の台頭

平安中期、朝廷は地方の政治を国司に一任していたため、地方において国司は祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持っていた。そのため、私利私欲に走る国司が多く、地方の政治は乱れていった。それに伴い、治安も悪化の一途を辿っていったため、自分たちの土地を護るために人々は武装し始めた(「武士」の発生)。

武士は当初は単独で戦っていたが、力を持った山賊らに勝てなくなったため、武士を率いる棟梁を地方の土着国司に求めた。そして、武士は土着国司を筆頭に「武士団」を結成し、やがて小勢力が集まって大勢力となり、貴族支配の社会を転覆させるほどの軍事力を有するようになった。

その代表格が、平将門の血筋である桓武平氏(桓武天皇の血統)である(ほかに清和源氏)。

将門の祖父・高望(たかもち)は、上総国(千葉県周辺)の国司として赴任したが、任期が過ぎても帰京せずに在地勢力との関係を深め、一族を率いて常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発した。その中で、将門の父・良将(よしまさ)は下総国(茨城県南部)を本拠として未墾地を開発、鎮守府将軍を勤めるなどして出世し、坂東平氏の勢力を拡大していった。

平氏一族の私闘

将門は15~6歳の頃に上京し、藤原忠平を私君として中級官人となるが、父・良将が死去したために帰郷すると、父の所領の多くが伯父・国香(くにか)や叔父・良兼(よしかね)によって横領されていた。将門はそれに怒り、下総国豊田を本拠として勢力を培っていった。

承平5年(935年)、将門は源護の子・扶、隆、繁の三兄弟に常陸国野本(筑西市)にて襲撃されるが、源三兄弟を討ち破り、逃げる扶らを追って源護の館のある常陸国真壁に攻め入り、周辺の村々を焼き払って三兄弟を討ち取った。その際、さらに伯父・国香の館である石田館にも火をかけ、国香を焼死させた(襲撃のきっかけは諸説ある)。

その後、源護や国香の子・貞盛(さだもり)らによって報復のための襲撃を受けるが、将門はそれを悉く撃破し、源護は朝廷に告状を出して将門を裁こうとするも、朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を赦(ゆる)された。

朝廷との対立

天慶2年(939年)、常陸国の豪族・藤原玄明(ふじわらのはるあき)が将門に頼ってきた。玄明は常陸国司・藤原維幾(ふじわらのこれちよ)に反発して納税を拒否、乱暴をはたらき、さらに官物を強奪したことなどから追捕令が出されていた。維幾は玄明の引渡しを将門に要求するが、将門は玄明を匿い、それに応じなかった。

その対立が高じて合戦となり、将門は兵1000人を率いて出陣した。維幾は3000の兵を動員して迎え撃ったが、将門に撃破されて国府に逃げ帰った。将門が国府を包囲すると、維幾は降伏して国府の印璽を差し出した。

その勝利を機に、将門は関東八ヵ国の国府を次々と占領し、独自に関東諸国の国司を任命した。また、上野国を占領した将門の陣営に、突如、八幡大菩薩の使いと称する巫女が現れて「八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授け奉る」と託宣すると、将門はそれを以って自らを「新皇(しんのう)」と称した(この巫女は菅原道真の霊魂だとされる)。

以来、将門の勢いに恐れた諸国の国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国などの国々も従え、遂に関東全域を手中に収めた。

将門謀反の報は直ちに京にもたらされ、同時期に西国で「藤原純友の乱」の報告もあったことから朝廷は驚愕した。そこで直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷(将門呪殺)が命じられた。また、「将門を討った者は身分を問わず貴族とする」という「太政官符」を全国各地に発布した。

平将門の乱

天慶3年(940年)、藤原忠文が征東大将軍に任じられ、追討軍が京を出立した。そのころ、将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた(この間、藤原秀郷は将門側につこうとしていたとも云われる)。

すると間もなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷と力を併せて4000の兵を集めているとの報告が入った。将門のもとには1000人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えてその人数で出陣した。

藤原玄茂の率いる将門軍の先鋒は、貞盛と秀郷の軍に撃破され、下総国で合戦になるもわずかな手勢の将門軍の勢いは揮わず、退却を余儀なくされた。

貞盛と秀郷はさらに兵を集めて、将門の本拠である石井に攻め入り、火を放った。将門は兵を召集するが、劣勢のためになかなか集まらず、わずか400の兵で陣を敷いた。そして、貞盛と秀郷の軍には藤原為憲も加わり、連合軍と将門の合戦が始まった。

南風(春一番)が吹き荒れると、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、貞盛、秀郷、為憲の軍を撃破した。しかし、将門が勝ち誇って自陣に引き上げる最中、急に風向きが変わり北風(寒の戻り)になり、風を負って勢いを得た連合軍は反撃に転じた。

将門は自ら先頭に立って奮戦するが、何処からか飛んできた矢が将門の額に命中し、その瞬間に首を刎ねられた。すると、将門の首は勢いよく飛び立ち、現在の東京の大手町に落ちたという。なお、将門に刺さった矢には藤原秀郷の名が刻まれていたとされる(また、将門の胴体は首を追いかけていき、途中で力尽きた場所が神田明神とも)。

将門の死によって将門軍は鎮圧され、その後、関東独立国はわずか2ヶ月で瓦解した。また、残党は掃討され、将門の弟たちや興世王、藤原玄明、藤原玄茂などは皆誅殺された。そして、将門を討った秀郷には従四位下、貞盛、為憲には従五位下がそれぞれ授けられた。

※藤原秀郷(ふじわらのひでさと):当時の関東最強の武士(俵藤太とも)。近江三上山の百足退治の伝説で有名

将門の首

平将門の乱の後、将門の首は京に持ち帰られて梟首(晒し首)とされた。しかし、将門の首は何ヶ月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかった。

しかし、歌人の藤六左近がそれを見て「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて」と歌を詠み上げると、将門はカラカラと笑い、たちまち朽ち果てたという(また、将門の首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいう)。

境内社

世継稲荷神社

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築土神社の境内社・世継稲荷神社(よつぎいなりじんじゃ)です。

祭神に稲荷神・倉稲魂命(ウカノミタマ)を祀っています。

嘉吉元年(1441年)頃に飯田町に創建された稲荷神社であり、当時周辺を田安郷と呼んだことから元は「田安稲荷」と称されていたとされます。その後、天正18年(1590年)に二代将軍・徳川秀忠が参詣した際、橙の木を見て「代々世を継ぎ栄える宮」と称賛したことから、「世継稲荷」と称されるようになったそうです。

しかし、元禄10年(1697年)の大火で被害を受けてしまったそうですが、その翌年に再建した頃より地域町人の守護神になっていったとされています。また、享保15年(1730年)以降、田安家の鎮守神としても崇拝されたとされ、文久2年(1862年)には14代将軍・徳川家茂の正妻・和宮が子宝を願って参詣したことから、現代も子宝や後継者を願う人々からの信仰を集めているそうです。

なお、社殿の横には狐像が奉納された石祠が安置されています。

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石祠

境内の見どころ

鳥居

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築土神社の鳥居です。

巨大なビルの真下に設置されています。

狛犬

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阿形(角)
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吽形(宝珠)

築土神社の狛犬です。

案内板によれば、安永9年(1780年)に元飯田町の住人によって奉納されたものとされています。

また、阿形の頭上には「」が、吽形の頭上には「宝珠」が乗せられているのが分かります。

これは阿形を「狛犬」、吽形を「獅子」と区別するものと推測されているようです。

拝殿

人文研究見聞録:築土神社(築土明神) [東京都]

築土神社の拝殿です。

社殿には将門公が用いた九曜紋があしらわれ、唐破風の上には鳳凰らしきオブジェが配されています。

本殿

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築土神社の本殿です。

力石

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築土神社の境内にある力石です。

この石は、かつて若者達が力試しに用いたものとされており、都内の多くの神社に安置されています。

また村々の境から入ってくる魔を防ぐための「道切」という説もあるようです。

天水桶

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築土神社の境内にある天水桶です。

文政元年(1818年)に元飯田町の氏子によって奉納されたものとされ、桶表面には将門公の繋馬が刻まれています。

料金: 無料
住所: 東京都千代田区九段北1-14-21
営業: 9:00~18:00、無休
交通: 九段下駅(1番出口徒歩30秒)

公式サイト: http://www.tsukudo.jp/
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。