人文研究見聞録:大直禰子神社(若宮社) [奈良県]

奈良県桜井市三輪にある大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)です。

大神神社の摂社であり、祭神に大神神社の初代祭主である大直禰子命(おおたたねこ)を祀っています。


神社概要

由緒

由緒書によれば、当社は大神神社の初代祭主となった大直禰子命(オオタタネコ)を祀る社であり、大直禰子命が大物主大神(大神神社の主祭神)の子孫であることから若宮社とも呼ばれているそうです。

詳しい創建年代は不詳ですが、奈良時代には大神寺、鎌倉時代には大御輪寺として、大直禰子命の神像と共に十一面観音を併祀していたとされますが、明治以降は神仏分離令によって大直禰子神社となったとされています。

なお、由緒書では以下のように説明されています。

【旧 案内板】

大神神社摂社 大直禰子神社(若宮)

御祭神・大直禰子命(オオタタネコ)は大物主大神(オオモノヌシ)の御子孫で、第10代崇神天皇の御代、神託によって茅渟県陶邑(堺)より大神神社の初代神主として召されました。大神氏(おおみわうじ)の始祖であります。

この神社は、奈良時代には大神寺、鎌倉時代には大御輪寺として、本地仏十一面観音を併祀されていましたが、明治の神仏分離以後は大直禰子神社として祀られており、社殿は国の重要文化財に指定されています。

昭和61年より、三ヵ年にわたる調査・解体修理が行われましたが、用材の中には創建当初の奈良時代後半のものが使用されていることがわかりました。

【新 案内板】

大神神社摂社 大直禰子神社(若宮社)

御祭神の大直禰子命(オオタタネコ)は大物主大神(オオモノヌシ)のご子孫です。

第10代崇神天皇の御代に疫病が大流行し、国難が起こった時、天皇の御夢に現れた大物主大神の神託によって、茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら、現在の堺市)に大直禰子命を見出され、大神を祀る神主にされると疫病は治まり国が平和に栄えたとされます。

また、御祭神が大物主大神の ご子孫であることから若宮社とも呼ばれ、春の大神祭では若宮の御分霊が神輿に遷され、三輪の町を巡幸されます。

神仏習合の時代は大神寺、後に大御輪寺として永らく大直禰子命の御神像と十一面観音(国宝・現在は聖林寺に奉安)があわせ祀られてきました。本殿には奈良時代の大神寺創建当初の部材が残っており、貴重な神宮寺の遺構として国の重要文化財にしていされています。

祭神

大直禰子神社の祭神は以下の通りです。

主祭神

・大直禰子命(オオタタネコ):大神神社の初代祭主であり、大三輪氏の始祖とされる
 → 『記紀』では崇神天皇に下った神託によって大物主大神の祭主となったとされる
 → 『ホツマツタヱ』ではオオミワ神(大神神社)の斎主になった後も、天皇の下で様々な活躍をしている
  ⇒ 『ホツマツタヱ』の「人の巻」の著者とされる(「天の巻・地の巻」はクシミカタマの著作)

配祀神

・少彦名命(スクナヒコナ):大国主と共に国を造った国造りの神とされる
・活玉依姫命(イクタマヨリヒメ):『記紀』に登場する人物で、『古事記』ではオオタタネコの母とされる
 → 『ホツマツタヱ』ではコモリの妻であり、間に18男子を儲けたとされる
  ⇒ 『ホツマツタヱ』においてはオオタタネコは「イクタマヨリヒメのオオミワ神の子孫」と自称している

境内社

御誕生所社

人文研究見聞録:大直禰子神社(若宮社) [奈良県]
人文研究見聞録:大直禰子神社(若宮社) [奈良県]

大直禰子神社の御誕生所社(ごたんじょうしょしゃ)です。

祭神に鴨津見美良姫命(かもつみのみらひめ)を祀っており、磐座だけが祀られています。

琴平社

人文研究見聞録:大直禰子神社(若宮社) [奈良県]

大直禰子神社の琴平社(ことひらしゃ)です。

祭神に大物主神(おおものぬし)を祀っています。

関連知識

大直禰子命(オオタタネコ)とは?

人文研究見聞録:大直禰子神社(若宮社) [奈良県]

オオタタネコ(意富多々泥古/大田々根子)とは『記紀』に登場する人物であり、『古事記』では オオモノヌシとイクタマヨリヒメの子孫(4世孫)『日本書紀』では オオモノヌシとイクタマヨリヒメの子とされ、甘茂君・三輪君の先祖であるとされています。

なお『記紀』において、第10代崇神天皇の時代に疫病で国民が全滅しそうになったとき、天皇が その神意を神に問うたところ、オオモノヌシが自ら祟りを起こしたことを明かし、「自分の子孫であるオオタタネコを神主として私を祀らせれば祟りはたちまち収まるだろう」と言ったため、そのオオタタネコを探しだしてオオモノヌシを祀らせたところ、疫病は鎮まり国が無事に治まった、という説話に登場しています。

そのため、オオタタネコの子孫である三輪氏が、代々大神神社の神主となっているとされています。

『ホツマツタヱ』におけるオオタタネコ


『ホツマツタヱ』におけるオオタタネコは以下のような人物であったとされます。

【大神神社の祭主となったきっかけ】

・ミマキイリヒコ(第10代崇神天皇)の御代に疫病が流行り、国民の半数が死亡するという事態が起こった
・天皇はアマテル(天照大御神)とオオクニタマ(倭大国魂神)のために宮を造って祀ったが解決しなかった
・天皇は祭祀方法の改革を行う詔をし、アサヒハラ(真名井)に御幸して八百万の神を招いて解決法を乞うた
・その夜の天皇の夢にオオモノヌシが現れ、「我が子孫のオオタタネコに我を祀らせれば解決するだろう」と神託を下した
・後日、チハラメクハシヒメ、オオミナクチ、イセヲウミからも同様の夢を見たという報告があった
・こうした流れから、オオモノヌシが求めたオオタタネコを探し出すことになった
・茅渟県の陶村にてオオミワ神の後裔と名乗るオオタタネコを発見した
・フトマニ(占い)をしてオオタタネコを祭主とする旨を占うと吉と出た
・これをもってオオタタネコはオオミワ神(大神神社)の祭主となった

【『ホツマツタヱ』におけるオオタタネコの人物像】

・オオタタネコは、第9代開化天皇の臣であったオミケヌシの孫である
 → オミケヌシは、第8代孝元天皇の后であったイカシコメを后とした開化天皇に物申したことによって失脚する
・第10代崇神天皇の御代に大神神社の祭主となる
・崇神天皇が神社神道の祭祀方式を広めることになると、大臣のカシマと共にタマカエシ(霊魂を還す方式)を行う
・以後、度々天皇に召集されて儀式を行う役回りを担う
・第11代垂仁天皇の御代にも天皇に仕え、祭祀や祈願に関する助言を行っている
・第12代景行天皇の御代には、ミヨノフミ(年代記)を編纂する
 → これを大臣のカシマに示すと、カシマも同様にミカサフミを編纂する
・オオタタネコが234歳の時に この年代記は天皇に奏上され、これが『ホツマツタヱ』となったとされる

参考サイト:オオタタネコ(ホツマツタヱ解読ガイド)

境内の見どころ

鳥居


人文研究見聞録:大直禰子神社(若宮社) [奈良県]

大直禰子神社の鳥居です。

拝殿

人文研究見聞録:大直禰子神社(若宮社) [奈良県]

大直禰子神社の拝殿です。


御饌石

人文研究見聞録:大直禰子神社(若宮社) [奈良県]

大直禰子神社の御饌石(みけいし)です。

正月の御神火祭の際に久延彦神社(くえびこじんじゃ)に神饌を供える石とされ、久延彦神社への遥拝石という役割もあるとされています。そのため、知恵の神が祀られる久延彦神社に参拝できない場合は、ここで遥拝することで同様の霊験が得られるとされているようです。

おだまき杉

人文研究見聞録:大直禰子神社(若宮社) [奈良県]

大直禰子神社のおだまき杉です。入口に安置されています。

『古事記』の大物主神と活玉依媛の神婚説話に由来しており、大田々根子命(おおたたねこ)の誕生を物語る杉であるとされています。江戸時代の文献に記載されている名木でだったとされていますが、現在は根本だけが大切に保管されています。

料金: 無料
住所: 奈良県桜井市三輪(マップ
営業: 終日開放
交通: 三輪駅(徒歩8分)

公式サイト: http://oomiwa.or.jp/
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。