建勲神社 [京都府]
2015/09/26
京都市北区にある建勲神社(たけいさおじんじゃ)です。
船岡山の中腹に位置しており、祭神に織田信長公、織田信忠卿 父子を祀っています。一般的には「けんくんじんじゃ」と呼ばれ、「建勲(けんくん)さん」の名で知られているそうです。
神社概要
由緒
社伝によれば、戦国時代に天下を統一し、新秩序を確立して日本の近代化の礎を築いた信長公の功績を讃え、明治2年(1869)に明治天皇の勅命により創建された神社とされています。
その後、明治8年(1875)には別格官幣社に列せられて船岡山に社地を賜り、明治13年(1880)には新たに社殿を造営して織田信忠卿を配祀し、明治43年(1910)に山麓から山頂へ社殿を移転して現在に至るそうです。
祭神
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建勲神社の祭神は以下の通りです。
主祭神
・織田信長(おだのぶなが):戦国時代に室町幕府を滅ぼして織田政権を確立し、天下人となった
→ 贈従一位・太政大臣、贈正一位
配祀神
・織田信忠(おだのぶただ):織田信長の嫡男で、信長の家督を受け継いだ
・織田信長(おだのぶなが):戦国時代に室町幕府を滅ぼして織田政権を確立し、天下人となった
→ 贈従一位・太政大臣、贈正一位
配祀神
・織田信忠(おだのぶただ):織田信長の嫡男で、信長の家督を受け継いだ
船岡山
建勲神社の鎮座する船岡山は標高約120m、東西400mの丘陵で、船に類似する形からこの名が付いたとされています。
聖徳太子の文献にも その名が登場する歴史ある山であり、一説には平安京造営の際に此処が東西の起点となったとも云われ、船岡山の真南が大極殿、朱雀大路となったと云われています。
なお、平安期の「枕草子」でも「丘は船岡…」と讃えられ、大宮人の清遊の地とされていたそうです。その後、応仁の乱の際には船岡山が西軍の陣地となり、以来 船岡山周辺一帯は西陣の名で呼ばれるようになったとされています。
そして、現在は船岡山公園として市民の憩いの場となり、応仁の乱の戦跡として石碑が設置されています。
境内社
船岡妙見社
建勲神社の船岡妙見社(ふなおかみょうけんしゃ)です。
平安建都に際し、風水の四神相応の北に対応する丘陵(船岡山)の玄武大神(げんぶ)を祀っています。
なお、玄武信仰は古くから行われていたとされ、江戸中期(1707年)発行の『霊符縁起集説』には「玄武神は亀なり。北方に鎮り諸厄を祓い給う。玄武神は今の妙見菩薩にして童形なり。玄武の大元は国常立尊なり。水の神にして宅神なり。病魔退散の神なり。」と記されているとされています。
義照稲荷神社
建勲神社の末社・義照稲荷神社(よしてるいなりじんじゃ)です。
奈良期に秦氏によって船岡山を中心とする稲荷信仰が盛んに広められ、伏見稲荷の前身となったと云われています。
詳しくはこちらの記事を参照:【義照稲荷神社】
境内の見どころ
拝殿
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建勲神社の拝殿です。ここから本殿へ参拝するようになっています。
信長公をはじめ、柴田勝家や森蘭丸などの肖像画が飾られていることが見どころです。
また、参拝前の祓えを行うセルフサービスの祓串が置いてあることが珍しいです。
神門(祝詞舎)
建勲神社の神門です。
この奥に本殿があります。
狛犬
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建勲神社の狛犬です。
吽行の耳が異常に立っていることが特徴的です。
敦盛歌碑
建勲神社の敦盛歌碑(あつもりかひ)です。
「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢まぼろしの如くなり ひとたび生を得て 滅せぬもののあるべきか」と刻まれており、この詞章は信長公が特に好んで演じたとされています。
なお、一般的には「本能寺の変」で死の間際に舞ったとして知られていますが、信長公の伝記『信長公記』にそのような記載はなく、「桶狭間の戦い」の前夜に敦盛を舞って出陣したと記されています。
そのため、「本能寺の変」における敦盛はドラマやゲームで広まったものと思われます。
料金: 無料
住所: 京都市北区紫野北舟岡町49(マップ)
営業: 終日開放
交通: 北野白梅町駅(徒歩32分)、京都市バス「建勲神社前」下車
公式サイト: http://kenkun-jinja.org/index.html
住所: 京都市北区紫野北舟岡町49(マップ)
営業: 終日開放
交通: 北野白梅町駅(徒歩32分)、京都市バス「建勲神社前」下車
公式サイト: http://kenkun-jinja.org/index.html
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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