大仙陵古墳(仁徳天皇陵) [大阪府]
2015/02/21
大阪府堺市にある大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)です。
第16代仁徳天皇の陵墓に治定されることから、通称では仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)と呼ばれています。
この古墳は日本最大の前方後円墳として有名であり、歴史教科書にも登場しています。
また世界最大の古墳であることから、日本が世界に誇る巨大遺跡として知っておくべき場所であるとも言えます。
以下、大仙陵古墳について説明していきたいと思います。
規模
大仙陵古墳は日本最大の前方後円墳であり、全長だけなら世界最大の墓であるとされています(なお、高さ世界一はクフ王のピラミッド、深さ世界一は始皇帝陵とされています)。
また、海外諸国との外交が始まった時代には既に存在していたため、海外の使節を来朝させる際には、まず難波津(大阪湾)に来航させてワザと大仙陵古墳を見せびらかして、国家の権威を示したともいわれています。
なお、堺市に発表によれば、大仙陵古墳の規模は以下のようになっています。
大仙陵古墳の規模
・古墳の最大長: 840メートル
・古墳の最大幅: 654メートル
・墳丘の全長: 486メートル
・墳丘基底部の面積: 103410平方メートル
・後円部の直径: 249メートル
・後円部の高さ: 35.8メートル
・前方部の幅: 307メートル
・前方部の長さ: 237メートル
・前方部の高さ: 33.9メートル
建設時期・方法
大仙陵古墳の建設時期については、古墳の中から採集された円筒埴輪や須恵器の特徴から、5世紀前半から半ばに建設されたものと考えられています。
建設方法については、まず土を盛り、その上に石を並べて補強し、さらに囲を赤い埴輪で飾るといった方法で造られ、計算上では建設に2000人以上を動員し、15年かかったと言われています。
ただし、これは現在の定説とされている説であり、これに対する異説や反説も多数あります。
被葬者
『記紀』や『延喜式』などの記述によれば、百舌鳥の地には仁徳天皇、反正天皇、履中天皇が埋葬されたと記されており、その内容から歴史学的には第16代仁徳天皇の陵墓に比定されています。
しかし、百舌鳥古墳群の古墳については、文献上から推測される建設順と、出土品などから推測される建設順が異なるため、未だに被葬者が明確には分かっておらず、現在では宮内庁によって仁徳天皇の陵墓として治定されています。
歴史
天皇陵であるため、古くから禁足地とされており、中に入ることは禁じられていたそうです。
しかし、幕末や戦後に植林をする運動が起こり、大仙陵古墳の上には多くの木々が植えられたとされています。そのため、古くはハゲ山だったとされていますが、現在では緑溢れる景観となっています。
なお、禁足地とされる理由としては国家機密に当たるほど重要な品々が治められていたからという噂があり、第二次世界大戦後には真っ先にGHQによって発掘調査が行われ、数々の発掘物が国外に持ち出されたと云われています。
ちなみに、大仙陵古墳からの出土品は、アメリカのボストン美術館に所蔵されているんだそうです。
見どころ
大仙陵古墳の実物を見る限り、規模が大き過ぎて何が何だか分かりませんでした。そのため、Googleアースなどのツールを用いて見る方が全体像は分かりやすいと思います。
実物を見る特典は、古墳の入口に常駐している観光ボランティアの方から大仙陵古墳に関する資料を貰ったり、詳しい解説をしてもらうことができるという点が挙げられます。
また、地上から大仙陵古墳を見る場合、付近の大仙公園にある平和塔の頂上から見ると最もよく見えるんだそうです。
諸説
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大仙陵古墳には、そもそも墓ではなかったという説があります。それについては、以下の通りです。
大仙陵古墳の諸説
・王朝ができる以前からあった古代遺跡を、後に王の墓として転用したという説
・形状が、契約の箱に収められていた三種の神器の一つであるマナの壷に類似していることから、日ユ同祖論と結び付ける説
・ナスカの地上絵のように上空から観測することを前提としているため、地球外生命体の宇宙船の発着場だったとする説
・エジプトのギザのピラミッドのような配置になっていることから、日本におけるピラミッド的な施設であるという説
・古代ペルシアのレリーフに描かれる王権のシンボルに酷似していることから、王権のシンボルを地上に刻んだという説
・火星でも前方後円墳のような形の構造物が見つかったことから、火星と地球を繋ぐなんらかの施設であるという説
などなど様々な説が唱えられています。
そのほか、大仙陵古墳から発掘された石室から、古代ローマ製とみられるガラス器が発見されるなど、既存の歴史観を覆されるような品が多数出土していることでも知られています。
そのため、多くの謎が渦巻く大仙陵古墳および百舌鳥古墳群という古代遺跡は、日本のルーツに関わる重要な場所であるとも言われています。
前方後円墳の謎
日本には数多くの古墳が存在していますが、被葬者が明確になっているのは、第40代天武天皇と第41代持統天皇が眠る野口王墓(のぐちのおうのはか)ぐらいであり、ほとんどの古墳が暫定的に被葬者を定められているとされています。
また、『古事記』や『日本書紀』には、それぞれの天皇が行った事業について記されるものなのですが、これらの文献を精査してみても、箸墓古墳の建設以外には全く記載されていません。
箸墓古墳(はしはかこふん)とは、奈良県桜井市にある前方後円墳であり、3世紀頃に造られた古墳であるとされています。
被葬者は第7代孝霊天皇の皇女であり、大物主神の妻の倭迹々姫命(ヤマトトトヒメ)であり、このことは『日本書紀』の崇神天皇の条に記されています。なお、『日本書紀』には記される箸墓伝説は以下の通りです。
箸墓伝説(三輪山伝説)
倭迹々姫命は、三輪山に住む大物主神(オオモノヌシ)の妻となりましたが、この神は昼は見えず、夜にしか現れませんでした。
倭迹々姫命は大物主神に対して、「あなた様は常に昼は見えないので、はっきりとその お顔を見る事ができません。お願いですから、もう少しゆっくりしてください。明日の朝に美麗しい お姿を見たいと思います。」と言いました。
すると大物主神は、「お前の言ってる事はよく分かる。私は明日の朝、お前の櫛笥(櫛を入れる箱)に入っているから、私の姿を見て驚くなよ」と答えました。
倭迹々姫命は、心の裏で密かに怪しんでいました。そして、夜が明けるのを待ってから櫛笥の中をを見てみると、とても美麗い小蛇がいました。 その長さと太さは下衣の紐のようであり、それを見て驚いて叫びました。
大物主神は妻に驚かれたことを恥ずかしく思い、すぐに人の形になりました。そして、「お前は我慢出来ずに私に恥をかかせた。私も山に還って お前に恥をかかせよう」と言い、大空を踏んで三輪山に登っていきました。
倭迹々姫命は それを仰ぎ見ながら後悔すると、その場に尻もちをつき、箸で女陰をついて亡くなりました。
それで亡骸は大市(桜井市北部)に葬むられ、世の人はその墓を箸墓(はしのはか)と名付けました。この墓は、大坂山の石を運んできて、昼は人が作り、夜は神が作りました。
このように、箸墓古墳の建設については文献上に残されています。なお、この中には「夜は神が造った」という記載がなされており、伝説的な内容としてまとめられています。
古墳の建設が、天皇主導による国家事業であるならば、なぜ「神が造った」と記さなければならなかったのでしょうか?また、日本最大の前方後円墳である大仙陵古墳の建設の記録が無いのは なぜなのでしょうか?
文献上に前方後円墳建設の記録が無いのは不自然だと思います。そのため、これらは有史以前に存在していた古代遺跡を、後に墓として使ったと考えられるのではないでしょうか?個人的には、そう考える方が自然であると思えます。
なお、エジプトのクフ王のピラミッドについても同様に、ピラミッドは墓では無く、後にファラオが墓として使ったという説があります。
料金: 無料
住所: 大阪府堺市堺区大仙町
営業: 終日開放
交通: 百舌鳥駅(徒歩5分)
公式サイト: http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/016/index.html
住所: 大阪府堺市堺区大仙町
営業: 終日開放
交通: 百舌鳥駅(徒歩5分)
公式サイト: http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/016/index.html
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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コメント
1 件のコメント :
初めてメールさせていただきます。
私はフリーで編集・デザインの仕事をしております。
この度、出版社・高木書房様より依頼され、
『歴史人物になってみる日本史』(教師向け参考書、四六判・340ページ、安達弘=公立小学校教師・著)
を編集しております。
同書、「仁徳天皇」の章で、貴サイト掲載の仁徳天皇陵の空撮写真を
モノクロ、30☓30ミリ大にて参考資料として掲載させていただきたく存じます。
ご許諾いただけますなら、
掲載にあたりましての条件等お知らせいただければ幸甚に存じます。
ご高配のほど、どうかよろしくお願いいたします。榎本事務所・榎本司郎
〒206-0033東京都多摩市落合2-26-1-111イトーピア
℡090-9315-8567 fax050-5528-4767
shiro.enomoto@gmail.com
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