野口王墓(天武・持統天皇陵) [奈良県]
2015/03/23
奈良県の明日香村にある野口王墓(のぐちのおうのはか)です。
第40代天武天皇と第41代持統天皇を合葬した陵墓とされており、天武・持統天皇陵の名でも知られています。
古墳概要
概要
『日本書紀』には「天武天皇が崩御した後、持統元年(687年)正月に皇太子・草壁皇子によって天皇の葬儀が執り行われ、10月22日に皇太子主導で公卿・百寮・國司・国造及び百姓の男女が率いられ大内陵(おほちのみささぎ)を造り始められた」とあります。
また、『続日本紀』に「持統天皇は大宝2年(702年)12月13日に病を発し、12月22日に崩御した。1年間のもがりの後、火葬されて天武天皇の墓に合葬された」とあり、その際には持統天皇の遺骨は銀の骨つぼに収められたとされます。
上記により、野口王墓は「大内陵」であるとされ、宮内庁によって「檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)」として第40代天武天皇と第41代持統天皇の陵墓に治定されています。
墳丘の大きさは、東西約58メートル、南北径45メートル、高さ9メートルの円墳状であり、本来の墳形は八角形・五段築成、周囲に石段をめぐらしているとされます。なお、墳形が八角形となっているのは、道教などを含める古代中国の政治思想が反映された形状であると考えられているそうです(八角形が天下八方の支配者に相応しいという思想)。
当古墳は"天皇が埋葬された古墳である"とする信憑性が高く、被葬者の実在性にも問題がないと言われています。そのため、治定が信頼できる数少ない古代の陵墓であるとされています。
しかし、藤原定家の日記である『明月記』によれば、「文暦2年(1235年)の3月20日・21日の夜に賊が入り、野口王墓が盗掘を受けている」とあり、大部分の副葬品が奪われたとされます。そこで、石室の記録である『阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)』が作られ、そこには「石室は馬脳(瑪瑙)、棺は乾漆であった」と記されているそうです。
なお、当古墳が盗掘にあった際に天武天皇の棺が暴かれて遺体を引っ張り出されたため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたとされ、持統天皇の遺骨は火葬されて銀の骨壺に収められていたものの、骨壺が奪われる際に中の遺骨は付近に遺棄されたとされています。
その後、江戸時代には天武・持統合葬陵が野口王墓説と見瀬丸山古墳説に分かれ、幕末には天武持統陵は見瀬丸山とされ、野口王墓は文武天皇陵に比定されたものの、明治に入ると再度、見瀬丸山から野口王墓に治定変更されて現在に至るそうです。
古墳のスペック
野口王墓の古墳のスペックは以下の通りです。
・形状:円墳状(本来の形は正八角形であったことが確認されている)
・東西:約58メートル
・南北:約45メートル
・高さ:約9メートル
・備考:鎌倉期に盗掘に遭い、両天皇の遺骨は遺棄されたとされる
・東西:約58メートル
・南北:約45メートル
・高さ:約9メートル
・備考:鎌倉期に盗掘に遭い、両天皇の遺骨は遺棄されたとされる
被葬者(天武天皇・持統天皇)について
天武天皇とは?
天武天皇(てんむてんのう)とは、7世紀後半(飛鳥末期)に活躍した第40代天皇であり、「壬申の乱」によって近江勢力(天智勢力)から実権を勝ち取った大海人皇子(おおあまのおうじ)としても知られています。
父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)であり、兄は天智天皇(中大兄皇子)とされていますが、『日本書紀』には出生年についての記載が無く、様々な資料・史料において色々な説が唱えられており、未だにハッキリしていないそうです。
『日本書紀』によれば、大海人皇子は天智天皇の東宮(皇太子)となったとされますが、出家して吉野で修行するため、天下のことは倭姫王に任せて大友皇子(天智天皇の皇子)を摂政にするよう助言したとされます。なお、大海人皇子が吉野に入る際、ある人が「虎に翼をつけて放したようなものだ」と言ったそうです。
その後、天智天皇が崩御すると、吉野宮は大友皇子を頂点とする近江勢力に監視されるようになったため、大海人皇子は命が狙われていることを悟り、近江勢力との全面対決を決意したとされます。
ここで、大友皇子は中央の豪族を集めた近江軍を結成し、対して大海人皇子は地方の豪族を集めて吉野軍を結成し、後に「壬申の乱」が勃発します。この結果、大海人皇子率いる吉野軍が勝利し、大海人皇子が皇位を勝ち取ったとされます。
なお、「壬申の乱」において地方豪族が中央豪族に勝利したことから天皇の権威が高まり、大海人皇子が天武天皇として即位した後は身分制度を変えて皇親政治(天皇の親戚による政治)を敷いたり、宮廷歌人(柿本人麻呂ら)に和歌を詠ませて天皇の神格化を図ったと言われています。
また、天武天皇は古代の国家神道・国家仏教を形成したり、占星台や陰陽寮を設置した天皇として知られ、一説には「天皇」という呼称や「日本」という国号も天武天皇の御代から使われ出したと言われています。加えて、『記紀』以前に存在したとされる『帝紀』『旧辞』を稗田阿礼に暗唱させ、『古事記』編纂の切欠を作ったとされます。
なお、天武天皇の人物像については、神道や仏教および道教など宗教や超自然的力なものに関心が強く、『日本書紀』には天文遁甲という占術を扱うなど天文・占術の才能が優れていたとされます。また、『藤氏家伝』という藤原氏の史書によれば、大海人皇子は槍の名手であり、「ある宴で酩酊した大海人皇子が槍を床に突き刺して天智天皇が殺そうとしたが、藤原鎌足の取り成しで収まった」と記されているそうです。
持統天皇とは?
持統天皇(じとうてんのう)とは、天武天皇(持統天皇の叔父に当たる)の皇后であり、第41代天皇として即位した後に珍しくも自ら政務を執った女帝として知られています。
父は天智天皇、母は蘇我遠智娘であり、子に草壁皇子が居ます。『日本書紀』によれば、天武天皇の在位中は常に天皇を助け、政事について助言したとされ、天武天皇が病で床に臥せるようになると、皇后(持統天皇)・草壁皇子が共同で政務を執るようになったとされます。
なお、天武天皇は大津皇子を寵愛し、ゆくゆくは天皇として即位させようとしていたとされますが、大津皇子は天武天皇が崩御した後に謀反の疑いで自害してしまったとされます。これについて、皇后(持統天皇)は実子の草壁皇子を寵愛しており、大津皇子に代わって即位させようと考えていたため、敢えて謀反の疑いを掛けて殺してしまったと言われています。
その後、草壁皇子が早死にしてしまったため、皇后(持統天皇)は自ら即位して朝政を執り、「壬申の乱」で活躍した天武天皇の皇子である高市皇子を太政大臣に据えたとされます。
そして、後に草壁皇子の子である軽皇子に譲位して文武天皇として即位させ、これによって持統天皇は初の太上天皇(上皇)となったとされています。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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