2015年10月4日日曜日

伊勢にまつわる伝説・伝承

人文研究見聞録:伊勢にまつわる伝説・伝承

史書や神道資料に見られる伝説・伝承についてまとめています。

半ば私的な資料として集めた専門的な情報ですので、研究される方は参考にしてみてください。

なお、以下は個人的に気になるものを抜粋しており、書物全文を載せているわけではありません。

※書き下し文を独自に訳しているため、誤訳がある可能性があります。

伊勢神宮の外宮・内宮についてはこちらの記事を参照:【皇大神宮(内宮)】【豊受大神宮(外宮)】



日本書紀

倭姫命伝説

垂仁天皇25年3月10日。

天照大神(アマテラス)を豐耜入姫命(トヨスキイリビメ)から離し、倭姫命(ヤマトヒメ)をつけました。

倭姫命は天照大神を鎮座する場所を求めて、菟田(うだ)の筱幡(ささはた)に至りました。また、そこから引き返して近江国へと入り、東の美濃を巡って、伊勢国に至りました。

そのとき、天照大神は倭姫命に「この神風(かむかぜ)の伊勢国は、常世の国からやってくる浪(なみ)が重浪(しきなみ)して帰せる国である。傍國(かたくに)で、可怜國(うましくに)である(傍の国の中でも美しい国である)。私はこの国に住みたいと思う」と教えました。

そこで、天照大神の教えた通りに祠(やしろ)を伊勢国に立て、斎宮(いわいのみや)を五十鈴川の川上に立てました。磯宮(いそのみや)といいます。天照大神が初めて天より降りた場所です。


風土記

伊勢国風土記 伊勢國號(伊勢国の由緒)

伊勢の國の風土記に曰く、そもそも伊勢の國は、天御中主尊(アメノミナカヌシ)の十二世の孫、天日別命(アメノヒワケ)の平治(ことむ)けし(言葉で説得して服従させた)所である。

天日別命は、神倭磐餘彦の天皇(神武天皇)、彼の西の宮より此の東の州(くに)を征伐した時、天皇に随って紀伊の國の熊野の村に到った。時に、金(こがね)の烏の導きの隨(まにま)に中州(なかつくに)に入って、菟田の下縣に到った。

天皇は大部(おほとも)の日臣命に「逆う黨(ともがら)、膽駒(いこま)の長髓(ながすね)を早く征伐せよ」と勅命を下し、また、天日別命に「天津の方に國あり。その國を平(ことむ)けよ」と勅命を下し、そこで宮中の劔を与えた。

天日別命は勅命に従い、数百里(いくももさと)東へ進んだ。 その邑(むら)に神あり、名を伊勢津彦(イセツヒコ)という。天日別命は「汝(いまし)の國を天孫(あめみま)に献上せよ」と問うと、「私は此の國を探して長らく居住している。その命を聞くことはできない」と答えた。

天日別命は兵を起こしてその神を殺そうとしたが、その時に伊勢津彦が畏み伏して啓し「我が國はことごとくに天孫に献上した。私は敢えて居ることもあるまい」と申し上げた。天日別命は「汝の去る時には、何か証拠を残せ」と言い、伊勢津彦は「私は今夜(こよひ)を以って八風(やかぜ)を起して海水(うしほ)を吹き、波浪(なみ)に乗って東に入ります。これはすなわち私が去った証拠です」と申し上げた。

天日別命が兵を整えて窺っていると、中夜(よなか)に大風が起こって波瀾(なみ)を扇擧(うちあ)げ、光(てり)耀きて日の如く、陸(くが)も海も共に朗かに、遂に波に乗って東に去った。

古語(ふること)に、神風の伊勢の國、常世の浪寄せる國と云われるのは恐らくこのものを指し、これをいうのであろう(伊勢津彦の神は、近く信濃の國に住んだという)。

天日別命はこの國を手懐けて天皇に復命(かへりごと)をした。天皇はたいへん歓んで「國はほどよく國神(くにつかみ)の名を取って、伊勢と號せよ」と詔して、即(やが)て、天日別命の封地(よさしどころ)の國となり、宅地(いへどころ)を大倭の耳梨(みみなし)の村に与えた。

〔ある本では、天日別命の詔を奉って、熊野の村より直に伊勢の國に入り、荒ぶる神を殺戮し、遵(まつろ)はぬものを罰(きた)して平定し、山川を境に地邑(くにむら)を定めた後、橿原の宮に復命したとある。〕


伊勢国風土記 伊勢(伊勢の由来)

伊勢の國の風土記に曰く、伊勢と云うのは伊賀の安志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子の出雲健子命(イヅモタケコ)、又の名は伊勢都彦命(イセツヒコ)、又の名は櫛玉命(クシタマ)という。

この神は昔、石で城を築いて此処に坐していた。そこに安倍志命の神が奪いに来たが、勝てなかったので去っていった。それに因んでこの名となった(伊勢都彦命の名に因んで伊勢となった)。


伊勢国風土記 安佐賀社(阿射加神社の由来)

伊勢の風土記に曰く、天照大神は美濃の國より廻って、安濃の藤方の方樋(かたひ)の宮に到った。

時に安佐賀山に荒ぶる神が住んでおり、百(ももたり)の往人(たびびと)を五十人(いそたり)亡(ころ)し、四十(よそたり)の往人をば廾人(はたちびと)亡した(荒ぶる神によって、住人の半数が亡くなった)。これによって倭姫命(ヤマトヒメ)は度會の郡の宇遲の村の五十鈴の河上の宮に入ることができず、藤方の片樋の宮に齋き奉った。

時に阿佐賀山の荒悪(あら)ぶる神の為行(しわざ)を、倭姫命、中臣の大鹿嶋命、伊勢の大若子命、忌部の玉櫛命を遣わして、天皇に報告した。

天皇は「その國は、大若子命の先祖(とほつおや)の天日別命が平定した山である。大若子命、その神を祀り平(やは)して、倭姫命を五十鈴の宮に入り奉れ」と詔し、種々の幣(みてぐら)を与えて使者を還した。

大若子命、その神を祀って、已に保(やす)けく平定(しづ)めて、社を安佐賀に立てて祀った。


伊賀国風土記 伊賀國號(伊賀国の由緒)

伊賀の國の風土記。伊賀の郡。

猿田彦(サルタヒコ)の神は、始め伊勢の加佐波夜(かざはや)の國(伊勢國)に属していた。時に二十餘萬歳(長い日月の間)に此の國を見つけた。

猿田彦の神の娘の吾娥津媛命(アガツヒメ)は、日神之御神(ヒノミカミ)が天上より投げ降した三種(みくさ)の寶器(たから)の内、金の鈴を見つけて守っていた。

その見つけ守っていた御齋(いつき)の処を加志の和都賀野(わつかの)と云う。今の時代に手柏野(たかしはの)と云うのは、此れその言の謬(あやま)れるなり(和都賀野の誤り)。

また、この神の見つけ守っていた國に因んで、吾娥の郡と云う。

その後、淸見原の天皇(天武天皇)の御代に吾娥の郡を以って、分けて國の名と為した。その國の名の定まらぬこと十餘歳である(10余年の間、国の名が定まらなかった)。これを加羅具似(からくに)と云うのは虚國(むなしくに)の義である。

後、伊賀と改めた。吾娥の音(こゑ)の轉(うつ)れるなり。


倭姫命世記

天孫降臨

天地開闢(てんちかいびゃく)の頃、初めて日が昇る時に御饌都神(ミケツカミ)と大日靈貴(オホヒルメノムチ)は、淡い契(ちぎり)を結んで、永く天下を照らし治めることの言寿ぎ(祝福)をされた。あるいは月となり日となり、永く落ちることなく、あるいは神となり、皇(すめろぎ)となり、常に極みなかれと。

その光が国々を照らし始めて以降、高天原に神として留まられる皇親神漏岐(スメムツカムロキ)・神漏美命(カムロミノミコト)の二神によって八百万の神(やおよろずのかみ)が天の高市に集められ、神たちの神議(かみはかり)にて「大葦原の千五百秋の端穂国(おおあしはらのちいおあきのみずほのくに)は、我が子孫の治める国である。平穏に国を治めるべく、我が皇御孫尊(スメミマノミコト)を天降らせて統治せよ」と命令を下した。

また、荒ぶる神を遣わして平定せよとも命令し、神議によって諸神は「天穂日命(アメノホヒ)を遣して平定するのが良い」との答えを出した。そして天穂日命が天降ったが、この神は報告することがなかった。

次に遣わされた天穂日命の子・健三熊命(タケミクマ)も、父神に従って報告をしなかった。さらに遣わされた天若彦(アメノワカヒコ)も報告をせず、遣い鳥の殃(わざわい)によって立ち処に身を亡くした。

そこで天津神の命令によって、経津主命(フツヌシ)と健雷命(タケミカヅチ)の二神が天降った。

2神は、大己貴神(オホナムチ)とその子・事代主神(コトシロヌシ)を説得して、大己貴神が国造りのときに身につけた広矛を借り受け、螢火光神(ホタルヒノカガヤクカミ)や五月蝿なす声邪しき荒ぶる鬼神(サバエナスアシキアラブルオニカミ)たちに神祓え神和めを為すと言い聞かせ、騒いだ磐根(いはね)や樹立(きねたち)、草の片葉(かきは)まで語(発語)を止めたので、2神は「葦原中国(あしはらのなかつくに)は皆すでに祓われ平穏になった」と復命した。

天照大神は、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)・八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剱(くさなぎのつるぎ)の三種の神財(みたから)を皇孫に授けて、「これを永く天つ璽(しるし)となせ、この宝鏡を視ることは正に我を視る如く、ともに同床共殿せる斎鏡となし、宝祚の隆(さかえ)はまさに天壌(あめつち)と窮まり無し」と宣言した。

天津彦火瓊々杵尊(ニニギ)に伴神として従う天児屋命(アメノコヤネ)は、先に祓えを司って「謹み請ひて再拝す。諸神たち各々念へ。この時天地清浄と、諸法は影像の如くなり。清浄は仮初にも穢れ無し。説を取りて得べからず。皆因より業を生せり」と命令をかえりみた。

また、太玉命(アメノフトダマ)は青和幣(あおにぎて)白和幣(しろにぎて)を捧げ、天牟羅雲命(アメノムラクモ)は太玉串を取り、かくして32神が前後に相副って従い、天の関を開き、雲路を分けて道を祓い、皇御孫命は天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて、筑紫の日向の高千穂の串触の峯に天降った。

それより天下を治めること21万8543年。この時は天と地は遠くなかったため、天つ柱を立てて天上に挙げ届けた。

天津彦彦火瓊瓊杵尊〔正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(オシホミミ)の太子。母は栲幡千姫(タクハタチチヒメ)で高皇産霊尊(タカミムスヒ)の娘〕。
彦火火出見尊(ヒコホホデミ)〔天津彦彦火瓊瓊杵尊の第二子。母は木花開耶姫(コノハナノサクヤヒメ)で大山祇神(オホヤマツミ)の娘〕。天下を治めること63万7892年。
彦波瀲武鵜草茸不合尊(ウガヤフキアヘズ)〔彦火火出見尊の太子。母は豊玉姫(トヨタマヒメ)で海童(ワタツミ)の娘〕。天下を治めること83万6032年。

ここでは言葉で説得して服従させる「ことむけ」というニュアンスで描かれる


豊鋤入姫命

御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)の即位6年秋9月、倭笠縫邑(かさぬいむら)に磯城(しき)の神籬(ひもろぎ)を立て、天照大神と草薙の剱(くさなぎのつるぎ)を奉遷し、皇女豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメ)に奉斎させた。

その遷祭の夕べに、宮人は皆 参詣し、終夜、宴楽歌舞した。その後、大神の教えのままに、国々処々に大宮処(おおみや)を求めた。神武天皇以来九帝の間 同殿共床にあり、ようやく神の勢いをおそれ、共に住むことは良くないと、改めて斎部氏に命じて、石凝姥神(イシコリドメ)の子孫、天日一箇(アメノマヒトツ)の子孫の二氏を率いて、更めて鏡と剱(つるぎ)を鋳造し、以て護身の御璽(印章)と為した。

今の践祚(せんそ)の日に献じる神璽鏡剱(帝位に就くための璽)はこれである〔内侍所という〕。

崇神天皇39年、但波(たんば)の吉佐宮(真名井神社)に遷幸し、4年間奉斎。ここから更に倭国へ求める。この年に豊宇介神(トヨウケノカミ)が天降って(天照大神に)御饗を奉る。
崇神天皇43年、倭国伊豆加志本宮(与喜天満神社)に遷り、8年間奉斎。
崇神天皇51年、木乃国奈久佐浜宮(濱宮)に遷り、3年間奉斎。この時、紀国造は舎人・紀麻呂、良き地口・御田を進った。
崇神天皇54年、吉備国名方浜宮に遷り、4年間奉斎。この時、吉備国造は采女・吉備都比売、地口・御田を進った。


倭姫命

崇神天皇58年、倭弥和乃御室嶺上宮(高宮神社)に遷り、2年間奉斎。この時、豊鋤入姫命は「私には時間が足りない」と言い、姪の倭比売命(ヤマトヒメ)に命を引き継ぎ、御杖代(みつえしろ)と定めた。これより倭姫命が天照大神を奉戴して行幸した〔相殿神は天児屋命(アメノコヤネ)、太玉命(フトダマ)。御戸開闢神は天手力男神(アメノタヂカラオ)、拷幡姫命(タクハタヒメ)。御門神は豊石窓(トヨイワマド)、櫛石窓命(クシイワマド)。並びに五部伴神、相副って仕え奉る〕。

崇神天皇60年、大和国宇多秋宮(阿紀神社)に遷り、4年間奉斎。この時の倭国造は、采女・香刀比売(カトヒメ)、地口・御田を進った。天照大神が倭姫命の夢に現れ「高天原に居たときに我が見た国に、我を奉れ」と諭し教えた。倭姫命はここより東に向って乞い、誓約(うけい)をして「私が進む処に良きことがあるのであれば、未嫁夫童女(未婚の女性)に逢え」と祈祷して幸行した。

すると、佐々波多が門(菟田筏幡)に童女(おとめ)が現われたので、「あなたは誰だ」と問うと、「私めは天見通命の孫、八佐加支刀部(ヤサカキトメ)〔またの名を伊己呂比命(イコロヒ)〕の子、宇太乃大称奈(ウダノオホネナ)です」と申し上げた。

また、「御供として仕えないか」と問えば「仕えます」と申上げた。そして、御共に従えた童女を大物忌(おほものいみ)と定めて、天の磐戸の鑰(かぎ)を領け賜って、黒き心を無くして、丹き心を以って、清潔く斎慎み、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、左に帰り右に廻る事も万事違う事なくして、天照大神に仕え奉った。元(はじめ)を元とし、本を本にする所縁である。また弟・大荒命も同じく仕えた。宇多秋宮より幸行して、佐々波多宮に坐した。

崇神天皇64年、伊賀国隠市守宮(なばりのいちもりのみや)に遷幸した。2年間奉斎〔伊賀国は、天武天皇の庚辰歳7月に伊勢国の四郡を割いて彼国を立てた〕。

崇神天皇66年、同国の穴穂宮(あなほのみや)に遷り、4年間奉斎。伊賀国造は、箆山葛山戸(みふぢくろかづらやまのへ)、並びに地口・御田を進上した。鮎(細鱗魚)取る淵・梁作る瀬など、朝御饌・夕御饌を供え進上した。


五十鈴河後の江

そこから幸行して五十鈴河の後の江に入ると佐美川日子(サミツヒコ)が現れたので、「この河の名は何と言う」と問うと「五十鈴河後です」と申上げた。その処に江社(江神社)を定められた。

また、荒崎姫(アラサキヒメ)が現われたので国の名を問うと「皇太神の御前の荒崎です」と申し上げた。「恐しい」と詔して、神前社(神前神社)を定められた。

この江の上に幸行して御船を泊め、そこの名を御津浦(みつうら)と名付けた。

更に上に幸行すると、小嶋があり、その嶋に坐して山末や河内を見廻らすと、大屋門の如きところの前に平地があったので、そこに上って、そこの名を大屋門と名付けた。

さらに幸行して、神淵河原に坐すと、苗草を頭に載せる耆女(おみな)が現われたので、「あなたは何をしているのか」と問うと、「私は苗草を取る女で、名は宇遅都日女(ウヂツヒメ)と言います」と申上げた。また、「どうして、こうなったのか」と問うと、耆女は「この国は鹿乃見哉毛為(かのみやもい)です」と申し上げたので、そこを鹿乃見(かのみ)と名付けた。「何そこれ」と問うと「止可売(とかめ)」と申上げたので、そこを止鹿乃淵(とかのふち)と名付けた。

そこから矢田宮に幸行した。次に家田の田上の宮に遷幸し、その宮に坐す時、度会大幡主命(ワタライオオハタヌシ)、皇太神の朝御饌・夕御饌処の御田を定め奉った。宇遅田々上にある抜穂田(ぬきほだ)のことである。

そこから幸行し、奈尾之根宮(なをしねのみや)に座す時、出雲神の子・出雲建子命(イヅモタケコ)、またの名を伊勢都彦神(イセツヒコ)、またの名を櫛玉命(クシタマ)、並びにその子・大歳神(オオトシ)、桜大刀命(サクラトシ)、山神・大山罪命(オオヤマツミ)、朝熊水神(アサクマノミナト)たちが、五十鈴川の後江で御饗を奉った。

その時、猿田彦神(サルタヒコ)の子孫、宇治土公の祖の大田命(オオタ)が現われたので、「あなたの国の名は何と言う」と問うと「さこくしろ宇遅の国(世の中心の宇治の国)です」と申し上げ、御止代の神田を進上した。

倭姫命が「宮居に良い土地はあるか」と問うと、「さこくしろ宇遅の五十鈴の河上には、大日本の国の中にも優れた霊地があります。その中に、翁三十八万歳の間にも未だ知られていない霊物(れいもつ)があります。それは照り輝くこと日月のようです。思うに小縁の物ではないでしょう。定めて主が現れ坐する時に『献るべし』と思いまして此処に敬い祀っています」と答えた。

これにより彼の処に往き到って、御覧じれば、昔、大神が誓願されて、豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)の内の伊勢のかさはや(風早)の国に美し宮処(うましのみやどころ)ありと見定められ、天上から投げ降ろされた天の逆太刀・逆桙・金鈴等がそこにあったので、甚く懐に喜ばれて言上げされた。


五十鈴河上

垂仁天皇26年冬10月、天照太神を奉遷し、度会(わたらい)の五十鈴の河上に留る。

この年に倭姫命は、大幡主命、物部八十友諸人たちに「五十鈴原の荒草・木根を苅り掃い、大石・小石を造り平げて、遠山(をちのやま)・近山(こちのやま)の大峡(おほかひ)・小峡(をかひ)の立木を斎部の斎斧で伐り採り、本末は波山祇(ハヤマツミ)に奉り、中間を持出し来て斎鋤で斎柱を立て〔またの名を天御柱、またの名を心御柱〕、高天原に千木高知りて、下つ磐根に大宮柱広敷立て、天照太神並びに荒魂宮和魂宮と鎮まり坐し奉る」と命じた。

美船神、朝熊水神たちは御船に乗って、五十鈴の河上に遷幸した。この時、河際で倭姫命の長い御裳の裾の汚れを洗われた。以来、その河際を御裳濯川(みもすそがわ)という。

采女忍比売に、天の平瓮八十枚を造らせ、天富命孫に神宝鏡・大刀・小刀・矛楯・弓箭・木綿等を作らせ、神宝・大幣を備えた。すると、皇太神(すめおおかみ)が倭姫命の夢に現われ、「我が高天原に居る時、甕戸(みかと)に押し張り、むかし見て求めた国の宮処は此処である。此処に祀りたまえ」と諭された。

倭姫命は、御送駅使安部武渟河別命、和珥彦国茸命、中臣国摩大鹿嶋命、物部十千根命、大伴武日命、度会大幡主命らに、夢の状を教え知らせた。

大幡主命は悦び、「神風の伊勢国、百船 度会県(わたらいあがた)、さこくしろ宇治の五十鈴の河上に鎮り定まり坐す皇太神」と国寿き申し上げ、終夜ら宴楽舞歌し、日小宮の儀の如く祭った。倭姫命は「朝日来向ふ国、夕日来向ふ国、浪音聞えざる国、風音聞えざる国、弓矢柄音聞えざる国、打まきしめる国、敷浪七保国の吉き国、神風の伊勢国の百伝ふ度会県の さくくしろ五十鈴宮に鎮り定り給ふ」と国寿きされた。

送駅使が朝廷に還り上り、倭姫命の夢の状を返事申上げると、天皇はこれを聞いて大鹿嶋命(オオカシマ)を祭官に定め、大幡主命(オオハタヌシ)を神の国造兼大神主に定められた。

神館を造り立て、物部八十友諸人らを率いて、雑雑の神事を取り総べ、天太玉串を捧げて供奉させた。よって斎宮を宇治県の五十鈴川上の大宮の際に興し、倭姫命をして居らしめた。

また、八尋機屋を建て、天棚機姫神(アメノタナバタヒメ)の孫・八千々姫命(ヤチヂヒメ)に天照大神の御衣を織らせることは、天上なる儀の如し〔宇治機殿と号す。またの名を礒宮(磯神社)〕。

次に、櫛玉命、大年神、大山津見山神、朝熊水神らが饗を奉れる彼処に神社を定められ、神宝〔伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)の捧げ持つ白銅鏡二面のこと。日神月神の化成した鏡であり、水火二神の霊物である〕を留め置いた。

※皇太神(すめおおかみ):伊勢神宮における天照大神(アマテラス)の神名


御饌つ国、志摩

倭姫命は御船に乗り、御膳御贄処を定めた。

嶋(志摩)の国の国崎嶋に幸行し、「朝御饌、夕御饌」と詔して湯貴潜女(ゆきのかづきめ)等を定め、還るときに神堺を定めた。戸嶋、志波崎、佐加太岐嶋を定め、伊波戸(いはと)に居て、朝御気・夕御気の処を定めた。

倭姫命がここに御船を泊めると、鰭広鰭狭魚、貝つ物、奥つ藻、辺つ藻が寄り来て、海の潮は淡く和み、よって淡海浦と名付けた。伊波戸に居た嶋の名を、戸嶋と名付け、刺す処を柴前(しばさき)と名付けた。

その以西の海中に七つの嶋があり、以南は潮淡く甘く、その嶋を淡良伎の嶋と名付け、潮の淡く満ち溢れる浦の名を、伊気浦(いきのうら)と名付けた。その処に現われて、御饗を仕へ奉った神を淡海子神(アハノミコ)と名付けて社を定め、朝御饌・夕御饌嶋を定めた。

還り幸行して御船を泊めた処を、津長原(つながはら)と名付け、津長社(津長神社)を定められた。

垂仁天皇27年秋9月、鳥の鳴声が高く聞えて、昼夜止まずやかましかったので、「ここは異様である」とおっしゃって、大幡主命と舎人紀麻良を使者に遣わして鳥の鳴く処を見させた。行って見ると、嶋国の伊雑の方上の葦原の中に稲一基があり、根本は一基で、末は千穂に茂っていた。その稲を白真名鶴(しろまなづる)が咋(くわ)えて廻り、突いては鳴き、これを見顕すと、その鳥の鳴声は止んだ。このように返事を申し上げた。

倭姫命は「恐しい。物を言わない鳥すら田を作る。皇太神に奉れる物を」と詔して物忌(ものいみ)を始められ、彼の稲を伊佐波登美神(イサワトミ)に命じて抜穂(ぬきほ)をさせ、皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。その穂を大幡主の女子・乙姫(オトヒメ)に清酒に作らせ、御餞に奉った。

千税を始奉る事、茲に因るなり。彼の稲の生えた地は、千田と名付け、嶋国の伊雑の方上にある。その処に伊佐波登美の神宮を造り奉り、皇太神の摂宮と為した。伊雑宮(いざわのみや)がこれである。彼の鶴真鳥を名づけて大歳神(オオトシ)という。同じ処の税を奉る。またその神は、皇太神の坐す朝熊の河後の葦原の中に石に坐す。彼神を小朝熊山嶺に社を造り、祝奉りて坐す。大歳神(オオトシ)と称えるのは是である。

また、明る年秋のころ、真名鶴は皇太神宮に向かって天翔り、北より来て、日夜止まずに翔り鳴いた。時は昼の始めである。倭姫命は異しまれて、足速男命を使者として様子を見に行かせた。使者が行くと、鶴は佐々牟江宮の前の葦原の中に還って行きながら鳴いていた。そこへ行って見ると、葦原の中から生へた稲の、本は一基で、末は八百穂に茂り、(鶴は穂を)咋え捧げ持って鳴いた。使者が見顕すと鳴声は止み、天翔る事も止めた。このように返事を申し上げた。

倭姫命は歓ばれて「恐しい、皇太神入り坐せば鳥禽相悦び、草木共に相随いて奉る。稲一本は千穂八百穂に茂れり」と詔して、竹連吉比古らに仰せて、初穂を抜穂に半分抜かしめ、大税に苅らしめ、皇太神の御前に懸け奉った。抜穂は細税といい、大苅は太半といい、御前に懸け奉った。よって、天都告刀に「千税八百税余り」と称へ白して仕奉る。鶴の住処には八握穂社を造り祠った。

また「伊鈴の河の漑水道田には、苗草敷かずして、作り養え」と詔った。

また「我が朝御饌・夕御饌の御田作る家田の堰の水の道の田には、田蛭穢しければ、我田には住まはせじ」とおっしゃった。


豊宇気大神

泊瀬朝倉宮大泊瀬稚武天皇(雄略天皇)の即位21年冬10月、倭姫命の夢の中で「皇太神、吾一所耳坐さば、御饌も安く聞こし食さず、丹波国与佐の小見比治の魚井原に坐す道主の子、八乎止女の斎奉る御饌都神(ミケツカミ)・止由居太神(トユケノオホカミ)を、我が坐す国に欲し」と教え諭した。

時に大若子命(オオワクゴ)を差し使わし、朝廷に参上したときに御夢の状を申させた。即ち天皇は勅して、「汝、大若子、使者としてまかり往きて、布理奉れ」とおっしゃった。

故に手置帆負(タオキホオイ)・彦狭知(ヒコサシリ)の二神の子孫を率いて、斎斧・斎鋤等を以って始めて山材を採り 宝殿を構へ立て、翌年秋7月7日、大佐々命を以って丹波国余佐郡真井原より止由気皇太神(トユケノオホカミ)を迎へ奉り、度会の山田原の下つ磐根に大宮柱広敷き立て、高天原に千木高知りて鎮り定り座せと称へ、辞定め奉りて饗奉り、神賀の吉詞を白し賜へり。

また、神宝を僉納む。兵器(武器)を卜へて神幣と為す。更に神地神戸を定めて、二所皇太神宮の朝大御饌・夕大御饌を、日別に斎敬に供え進上する。また天神の訓の随に土師物忌を定置き、宇仁の波迩を取りて、天平瓮八十枚を造りて、敬いて諸宮に祀る。

また、皇太神の第一摂神、荒魂多賀宮をば、豊受太神宮に副従ひ奉り給う者なり。
また、勅宣に依り、大佐々命を以って二所太神宮大神主職に兼行い仕奉らしむ。
また、丹波道主命の子、始めて物忌を奉り、御飯を炊満て供進る、御炊物忌これなり。
また、須佐乃乎命御玉、道主貴社を定む、粟御子神社に座すはこれなり。
また、大若子命社を定む。大間社是なり、宇多大采祢奈命祖父・天見通命の社を定む、田辺氏神社是なり。

惣に此の御宇に、摂社44前を崇め祀る。爰に皇太神重ねて託宣く、「吾が祭を仕奉る時、先づ止由気太神宮(トユケノオホカミ)を祭奉るべし。然後に我宮の祭事を勤仕ふべし。」故、すなわち諸祭事は此宮(外宮)を以って先とする。

また、皇神託宣く、「その宮を造る制は柱は則ち高く太く、板は則ち広く厚かれ。これ皇天の昌運、国家の洪啓ことは宜しく助くべく神器の大造なり」。すなわち皇天の厳命を承けて日小宮の宝基を移し、伊勢両宮を造る。


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