生石神社の石宝殿 [兵庫県]
2015/08/15
石の宝殿(いしのほうでん)とは、人工的な巨石が残る遺跡です。兵庫県と大阪府に5ヵ所ほど存在しています。
ここでは、兵庫県高砂市の生石神社(おうしこじんじゃ)の御神体として祀られている「生石神社の石宝殿」を紹介します。
生石神社の石宝殿は、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾と並んで「日本三奇」の一つとされる遺跡です。
誰がいつ何の目的で作ったものであるのかは学術的にも分かっておらず、未だに謎に包まれた石造物とされています。
以下、生石神社の石宝殿について説明していきます。
呼称
生石神社の石宝殿には、以下のような呼称があるとされています。
・石の宝殿(いしのほうでん):生石神社の社伝に由来する一般的な呼称
・鎮の石室(しずのいわや):生石神社の社伝に由来し、国づくりの神々が国土を鎮めるために造営しようとしたことに因む
・天の浮石(あめのうきいし):池の上に立っており、まるで浮いているかのように見えることから
・浮石(うきいし):同上
・鎮の石室(しずのいわや):生石神社の社伝に由来し、国づくりの神々が国土を鎮めるために造営しようとしたことに因む
・天の浮石(あめのうきいし):池の上に立っており、まるで浮いているかのように見えることから
・浮石(うきいし):同上
概要
生石神社の石宝殿の概要は、以下のとおりです。
石宝殿の大きさと材質
・高さ: 5.7m
・横幅: 6.4m
・奥行: 7.2m
・重さ: 500~700トン
・材質: 凝灰岩
なお、生石神社のパンフレットでは、以下のように説明されています。
鎮の石室(通称、浮石)
鎮の石室は三方岩壁に囲まれた巨岩の宮殿で池中に浮く、東西に横たわる姿である。その容積は三間半(約7m)、四方で棟丈は二丈六尺(約6m)、重量は500~700トンと云われている。
これの工事によって生じた屑石の量は莫大であり、これを人や動物に踏ませまいと、一里北に在る霊峰高御位山(通称:播磨富士)の山頂に置かれ、その形状から鯛砂利と云われている。高御位山(たかみくらやま)と名付けられたのは、これに由来する。
池中の水は霊水にして、いかなる干魃においても渇することはなく、海水の満干を表わし、また万病に効果があると伝えられている。
なお、石の宝殿の正面と周辺には、併せて3ヵ所に祠が設置されており、池の中にはカエルの像が安置されています。
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形状
石宝殿の形状と特徴
・全体: 正六面体に溝が彫られ、背面に突起があしらわれている
・正面: 正方形の近い形をしており、上部右上に傷が入っている
・側面: 両側面は正方形であり、それぞれ同様にシャープな溝が刻まれている
・上面: 側面と同様だと思われるが、樹木が自生しているため確認できない
・下面: 浮石とよばれるため、突起上のものがあると考えられるが、濁った池内にあるため確認不可
・背面: 三角注を横向きにくっつけたような形の妙な突起があしらわれている
・周囲: 巨大な岩山を削った中にあり、これは加工の過程で削られたと解釈されている
なお、江戸時代の文献である『播磨名所巡覧図絵』や、司馬江漢の『西遊旅譚』、シーボルトの『NIPPON』などの中で、石宝殿のスケッチが描かれています。
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全体の形状をまとめると、ブラウン管テレビに似ていますね。
伝承
生石神社の石宝殿には、以下のような伝承があるとされています。
日本三奇石乃寶殿 鎮の石室とは(生石神社の社伝)
※生石神社のパンフレットより
神代の昔、大穴牟遅(おおあなむち)・少毘古那(すくなひこな)の二神が天津神の命を受けて、国土経営のために出雲より此の地に赴いたときに、国土を鎮めるのに相応しい石の宮殿を造営しようとして一夜のうちに工事を進めた。
しかし、工事の途中で播磨に棲む阿賀の神一行の反乱を受け、二神はそれに対抗しようと山を下り、数多の神々を集めて賊神の反乱を鎮圧した。だが、そこで夜明けを迎えてしまい、夜のうちに石の宮殿を正面に起こすことができなかったため、未完成に終わってしまった。
二神は、たとえ石の宮殿が未完成だとしても霊としてこの石に留まり、永劫に国土を鎮めることを宣言し、此処に誓った。以来、この石の宮殿は「石乃寶殿(いしのほうでん)」または「鎮の石室(しずのいわや)」と呼ばれている。
大穴牟遅(大国主)についてはこちらの記事を参照:【大国主(おおくにぬし)とは?】
『播磨国風土記』による伝承
播磨国(兵庫県)の風土記には、このように記されています。
原の南に作り石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連(ゆげのおおむらじ)の造れる石なり。
ここでいう「聖徳の王」は聖徳太子を指し、「弓削の大連」は物部守屋を指すとされていますが、『日本書紀』によれば物部守屋は聖徳太子が摂政となった時代には既に死去していることから、矛盾を孕む内容とされています。
聖徳太子についてはこちらの記事を参照:【聖徳太子とは?】
『峯相記』による解説
南北朝時代の地誌『峯相記』には、「天人が石で社を作ろうとしたが、夜明けまでに押し起こすことができずに帰っていった」と記されています。
諸説
生石神社の石宝殿について、以下のような説が唱えられています。
・松本清張は著書『火の路』において、奈良県橿原市の巨石・益田岩船との関連を指摘している。
・平安中期の辞書『和名類聚抄』では『播磨国風土記』の益気の里を「益田」としていることから、益田岩船との関連が指摘される
・石宝殿の大きさが、益田岩船とおおよそ一致するため、科学的な関連性が指摘されている
・500トン以上もある石造物を精緻に成形していることから、現在にない技術で造られた超古代遺跡とも
・平安中期の辞書『和名類聚抄』では『播磨国風土記』の益気の里を「益田」としていることから、益田岩船との関連が指摘される
・石宝殿の大きさが、益田岩船とおおよそ一致するため、科学的な関連性が指摘されている
・500トン以上もある石造物を精緻に成形していることから、現在にない技術で造られた超古代遺跡とも
益田岩船についてはこちらの記事を参照:【益田岩船】
不思議
生石神社の石宝殿について、以下のようながあるとされています。
・石宝殿の正面右上の亀裂付近に、「龍の顔」が浮き出ている
・石宝殿の背面付近の岸壁には一部欠損した部分があり、そこには「龍」のような形が浮き出ている(公式HPより)
料金: 参拝料100円
住所: 兵庫県高砂市阿弥陀町生石171
営業: 終日開放
交通: 宝殿駅(徒歩22分)、駅南口じょうとんバス(ふれあいの郷生石下車5分)、レンタサイクルあり
公式サイト: http://www.isinohouden.com/
住所: 兵庫県高砂市阿弥陀町生石171
営業: 終日開放
交通: 宝殿駅(徒歩22分)、駅南口じょうとんバス(ふれあいの郷生石下車5分)、レンタサイクルあり
公式サイト: http://www.isinohouden.com/
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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