人文研究見聞録:伊勢にまつわる伝説・伝承

史書や神道資料に見られる伝説・伝承についてまとめています。

半ば私的な資料として集めた専門的な情報ですので、研究される方は参考にしてみてください。

なお、以下は個人的に気になるものを抜粋しており、書物全文を載せているわけではありません。

※書き下し文を独自に訳しているため、誤訳がある可能性があります。

伊勢神宮の外宮・内宮についてはこちらの記事を参照:【皇大神宮(内宮)】【豊受大神宮(外宮)】



日本書紀

倭姫命伝説


垂仁天皇25年3月10日。

天照大神(アマテラス)を豐耜入姫命(トヨスキイリビメ)から離し、倭姫命(ヤマトヒメ)をつけました。

倭姫命は天照大神を鎮座する場所を求めて、菟田(うだ)の筱幡(ささはた)に至りました。また、そこから引き返して近江国へと入り、東の美濃を巡って、伊勢国に至りました。

そのとき、天照大神は倭姫命に「この神風(かむかぜ)の伊勢国は、常世の国からやってくる浪(なみ)が重浪(しきなみ)して帰せる国である。傍國(かたくに)で、可怜國(うましくに)である(傍の国の中でも美しい国である)。私はこの国に住みたいと思う」と教えました。

そこで、天照大神の教えた通りに祠(やしろ)を伊勢国に立て、斎宮(いわいのみや)を五十鈴川の川上に立てました。磯宮(いそのみや)といいます。天照大神が初めて天より降りた場所です。


風土記

伊勢国風土記 伊勢國號(伊勢国の由緒)


伊勢の國の風土記に曰く、そもそも伊勢の國は、天御中主尊(アメノミナカヌシ)の十二世の孫、天日別命(アメノヒワケ)の平治(ことむ)けし(言葉で説得して服従させた)所である。

天日別命は、神倭磐餘彦の天皇(神武天皇)、彼の西の宮より此の東の州(くに)を征伐した時、天皇に随って紀伊の國の熊野の村に到った。時に、金(こがね)の烏の導きの隨(まにま)に中州(なかつくに)に入って、菟田の下縣に到った。

天皇は大部(おほとも)の日臣命に「逆う黨(ともがら)、膽駒(いこま)の長髓(ながすね)を早く征伐せよ」と勅命を下し、また、天日別命に「天津の方に國あり。その國を平(ことむ)けよ」と勅命を下し、そこで宮中の劔を与えた。

天日別命は勅命に従い、数百里(いくももさと)東へ進んだ。 その邑(むら)に神あり、名を伊勢津彦(イセツヒコ)という。天日別命は「汝(いまし)の國を天孫(あめみま)に献上せよ」と問うと、「私は此の國を探して長らく居住している。その命を聞くことはできない」と答えた。

天日別命は兵を起こしてその神を殺そうとしたが、その時に伊勢津彦が畏み伏して啓し「我が國はことごとくに天孫に献上した。私は敢えて居ることもあるまい」と申し上げた。天日別命は「汝の去る時には、何か証拠を残せ」と言い、伊勢津彦は「私は今夜(こよひ)を以って八風(やかぜ)を起して海水(うしほ)を吹き、波浪(なみ)に乗って東に入ります。これはすなわち私が去った証拠です」と申し上げた。

天日別命が兵を整えて窺っていると、中夜(よなか)に大風が起こって波瀾(なみ)を扇擧(うちあ)げ、光(てり)耀きて日の如く、陸(くが)も海も共に朗かに、遂に波に乗って東に去った。

古語(ふること)に、神風の伊勢の國、常世の浪寄せる國と云われるのは恐らくこのものを指し、これをいうのであろう(伊勢津彦の神は、近く信濃の國に住んだという)。

天日別命はこの國を手懐けて天皇に復命(かへりごと)をした。天皇はたいへん歓んで「國はほどよく國神(くにつかみ)の名を取って、伊勢と號せよ」と詔して、即(やが)て、天日別命の封地(よさしどころ)の國となり、宅地(いへどころ)を大倭の耳梨(みみなし)の村に与えた。

〔ある本では、天日別命の詔を奉って、熊野の村より直に伊勢の國に入り、荒ぶる神を殺戮し、遵(まつろ)はぬものを罰(きた)して平定し、山川を境に地邑(くにむら)を定めた後、橿原の宮に復命したとある。〕


伊勢国風土記 伊勢(伊勢の由来)


伊勢の國の風土記に曰く、伊勢と云うのは伊賀の安志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子の出雲健子命(イヅモタケコ)、又の名は伊勢都彦命(イセツヒコ)、又の名は櫛玉命(クシタマ)という。

この神は昔、石で城を築いて此処に坐していた。そこに安倍志命の神が奪いに来たが、勝てなかったので去っていった。それに因んでこの名となった(伊勢都彦命の名に因んで伊勢となった)。


伊勢国風土記 安佐賀社(阿射加神社の由来)


伊勢の風土記に曰く、天照大神は美濃の國より廻って、安濃の藤方の方樋(かたひ)の宮に到った。

時に安佐賀山に荒ぶる神が住んでおり、百(ももたり)の往人(たびびと)を五十人(いそたり)亡(ころ)し、四十(よそたり)の往人をば廾人(はたちびと)亡した(荒ぶる神によって、住人の半数が亡くなった)。これによって倭姫命(ヤマトヒメ)は度會の郡の宇遲の村の五十鈴の河上の宮に入ることができず、藤方の片樋の宮に齋き奉った。

時に阿佐賀山の荒悪(あら)ぶる神の為行(しわざ)を、倭姫命、中臣の大鹿嶋命、伊勢の大若子命、忌部の玉櫛命を遣わして、天皇に報告した。

天皇は「その國は、大若子命の先祖(とほつおや)の天日別命が平定した山である。大若子命、その神を祀り平(やは)して、倭姫命を五十鈴の宮に入り奉れ」と詔し、種々の幣(みてぐら)を与えて使者を還した。

大若子命、その神を祀って、已に保(やす)けく平定(しづ)めて、社を安佐賀に立てて祀った。


伊賀国風土記 伊賀國號(伊賀国の由緒)


伊賀の國の風土記。伊賀の郡。

猿田彦(サルタヒコ)の神は、始め伊勢の加佐波夜(かざはや)の國(伊勢國)に属していた。時に二十餘萬歳(長い日月の間)に此の國を見つけた。

猿田彦の神の娘の吾娥津媛命(アガツヒメ)は、日神之御神(ヒノミカミ)が天上より投げ降した三種(みくさ)の寶器(たから)の内、金の鈴を見つけて守っていた。

その見つけ守っていた御齋(いつき)の処を加志の和都賀野(わつかの)と云う。今の時代に手柏野(たかしはの)と云うのは、此れその言の謬(あやま)れるなり(和都賀野の誤り)。

また、この神の見つけ守っていた國に因んで、吾娥の郡と云う。

その後、淸見原の天皇(天武天皇)の御代に吾娥の郡を以って、分けて國の名と為した。その國の名の定まらぬこと十餘歳である(10余年の間、国の名が定まらなかった)。これを加羅具似(からくに)と云うのは虚國(むなしくに)の義である。

後、伊賀と改めた。吾娥の音(こゑ)の轉(うつ)れるなり。


倭姫命世記

天孫降臨


天地開闢(てんちかいびゃく)の頃、初めて日が昇る時に御饌都神(ミケツカミ)と大日靈貴(オホヒルメノムチ)は、淡い契(ちぎり)を結んで、永く天下を照らし治めることの言寿ぎ(祝福)をされた。あるいは月となり日となり、永く落ちることなく、あるいは神となり、皇(すめろぎ)となり、常に極みなかれと。

その光が国々を照らし始めて以降、高天原に神として留まられる皇親神漏岐(スメムツカムロキ)・神漏美命(カムロミノミコト)の二神によって八百万の神(やおよろずのかみ)が天の高市に集められ、神たちの神議(かみはかり)にて「大葦原の千五百秋の端穂国(おおあしはらのちいおあきのみずほのくに)は、我が子孫の治める国である。平穏に国を治めるべく、我が皇御孫尊(スメミマノミコト)を天降らせて統治せよ」と命令を下した。

また、荒ぶる神を遣わして平定せよとも命令し、神議によって諸神は「天穂日命(アメノホヒ)を遣して平定するのが良い」との答えを出した。そして天穂日命が天降ったが、この神は報告することがなかった。

次に遣わされた天穂日命の子・健三熊命(タケミクマ)も、父神に従って報告をしなかった。さらに遣わされた天若彦(アメノワカヒコ)も報告をせず、遣い鳥の殃(わざわい)によって立ち処に身を亡くした。

そこで天津神の命令によって、経津主命(フツヌシ)と健雷命(タケミカヅチ)の二神が天降った。

2神は、大己貴神(オホナムチ)とその子・事代主神(コトシロヌシ)を説得して、大己貴神が国造りのときに身につけた広矛を借り受け、螢火光神(ホタルヒノカガヤクカミ)や五月蝿なす声邪しき荒ぶる鬼神(サバエナスアシキアラブルオニカミ)たちに神祓え神和めを為すと言い聞かせ、騒いだ磐根(いはね)や樹立(きねたち)、草の片葉(かきは)まで語(発語)を止めたので、2神は「葦原中国(あしはらのなかつくに)は皆すでに祓われ平穏になった」と復命した。

天照大神は、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)・八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剱(くさなぎのつるぎ)の三種の神財(みたから)を皇孫に授けて、「これを永く天つ璽(しるし)となせ、この宝鏡を視ることは正に我を視る如く、ともに同床共殿せる斎鏡となし、宝祚の隆(さかえ)はまさに天壌(あめつち)と窮まり無し」と宣言した。

天津彦火瓊々杵尊(ニニギ)に伴神として従う天児屋命(アメノコヤネ)は、先に祓えを司って「謹み請ひて再拝す。諸神たち各々念へ。この時天地清浄と、諸法は影像の如くなり。清浄は仮初にも穢れ無し。説を取りて得べからず。皆因より業を生せり」と命令をかえりみた。

また、太玉命(アメノフトダマ)は青和幣(あおにぎて)白和幣(しろにぎて)を捧げ、天牟羅雲命(アメノムラクモ)は太玉串を取り、かくして32神が前後に相副って従い、天の関を開き、雲路を分けて道を祓い、皇御孫命は天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて、筑紫の日向の高千穂の串触の峯に天降った。

それより天下を治めること21万8543年。この時は天と地は遠くなかったため、天つ柱を立てて天上に挙げ届けた。

天津彦彦火瓊瓊杵尊〔正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(オシホミミ)の太子。母は栲幡千姫(タクハタチチヒメ)で高皇産霊尊(タカミムスヒ)の娘〕。
彦火火出見尊(ヒコホホデミ)〔天津彦彦火瓊瓊杵尊の第二子。母は木花開耶姫(コノハナノサクヤヒメ)で大山祇神(オホヤマツミ)の娘〕。天下を治めること63万7892年。
彦波瀲武鵜草茸不合尊(ウガヤフキアヘズ)〔彦火火出見尊の太子。母は豊玉姫(トヨタマヒメ)で海童(ワタツミ)の娘〕。天下を治めること83万6032年。

ここでは言葉で説得して服従させる「ことむけ」というニュアンスで描かれる


豊鋤入姫命


御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)の即位6年秋9月、倭笠縫邑(かさぬいむら)に磯城(しき)の神籬(ひもろぎ)を立て、天照大神と草薙の剱(くさなぎのつるぎ)を奉遷し、皇女豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメ)に奉斎させた。

その遷祭の夕べに、宮人は皆 参詣し、終夜、宴楽歌舞した。その後、大神の教えのままに、国々処々に大宮処(おおみや)を求めた。神武天皇以来九帝の間 同殿共床にあり、ようやく神の勢いをおそれ、共に住むことは良くないと、改めて斎部氏に命じて、石凝姥神(イシコリドメ)の子孫、天日一箇(アメノマヒトツ)の子孫の二氏を率いて、更めて鏡と剱(つるぎ)を鋳造し、以て護身の御璽(印章)と為した。

今の践祚(せんそ)の日に献じる神璽鏡剱(帝位に就くための璽)はこれである〔内侍所という〕。

崇神天皇39年、但波(たんば)の吉佐宮(真名井神社)に遷幸し、4年間奉斎。ここから更に倭国へ求める。この年に豊宇介神(トヨウケノカミ)が天降って(天照大神に)御饗を奉る。
崇神天皇43年、倭国伊豆加志本宮(与喜天満神社)に遷り、8年間奉斎。
崇神天皇51年、木乃国奈久佐浜宮(濱宮)に遷り、3年間奉斎。この時、紀国造は舎人・紀麻呂、良き地口・御田を進った。
崇神天皇54年、吉備国名方浜宮に遷り、4年間奉斎。この時、吉備国造は采女・吉備都比売、地口・御田を進った。


倭姫命


崇神天皇58年、倭弥和乃御室嶺上宮(高宮神社)に遷り、2年間奉斎。この時、豊鋤入姫命は「私には時間が足りない」と言い、姪の倭比売命(ヤマトヒメ)に命を引き継ぎ、御杖代(みつえしろ)と定めた。これより倭姫命が天照大神を奉戴して行幸した〔相殿神は天児屋命(アメノコヤネ)、太玉命(フトダマ)。御戸開闢神は天手力男神(アメノタヂカラオ)、拷幡姫命(タクハタヒメ)。御門神は豊石窓(トヨイワマド)、櫛石窓命(クシイワマド)。並びに五部伴神、相副って仕え奉る〕。

崇神天皇60年、大和国宇多秋宮(阿紀神社)に遷り、4年間奉斎。この時の倭国造は、采女・香刀比売(カトヒメ)、地口・御田を進った。天照大神が倭姫命の夢に現れ「高天原に居たときに我が見た国に、我を奉れ」と諭し教えた。倭姫命はここより東に向って乞い、誓約(うけい)をして「私が進む処に良きことがあるのであれば、未嫁夫童女(未婚の女性)に逢え」と祈祷して幸行した。

すると、佐々波多が門(菟田筏幡)に童女(おとめ)が現われたので、「あなたは誰だ」と問うと、「私めは天見通命の孫、八佐加支刀部(ヤサカキトメ)〔またの名を伊己呂比命(イコロヒ)〕の子、宇太乃大称奈(ウダノオホネナ)です」と申し上げた。

また、「御供として仕えないか」と問えば「仕えます」と申上げた。そして、御共に従えた童女を大物忌(おほものいみ)と定めて、天の磐戸の鑰(かぎ)を領け賜って、黒き心を無くして、丹き心を以って、清潔く斎慎み、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、左に帰り右に廻る事も万事違う事なくして、天照大神に仕え奉った。元(はじめ)を元とし、本を本にする所縁である。また弟・大荒命も同じく仕えた。宇多秋宮より幸行して、佐々波多宮に坐した。

崇神天皇64年、伊賀国隠市守宮(なばりのいちもりのみや)に遷幸した。2年間奉斎〔伊賀国は、天武天皇の庚辰歳7月に伊勢国の四郡を割いて彼国を立てた〕。

崇神天皇66年、同国の穴穂宮(あなほのみや)に遷り、4年間奉斎。伊賀国造は、箆山葛山戸(みふぢくろかづらやまのへ)、並びに地口・御田を進上した。鮎(細鱗魚)取る淵・梁作る瀬など、朝御饌・夕御饌を供え進上した。


五十鈴河後の江


そこから幸行して五十鈴河の後の江に入ると佐美川日子(サミツヒコ)が現れたので、「この河の名は何と言う」と問うと「五十鈴河後です」と申上げた。その処に江社(江神社)を定められた。

また、荒崎姫(アラサキヒメ)が現われたので国の名を問うと「皇太神の御前の荒崎です」と申し上げた。「恐しい」と詔して、神前社(神前神社)を定められた。

この江の上に幸行して御船を泊め、そこの名を御津浦(みつうら)と名付けた。

更に上に幸行すると、小嶋があり、その嶋に坐して山末や河内を見廻らすと、大屋門の如きところの前に平地があったので、そこに上って、そこの名を大屋門と名付けた。

さらに幸行して、神淵河原に坐すと、苗草を頭に載せる耆女(おみな)が現われたので、「あなたは何をしているのか」と問うと、「私は苗草を取る女で、名は宇遅都日女(ウヂツヒメ)と言います」と申上げた。また、「どうして、こうなったのか」と問うと、耆女は「この国は鹿乃見哉毛為(かのみやもい)です」と申し上げたので、そこを鹿乃見(かのみ)と名付けた。「何そこれ」と問うと「止可売(とかめ)」と申上げたので、そこを止鹿乃淵(とかのふち)と名付けた。

そこから矢田宮に幸行した。次に家田の田上の宮に遷幸し、その宮に坐す時、度会大幡主命(ワタライオオハタヌシ)、皇太神の朝御饌・夕御饌処の御田を定め奉った。宇遅田々上にある抜穂田(ぬきほだ)のことである。

そこから幸行し、奈尾之根宮(なをしねのみや)に座す時、出雲神の子・出雲建子命(イヅモタケコ)、またの名を伊勢都彦神(イセツヒコ)、またの名を櫛玉命(クシタマ)、並びにその子・大歳神(オオトシ)、桜大刀命(サクラトシ)、山神・大山罪命(オオヤマツミ)、朝熊水神(アサクマノミナト)たちが、五十鈴川の後江で御饗を奉った。

その時、猿田彦神(サルタヒコ)の子孫、宇治土公の祖の大田命(オオタ)が現われたので、「あなたの国の名は何と言う」と問うと「さこくしろ宇遅の国(世の中心の宇治の国)です」と申し上げ、御止代の神田を進上した。

倭姫命が「宮居に良い土地はあるか」と問うと、「さこくしろ宇遅の五十鈴の河上には、大日本の国の中にも優れた霊地があります。その中に、翁三十八万歳の間にも未だ知られていない霊物(れいもつ)があります。それは照り輝くこと日月のようです。思うに小縁の物ではないでしょう。定めて主が現れ坐する時に『献るべし』と思いまして此処に敬い祀っています」と答えた。

これにより彼の処に往き到って、御覧じれば、昔、大神が誓願されて、豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)の内の伊勢のかさはや(風早)の国に美し宮処(うましのみやどころ)ありと見定められ、天上から投げ降ろされた天の逆太刀・逆桙・金鈴等がそこにあったので、甚く懐に喜ばれて言上げされた。


五十鈴河上


垂仁天皇26年冬10月、天照太神を奉遷し、度会(わたらい)の五十鈴の河上に留る。

この年に倭姫命は、大幡主命、物部八十友諸人たちに「五十鈴原の荒草・木根を苅り掃い、大石・小石を造り平げて、遠山(をちのやま)・近山(こちのやま)の大峡(おほかひ)・小峡(をかひ)の立木を斎部の斎斧で伐り採り、本末は波山祇(ハヤマツミ)に奉り、中間を持出し来て斎鋤で斎柱を立て〔またの名を天御柱、またの名を心御柱〕、高天原に千木高知りて、下つ磐根に大宮柱広敷立て、天照太神並びに荒魂宮和魂宮と鎮まり坐し奉る」と命じた。

美船神、朝熊水神たちは御船に乗って、五十鈴の河上に遷幸した。この時、河際で倭姫命の長い御裳の裾の汚れを洗われた。以来、その河際を御裳濯川(みもすそがわ)という。

采女忍比売に、天の平瓮八十枚を造らせ、天富命孫に神宝鏡・大刀・小刀・矛楯・弓箭・木綿等を作らせ、神宝・大幣を備えた。すると、皇太神(すめおおかみ)が倭姫命の夢に現われ、「我が高天原に居る時、甕戸(みかと)に押し張り、むかし見て求めた国の宮処は此処である。此処に祀りたまえ」と諭された。

倭姫命は、御送駅使安部武渟河別命、和珥彦国茸命、中臣国摩大鹿嶋命、物部十千根命、大伴武日命、度会大幡主命らに、夢の状を教え知らせた。

大幡主命は悦び、「神風の伊勢国、百船 度会県(わたらいあがた)、さこくしろ宇治の五十鈴の河上に鎮り定まり坐す皇太神」と国寿き申し上げ、終夜ら宴楽舞歌し、日小宮の儀の如く祭った。倭姫命は「朝日来向ふ国、夕日来向ふ国、浪音聞えざる国、風音聞えざる国、弓矢柄音聞えざる国、打まきしめる国、敷浪七保国の吉き国、神風の伊勢国の百伝ふ度会県の さくくしろ五十鈴宮に鎮り定り給ふ」と国寿きされた。

送駅使が朝廷に還り上り、倭姫命の夢の状を返事申上げると、天皇はこれを聞いて大鹿嶋命(オオカシマ)を祭官に定め、大幡主命(オオハタヌシ)を神の国造兼大神主に定められた。

神館を造り立て、物部八十友諸人らを率いて、雑雑の神事を取り総べ、天太玉串を捧げて供奉させた。よって斎宮を宇治県の五十鈴川上の大宮の際に興し、倭姫命をして居らしめた。

また、八尋機屋を建て、天棚機姫神(アメノタナバタヒメ)の孫・八千々姫命(ヤチヂヒメ)に天照大神の御衣を織らせることは、天上なる儀の如し〔宇治機殿と号す。またの名を礒宮(磯神社)〕。

次に、櫛玉命、大年神、大山津見山神、朝熊水神らが饗を奉れる彼処に神社を定められ、神宝〔伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)の捧げ持つ白銅鏡二面のこと。日神月神の化成した鏡であり、水火二神の霊物である〕を留め置いた。

※皇太神(すめおおかみ):伊勢神宮における天照大神(アマテラス)の神名


御饌つ国、志摩


倭姫命は御船に乗り、御膳御贄処を定めた。

嶋(志摩)の国の国崎嶋に幸行し、「朝御饌、夕御饌」と詔して湯貴潜女(ゆきのかづきめ)等を定め、還るときに神堺を定めた。戸嶋、志波崎、佐加太岐嶋を定め、伊波戸(いはと)に居て、朝御気・夕御気の処を定めた。

倭姫命がここに御船を泊めると、鰭広鰭狭魚、貝つ物、奥つ藻、辺つ藻が寄り来て、海の潮は淡く和み、よって淡海浦と名付けた。伊波戸に居た嶋の名を、戸嶋と名付け、刺す処を柴前(しばさき)と名付けた。

その以西の海中に七つの嶋があり、以南は潮淡く甘く、その嶋を淡良伎の嶋と名付け、潮の淡く満ち溢れる浦の名を、伊気浦(いきのうら)と名付けた。その処に現われて、御饗を仕へ奉った神を淡海子神(アハノミコ)と名付けて社を定め、朝御饌・夕御饌嶋を定めた。

還り幸行して御船を泊めた処を、津長原(つながはら)と名付け、津長社(津長神社)を定められた。

垂仁天皇27年秋9月、鳥の鳴声が高く聞えて、昼夜止まずやかましかったので、「ここは異様である」とおっしゃって、大幡主命と舎人紀麻良を使者に遣わして鳥の鳴く処を見させた。行って見ると、嶋国の伊雑の方上の葦原の中に稲一基があり、根本は一基で、末は千穂に茂っていた。その稲を白真名鶴(しろまなづる)が咋(くわ)えて廻り、突いては鳴き、これを見顕すと、その鳥の鳴声は止んだ。このように返事を申し上げた。

倭姫命は「恐しい。物を言わない鳥すら田を作る。皇太神に奉れる物を」と詔して物忌(ものいみ)を始められ、彼の稲を伊佐波登美神(イサワトミ)に命じて抜穂(ぬきほ)をさせ、皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。その穂を大幡主の女子・乙姫(オトヒメ)に清酒に作らせ、御餞に奉った。

千税を始奉る事、茲に因るなり。彼の稲の生えた地は、千田と名付け、嶋国の伊雑の方上にある。その処に伊佐波登美の神宮を造り奉り、皇太神の摂宮と為した。伊雑宮(いざわのみや)がこれである。彼の鶴真鳥を名づけて大歳神(オオトシ)という。同じ処の税を奉る。またその神は、皇太神の坐す朝熊の河後の葦原の中に石に坐す。彼神を小朝熊山嶺に社を造り、祝奉りて坐す。大歳神(オオトシ)と称えるのは是である。

また、明る年秋のころ、真名鶴は皇太神宮に向かって天翔り、北より来て、日夜止まずに翔り鳴いた。時は昼の始めである。倭姫命は異しまれて、足速男命を使者として様子を見に行かせた。使者が行くと、鶴は佐々牟江宮の前の葦原の中に還って行きながら鳴いていた。そこへ行って見ると、葦原の中から生へた稲の、本は一基で、末は八百穂に茂り、(鶴は穂を)咋え捧げ持って鳴いた。使者が見顕すと鳴声は止み、天翔る事も止めた。このように返事を申し上げた。

倭姫命は歓ばれて「恐しい、皇太神入り坐せば鳥禽相悦び、草木共に相随いて奉る。稲一本は千穂八百穂に茂れり」と詔して、竹連吉比古らに仰せて、初穂を抜穂に半分抜かしめ、大税に苅らしめ、皇太神の御前に懸け奉った。抜穂は細税といい、大苅は太半といい、御前に懸け奉った。よって、天都告刀に「千税八百税余り」と称へ白して仕奉る。鶴の住処には八握穂社を造り祠った。

また「伊鈴の河の漑水道田には、苗草敷かずして、作り養え」と詔った。

また「我が朝御饌・夕御饌の御田作る家田の堰の水の道の田には、田蛭穢しければ、我田には住まはせじ」とおっしゃった。


豊宇気大神


泊瀬朝倉宮大泊瀬稚武天皇(雄略天皇)の即位21年冬10月、倭姫命の夢の中で「皇太神、吾一所耳坐さば、御饌も安く聞こし食さず、丹波国与佐の小見比治の魚井原に坐す道主の子、八乎止女の斎奉る御饌都神(ミケツカミ)・止由居太神(トユケノオホカミ)を、我が坐す国に欲し」と教え諭した。

時に大若子命(オオワクゴ)を差し使わし、朝廷に参上したときに御夢の状を申させた。即ち天皇は勅して、「汝、大若子、使者としてまかり往きて、布理奉れ」とおっしゃった。

故に手置帆負(タオキホオイ)・彦狭知(ヒコサシリ)の二神の子孫を率いて、斎斧・斎鋤等を以って始めて山材を採り 宝殿を構へ立て、翌年秋7月7日、大佐々命を以って丹波国余佐郡真井原より止由気皇太神(トユケノオホカミ)を迎へ奉り、度会の山田原の下つ磐根に大宮柱広敷き立て、高天原に千木高知りて鎮り定り座せと称へ、辞定め奉りて饗奉り、神賀の吉詞を白し賜へり。

また、神宝を僉納む。兵器(武器)を卜へて神幣と為す。更に神地神戸を定めて、二所皇太神宮の朝大御饌・夕大御饌を、日別に斎敬に供え進上する。また天神の訓の随に土師物忌を定置き、宇仁の波迩を取りて、天平瓮八十枚を造りて、敬いて諸宮に祀る。

また、皇太神の第一摂神、荒魂多賀宮をば、豊受太神宮に副従ひ奉り給う者なり。
また、勅宣に依り、大佐々命を以って二所太神宮大神主職に兼行い仕奉らしむ。
また、丹波道主命の子、始めて物忌を奉り、御飯を炊満て供進る、御炊物忌これなり。
また、須佐乃乎命御玉、道主貴社を定む、粟御子神社に座すはこれなり。
また、大若子命社を定む。大間社是なり、宇多大采祢奈命祖父・天見通命の社を定む、田辺氏神社是なり。

惣に此の御宇に、摂社44前を崇め祀る。爰に皇太神重ねて託宣く、「吾が祭を仕奉る時、先づ止由気太神宮(トユケノオホカミ)を祭奉るべし。然後に我宮の祭事を勤仕ふべし。」故、すなわち諸祭事は此宮(外宮)を以って先とする。

また、皇神託宣く、「その宮を造る制は柱は則ち高く太く、板は則ち広く厚かれ。これ皇天の昌運、国家の洪啓ことは宜しく助くべく神器の大造なり」。すなわち皇天の厳命を承けて日小宮の宝基を移し、伊勢両宮を造る。

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著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。