阿須賀神社 [和歌山県]
2015/07/21
和歌山県新宮市にある阿須賀神社(あすかじんじゃ)です。
第5代孝昭天皇の御代に創祀されたと伝わる古社であり、主祭神に事解男命と熊野三山の神々を祀っています。
また、境内には不老不死の仙薬を求めて渡来してきた徐福を祀る徐福之宮もあります。
神社概要
由緒
和歌山県神社庁によれば、当社は『記紀』に記される熊野村(熊野神邑)であり、第5代孝昭天皇53年3月の創祀と伝えられる古社であるとされ、祭神にはイザナギ・イザナミが熊野に参って産んだ神々を祀っているとされます。
なお、当地の熊野は"黄泉の国(よみのくに)"もしくは"常世の国(とこよのくに)"とも読まれるとされており、当社の境内からは弥生~古墳時代の住居跡や祭祀跡が発見され、神社後の蓬莱山(ほうらいさん)からは大量の正体(神仏の本体・神体)が出土したことから、熊野信仰発祥の地であると云われているそうです(熊野は三重県や島根県にもある)。
また、阿須賀については、"阿は接頭語であり、須賀は祭祀生活を営む好条件を備えた霊場である"あるいは"当地は浅州処と名付けられた地名であり、古くから飛鳥山を神体とする神の鎮座地としての信仰があった"という説があるとされています。
なお、当社の由緒書には以下のように記されています。
熊野新宮 阿須賀神社
熊野川の河口近くに位置し、「浅州処(あすか)」を守護し、航海、延命、生産、発育の御霊力を持つと言われています。
第5代孝昭天皇53年3月の創祀と伝わり、古い記録には「熊野権現は、初の神倉山に降り、次に阿須賀の森に移った」と記されています。新宮が初めて書物に文字として登場したのは「熊野神邑」でありますが、「熊野神邑」は当神社の古名であり、神威発祥の地として広く人々に敬われました。
『中右記』『平家物語』にも当社への参詣記録が見えるなど、熊野詣の隆盛に伴い、当社も発展してきました。歴代の有力者達からも深い信仰を集め、元享2年(1322年)には阿須賀権現が現在の東京北区飛鳥山へ勧請されるなど、全国各地に当社の末社が見られます。
境内からは弥生~古墳時代の住居跡や祭祀跡遺跡が発見され、社殿背後の蓬莱山からは大量の御正体が出土しており、熊野最古の原始信仰の形態を実証し、権現の発祥源として確認されました。
また、蓬莱山には「中国の秦時代に始皇帝の命を受けた徐福が、不老不死の霊薬を求めて訪れた」という伝説が残されています。
熊野川の河口近くに位置し、「浅州処(あすか)」を守護し、航海、延命、生産、発育の御霊力を持つと言われています。
第5代孝昭天皇53年3月の創祀と伝わり、古い記録には「熊野権現は、初の神倉山に降り、次に阿須賀の森に移った」と記されています。新宮が初めて書物に文字として登場したのは「熊野神邑」でありますが、「熊野神邑」は当神社の古名であり、神威発祥の地として広く人々に敬われました。
『中右記』『平家物語』にも当社への参詣記録が見えるなど、熊野詣の隆盛に伴い、当社も発展してきました。歴代の有力者達からも深い信仰を集め、元享2年(1322年)には阿須賀権現が現在の東京北区飛鳥山へ勧請されるなど、全国各地に当社の末社が見られます。
境内からは弥生~古墳時代の住居跡や祭祀跡遺跡が発見され、社殿背後の蓬莱山からは大量の御正体が出土しており、熊野最古の原始信仰の形態を実証し、権現の発祥源として確認されました。
また、蓬莱山には「中国の秦時代に始皇帝の命を受けた徐福が、不老不死の霊薬を求めて訪れた」という伝説が残されています。
祭神
阿須賀神社の祭神は以下の通りです。
主祭神
・事解男命(コトサカノオ):イザナギが唾を吐き掃った際に生まれた神
・家津美御子大神(けつみみこのおおかみ):熊野三山の主神(本宮)の一柱であり、スサノオと同神とされる
・熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ):熊野三山の主神(速玉)の一柱であり、イザナギと同神とされる
・熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ):熊野三山の主神(那智)の一柱であり、イザナミと同神とされる
配祀神
・黄泉道守神(ヨモツミチヌ)
・建角美神(タケツノミ):下鴨神社の祭神と同じ(八咫烏と同神とする説もある)
・事解男命(コトサカノオ):イザナギが唾を吐き掃った際に生まれた神
・家津美御子大神(けつみみこのおおかみ):熊野三山の主神(本宮)の一柱であり、スサノオと同神とされる
・熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ):熊野三山の主神(速玉)の一柱であり、イザナギと同神とされる
・熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ):熊野三山の主神(那智)の一柱であり、イザナミと同神とされる
配祀神
・黄泉道守神(ヨモツミチヌ)
・建角美神(タケツノミ):下鴨神社の祭神と同じ(八咫烏と同神とする説もある)
境内社
阿須賀神社の境内社は以下の通りです。
・阿須賀稲荷神社
・徐福之宮(じょふくのみや)
・子安之社
・徐福之宮(じょふくのみや)
・子安之社
徐福之宮について
徐福之宮には秦国からの渡来人である徐福(じょふく)が祀られており、以下のような伝説が伝えられています。
徐福渡来の記(蓬莱山)
第7代孝霊天皇6年、秦人の徐福は秦始皇帝の苛政(厳しい政治)を逃れようとして"不老不死の仙薬を探して献上したいと思います"と帝に申し出て、童男童女3000人を引率し、五穀(食糧)・百工(技術)を携えて東海に船を浮かべ、常世郷の熊野邑(飛鳥)に渡来した。
しかし、徐福は秦には戻らずに子孫共々、熊野邑で暮らして繁昌したという。これにより、当社は常世神が常に存在する蓬莱神山の郷であり、長寿息災・豊穣の神々であると今でも崇められている。
※原文を加筆修正しています
第7代孝霊天皇6年、秦人の徐福は秦始皇帝の苛政(厳しい政治)を逃れようとして"不老不死の仙薬を探して献上したいと思います"と帝に申し出て、童男童女3000人を引率し、五穀(食糧)・百工(技術)を携えて東海に船を浮かべ、常世郷の熊野邑(飛鳥)に渡来した。
しかし、徐福は秦には戻らずに子孫共々、熊野邑で暮らして繁昌したという。これにより、当社は常世神が常に存在する蓬莱神山の郷であり、長寿息災・豊穣の神々であると今でも崇められている。
※原文を加筆修正しています
ちなみに、これと酷似する説話が『日本書紀』の第11代垂仁天皇の条に「田道間守の説話」として記されています。
詳しくはこちらの記事も参照:【徐福とは?】【田道間守(タジマモリ)の伝説】
境内の見どころ
鳥居
阿須賀神社の鳥居です。
拝殿
阿須賀神社の拝殿です。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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